「シルクロードの旅」展(東洋文庫ミュージアム) – ネットワーク共鳴説 –

文明

ルートをたどりながら地図上で歴史がわかります。ネットワーク共鳴がおこりました。東西にのびるユーラシア大陸でのみ強大な文明が成立しました。

「シルクロードの旅」展が東洋文庫ミュージアムで開催されています(注)。東洋文庫が所蔵する貴重な書籍や資料をとおしてユーラシア大陸にひろがったシルクロードをたどります。

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シルクロード・ネットワーク
シルクロード=ネットワーク概念図
『The Silk Road』
『The Silk Road』
スウェン=ヘディン、1938年、ロンドン刊
『古代絹街道』
『古代絹街道』
アルバート=ヘルマン著、安武納訳、1944年、東京刊
『ガンダーラのギリシャ仏教美術』
『ガンダーラのギリシャ仏教美術』
フーシェ、1905-1917年、パリ刊
『唐代金銀器』
『唐代金銀器』
鎮江市博物館・陝西省博物館編、1985年刊
『大般若波羅蜜多経』
『大般若波羅蜜多経』
8世紀(奈良時代中期)書写、巻230
『梵語千字文』
義浄, 9世紀(唐時代)頃書写
『梵語千字文』
義浄、9世紀(唐時代)頃書写
『中央アジアの仏教古代後期』
アルべルト=フォン=ル=コック, 1922-1926年, ベルリン刊
『中央アジアの仏教古代後期』
アルべルト=フォン=ル=コック、1922-1926年、ベルリン刊
『セリンデイア』
マーク=オーレル=スタイン, 1921年, ロンドン刊
『セリンディア』
マーク=オーレル=スタイン、1921年、ロンドン刊
『古代コータン』
マーク=オーレル=スタイン、1907年、オックスフォード刊
『アヴェスタ神と中央アジア仏教図像学との関係』グリュンヴェーデル, 1924年, ドイツ刊
『アヴェスタ神と中央アジア仏教図像学との関係』
グリュンヴェーデル、1924年、ドイツ刊
『千仏』
『千仏』
マーク=オーレル=スタイン、1921年、ロンドン刊
『高昌(ホッチョ)』
アルベルト=フォン=ル=コック, 1913年, ベルリン刊
『高昌(ホッチョ)』
アルベルト=フォン=ル=コック、1913年、ベルリン刊
『歴史』
ヘロドトス, 紀元前5世紀成立, 1679年, ロンドン刊
『歴史』
ヘロドトス, 紀元前5世紀成立、1679年、ロンドン刊
『史記』(匈奴列伝)司馬遷著、紀元前90年頃成立、1525〜27(嘉靖4〜6)年刊
『史記』(匈奴列伝)
司馬遷著、紀元前90年頃成立、1525〜27(嘉靖4〜6)年刊
『仏国記』
法顕(ほっけん), 5世紀前半成立, 1628-44(崇禎年間)刊
『仏国記』
法顕(ほっけん)、5世紀前半成立、1628-44(崇禎年間)刊
『西安北周安伽墓』陝西省考古研究所編, 2003年, 北京刊
『西安北周安伽墓』
陝西省考古研究所編、2003年、北京刊
『マルコ・ポーロ卿の書』(東方見聞録)』
ヘンリー=ユール訳注, アンリ=コルディエ増補, 1903年, ロンドン刊
『マルコ・ポーロ卿の書(東方見聞録)』
ヘンリー=ユール訳注、アンリ=コルディエ増補、1903年、ロンドン刊

『The Silk Road』(スウェン=ヘディン、1938年、ロンドン刊)は、「Silk Road(シルクロード)」という名称を世界にひろめました。シルクロードは、ドイツの地理学者リヒトホーフェンが、シルクロードをドイツ語で意味する「ザイデンシュトラーセン」とよんだ(1877)のが最初とされていましたが、近年、もうすこし前からつかわれていたとする研究もあります。

『古代絹街道(しるくろうど)』(アルバート=ヘルマン、安武納訳、1944年、東京刊)は、日本で、シルクロードを最初に紹介した訳書です。

『ガンダーラのギリシャ仏教美術』(フーシェ、1905-1917年、パリ刊)は、古代仏教の中心地であったガンダーラの仏教美術を解説しており、東西の文化交流をしめす重要な資料でもあります。仏教はじまりの地である北インドでは仏像は製作されませんでしたが、ギリシア系の人々が北西インドに侵入してからは、彼らの間で仏教がひろまると製作されるようになりました。ガンダーラでは、ギリシア風の顔をした「ヘレニズムの仏像」をみることができます。

