2021
11.23
縄文2021

3D「縄文 2021 - 東京に生きた縄文人 -」(江戸東京博物館)

日本

フィールドワークによって新事実を発見します。〈人間-文化-自然環境〉系がうかびあがります。物質的文化と精神的文化があります。

特別展「縄文 2021 - 東京に生きた縄文人 -」が江戸東京博物館で開催されています(注)。縄文時代の出土品がどのような場所でどのように利用されていたかを最新の調査・発掘結果からあきらかにし、復元模型や映像などもつかってあらたな縄文時代像を提示します。

プロローグ
第1展示室 東京の縄文遺跡発掘史
第2展示室 縄文時代の東京を考える
第3展示室 縄文人の暮らし
第4展示室 考古学の未来
エピローグ

ステレオ写真はいずれも交差法で立体視ができます。
立体視のやりかたはこちらです

多摩ニュータウンのビーナス(土偶、縄文時代中期、本展のシンボル展示)
多摩ニュータウンのビーナス
(土偶、縄文時代中期、本展のシンボル展示)
大森貝塚から出土した貝類
大森貝塚から出土した貝類
大森貝塚から出土した深鉢(縄文後期)
大森貝塚から出土した深鉢(縄文時代後期)
縄文時代の植生
植生の変化
縄文人復元像と頭骨(レプリカ)(縄文時代中期後葉)
縄文人復元像と頭骨(レプリカ)(縄文時代中期後葉)
磨製石斧(縄文草創期)
磨製石斧(縄文時代草創期)
磨製石斧
磨製石斧
(縄文早期(左上)、縄文前期(右上)、縄文中期(左下)、縄文晩期(右下))
97:磨石(縄文早期)、98:敲石(縄文前期)、99:敲・凹石(縄文前期)、100:敲石(縄文前期)、101:磨敲石(縄文前期)
97:磨石(縄文早期)、98:敲石(縄文前期)、99:敲・凹石(縄文前期)、100:敲石(縄文前期)、101:磨敲石(縄文前期)
木の実
木の実
石皿(縄文前期)
石皿(縄文時代前期)
縄文時代中期の土器
縄文時代中期の土器
鉢(木製、縄文中期後半)
鉢(木製、縄文時代中期後半)
交流を物語る土器
交流を物語る土器
神津島砂糖崎産黒曜石
神津島砂糖崎産黒曜石

「多摩ニュータウンのビーナス」(土偶、縄文時代中期)は、5380〜5320年前につくられたと推定され、ていねいにしあげげられており、表面は光沢をおび、眼下の2本沈線・正中線・臂部の区画内には白色の物質がのこり、塗彩した跡だとかんがえられます。

「大森貝塚」は、東京都品川区から大田区にまたがる縄文時代後期〜晩期の貝塚であり、1877 (明治10)年に来日し、お雇い外国人にのちになったアメリカの動物学者・エドワード=シルベスター=モースにより発見・調査され、ここから、近代科学的な縄文時代の遺跡研究と日本の考古学がはじまりました。

「植生の変化」は、当時の人々の環境へのはたらきかけをしる手がかりとなります。たとえば東京都北区御殿前遺跡では、縄文時代早期後葉には遺跡周辺の台地斜面にはクリが優勢でカエデ類をともなう林が成立し、また周辺には、ウルシの樹木も生育していました。クリ林はその後、しばらくは縮小しますが、中期頃にはふたたび拡大します。縄文人は、植物の採集活動にくわえ、積極的に環境にはたらきかけ、人為的な植生をつくりだしていました。

「縄文人復元像」は、新宿区加賀町二丁目遺跡(縄文時代中期後葉)で発掘された人骨から復元された復元像であり、身長160cm前後の男性、年齢は40歳代と推定されます。復顔の基準には、世界のいろいろな集団の顔のデータを平均化した解剖学上のデータを使用しています。

「磨製石斧」は、「磨かれる」ことに特徴をもつ石器であり、磨く技術は、旧石器時代からあり、縄文時代草創期および早期前半にもみとめられ、早期後半以降は全面が研磨された磨製石斧があらわれます。形態にも改良がみられ、早期には薄手で小型だったものが、前期前半にはやや厚手で大型となり、前期後半には厚手で棒状の乳棒状石斧が出現し、中期には、定角式磨製石斧がつくられるようになり、従来よりも製作に時間と手間がかかりますが切れ味と耐久性が格段にあがりました。メンテナンスもおこなわれ、おれたものは楔(くさび)として再利用されました。

「磨石」「敲石(たたきいし)」「石皿」は、植物加工具であり、植物利用が本格化したことをしめします。それまでの狩猟・漁撈にくわえ、採集の比重がふえ、縄文的な生業体系が確立しました。植物の管理が積極的におこなわれていたとかんがえられます。

「土器」は、「煮る」「貯める」「盛る」の3つの用途をおもにもち、最初は、煮るための「うつわ」を完成させるために試行錯誤をくりかえし(草創期)、やがて、用途によって形をかえ、模様(文様)をつけて変化にとむようになりはじめ(早期〜前期)、過度ともいえる装飾と大形化がすすみ(中期)、最後には、日常生活でつかう土器とマツリなどの特別なときにつかう土器とをつくりわけ、器形の多様化がすすみ、それぞれにあわせた機能美へたどりつきます(後期〜晩期)。

「鉢(木製)」は、縄文中期後半の世田谷区岡本前耕地遺跡の漆器の大型浅鉢であり、トチノキ製であり、平面形はほぼ円形にわりつけ、孔のあいた一対の把手を木口側につくっています。縄文時代には、樹木やさまざまな植物をもとに、生活や生産に必要な木器・漆器・繊維製品がつくられました。

「交流を物語る土器」は、モノや人が移動し交流していたことをしめす土器です。多摩ニュータウン遺跡出土の土器には、東北地方南部の中期後半「大木式(たいぎしき)」、中部地方の中期前半「後沖式(うしろおきしき)」、東海地方の中期前半「北浦式」、東海・近畿地方の中期後半「咲畑式(中富式)」があり、これらのおおくは各地からはこばれてきたわけではなく、それぞれの地方から人がやってきて多摩地方の人におしえてつくられたと推定されます。人々の移動と交流、交易ルートの形成には、各地域の拠点集落が重要な役割をはたしていたとかんがえられます。

「神津島砂糖崎産黒曜石」は、海をわたって神津島から黒曜石をはこんでいた人々がいたことをしめします。石器には、材料となる良質な岩石や鉱物が欠かせず、縄文人は、石器にむいた岩石や鉱物がどこにあるのかをしっていて、石器の種類に応じて各地の石材を入手、つかいわけていました。

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