親鸞聖人生誕850年特別展「親鸞 -生涯と名宝-」(京都国立博物館)をみる

日本

劇的な生涯でした。非常におおくの人々に教えがつたわりました。日本の伝統と外来の仏教がむすびつきました。

親鸞聖人生誕850年特別展「親鸞 -生涯と名宝-」が京都国立博物館で開催されています(注1)。親鸞の生誕 850 年という節目の年に、生誕の地であり臨終の地でもある京都において法宝物を一堂に会し、親鸞の求道と伝道の生涯をたどります。

第1展示室 親鸞を導くもの -七人の高僧-

親鸞は、阿弥陀仏とその教えをとく浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)をよりどころとしていました。

その教えを自身につたえた先達として、インド・中国・日本の七人の高僧(龍樹(りゅうじゅ)、天親(てんじん)、曇鸞(どんらん)、道綽(どうしゃく)、善導(ぜんどう)、源信(げんしん)、源空〈法然〉)をあげ、「ただこの高僧の説を信ずべし(唯可信斯高僧説(ゆいかしんしこうそうせつ))」と讃えました。

釈迦のといた仏教は「八万四千の法門」とも称され、その経典巻数は五千巻をこえ、仏の数は「恒河沙」(ガンジス川の砂の数)ともいわれ、自身の信仰する教えと正当性をしめすためには、信仰する経典と、自身へ教えが伝来した系譜を明示する必要がありました。

第2展示室 親鸞の生涯

親鸞は、九歳で出家得度し、その後、師である法然と邂逅、念仏弾圧、越後への流罪、そして九十歳で京都で往生をとげました。劇的な生涯でした。

親鸞の曾孫の覚如(1270〜1351)は、最初の親鸞伝である伝記絵巻『親鸞伝絵(しんらんでんね)』を編纂しました。親鸞は、おおくの人々を魅了し、親鸞への思慕はやむことはなく、後世、さまざまな伝記が編纂されました。

親鸞の墓所は、仏閣にあらためられ大谷廟堂が成立しました。

第3展示室 親鸞と門弟

関東を中心に各地で展開した門弟たちは「門流」という集団を形成し、親鸞の教えを継承しひろめました。

性信(しょうしん)、顕智(けんち)、了海(りょうかい)といった有力な門弟たちの坐像が今日につたわります。法脈を絵像をつらねてしめす高僧連坐像や、一流相承系図、門弟の名前や拠点を列記した交名(きょうみょう)などによっても、親鸞の教えのひろがりを視覚的に理解できます。

親鸞の言葉を、門弟の唯円(ゆいえん)がかきとめたという『歎異抄(たんにしょう)』第六条には、親鸞が、「弟子一人ももたずさふらう」とかたっていたことがしるされていますが、これは、念仏を親鸞がさせているのではなく、阿弥陀仏のよびかけを誰もがうけて念仏しているのである、という親鸞の感得した境地をあらわしています。

第4展示室 親鸞と聖徳太子

親鸞は、二十九歳の時に比叡山をおり、聖徳太子が創建したとされる六角堂へ参籠しました。そして九十五日目の明け方、夢に、本尊の如意輪観音の同体であり、聖徳太子の本地とされる救世観音(くせかんのん)があらわれ、お告げをうけました。『親鸞伝絵(しんらんでんね)』にえがかれています。

またこの夢告によって、法然上人のもとへ入門しました。親鸞の妻・恵信尼(えしんに)の手紙である恵信尼書状にしるされています。六角堂での夢告は重要な契機になりました。

浄土真宗の寺院には、聖徳太子の木像や絵像、六角堂での夢告に関する法宝、親鸞の撰述した聖徳太子を和語で讃える和讃がつたわります。聖徳太子に対する親鸞の信仰がうかがえます。

第5展示室 親鸞のことば

親鸞は、教えをつたえるために八十八まで執筆にはげみました。『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』(『教行信証』(きょうぎょうしんしょう))は主著であり、現存唯一自筆本「板東本」がつたわり、多数の加筆・修正がそこにはみられ、晩年までのたゆまぬ思索のあとがうかがえます。