『唐代金銀器』(鎮江市博物館・陝西省博物館編、1985年刊)は、唐代の墓から出土した金銀器の図版を数おおく掲載しており、文様や器形などにペルシアの影響がみられ、シルクロードをとおってペルシアから文物がもたらされたことがわかります。

『大般若波羅蜜多経』(8世紀(奈良時代中期)書写、巻230)は、玄奘(げんじょう)がインドからもちかえり、サンスクリット語から漢訳した仏典です。大乗仏教の基礎的な教義をのべた様々な般若経典をまとめた集大成といえるもので、全600巻からなります。8世紀初頭には、漢訳されたものが日本につたわり、奈良時代には、東大寺・薬師寺などの大寺院で国家鎮護のためにこの経典を省略して読調する「大般若会」という法会がおこなわれました。

『梵語千字文(ぼんごせんじもん)』(義浄、9世紀(唐時代)頃書写)は、サンスクリット語辞典の現存最古の写本であり、平安時代の高僧・慈覚大師円仁(794-864)が中国からもちかえったものとされます。玄奘の西域への旅から30年ちかく後、671年、僧の義浄がインドへ旅だち、約13年の滞在期間をへて695年に中国へかえり、サンスクリット語仏典の漢訳をおこない、辞典をつくり、道中の見聞記をまとめました。

『中央アジアの仏教古代後期』(アルべルト=フォン=ル=コック、1922-1926年、ベルリン刊)は、1902年から14年にかけてドイツが実施した計4回の中央アジア探検によりもたらされた蒐集品の報告書です。著者のコックは第2回からくわわり、トゥルファンやクチャ(亀茲(きじ)、現在の新疆ウイグル自治区)といったシルクロード諸都市にきずかれた石窟群の発掘調査をしました。亀茲は、3世紀半ば〜8世紀頃、タリム盆地北側にさかえた都市国家であり、亀茲出身の僧侶は、サンスクリット語仏典の漢訳に中国で従事し、東アジアでの仏教の普及に貢献しました。

『セリンディア』(マーク=オーレル=スタイン、1921年、ロンドン刊)は、イギリスの考古学者・スタインが、西域南道・西域北道から中国の甘粛省西部までを調査した第二次探検の報告書です。現在の新疆ウイグル自治区にあるミーラン遺跡では、古代ローマ風の天使像や仏教絵画・彫刻などを仏教寺院の壁画から発見しました。これらは、ギリシャ・ローマ由来のヘレニズム文化がクシャーナ朝(インド)でさかえた仏教とまじわり、ミーランにまで達したことをしめしています。

『古代コータン』(マーク=オーレル=スタイン、1907年、オックスフォード刊)は、スタインが、1900年から1901年にかけておこなった第一次中央アジア探検の調査結果を図版とともにまとめた報告書です。現在の新疆ウイグル自治区にあたる、タクラマカン砂漠の南に位置するコータン(ホータン)周辺をおもな調査区域としており、仏教王国であった古代コータンは、シルクロードの西域南道ぞいにあり、東西貿易の中継地としてさかえました。

『アヴェスタ神と中央アジア仏教図像学との関係』(グリュンヴェーデル、1924年、ドイツ刊)は、ドイツがおこなった4回の中央アジア探検のうち第1回と第3回の探検隊長をつとめた東洋学者・考古学者のグリュンヴェーデル(1856-1935)の晩年の著作であり、ゾロアスター教の神々の図像と中央アジア仏教の図像を比較検討しています。ゾロアスター教は、『アヴェスタ』を聖典とするイランでおこった宗教であり、古代ペルシアの国教としてさかえ、6〜7世紀には中国にもつたわり、拝火教または祆教(けんきょう)とよばれました。

『千仏』(マーク=オーレル=スタイン、1921年、ロンドン刊)は、1906〜08年にスタインが実施した第2次中央アジア探検で蒐集した敦煌莫高窟の仏画の図版を48図収録しています。敦煌は、シルクロードのオアシス都市として繁栄し、仏教文化が花ひらき、4〜14世紀にかけて大小492の石窟がほられ、あざやかな壁画や仏像でその内部がいろどられ、石窟群は、「莫高窟」「千仏洞」「敦煌石窟」などとよばれます。

