丸木舟(縄文時代中期)
丸木舟(縄文時代中期)
貝層剥ぎ取り標本(縄文時代中期)
貝層剥ぎ取り標本(縄文時代中期)
土坑切り取り標本(縄文時代中期後葉)
土坑切り取り標本(縄文時代中期後葉)
深鉢形土器(土器棺、縄文時代後期初頭)
深鉢形土器(土器棺、縄文時代後期初頭)
石棒(まつりの道具)
石棒(まつりの道具)
中期大型土偶(縄文中期)
中期大型土偶(縄文時代中期)
筒形土偶(縄文後期)
筒形土偶(縄文時代後期)
土偶(縄文後期)
土偶(縄文時代後期)
遮光器「系」土偶(縄文晩期)
遮光器「系」土偶(縄文時代晩期)
環状集落の再現模型(1/20、多摩ニュータウン遺跡のデータから再現)
環状集落の再現模型(1/20、縄文時代中期)
埋葬の模型
埋葬の模型(同上)
土器づくりの模型
土器づくりの模型(同上)
住居づくりの模型
住居づくりの模型(同上)
木の実の採集の模型
木の実の採集の模型(同上)

「丸木舟」は、北区中里遺跡から出土した舟であり、縄文中期初頭頃のものとみられ、直径が約80cmにおよぶニレ科ムクノキからつくられ、現存で長さ約5.8m、内部の最大の深さは約42cm、船底部の厚さは5cmほどで、内部をふかく うすくけずりこんでつくる技術の発達がうかがわれます。

「貝層剥ぎ取り標本」は、中里貝塚のものであり、この貝塚は低地に形成され、その規模は、長さは最低でも500m以上、幅は100m以上あり、貝層の堆積は、厚い所で4mにもおよび、出土する貝はマガキとハマグリがほとんどで、ハマグリのサイズをみると、殼高(かくこう)の平均が43mmと大型でありサイズのばらつきがすくなく、大ぶりの貝をえらんで採取していたようです。縄文中期中葉から後期初頭という約700〜800年の間に、貝の採取・加工処理そして廃棄という作業が当時の浜辺付近で断続的におこなわれ大規模な貝塚が形成されたとかんがえられます。

「土坑切り取り標本」は、御殿前遺跡直下の谷部からえられた、縄文人の低地での活動を物語る遺構の標本です。谷筋付近からは15基の土坑がみつかり、木の実の保存や処理(虫殺しなど)がおこなわれたとおもわれ、展示品はこの内の1基であり、笹類を利用した編組(へんそ)製品が土坑の底部および壁面にのこっていました。

「深鉢形土器(土器棺)」は、西ヶ原貝塚から出土した土器棺であり、胎児骨が中からみつかりました。新生児・乳児・幼児を対象とした土器棺は、縄文時代後期初頭の東京湾沿岸の遺跡で確認することができます。貝塚をともなう海岸部の遺跡では人骨が出土することがおおく、17体以上の人骨が西ヶ原遺跡でも発見されており、縄文後期前葉から中葉にかけて、住居跡や住居に隣接する場に土坑墓がつくられています。

「石棒」は、日常の生活用具ではなく、儀礼・祭祀などに使用されたとかんがえられます。縄文人の精神文化をしるうえで貴重な資料です。

「土偶」は、縄文時代中期〜晩期にいたるまで数おおく発見されており、その形や姿から、あらたな生命の誕生や祀りの神像、ゆたかな社会への祈り、平和な社会や皆の幸せなど、さまざまな願いがこめられたとかんがえられます。

「環状集落の再現模型」(1/20、縄文時代中期)は、多摩ニユー タウン No.107 遺跡をモデルにして製作されました。中央には広場があり、そのなかに墓地があり、広場の周囲には住居がつくられ、その周辺には、森や川など、ゆたかな自然環境がひろがります。伐採・丸木舟・木の実の採集・豆類の収穫、木の実の加工・鹿の解体・魚の解体・魚干し・ゴミすて、土器づくり・竪穴住居づくり・竪穴住居内部、埋葬などの様子が再現されています。集落は、台地先端の平坦部に位置して日当たりと水はけがよく、そばに川があり水が確保でき、舟による移動もできる生活しやすい場所に立地していました。