筆跡には個性があらわれ、文章には、思想や人柄が表出します。

親鸞の自筆や自筆の手紙、門弟が書写した著作、門弟がかきとめた法語などをみながら、親鸞にせまります。

第6展示室 浄土真宗の名宝

浄土真宗の寺院には堂宇を荘厳する障壁画が伝来します。また宮廷文化の粋をきわめた古筆など、優品が京都につたわります。

親鸞の教えは人々を魅了し、門流が各地で形成され、やがて、組織・制度がととのえられ、戦国期には教団としておおきく発展しました。寺院には、宗教的文化財のほかに、数おおくの名宝が伝来しています。

第7展示室 親鸞の伝えるもの -名号-

浄土真宗の本尊には、阿弥陀仏の姿をあらわした木像・絵像のほかに、その名前を漢字でしるした「名号(みょうごう)」があり、十字名号「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」、九字名号「南無不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい)」、八字名号「南無不可思議光仏」、六字名号「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」がつたわっています。

親鸞は、これらを単なる名前ではなく、阿弥陀仏が人々を救済するためのはたらきそのものであるとして、それをとなえる口称念仏をときました。親鸞がつたえひろめようとしたのはこの名号にほかなりません。

親鸞みずから筆をとった名号を親鸞の肖像とともにみることができます。

親鸞の足跡(概略・推定)
親鸞の足跡(概略・推定)
(出所:図録 5ページ)

親鸞は、承安3年(1173)に、5人兄弟の長男として京都で誕生しました。誕生日は4月1日という伝えもありますがわかりません。父は、皇太后宮大進(こうたいごうぐうだいしん)をつとめた日野有範(ひのあのり)という公家であり、母は、源氏の娘ともつたえられますがさだかではありません。4人の弟はそれぞれ、延暦寺や円城寺の僧となりました。

9歳で、天台宗の僧として出家得度し、範宴(はんえん)との法名を名のり、また公名(きみな)を少納言公(しょうなごんのきみ)と称しています。伯父の範綱(のりつな)が慈円の坊舎につれていき、慈円を戒師として出家したといいます。慈円は、摂政・関白をつとめた藤原忠通を父にもつ有力貴族の出身であり、のちに、天台宗の最高位・座主に4度も就任したエリート僧です。慈円が戒師であったとすると、慈円の住房であった白川坊(のちの青蓮院)で出家したとかんがえられます。

天台僧となった親鸞の行状はあきらかではありませんが、東塔無動寺谷の大乗院には親鸞聖人修行地の伝承がのこっています。

29歳のとき、比叡山をはなれ、六角堂に100日間の参籠をおこないます。その95日目の暁に聖徳太子からの夢告をうけます。これをうけて、師をもとめてたずねあるき、法然が教えをといていた吉水草庵へたどりつき、100日間、何があっても欠かすことなく教えをききつづけ、ついに、法然の吉水教団に入門します。そして専修念仏(せんじゅねんぶつ)の教えを徹底的にまなび、4年後には、法然の主著である『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』の書写をゆるされ、また法然上人真影の図画がゆるされるなど、高弟のひとりとしてみとめられます。

しかしそのころ、法然の教えを批判する勢力が圧力をつよめはじめていました。比叡山延暦寺からの批判に対して法然は、他宗を非難したり、余の仏菩薩をそしったしすることを禁じます。南都興福寺は、法然の教えには9つの誤りがあるとする「興福寺奏状」を朝廷に提出し、専修念仏を禁止するようにうったえます。

そしてひとつの事件がきっかけとなり、吉水教団への大弾圧がおこなわれます。それは、後鳥羽上皇が熊野にでかけているあいだに、院の女房が、念仏の法会に出席し出家してしまい、京にもどった後鳥羽上皇はそれをきいて激怒し、法然や親鸞をはじめとする8人に遠流、4人に死罪を命じ、これを実行します。

親鸞、35歳(承元元年(1207))の春、越後国国府(現・新潟県上越市)に流刑されます。他方、法然の流刑先は土佐国幡多(現・高知県四万十市)であり、こののち2人はまみえることはありませんでした。

親鸞は越後で、4年の流刑生活をおくり、39歳の11月に赦免されましたが、さらに3年間をその地ですごします。

42歳(建保2年(1214))、家族とともに越後をたち、関東へむかいます。その途中、上野国佐貫(群馬県邑楽群明和町)で衆生利益のために浄土三部経の千部読誦を発願します。常陸国では、笠間郡稲田郷(茨城県笠間市)をおもな拠点として開教活動にあたり、ほかに、下妻の幸井(さかい)郷(茨城県下妻市坂井)に居住していたこともあります。親鸞が関東に移住したのは、下野国(栃木県)の中南部から常陸国笠間郡域を領していた宇都宮頼綱の招きがあったからだとする仮説が有力です。この頼綱は法然の門弟であったため、法然の高弟であった親鸞を招聘したのではないかといわれています。