『高昌(ホッチョ)』(アルベルト=フォン=ル=コック、1913年、ベルリン刊)は、ル=コックがひきいる第2次ドイツ・トゥルファン探検隊(1904-05)の成果をまとめた大判の豪華図録であり、トゥルファン地方の高昌(新疆ウイグル自治区)やベゼクリク千仏洞などの遺跡で発見された壁画・塑像・古文書そのほか蒐集品の写真をおさめています。9世紀半ばから13世紀末にかけて、トルコ系ウイグル人の国家である西ウイグル(天山ウイグル)王国がおさめるオアシス都市にはソグド人・トカラ人・漢人など、様々な民族が居住していました。また仏教・マニ教・景教(キリスト教ネストリウス派)など、宗教も多様でした。

『歴史』(ヘロドトス、紀元前5世紀成立)は、「スキタイ」という、紀元前6〜3世紀頃にかけてユーラシアの草原地帯で活動した騎馬遊牧民についてくわしくかいており、馬具・武具・動物文様が「スキタイ文化」の3要素です。ヘロドトスは、紀元前5世紀頃の古代ギリシアの歴史家であり、「歴史の父」とよばれます。各地で見聞し経験したことを元に、ペルシア戦争の歴史を軸にかいたのが『歴史』であり、オリエントの歴史・生活・風俗をしるための貴重な資料です。

『史記』(司馬遷、紀元前90年頃成立)は中国最初の正史です。中国の歴史書に「匈奴」がもっともはやくはらわれるのは、『史記』「秦本紀」の紀元前318年(秦惠文王更元7年)の条です。当時の中国は戦国時代の真っただ中で秦は強国の一つであり、本条は、韓・趙・魏・燕・齊の五国と匈奴がともに秦をせめたことをつたえています。また「匈奴列伝」では、匈奴の生活や特徴につい て説明したあと、夏王朝から前漢の武帝の時代までの匈奴のうごきをしるしています。

『仏国記』(法顕(ほっけん)、5世紀前半成立)は、「法顕伝」ともよばれ、東晋時代の僧侶・法顕(337頃-422頃)の旅行記であり、シルクロード周辺の様子をつたえる貴重な史料です。法顕は、戒律(規律を定めた経典)が中国にはそろっていないことをなげき、インドへむかい、経典をもちかえりました。長安を出発し、西域北道・南道をとおり、南下してパミール高原をこえてインドにいたりました。砂漠をぬけた鄯善国(ぜんぜんこく)では国王が仏教を奉じ、4千人の僧侶が中国とはちがって小乗仏教をまなび、インドの仏法をおこなっていたことを記録しており、西域北道と南道には小乗と大乗の仏教国が混在していて、シルクロードが仏教のつたわった道でもあったことがよくわかります。

『西安北周安伽墓』(陝西省考古研究所編、2003年、北京刊)は、中国・西安でみつかったソグド人の墓に関する書籍です。墓誌から、埋葬されているのは「薩保(さっぽう)」とよばれたソグド人集落のリーダーであるとかんがえられます。展示ページは墓の入りにあたるレリーフであり、ゾロアスター教の聖なる火がきざまれています。

『マルコ・ポーロ卿の書(東方見聞録)』(ヘンリー=ユール訳注、アンリ=コルディエ増補、1903年、ロンドン刊)は、イタリア・ベネチアの商人マルコ=ポーロの東方旅行の体験談を記録した旅行記です。マルコー行は1271年にベネチアをたち、往路は、ホルムズ(イラン)からは陸路で東へむかい、パミール高原、タクラマカン砂漠をこえて元の大都(北京)に到着し、フビライに17年間つかえたあと、1292年に海路で帰国の途につき、東南アジア、インド、アラビア海をへて1295年にベネチアにもどりました。この旅行記から、モンゴル帝国の覇権のもとで人やモノがうごいていた13〜14世紀のユーラシアの様子がわかります。またこの書は、ヨーロッパ人のアジアへの関心をそそり新航路開拓の誘因となり、コロンブスのアメリカ発見の機縁となり、またヘディンやスタインは、中央アジア探検にこの書を座右からはなしたことがありませんでした。

シルクロードには、おおきくわけて3つのルートがあります。中央ユーラシアの乾燥地帯に点在するオアシス都市をとおる「オアシスの道」、オアシスの道より北、モンゴル高原からカスピ海北方の草原地帯をとおる「草原の道」、東シナ海・インド洋・ペルシア湾を船でわたる「海の道」の3つです。これらのルート上に点在する都市は縦横にむすばれ、都市から都市へ、リレーのように中継貿易がおこなわれ、「ネットワーク」が形成されていました。

