2021
11.16
東京国立博物館

重層文化の発展 - 特別展「最澄と天台宗のすべて」(東京国立博物館)-

日本

自然信仰と仏教が比叡山で融合し、神仏習合が発展しました。比叡山は母山となり、いくたの高僧を輩出しました。日本独自の重層文化が発展しました。

伝教大師1200年大遠忌記念特別展「最澄と天台宗のすべて」が東京国立博物館で開催されています(注)。伝教大師 最澄は、平等思想をとく『法華経』を礎とする天台宗を日本でひろめ、創建した延暦寺からはおおくの高僧が輩出、日本の歴史・文化に多大な影響をおよぼしました。今回の特別展では、秘仏をはじめとする天台の名宝や文化財をみながら最澄の生涯と日本天台宗の歴史をたどります。

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第1展示室(A) 最澄と天台宗の始まり ― 祖師ゆかりの名宝
第2展示室(B) 教えのつらなり ― 最澄の弟子たち
第3展示室(C) 全国への広まり ― 各地に伝わる天台の至宝
第4展示室(D) 信仰の高まり ― 天台美術の精華
第5展示室(E) 教学の深まり ― 天台思想が生んだ多様な文化
第6展示室(F) 現代へのつながり ― 江戸時代の天台宗

会場図
会場図
根本中堂再現
延暦寺根本中堂再現
延暦寺根本中堂再現
延暦寺根本中堂再現

伝教大師(最澄)坐像(鎌倉時代、滋賀 観音寺)
最澄(767〜822)の肖像として信仰されてきました。頭巾をかぶり、袈裟をつけて瞑想します。天台宗は、『法華経』を根本経典とし、中国・随時代の天台大師智顗(ちぎ、538〜597)によって大成され、最澄は、鑑真が日本にもたらした経典からその教えをなまび、比叡山延暦寺を創建、さらなる研鑽をふかめるために中国にわたりました。帰国後、天台宗が公認され、それまでの南都(奈良)の諸寺院とのちがいを鮮明にしながら日本天台宗の独自性をうちだしました。

聖徳太子及び天台高僧像(平安時代、兵庫 一乗寺)
インド・中国・日本における天台の高僧と聖徳太子の肖像です。9人の僧は、インドの龍樹(りゅうじゅ)と善無畏(ぜんむい)、中国の慧文(えもん)・慧思(えし)・智顗・灌頂(かんじょう)・湛然(たんねん)、日本の最澄・円仁です。聖徳太子は日本における仏教の創始者であり、『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)をあらわし、『法華経』を重視し、太子の伝統のうえに天台宗が日本でひろまりました。

薬師如来立像(平安時代、京都 法界寺)
法界寺に秘仏としてまもりつたえられてきた最澄ゆかりの薬師如来立像です。日本天台宗の総本山・比叡山延暦寺の根本中堂には最澄自刻とつたえられる薬師如来立像が秘仏としてまつられています。最澄は、比叡山虚空蔵尾(こくうぞうび)の倒木で薬師如来立像を造立し草庵に安置し、この草庵が根本中堂にのちに発展、弘仁14年(823)に比叡山でおこなわれたはじめての授戒はこの像の前でのことでした。法界寺の薬師如来立像など、根本中堂の薬師如来立像の姿を意識した像が各地にのこされています。

僧形坐像 伝慈覚大師(円仁)(平安時代、岩手 黒石寺)
第三世天台座主 慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん、794〜864)の肖像として伝承されます。円仁は、下野国にうまれ、15歳で最澄に師事し、承和5年(838)より入唐求法の旅をし、その旅行記である『入唐求法巡礼行記』には、五台山への巡礼、長安での求法をへて帰国にいたる9年6ヵ月がしるされ、仏教遺跡や寺院の経済状態、仏教儀礼や廃仏の惨状などの当時の仏教事情のみならず、交通・地理・文化・経済・風習・制度などもしるされています。帰国後は、天台密教の確立にとくに功績をのこしました。