親鸞は、恵信尼(えしんに)という女性と結婚し、6人の子供をもうけました。ただしどこでいつ結婚したのかについてはよくわからず、吉水時代の京都説と流罪時代の越後説がありましたが、近年、わかい時代の親鸞の行動を恵信尼が回想した「恵信尼消息」が再解釈され、吉水の法然のもとにかよう親鸞を恵信尼が実見していた可能性が指摘され、もしそうだとすると、吉水時代の京都で結婚していたとする仮説が有力です。6人の子供のうち、次男の信蓮房明信がうまれたのは越後時代の建暦元年(1211)、親鸞39歳、恵信尼30歳のときであり、また末娘の覚信尼がうまれたのは関東時代の元仁元年(1224)、親鸞52歳、恵信尼43歳のときでした。そのほかの子供の生年はわかりません。晩年は、親鸞と恵信尼は京都と越後で別居しますが、長男の慈信房善鸞と末娘の覚信尼だけが京都で親鸞と同居し、そのほかは、恵信尼とともに越後でくらしました。

親鸞は、約20年にわたり常陸国を拠点に念仏の教えをふかめ、教化活動をおこないました。関東時代のおおきな仕事としては『教行信証』の執筆があります。これには、親鸞52歳の元仁元年(1224)という年次が明記されており(関東に移住して10年目)、これを立教開宗の年としています。

そして親鸞60歳の貞永(じょうえい)元年(1232)頃、京都にもどります。その理由については、『教行信証』を完成させるために文献をもとめた、鎌倉幕府の念仏禁止令をさけた、老境にはいり望郷の念にかられたなどの仮説があります。京にもどってからは、最初は、五条西洞院(ごじょうにしのとういん)にすみましたが、のちに、火事にあったため、弟・尋有の坊舎である善法坊(ぜんぼうぼう、三条坊門富小路)に移転します。

京では、『教行信証』の増補・改訂をおこなうとともに、『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』や『一念多念文意(いちねんたねんもんい)』などの和語による聖教、『三帖和讃(さんじょうわさん)』や『皇太子聖徳奉賛(こうたいししようとくほうさん)』などの念仏の教えを七五調でわかりやすくといた術作など、おおくの書物をあらわします。

一方、親鸞がさった関東では、親鸞がといていない臨終来迎説や悪事をおそれない増悪無碍説などが主張され、念仏にかかわっては、一念多念、有念多念、有念無念の論争がおこります。

これをしった親鸞は、動揺をおさめるために長男の慈信房善鸞を関東に派遣しますが、善鸞は、自分一人がひそかに教えをうけたと主張したり、親鸞が大事にする第十八願をすてるようにすすめたりするなど、関東門徒をかえってまどわし、さらに関東門徒を鎌倉幕府にうったえたため、康元元年(1256)ついに、親鸞84歳、善鸞を義絶(勘当)します。

弘長2年(1262)11月下旬、親鸞は体調がすぐれず、そして28日の昼ごろ息がたえます。なくなった場所は弟・尋有の善法坊でした。鴨川の東の道をとおって、東山の西の麓、鳥部野の南辺、延仁寺で荼毘にふされ、遺骨は、鳥部野の北、大谷に納骨されます。墓標として、石でできた四角形の笠塔婆がたてられ、簡素な垣でかこまれます。これが当初の墓所です。

10年後、文永9年(1272)、末娘の覚信尼と関東の門弟が協力して、六角形の御影堂(大谷廟堂)を墓所としてたてます。覚信尼の夫・小野宮禅念が敷地を提供します。現在の円山公園の北方、知恩院の三門のすぐ北にある崇泰院(そうたいいん、浄土宗)の場所です。

