アイヌは先住民族であり、縄文人の末裔です。寒冷な自然環境のもとで独自な文化をはぐくみました。縄文文化の名残をとどめます。
国立民族学博物館の東南アジア展示の一角には「アイヌの文化」コーナーがあり、彫刻・再現家屋・民具・儀礼具・模型などをみながらアイヌの地理・歴史・文化、日本文化との関係などについて理解をふかめることができます。
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「アイヌ」とは、アイヌ語で「人間」を意味する言葉であり、北海道を中心に、本州北部や千島列島・樺太(サハリン)南部で独自の文化をはぐくんできた日本の先住民族です。北海道に人がすみはじめたのは旧石器時代であり、縄文時代には、北海道西部の文化は本州の東北地方の文化とほぼ一体に推移し、弥生時代になると、九州〜本州では稲作文化がひろがりましたが、寒冷な北海道では稲作はひろがらず、独自の「続縄文文化」がつづきます。7世紀頃からは「擦文文化」の時代になり交易が活発になり、鉄器がおおく流入し、また農耕もおこなわれます。おなじころ、道北から道東の沿岸には、樺太(サハリン)から南下した「オホーツク文化」がさかえますが、やがてそれは、擦文文化に吸収されるようにおわりをむかえます。13世紀頃からは、土器をもちいなくなり、アイヌ文化の特色が形成されます。アイヌの現在の人口を把握することはむずかしいですが、アイヌ民族としての自己認識をもつ人々は数万人以上いるとかんがえられます。
木彫「藤戸タケ像」は、制作者・藤戸竹喜(ふじとたけき、1934-2018)の祖母をモデルにした等身大の像です。藤戸竹喜は、父のもとで10代から熊をほりはじめ、各地で修行をつみ、20代なかばで阿寒町に居をさだめました。
「チセ(伝統的家屋)」は、萱野茂(かのやしげる)氏をはじめ二風谷(にぶたに)の人たちによって再現された伝統的家屋です。屋根や壁を葺(ふ)く材は地域によってことなり、この家では、茅(かや)(おもにヨシ)がもちいられ、内部は、ガマの葉でつくられたござがしきつめられています。二風谷では、家の南東にあるのが上座の窓であり、その窓の外に「ヌササン(祭壇)」をもうけます。カムイはそこからではいりし、儀式にもちいるものなどもそこからだしいれします。この窓から家のなかをのぞくことはタブーとされます。
「ヌササン(祭壇)」は、アイヌの伝統的な家屋の奥の壁(二風谷では東側)にカムイのではいりする窓があり、そこからみえる屋外の位置に「イナウ(木幣)」をたてた祭祀の場であり、展示では、「イオマンテ(クマの霊送り)」の最終場面をあらわしており、さまざまなカムイにささげられた形態のことなるイナウがならんでいます。
「イナウ(木幣)」は、日本語ではしばしば木幣(もくへい)と訳されるように、 神道でもちいられる御幣と同様な役割をするとおもわれ、宗教儀礼の執行には欠くことのできない祭具です。カムイへの捧げ物であり、人間がのべた祈りやほかの捧げ物をとどける伝令者でもあり、またイナウ自体が守護神となるものもあります。
「イクパスイ(捧酒箸)」は、「(カムイに)酒を捧(ささげる)箸」として、捧酒箸(ほうしゅばし)と訳され、酒をいれた漆椀に先端をいれてすくうようにし、その滴を、イナウや身のまわりのカムイにささげます。
「アイヌ語由来の地名」は、北海道・樺太・千島・東北地方にみられます。地形の特徴や土地の産物などをしめすアイヌ語由来の地名が数おおくあり、アイヌ語の音をそのまま、あるいは若干変化させて漢字(またはカナ)をあてたもの、またアイヌ語の意味を訳したものなどがあります。
例
- 「ポロ(大きい)」→「幌」
- 川や沢をあらわす「ペツ」「ベツ」「ナイ」→「○○別」「○○内」
- 「シリ(大地・島)」→「尻」「知」「後」
- 「トマリ(港)」→「泊」
- 「ピラ(崖)」→「平」
- 「オタ(砂)」→「小田」「歌」
- 「コタン(集落・村)」→「古丹」
たとえば「札幌(さっぽろ)」のもとの地名は、「サッ(乾く)・ボロ(大きい)・ペッ(川)」であり、「鷹栖(たかす)」のもとの地名は、「チカプニ=チカプ(鳥)・ウン(いる)・イ(ところ)」です。