ヘロドトス『歴史』(紀元前5世紀)には、黒海北方にすむ「スキタイ」とよばれる騎馬遊牧民についてしるされ、中国・前漢の司馬遷『史記』(前2世紀)には「匈奴」とよばれる騎馬遊牧民がしるされ、これらの民族は、中央ユーラシアの広範な地域を支配したため、馬具や武器・金製装飾品・青銅製装飾品など、馬と密接な文化がユーラシア東西につたわりました。

一方、紀元前後から10世紀頃まで、およそ千年にわたってシルクロード交易の主役だったのがソグド人です。サマルカンドを中心とした、現在のウズベキスタンからタジキスタンにまたがる地域はソグディアナとかつてよばれたソグド人たちの故郷であり、肥沃なオアシスがおおく、紀元前6〜5世紀には農業がはじめられましたが、人口がふえると農地がたりなくなり、他の地域へ交易をもとめて足をのばす人々がふえ、ソグド人たちは、黒海周辺から中国までのほとんど、中央ユーラシア全域に集落をつくり、それらが、国際的なシルクロード商人の拠点になりました。ソグド語は中央ユーラシアの公用語となり、ウイグル文字・モンゴル文字・満洲文字へうけつがれました。

また中国大陸では618年に唐が建国され、「西域」とよばれる東トルキスタンのタリム盆地には高昌(トゥルファン)、亀茲(クチャ)、于闐(コータン、ホータン)、疏勒(カシュガル)、焉耆(カラシャール)といったオアシス都市がシルクロード交易の中継地としてさかえました。唐の情勢がおちつくと、大量の絹が輸出されるようになり、通貨のかわりにもつかわれるようになりました。国際的な大都市となった長安には世界各地から商人や使節がおとずれ、国教の道教だけでなく仏教・キリスト教・ゾロアスター教・マニ教の寺院もきずかれるなど、外来文化の接触と受容がすすみました。

シルクロードが、人やモノとともに精神文化もはこんだことはとても重要です。

仏教は、紀元前5世紀頃にインド亜大陸北部で成立し、上座部仏教は南アジアそして東南アジアへ、大乗仏教はガンダーラ(現在のパキスタン北西部)から中央アジアをとおって東アジアへつたわりました。中国大陸へは、1世紀頃(後漢の時代)には伝来したとされ、その初期には、インド人やイラン系民族のソグド人などが仏典を翻訳しました。主要な仏典の漢訳でよくしられた僧・鳩摩羅什(くまらじゅう、344-413)はオアシス都市・亀茲(クチャ)出身であり、父はインドの貴族出身とされます。その後、シルクロードをとおって中国人僧がインドにいき、仏典の蒐集と漢訳がさらにすすみました。

4世紀に仏典をもとめてインドへわたった中国・東晋の法顕(337-422)もシルクロードをとおりました。前漢の時代に敦煌郡が設置されて後漢時代にはおおいにさかえていた敦煌をとおり、タリム盆地の南道〜北道〜南道を経由してインドへむかいました。西域南道の途中には、大乗仏教の中心地の一つとしてさかえていたコータン(ホータン)王国があり、ほかにも、西域南道ではローラン、西域北道では亀茲(クチャ)やカシュガル・高昌(トルファン)などが仏教が中国へつたわる橋わたしをしました。

ゾロアスター教は、イラン高原に居住していた古代アーリア人の多神教を源流とし、アケメネス朝(前550-前330)以降、ペルシアの主要な宗教でした。交易がさかんになると、中央アジアそして中国へつたわりました。

マニ教は、サーサーン朝ペルシア時代の預言者マニ(216-277)を開祖とし、ゾロアスター教を母体として、ユダヤ教・キリスト教・仏教の概念をとりいれた混合的な宗教であり、一時は、ユーラシア東西でひろく信仰されました。西はローマ帝国へ、東は唐代の中国につたわり、さらに東ウイグル帝国 (744-840)では国教となりました。

キリスト教は、431年のエフェソス公会議で異端とされたネストリウス派がサーサーン朝ペルシアで地盤をかため、布教の地をさらに東方にひらき、唐代の中国で「景教」と称されただけでなく、中央アジアのトルコ・モンゴル系の遊牧民にもつたわりました。