この大谷廟堂が発展して、のちに、本願寺が誕生します。

略年表

()内は年齢

1173(01) 日野有範の子として誕生する。
1181(09) 出家得度し、比叡山にのぼる。
1182(10) 恵信尼が誕生する。
1185(13) 平家が滅亡する。
1201(29) 比叡山をくだり、六角堂に参籠する。法然門下にはいる。
1204(32) 延暦寺の衆徒が、専修念仏の禁止を要求する。
1205(33) 興福寺の衆徒が、専修念仏の禁止を要求する。
1207(35) 専修念仏が禁止され、越後へ流罪になる。
1201(39) 流罪がゆるされる。
1214(42) このころから関東で布教する。
1224(52) 末娘、覚信尼が誕生する。このころ、『教行信証』を執筆するか。
1232(60) このころ京都ヘかえるか。
1255(83) 火災により、五条西洞院から三条坊門富小路へうつる。
1256(84) 息子の善鸞を義絶する。
1262(90) 往生、東山鳥部野にて荼毘にふされる。
1268 このころ恵信尼が往生か。
1272 覚信尼と門弟らが廟堂をたて、遺骨と影像を安置する。

越後への流罪はおおきな事件でした。

親鸞は、極楽浄土に往生するため、念仏以外の行を一切まじえず、「南無阿弥陀仏」とただひたすらに念仏を唱えよとおしえました(専修念仏)。しかしこれは、戒律を否定するものであり、既存の仏教勢力からみれば邪教であり、時の権力からも弾圧されました。

本来の仏教は、苦の原因である愛欲をほろぼすことにより六道を流転する人間を流転からすくう教えであり、六道とは、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天の世界であり、人間ばかりかすべての生きとし生けるものがこの6つの世界を生まれかわり死にかわり流転するのであり、この世界はしょせん苦であり、苦の原因は愛欲であり、愛欲をほろぼすには、戒律をまもり(戒)、瞑想をし(定)、智恵をみがく(慧)必要があり、これらによって愛欲をたち、六道輪廻の原因をなくし、ニルバーナ(涅槃)という境涯にはいることができるとかんがえます。ニルバーナというのは悟りの境地であり、ここにいたれば輪廻の外にでることができます。

ところが親鸞は、「南無阿弥陀仏」とただひたすらに唱えれば極楽浄土へいけるととき、しかも、すべての生きとし生けるものが永遠に生まれかわり死にかわり、永劫の流転をつづけるとかんがえ、いったん極楽浄土へいった人間は、すみやかにこの世にかえるべきであり、実際にかえってきているとのべました(注2)。

この世とあの世のあいだに往還をくりかえすという親鸞の教えは、本来の仏教とはことなるものであることはあきらかであり、しかも親鸞は結婚もし子ももうけていたのであり、既存の仏教勢力がはげしく親鸞を批判したのは当然のことでした。

しかし親鸞の教えは、非常におおくの日本人にうけいれられ、そのご成立した浄土真宗は日本仏教界で最大勢力となり、日本の歴史に多大な影響をあたえました。

それではなぜ、おおくの日本人にうけいれられたのか? それをしるには、日本の基層文化・伝統文化をとらえなおす必要があります。

日本人は、屍のことを「なきがら」といい、これは魂のぬけたカラのことであり、人間は死ぬと、肉体から魂がはなれてあの世へいき、天の彼方にあの世があり、そこでは、ご先祖様たちがまっているとかんがえます。あの世はこの世とあまりかわりませんが万事があべこべです。

身内のものが死ぬと、お通夜をまずおこない、葬式(密葬、本葬)をついでおこない、あの世に魂をおくります。アイヌでは最近まで、夕方のはじめに葬式をおこなっており、この世の夕方はあの世の早朝であり、死者に対するおもいやりがうかがえます。

また死者には戒名をつけます。日本人は死ぬとみな仏になります。「人間は死ねばみなカミとなる」とかんがえた日本土着の信仰が仏教にはいりこんだのでしょう。しかし本来の仏教には、死ねばみな仏になるという教えはありません。戒律をまもり瞑想をし智恵をみがいたすぐれた修行者だけが仏になれるのであって、修行もしていないのに仏になれるというのはとんでもないことです。

日本の仏教では、引導(死者が成仏できるように経文や法語を僧がとなえること)を重視します。この世への執着がつよい人やこの世でつまはじきになった人は、みずからあの世にいこうとしないか、あの世の祖先たちがうけいれようとしません。そこで霊能者は、「この世の執着を断って、あの世へ無事いけ」、「この人を受け入れてくれ」ととなえます。その後、この引導の役割を仏教の僧がになうようになりました。