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縄文時代から日本の江戸時代まで、オホーツク文化をになった人々の流入をのぞき、人の大移動はみとめられず、人類学的研究から形質的・遺伝的に連続性がみられ、したがってアイヌ文化は、縄文時代から北海道にすんできた人々の末裔が周辺の文化の影響をうけながらきずいたものといえます。
アイヌは、漁撈・狩猟・採集・農耕によって生活に必要なもののおおくをえていましたが、自給自足のみの生活をしていたのではなく交易もおこなっていました。15世紀までに、和人(本州からきたアイヌではない人々)が道南部に居住するようになるとさかんに交易をおこないました。また北では、樺太の先住民と交易をおこない、中国製の物資も入手し、東の千島では、カムチャツカの先住民と、18世紀頃からはロシア人との交易もおこないました。
しかし江戸時代になると和人がふえ、幕府や松前藩による支配がはじまり、明治時代になると和人が急増し、アイヌは少数者となり、また同化がすすめられました。
現在は、先住民の権利をまもる国際的なうごきにもあとおしされ、1997年に、「アイヌ文化振興法(通称)」が制定され、2008年に、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が国会で採択され、アイヌの文化を次世代に継承し、多民族が共生する社会にむけたとりくみがはじまっています。
以上のように、彫刻・家屋・民具・儀礼具など(展示品)をみながら、アイヌは先住民族であることを前提とすると、アイヌは縄文人の末裔であり、アイヌ文化は縄文文化の名残をとどめているのではないだろうかという仮説がたてられます。北海道の気候は亜寒帯に属し、気温・湿度ともにひくいため、稲作文化がひろまらなかったことが縄文文化をのこすことに有利にはたらいたのではないでしょうか。
- 事実:アイヌの彫刻・家屋・民具・儀礼具など。
- 前提:アイヌは先住民族である。
- 仮説:アイヌは縄文人の末裔であり、アイヌ文化は縄文文化の名残をとどめているのではないだろうか。
もしそうだとすると、アイヌ文化は、縄文文化の面影をわたしたちにつたえているだろうという推論(演繹)ができ、それは、日本の基層文化(深層文化)をさぐるうえで重要だということになります。この仮説を検証するためには、アイヌ文化と日本文化の共通性・類似性や、アイヌ文化と日本文化が近縁関係にあるかどうかをしらべなければなりません。
たとえばアイヌの祭具「イナウ」について『梅原猛著作集 8 日本冒険(上)』につぎのような記載があります。
私は一度だけ、帯広にお住まいの山川シマさんの司祭する祭りに参加したことがある。山川さんは八十を超えるおばあちゃんである。(中略)
柳の木で作ったイナウを何本か立てる。このイナウ作りは、まず柳の木を採ってきて、皮をむき、適当な長さに切って、木の棒とする。これが「イナウネトバ」といわれるもので、イナウの胴体という意味である。次にその木の棒の先を斜めに切る。顔ができる。そこに、口を付ける。これを「イナウパロ」という。そして顔の両側に「イナウキサㇻ」といって耳を付ける。そして、あの削り掛けという名が示すように、柳の木の側面を薄く丹念に小刀で削って、「イナウラプ」つまりイナウの羽を作る。そしてこの口と耳と羽をもつネトバに、二本の「イナウケマ」すなわち足を付ける。
イナウは樹でつくられ、いまではほとんど柳の木でつくられますが、ミズキ・ニワトコ・エンジュなど、さまざまな樹種がかつてはつかわれ、これとおなじものが日本の各地でも祀られ、日本ではそれを「削り掛け(けずりかけ)」といい、アイヌのイナウに形がそっくりであり、「御幣(ごへい)」の原形であるといってよいでしょう。イナウの「イ」は「それを」という意味であり、ナウとは「削る」であり、イナウとは「それを削る」という意味であり、「削り掛け」ということです。
そしてイナウは、祈りをささげる神さまの数だけつくられ、それぞれを縄でむすびつけてひとつの棚状のものにし、これを「ヌササン」といい、「ヌサ」とはイナウのあつまり、「サン」とは棚のことです。このようなヌササン、つまりヌサをおいて神を祀る場所を「チパ」といい、アイヌの家では、家の東側にチパがもうけられていました。国立民族学博物館の展示ではこれらの配置を再現しています。