金剛界八十一尊曼荼羅図(鎌倉時代、東京 根津美術館)
密教の根本経典のひとつであり『金剛頂経』の内容を図示したものであり、円仁が請来して以降、天台密教(台密)でおもにもちいられました。中央にえがかれた大日如来をはじめ、仏たちがのる台座には獅子や象、馬や鳥がえがかれるほか、濃厚豊麗な色彩に特徴があります。

智証大師(円珍)坐像 御骨大師(平安時代、滋賀 園城寺(三井寺))
智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん、814〜891)の遺言により没後ただちにつくられた像であり、頭部の形状など円珍の身体的特徴をよくとらえています。円珍は、讃岐国にうまれ、15歳のとき比叡山にのぼり、延暦寺第一世座主・義真(ぎしん)についてまなび、仁寿3年(853)には入唐、開元寺にはいり、そのご天台山国清寺にはいり、さらに長安の青龍寺で密教をまなび、858年、多数の仏典・仏具を持参して帰国しました。帰国後は、延暦寺第五世座主となり、園城寺(三井寺)を天台の別院とし、円珍の門徒は、延暦寺とわかれて寺門派をのちに形成、円珍は、天台宗寺門派の祖とされました。なお延暦寺第一世座主の義信は、はじめは興福寺で法相宗をまなび、のちに最澄に師事し、唐語に堪能であったために最澄の入唐時に通訳として随行し、帰国後も最澄をたすけて天台宗の発展に寄与しました。

胎蔵図像(鎌倉時代、奈良国立博物館)
『大日経』にもとづく胎蔵曼荼羅の諸尊をえがいた白描図像であり、円珍が請来した図像を書写したものであり、円珍請来図像の内容をつたえるものとして貴重です。空海が請来した曼荼羅とことなる点がおおく、密教がうまれたインド地方の雰囲気をつたえます。

日吉山王本地仏曼荼羅図(ひえさんのうほんじぶつまんだら、鎌倉時代、東京国立博物館)
比叡山に鎮座する神々を仏の姿をかりてえがいた図です。釈迦如来を中心に、上方に千手観音、時計まわりに十一面観音、薬師如来、地蔵菩薩、阿弥陀如来、普賢菩薩があらわされ、山王21社のうちの上7社がえがかれます。比叡山山麓の滋賀・坂本の地にある日吉大社(ひよしたいしゃ)は、比叡山の支峰・牛尾山の大山咋神(おおやまくいのかみ)を祭神とする古代の山岳信仰にその源流を発し、山王権現ほか上中下各7社の21社などをこの地の地主神(じぬしがみ)として祀っています。最澄は、延暦寺創建に際して、この地主神を祀る日吉社を鎮守社とし、その後、日吉社は各地に勧請され、その信仰は全国に展開しました。鎌倉時代になると、日本の神々は、世の人々をすくうために仏が姿をかえてこの世にあらわれたとする本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)にもとづいて仏教と神道の習合がすすみ、鎌倉時代後期には天台教義に付会され、天台宗特有の神仏習合思想が形成されました。これを「山王神道」といいます。なお「日吉」は「ひえ」とも訓(よ)みならわされ、比叡山は「日枝山」の字もあてられます。

根本中堂
延暦寺とは、比叡山に点在する約100ほどの堂宇の総称であり、山内は、東を「東塔(とうどう)」、西を「西塔(さいとう)」、北を「横川(よかわ)」と地域によって区分され、中心となる仏堂「中堂」がそれぞれにあり、東塔の中堂は最大の仏堂であり総本堂であり「根本中堂」とよばれます。最澄が創建した一乗止観院(いちじょうしかんいん)が元であり、本尊は薬師如来であり、そのまえには、1200年間ともりつづける「不滅の法灯」が安置されます。織田信長による比叡山焼き討ちに際し、根本中堂もろとも法灯も灰燼に帰しましたが、山形・立石寺(山寺)に分灯されていた灯明をうつしもどすことで復興されました。灯明とは、サンスクリットの「ディーパ」の訳であり、闇をてらす灯火が、無明(真理にくらいこと)をうちやぶる法(仏の教え)や智慧にたとえられ尊重されます。