正月には門松をたて、お盆には、ナスの馬をつくります。門松は、あの世の祖先の霊をむかえるための依代であり、馬は乗り物です。あの世とこの世は連絡がとれていて、ご先祖様はときどきこの世へおかえりになります。お彼岸もおかえりになる日です。ご先祖様たちは、この世の子孫たちに手あつくもてなされて、この世の子孫たちの安全と幸福を蔭でささえます。仏教がはいってきてからは、お盆とお彼岸は仏式でおこなう家がおおくなりました。しかし本来の仏教にはこのような教えはありません。

ある家で子供が生まれると、「おじいさんにそっくりだ。亡くなったおじいさんの生まれ変わりだ」などといいます。そしてその子に、おじいさんの名前をつけたりします。日本には家名があり、おなじ名を代々名のるのも、霊がかえってきてあたらしい子供となって再生するという信仰があるからでしょう。大嘗祭も役者の襲名披露も霊の再生にもとづいているのでしょう。

本来の仏教とはことなり日本で仏教といえば葬式であり、葬式はもっとも重要な宗教的儀礼です。人間が生まれかわるためには、人間の霊をあの世に無事にまずおくらなければならず、きちんとあの世へいってくれないとこの世へはかえってくれません。

日本では、葬式・年忌・盆・彼岸の行事は仏教がつかさどり、結婚式・誕生・百日参り・七五三のようなもっぱら誕生のほうは神道がつかさどります。仏教と神道が両立しています。

このような死生観・世界観が、日本人の精神文化の基礎にあり、これによれば、人間は、この世とあの世をたえず往復する旅人であり、このような信仰をもったものは死をおそれなくなります。

おそらく、このような日本人のあの世観は、旧石器時代あるいは縄文時代からつづくものなのでしょう。

そしてこのようにみてくると、親鸞の仏教のあの世観と日本人の伝統的なあの世観とはよく似ていることがわかります。

親鸞の生涯をしって、伝統的なあの世観を前提とすると、日本の伝統と外来の仏教がむすびついたのが親鸞の教えではないだろうか、土着の信仰が、仏教とむすびついて日本独自の「仏教思想」をうみだしたのではないだろうか、という仮説がたてられます。日本人の精神文化が、外来文化の影響をうけて親鸞で結晶したといってもよいかもしれません(注3)。

  • 事実(データ):親鸞の生涯
  • 前提:日本人の伝統的なあの世観
  • 仮説:日本の伝統と外来の仏教がむすびついたのではないだろうか。

もしそうだとすると、親鸞の教えが日本人に非常にひろくうけいれられ、浄土真宗が発展し最大勢力になったこともうなずけます。親鸞なくして、日本の文化・歴史をかたることはできません。

日本の基層文化は決してうしなわれなかったのであり、外来文化と融合して重層文化をつくったのであり、日本史の必然をここにみとめることができます。現代の日本人のなかにも伝統が息づいています。無意識のうちにおこなっている行為のなかに歴史をみることができます。

今回の特別展は、日本の重層文化をとらえなおすことができるとてもよい機会でした。

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▼ 注1
親鸞聖人生誕850年特別展「親鸞 -生涯と名宝-」
会場:京都国立博物館 平成知新館
会期:2023年3月25日~5月21日
※ 館内の写真撮影は許可されていません。
特設サイト

▼ 注2
親鸞は、主著『教行信証』において、「往相廻向(おうそうえこう)」(浄土へ往生し成仏すること)と「還相廻向(げんそうえこう)」(迷いの世界に還り来て救済の活動をすること)の二種廻向をとき、それらのうち、「還相廻向」を重視しました。それは、大乗仏教がとくところの菩薩行の極致でもある利他行にほかなりません。

▼ 注3
事実(データ)→ 前提 → 仮説 とすすむ論理は仮説法です。

▼ 参考文献
京都国立博物館・朝日新聞社・NHK京都放送局・NHKエンタープライズ近畿(編)『親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝』(図録), 2023年3月25日, 朝日新聞社・NHK京都放送局・NHKエンタープライズ近畿
梅原猛(著)『梅原猛著作集 9 三人の祖師 最澄・空海・親鸞』, 2002年, 小学館
村越英裕(監修)『親鸞と歎異抄 -苦悩するほど救われる仏の導き-』, 2023年, 宝島社
中村元(編著)『仏教語源散策』(角川ソフィア文庫), 2018年, KADOKAWA
中村元(編著)『続 仏教語源散策』(角川ソフィア文庫), 2018年, KADOKAWA

(冒頭写真:京都国立博物館 平成知新館、2023年5月9日、筆者撮影)

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