縄文時代はいつはじまったのか? 近年では、土器に付着した炭化物の炭素年代測定(14C)の精度がたかまり、青森県・大平山元(おおだいやまもと)遺跡で1999年に出土した土器がつくられた年代は約16,000年前とされ、最近では、東京都武蔵野市・御殿山遺跡出土の土器でも同様な測定結果が公表され、あきる野市・前田耕地遺跡の出土土器でも15,500年前がしめされました。この時代は最終氷期にあたり、気候の温暖化が原因となって縄文時代(新石器時代に相当)へ旧石器時代から移行したという従来の常識はくつがえされます。

縄文時代は、1万数千年にわたってつづき、自然環境もその間おおきく変化し、世界的スケールの海水準変動をおもな原因とする海岸線の変化(海進・海退)と、気候変動にともなう植生の変化は縄文人の生活におおきな影響をおよぼしました。

たとえば貝塚が、現在の海岸線ではなく内陸部で発見されるのは、かつての東京湾が内陸部まではいりこんでいたことをものがたっており、縄文時代の海岸線は現在のそれとはおおきくことなったことをしめします。考古学的・地質学的・地理学的研究により、東京湾がもっとも拡大(海進)したのは縄文時代早期末から前期にかけてであることがわかり、「縄文海進」とこれをよび、このときの湾は「古東京湾」といいます。

気候変動は、約1万年前に最終氷期から、温暖な後氷期(完新世)の気候に移行するとともに、西日本から東北地方のひろい範囲にわたって落葉広葉樹林が成立し、このような植生の変化のもとで縄文人たちは狩猟採集にとどまらず、積極的に環境にはたらきかけ、人為的な植生をつくりだしました。遺跡周辺の堆積物から多数のクリの花粉が発見されるたことから、クリ林が集落周囲に成立していたことがわかり、またウルシは、日本列島には自生しないとされていますが、近年、その木材や果実・花粉があいついで遺跡から発見されたことにより、縄文時代のごくはやい段階に日本列島にもたらされて利用されていたことがあきらかになりました。

東京都には、約3800ヵ所の縄文遺跡があり、陥し穴がおおく発見された狩猟場、住居が多数検出された拠点的大規模集落、大量の貝の出土と極少量の人工遺物の出土を特徴とする貝の加工処理場など、さまざまな遺跡があります。

集落のかたちは、縄文時代前期前葉以降、広場を中心に住居群が展開する定形的な集落が確立し、これは、関東地方およびその周辺地域でも共通して確認できる傾向です。

狩猟具(石器)は、縄文時代草創期初頭は石槍と槍先形尖頭器がつかわれ、草創期前半は、尖頭器の先端の反対側に「舌」のように突出する部位のある有舌(ゆうぜつ)尖頭器が出現、草創期後半は、弓矢の矢柄の先に装着してつかう石鏃(せきぞく)があらわれ、早期〜晩期は、こまかい変化はありましたが、二股状の石鏃がおもにつかわれました。

植物加工具(石器)は、石皿と磨石、台石(だいいし)と敲石(たたきいし)であり、石皿や磨石などは旧石器時代にも存在しますが縄文時代の方が出土量が圧倒的におおく、植物資源への依存度がたかくなったことがうかがえます。近年では、縄文人による植物の管理や訓化が積極的におこなわれていたとかんがえられています。

土器は、最初は、煮るための「うつわ」を完成させるために試行錯誤をくりかえしていましたが、やがて、用途によって形をかえ模様(文様)をつけ、装飾と大形化がすすみ、最後には、日常生活とマツリなどの特別なときにつかう土器とをつくりわけ、それぞれにあわせた機能美をうみだしました。

木器・漆器・繊維製品は、樹木やさまざまな植物をもとに生活や生産に必要な品がつくられました。木工とは、目的にあった木をえらび伐採し、分断・分割して素材を用意して徐々に加工し、製品に仕上げるまでの一連の作業です。製品には、そのままの白木作り、漆で仕上げた漆器があり、斧柄・掘り棒、丸木舟、權、弓、櫛、耳飾、容器、食事具などさまざまなものがつかわれました。

土偶は、縄文時代中期から晩期にいたるまで数おおく発見されており、その形や姿から、あらたな生命の誕生や祀りの神像、ゆたかな社会への祈りなど、さまざまな願いがこめられていたことをおもわせます。