東塔にはほかに、大講堂、阿弥陀堂、法華総持寺東塔、文殊楼、万拝堂、一隅会館、大黒堂、正覚院不動なども配され、大講堂には、本尊の大日如来の左右に、比叡山で修行した各宗派の宗祖の木像が祀られ、著名な宗祖としてはつぎの人物があげられます。良忍(融通念仏宗)、法然(日本の浄土宗)、栄西(日本の臨済宗)、親鸞(浄土真宗)、道元(日本の曹洞宗)、日蓮(日蓮宗)。比叡山延暦寺が日本仏教の「母山」であることがわかります。

慈眼大師(天海)坐像(江戸時代、栃木 輪王寺)
慈眼大師天海(じげんだいしてんかい、1536〜1643)は、織田信長の焼き討ちで壊滅的被害をうけた延暦寺を復興し、徳川家康・秀忠・家光3代の信頼をえて関東における天台宗の隆盛をみちびた傑僧です。本像は、天海がなくなる3年前につくられた寿像であり、まるで天海がそこにいるかのような実在感をうみだします。天海の死後、3代将軍家光が、日光と東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)と坂本に天海の御影堂を建立したことがしられます。

東叡山之図(とうえいざんのず、江戸時代、東京 寛永寺)
東叡山寛永寺の境内をえがいた図であり、黒門・山王社・清水観音堂・文殊楼(吉祥閣)・大仏殿・にない堂・根本中堂、後方にある御本坊の門までをえがき、画中には、数多くの参拝者の姿がびっしりとえがかれ、往時のにぎわいをしのぶことができます。寛永寺はかつてはとてもおおきな寺で、現在の上野公園のほぼ全域が境内だったのであり、現在の東京国立博物館の敷地には本坊が、博物館南側の大噴水広場には根本中堂がありました。しかし幕末の慶応4年(1868)、彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となり、主要な堂宇が焼失、明治維新とともに明治新政府によって境内地は没収され、元のようには復興されることはなく、上野公園になりました。明治新政府による廃仏毀釈(仏教弾圧と神仏分離)がここにもあらわれ、神仏習合の伝統は、民衆の文化のなかにのこっていくことになります。