日本語ではヌサは「幣」とかき、神前にそなえる幣帛(へいはく)のひとつといい、幣は「みてぐら」ともよみ、神にささげるものの総称とされ、もともとは御幣のことであったとかんがえられ、御幣はイナウとおなじものだったのでしょう。いまでは御幣は、切り紙細工のもののみですが、かつては、コウゾの繊維をもちいた木綿(ゆう)シデなどをもちいたそうです。
神祭りは、このようにヌササンをこしらえて、「イクパスイ」(捧酒箸)というながい箸のようなものに神酒をつけて、それを四方にパッパッとまくことからはじまります。イクパスイには、神紋とともに家紋がえがかれ、これは、祈る相手の神を、祈る主人公とともにはっきりさせるためであり、祈りは、神にさしだす手紙のようなものであり、宛名をあやまるとちがう神のところへ祈りがいってしまうことがあり、差出人をまちがえると恩恵が別人のところへいってしまう危険があります。このような神紋と家紋は中国や韓国にはなく日本文化に固有のものです。
こうして四方を神酒できよめると、「カムイノミ」(神への祈り)がいよいよはじまり、この祈りは、アイヌ語の古語にあたる詩語でいわなければならず、その時その場に応じてうつくしい詩語でかたらないと願いを神はきいてくれないといいます。日本の「祝詞(のりと)」ももともとはそういうものであったにちがいありません。
イナウには、身体があり、顔があり、口があり、耳があり、羽があり、足があります。簡略化されたその工芸品にもアイヌの人々の信仰がこめられており、イナウは「霊をあらわす鳥」であり、ヌササンは「霊の発射台」であるといいます。今日の日本人は、神殿に対して玉串(たまぐし)を奉奠(ほうてん)する儀式を神詣でのもっとも重要な儀式としてとりおこない、紙のついている榊(さかき)を神主からもらって神にささげますが、この玉串がイナウです。これは羽をつけた鳥であり、わたしたちは、「鳥」に願いを託して神にむかってはなちます。
このように、アイヌの祭祀と日本の神道には共通性・類似性がみられ、神道の原型をアイヌにみることができます。そして先にたてた仮説の蓋然性がたかまります。
さらに、死者をおくる儀式(葬式)についても検証しなければならないでしょう。日本人の葬式はおおくが仏式でおこなわれ、それは仏教のようですが、実際には、わたしが大陸でみてきた仏教とはおおきくことなり、“葬式仏教” は本来の仏教ではないといいきってもよいです。そこで、縄文時代からつづくあの世観と死者おくりの精神が日本人の心のなかにのこっていて、形式だけを仏教からかりたのではないかという仮説がたてられます。
またこのようにみてくると、日本人は、技術・産業・形式・制度などについてはあたらしいものをうけいれやすいですが、精神文化はなかなかかえられない、精神文化はいつまでも過去をひきずる傾向にあるのではないかという仮説もたてられます。「和魂漢才」「和魂洋才」ともいうではないですか。今日の日本人も精神文化は意外にもふるいままといえるでしょう。あるいは精神文化はふるいものがのこる、精神文化は変化がおくれるということは、日本にかぎらず世界的にみられる現象かもしれません。文化の成長や文明の進歩をかんがえるうえで注意しなければならないことです。
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梅原猛『日本の深層』をよむ(その1. 東北の旅)
「日本語の歴史」展(東洋文庫ミュージアム)をみる
▼ 参考文献
『国立民族学博物館 展示案内』国立民族学博物館編集・発行、2017年
知里幸恵編訳『アイヌ神謡集』(岩波文庫)、岩波書店、1978年
中川裕著『NHK 100分de名著 2022年9月』(知里幸恵『アイヌ神謡集』)NHK出版、2022年
アイヌ民族博物館・児島恭子監修『アイヌ文化の基礎知識』(増補・改訂版)草風館、2018年
『今こそ知りたいアイヌ』(サンエイムック 時空旅人 ベストシリーズ)三栄、2021年
梅原猛著『梅原猛著作集 8 日本冒険(上)』小学館、2001年
梅原猛著『梅原猛著作集 8 日本冒険(下)』小学館、2001年
梅原猛著『梅原猛著作集 6 日本の深層』小学館、2000年
▼ 参考サイト
国立アイヌ民族博物館
北海道博物館
北海道立アイヌ総合センター
アイヌ文化交流センター(サッポロピリカコタン)
稚内市北方記念館・開基百年記念塔
旭川市博物館
アイヌ文化の森 伝承のコタン
川村カ子トアイヌ記念館
苫小牧市美術博物館
室蘭市民俗資料館(とんてん館)
新ひだか町アイヌ民俗資料館
函館市北方民族資料館