イスラーム教は、7世紀前半にアラビア半島でおこり、わずか150年ほどの間に西アジア・ 北アフリカ・イベリア半島、さらに中央アジアをすすんでキルギスのタラス河畔あたりまでひろまりました。その後、中央アジア、南アジア、東南アジアへと範囲をひろげました。

このようにシルクロードは、ユーラシア大陸にはりめぐらされた広大なネットワークであり、さまざまな文化がこのネットワークによってはこばれました。

たとえば7世紀頃に唐でうまれた陶磁器は、ヨーロッパへ14世紀につたわり珍重され、18世紀になるとマイセン磁器がつくられるようになりました。陶磁器は食文化などの発展におおいに貢献しました。

ユーラシア大陸は、南北アメリカ大陸・アフリカ大陸とはちがい南北にではなく東西にのびていて、温帯に属す地域が比較的おおおく、疫病がはびこる過酷な暑い熱帯をこえる必要がなかったため人が移動しやすい大陸でした。移動がむずかしい乾燥帯はありましたが点在するオアシス都市を中継しながら移動できました。オアシス都市は、乾燥帯のなかにできた小規模な「温帯」地点とみなすことができます。数々のオアシス都市はシルクロードの成立に役だち、シルクロードが発展するにつれオアシス都市もさらに発展しました。ネットワークと諸都市は相互につよめあいました。

東西方向に経度がちがっても緯度をおなじくするような地域では、日照時間・気温・季節・生態系・風土病など、似たパターンを自然環境がしめす傾向にあるため移動が楽であり、ユーラシア大陸には、地球上でもっとも幅のひろい同緯度地帯があったためシルクロードが形成されました。人間の行動力・努力とともに自然環境からの影響も重要です。南北にのびる南北アメリカ大陸とアフリカ大陸では自然環境が障壁になって移動(ルート形成)が困難でした。

大陸が東西にひろがっていたので、技術・産業・制度・学問・芸術・精神文化なども高速で伝播し、さまざまな文化が各地で蓄積しました。ユーラシア大陸の文明はネットワークを基盤とし東西の文化が共鳴しながら発展したのであり、ユーラシア大陸でのみ強大な文明が発達したのはこのためだとかんがえられます。この仮説を、「ネットワーク共鳴」説 とよんでおきます。南北アメリカ大陸とアフリカ大陸では強大な文明(大文明圏)が発達しなかったのはネットワーク共鳴がおこらなかったからでしょう。

シルクロードそして文明をかんがえるときにこのような共鳴の効果にもっと注目すべきです。たとえば日本人は、外国の文化をとりいれることが得意ですが共鳴があってこそ文化は定着し発展します。個人でも、外界(環境)から内面に情報をインプットして、それと共鳴すると情報処理がすすみアウトプットへ発展します。共鳴が必要です。

現代においては、ネットワークがグローバル化し、全球的な共鳴がはじまりました。全球社会のために、ユーラシアのネットワーク共鳴が参考になります。

今回の企画展の主題は「シルクロードの旅」でした。旅をとおして交易・交流の歴史をみることができ、文化伝播のルートをたどることにより地図上で歴史がわかりました。本来は歴史的・時間的な事象を地理的・空間的にとらえなおすことができ、ユーラシア大陸の複雑な歴史を一望・大観することができました。旅は、地理的な移動であると同時に歴史をつくっていきます。空間的でもあり時間的でもあり、空間と時間をむすびつける重要な機能をもちます。時空場をつくりだし、発想や創造の方法としてもつかえます。

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▼ 注
「シルクロードの旅」展
会場:東洋文庫ミュージアム
会期:2022年1月26日〜5月15日

▼ 参考文献
東洋文庫編『シルクロードの旅展』(図録)東洋文庫、2022年
森安孝夫著『シルクロード世界史』講談社、2020年
ジャレド=ダイアモンド著(倉骨彰訳)『銃・病原菌・鉄 上巻』(Kindle版)草思社、2013年(単行本、2000年)
ジャレド=ダイアモンド著(倉骨彰訳)『銃・病原菌・鉄 下巻』(Kindle版)草思社、2013年(単行本、2000年)
木村靖二・岸本美緒・小松久男編『もういちど読む山川世界史 PLUS アジア編』山川出版社、2022年

▼ 関連書籍
森安孝夫著『興亡の世界史 シルクロードと唐帝国』(Kindle版)講談社、2016年


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