年表(概略)
  • 767 最澄、近江国に誕生する。
  • 785 最澄、東大寺で受戒し僧侶となり、比叡山にのぼり草庵をむすぶ。
  • 788 最澄、一乗止観院(のちの根本中堂)を創建し、自刻の薬師如来を祀って不滅の法灯をかかげる。
  • 794 円仁、下野国に誕生する。平安遷都。
  • 804 最澄、遣唐使船(第2船)にのって、肥前松浦郡田浦(現 五島列島田ノ浦)を出航、明州鄮県(めいしゅうぼうけん、現 浙江省寧波市)に上陸、台州(現 臨海市)にいたり修禅寺において天台の法門を受法、天台山にのぼり、国清寺(こくせいじ)、仏隴寺(ぶつろうじ)にはいり天台の法門を受法する。
  • 805 最澄、台州にもどり、龍興寺において大乗菩薩戒をうける。越州(現 紹興市)にいたり、泰嶽霊巌寺の順暁阿闍梨(じゅんぎょうあじゃり)より密教灌頂をうける。明州を出航、帰国する。
  • 806 天台宗が公認される。
  • 808 円仁、比叡山にのぼり最澄の弟子となる。
  • 813 このころ、最澄と空海のあいだで書状のやりとりがある。最澄、空海のもとにいる弟子の泰範(たいはん)に手紙をおくる。
  • 814 円珍、讃岐国に誕生する。
  • 822 最澄入寂。大乗戒壇の設立の勅許がおりる。
  • 823 嵯峨天皇より延暦寺の寺号をたまわる。
  • 828 円珍、比叡山にのぼり、義真の弟子となる。
  • 838 円仁、入唐する。
  • 847 円仁、帰国する(五台山や長安などで、密教・声明・浄土念仏などをおさめた)。
  • 853 円珍、入唐する。
  • 854 円仁、第三世天台座主となる。このころより東塔に、天台密教の根本道場となる法華総持院の建立がはじまる。
  • 858 円珍、帰国する。
  • 859 円珍、三井の地に学室を創建する(のちの園城寺(三井寺))。
  • 864 円仁入寂。
  • 868 円珍、第五世天台座主となる。
  • 891 円珍入寂。
  • 1145 法然、比叡山にのぼる(のちに浄土宗をひらく)。
  • 1155 このころ、栄西、比叡山にのぼる(のちに臨済宗をひらく)。
  • 1181 親鸞、比叡山にのぼる(のちに浄土真宗をひらく)。
  • 1213 道元、比叡山で得度する(のちに曹洞宗をひらく)。
  • 1242 日蓮、比叡山にのぼる(のちに日蓮宗をひらく)。
  • 1486 真盛、坂本に、西教寺を再興し、天台真盛宗をひらく。
  • 1571 織田信長、比叡山(西教寺・日吉大社ふくむ)を焼き討ちする。
  • 1583 日吉大社の神殿が建立される。山王七社の神像と本地仏像も再興される。
  • 1584 豊臣秀吉、延暦寺根本中堂・戒壇院の再興を許可する。
  • 1585 出羽国立石寺(山寺)より不滅の法灯をうつす。
  • 1607 天海、徳川家康の命により、比叡山諸堂の再建に尽力する。
  • 1616 徳川家康、死去する。翌年、天海が、日光山に改葬し、日光輪王寺門跡をおこす。
  • 1625 天海、東叡山寛永寺を創建し、上野輪王寺門跡をおいてみずから住房とする。
  • 1642 比叡山延暦寺の根本中堂・大講堂・文殊楼が再建され、天海を導師として落慶法要を修する。
  • 1643 天海入寂。
  • 1868 神仏分離令により、日吉山王社を分離する(廃仏毀釈)。
  • 1987 比叡山開創1200年慶讚法要奉修。「世界宗教者サミット・平和の祈りの集い」を比叡山にて開催する。
  • 2021 伝教大師1200年大遠忌報恩大法会がおこなわれる。
地図


比叡山延暦寺


天台山国清寺


日吉大社


上野公園

最澄は、785年に僧侶となり、比叡山にのぼり、788年に、一乗止観院(のちの延暦寺根本中堂)を創建しました。それまでの南都(奈良)の仏教は都会の仏教でしたが、山を根拠地とするあたらしい山岳仏教がここにはじまり、この山岳仏教が、その後の仏教の日本化に決定的な役割をはたしていくことになります。

あたらしい仏教の構想は、奈良時代から平安時代への歴史の転換と呼応してしだいに実現していきます。最澄は、さらにまなぶために入唐を決意し、唐では、法華経を中心とする天台仏教だけでなく禅や密教もおさめ、大乗菩薩戒(大乗仏教における戒律、大乗戒ともいう)を受戒します。天台以外の仏教もまなんだのは、天台の教えを日本にただ移植すればよいとはかんがえていなかったからであり、もっとおおきな構想があったからでした。

帰国後は比叡山にもどり、天台・密教・禅・戒律の4つの仏教学を弟子たちに兼学させ(四宗兼学)、きびしい行とともにひたすら学問をやれと指導し、学問は、仏教だけでなく、勉強時間の3分の1は世間の学問にさけといいます。比叡山延暦寺は、天台仏教を基本においてはいますが、仏教全体あるいは仏教を中心としてすべての学問をまなぶ日本最初の「総合大学」として構想されました。