墓は、関東地方では、縄文時代草創期から早期にかけての発見例はきわめてすくないですが、前期前葉から中葉にかけての定形的集落の確立にともなって集落内墓が発達し、その発見例が増加、都内の遺跡でもこの傾向がみとめられます。

以上のように、縄文時代の人々は、ゆたかな自然環境から、木の実や豆類・魚介類・鳥獣などをとり食料とし料理をつくり、またいろいろな材料をとりいれ、竪穴住居や丸木舟・石器・土器・木器・服・装飾品・土偶などをつくり、自給自足を基本としていましたが、クリ林をつくるなど、ある程度の栽培もおこないながら自然環境と共生してくらしていました。また埋葬や儀礼・祭祀もおこない、さらに、黒曜石あるいはヒスイやコハクなど、すぐれた材料は遠隔地からも入手したり、あるいはほかの地域の土器のつくりかたをおそわったり、人と物の移動・流通・交易もおこなっていました。縄文人は、原始的な生活をしていたのではなく、自然環境と調和したすぐれた文化をもっていたのであり、これまでみてきた住居や料理・道具・手法・埋葬・儀礼・祭祀・栽培・交易などは総称して文化といってよいでしょう。またムラも成立していたことがわかり、そこには、とりきめや規則があって秩序があったことが想像できます。

このように、縄文人と文化と自然環境はひとつの体系(システム)をつくっていたのであり、環境から人間が恩恵を享受することはインプット、人間が環境へはたらきかけることはアウトプットとよぶならば、インプットとアウトプットの相互作用によって文化がはぐくまれたとかんがえてよいでしょう(図1)。ここでの人間は、個人であっても集団であってもかまいません。

〈人間-文化-自然環境〉系のモデル
図1 〈人間-文化-自然環境〉系のモデル

さらに文化をこまかくみると、住居や道具・料理・栽培・交易などはどちらかというと物質的な文化であり、規則や秩序・埋葬・儀礼・祭祀などはどちらかというと精神的な文化であり、遺跡から発掘された品々を、このような、〈人間-文化-自然環境〉系と文化のモデル(仮説)によってとらえなおし分類すれば、縄文時代の複雑で多様な世界ががかなり整理され理解しやすくなるとおもいます。物質的文化は自然環境に接し、精神的文化は人間に接します(図2)。

図2 文化のモデル
  • 自然環境:気候・地形・土地・森林・動物・川・海など
  • 物質的文化:住居・服・石器・土器・木器・丸木舟・栽培・交易など
  • 精神的文化:規則・秩序・装飾・土偶・埋葬・儀礼・祭祀など
  • 人間:縄文人(人相・身長・体重・年齢・DNA・家族・家系など)

物質的文化の基本的要素は道具や手法、移動や交易であり、精神的文化のそれは、規則や秩序、儀礼や祭祀であり、のちの時代になると、これらが、道具や手法は技術に、移動や交易は経済に、規則や秩序は政治に、儀礼や祭祀は宗教にそれぞれ発展するだろうと推論できます。ほかの史料などで推論結果は検証しなければなりませんが、縄文時代の文化のなかに、後世の文明の要素が萌芽的にふくまれていたとみることは可能でしょう。

こうして、縄文遺跡を、地域的・空間的にだけでなく、歴史的・時間的にも位置づけることができ、時空場をとらえれば探究がもっとおもしろくなります。

今回の特別展は縄文関連の総合展であり、「縄文概論」といってもよいでしょう。各地に点在・保管されていた物品が一堂に会し、断片的情報が総合されて全体像がわかります。帰納法の実践です。このような意味でもたいへん貴重な特別展でした。もし、常設の「東京縄文博物館」が創設されれば、世界にほこれるすぐれた博物館になるにちがいありません。

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▼ 注
特別展「縄文2021―東京に生きた縄文人―」
会場:東京都江戸東京博物館(1階特別展示室)
会期:2021年10月9日〜2021年12月5日

▼ 参考文献
東京都江戸東京博物館編集『東京に生きた縄文人』TOTO出版、2021年10月9日
谷口康浩著『入門 縄文時代の考古学』同成社、2019年2月20日

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