そして総合大学を完成させるために大乗戒壇の設立を天皇にねがいでます。大乗戒壇とは、大乗戒をさずけるための作法をおこなう場所(戒壇院)であり、ここで授戒をうけることによって正式な僧侶としてみとめられます。当時は、比叡山延暦寺で修行しても、授戒をうけるためには(正式な僧侶の資格をとるには)南都の東大寺にいかなければならず、その後、比叡山延暦寺には かえってこない僧侶がおおかったので比叡山にもどうしても戒壇が必要でした。しかし特権をうしなうことをきらった南都が反対するなか 822 年に最澄は入寂し、そしてようやくその年に設立の勅許がおります。近現代にたとえると、研究者・学者の資格である博士号を取得するためには東京大学などの帝国大学の大学院にいかなければならなかったのが、新興の研究機関やあたらしい大学でも大学院の設置がみとめられ、博士を輩出できるようになったというようなことであり、こうして最澄の総合大学は完成します。

そしてこの総合大学から、次代をになう人材がつぎつぎにそだっていきます。円仁と円珍がまずあらわれます。最澄は密教も唐でまなんでかえってきましたが残念ながらそれは不十分であり、わからないことがまだあり、真言宗の開祖・空海から経典をかりましたが、その後、行をおさめず本をよんでいるだけでは駄目だとことわられ、弟子の泰範を空海のもとで修行させましたが比叡山に彼はもどってくることはなく、最澄の密教は不完全なままでした。できればもう一度 唐へいってまなびなおしたいとおもったにちがいありません。この願いは、弟子の円仁や円珍にうけつがれ、あらためて彼らが入唐して密教をまなんでかえり、天台密教がついにつくられます。師のたりなかったところを弟子たちがおぎない、またその過程で人材がそだちました。

比叡山延暦寺の総合大学構想は功を奏し、その後、良忍(融通念仏宗)、法然(浄土宗)、栄西(臨済宗)、親鸞(浄土真宗)、道元(曹洞宗)、日蓮(日蓮宗)、真盛(天台真盛宗)、その他のいくたの高僧を輩出します。延暦寺からは高僧が輩出し、また高僧たちが、日本仏教の中心に比叡山をおしあげていきます。比叡山は日本仏教の母山となります。最澄は不完全であったために、「大木の下に小木育たず」といったことがおこらず、弟子や後継者たちは師の志をくみとって一心に修行し、一人一代ではできなかったことを何代もかけて実現しました。けっきょく、日本の歴史と文化に最澄があたえた影響ははかりしれず、最澄はすぐれた教育者だったといってよいでしょう。

一方、もうひとつ重要なこととして神仏習合があります。最澄は、延暦寺創建に際し、あたりの地主神を祀る日吉社を鎮守社としました。日吉社は各地に勧請され、その信仰は全国に展開し、鎌倉時代になると本地垂迹説により仏教と神道の習合がすすみ、「山王神道」が成立します。神仏習合の確立にも比叡山延暦寺がおおきく貢献したのであり、このような点でも比叡山は日本の母山といってよいでしょう。神仏習合は、日本人の文化のなかに今でも息づいています。

最澄と彼の後継者たちそして日本の仏教では、すべての人間のなかに仏性をみとめ、すべての人間の成仏の可能性を主張します。そして人間のみならず動物も植物も、さらに山や川も、あらゆるものが生きとし生けるものであり、それらはみな平等であり成仏できるとときます。「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」です。日本人は古来、人間だけでなく、動物も草や木も山や川もみな生命であり、そのような生命が神であるという自然信仰をもち、人間ばかりか一切の生きとし生けるものが死ぬと神になるとかんがえてきました。このような人間と自然がともにいきる思想的伝統のなかで、古来の神性と仏教の仏性がむすびつき融合し結晶したのが神仏習合であり、それは日本人の精神文化の中枢であるといってよいでしょう。最澄と比叡山延暦寺は、日本の歴史と文化にこのような点でもおおきな影響をおよぼしたのであり、こうして独自の日本文化が成長し、江戸時代にそれは頂点に達します。

ふるい基層文化に外来の文化がかさなり、あたらしい文化が発達するという文化は重層文化といってよいでしょう。歴史的にふるい文化ほど下層にあり、あたらしい外来文化が順次かさなっていくというイメージですが、ただかさなっていくだけでなく、かさなりながら全体がなじみ、それまでの文化もあたらしい文化も変容し、ふるい文化と外来文化が融合して独自の文化となります。重層文化の典型は神仏習合ですが、葬式を重視する仏教もそうだとおもいます。仏教は元来は葬式はやりません。あるいは日本人は、物事が駄目になると「お陀仏」といい、物がこわれると「お釈迦になる」といいます。あるいは人形供養・針供養・鋏供養・鏡供養・眼鏡供養・表札供養・印章供養・茶道具供養など、物品類も供養します。これらのことも重層文化で理解できます。

日本史を大局的にとらえなおすと、飛鳥時代〜奈良時代は外来仏教(模倣文化)でしたが、平安時代になると重層文化(日本文化)が成長しはじめ、文化が高度化・広域化したものを文明とよぶならば、江戸時代には、「日本文明」とよんでもよいようなレベルまで重層文化は発展しました。

しかし日本は、日本文明の完成をまたずに明治維新とともに今度は、ヨーロッパ文明の受容をはじめます。明治〜平成時代は飛鳥〜奈良時代と似ています。日本人は、あたらしい物事をよそからとりいれるのがすきです。しかし明治維新から約150年が経過した今日、新旧の融合がおこります。重層文化が発展します。現在の日本は、奈良時代から平安時代への転換と似たような歴史的段階にきているという仮説がたてられます。

重層文化は、日本以外では、東南アジア・ヒマラヤ地域・チベット地域などで顕著にみられ、いずれも、ヒンドゥー文明圏や中国文明圏というおおきな前近代文明圏の周辺地域で明瞭にあらわれています。ヒンドゥー文明や中国文明など、おおきな前近代文明は、どちらかというと、みずから独自に発展する自己発展的傾向がつよいのに対し、その周辺地域は重層文化が顕著であり、自己発展的地域(文明の中心)と重層文化地域(文明の辺境)という2つの観点をもつことによって東洋全体が理解でき、それのみならず西洋〜中東も、このような仮説で理解しやすくなるでしょう。これが、重層文化説のあらましです。

わたしはかつて、ネパールでくらしていたときにネパールの文化が重層文化であることに気がつき、ひるがえって日本をおもいだしてみたらネパールと日本は文化のパターンがとてもよく似ていることに気づき、縄文文化を基層とする日本の重層文化説をたて、この仮説にもとづいて、今回、最澄と天台宗を検証してみました。

日本史上最大の天才・空海の陰にかくれて最澄はあまりしられていませんが、最澄と彼の後継者たちが日本の歴史・文化にあたえた影響のおおきさからみると空海よりもおおきな仕事をしたといってもいいかもしれません。もっと注目されてよいです。今回の特別展をとおしてこの機会に、最澄と天台宗をとらえなおすことにはとてもおおきな意義があるといえるでしょう。

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100分 de 名著:『法華経』(NHK・Eテレ)

▼ 注
伝教大師1200年大遠忌記念 特別展「最澄と天台宗のすべて」
会場:東京国立博物館・平成館
会期:2021年10月12日~11月21日
※ 1ヵ所をのぞき撮影は許可されていません。

特設サイト(公式サイト)
公式 Twitter

※ 本展は、九州国立博物館(2022年2月8日~3月21日)、京都国立博物館(2022年4月12日~5月22日)に巡回します。

▼ 参考文献
東京国立博物館・九州国立博物館・京都国立博物館・読売新聞社編集『最澄と天台宗のすべて』(図録)、読売新聞社発行、2021年10月12日
梅原猛著『最澄瞑想』佼成出版社、1987年
梅原猛著『梅原猛著作集9 三人の祖師 最澄・空海・親鸞』小学館、2002年

▼ 参考サイト
天台宗総本山 比叡山延暦寺

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