がんは遺伝子変異と細胞増殖の病気です。連続体・連環体であることが生命の本質です。多細胞生物の宿命をうけいれます。
立花隆・NHKスペシャル取材班著『がん 生と死の謎に挑む』(文藝春秋)が がんについてわかりやすく解説しています。
がんとは、細胞の病気です。正常細胞が狂いだして、無限の増殖能を持つがん細胞になってしまう病気です。正常細胞は「生まれては死に」を繰り返す有限の寿命を持つ細胞ですが、がん細胞は死にません。不死の細胞です。死なないでただ、増えつづけるのです。細胞が必要以上に増えると、そこに集積してこぶのような細胞のかたまりになります。腫瘍です。
細胞増殖がある限界内でとどまり、ある境界線以上にふえなければそれは「良性腫瘍」ですが、境界線をこえて腫瘍がとめどなくふえていくと「悪性腫瘍」すなわち「がん」とそれはよばれます。がんとは、異常増殖がおきたらブレーキが自然にかかるはずなのに、それがかからなくなる病気であり、正常な遺伝子のはたらきがDNAにプログラムされていてプログラムどおりはたらくはずなのに、プログラムそのものがくるいだしてしまうDNAの病気だといえます。
すべての人の体は60兆個もの細胞からできていて、一つ一つの細胞がその人特有の細胞の設計図であるDNAをもっており、DNAはその人の遺伝子の集合体であり、その人の一つ一つの細胞の運命をつかさどる設計図群です。60兆個の細胞は、おなじ設計図をもちながら、設計図のちがう部分をそれぞれがよむことでちがう細胞になり、ちがうはたきをするようになります。
細胞の一つ一つは、数日から数週間あるいは数カ月の寿命しかないので、後継者に情報(DNAの配列)だけをうけわたして個々の細胞としては死んでいきます。すべての細胞は、新陳代謝しながら情報(DNA)のコピーをつづけることで、個体としての同一性を保持しつづけていくのであり、物質レベルでは同一性が保持されていないのに、情報レベルの同一性が保持されているが故に、おなじ人間がいきつづけているのだと本人も周囲の人も共同幻想をもちつづけます。物質としての同一性は短時間しか保持できませんが、情報(DNAあるいは記憶)の同一性が維持できるので個体としての同一性が一生たもちつづけるとおもえるわけです。
しかしコピーにコピーをつづけていくとコピーミスがかならずうまれ、まちがいがおこります。DNAのコピーミスによる変異の蓄積ががんの最大の要因にちがいありません。
人間の遺伝システムの中には、DNAのコピーミスが起きたときにそれを修正する仕組みがちゃんと組み込まれているのですが、その能力限界をこえるミスが発生すると、そのミスが蓄積していきます。その蓄積が一定量をこえると、遺伝暗号そのものが書き換わってしまいます。
変異量が一定限度をこえると、遺伝子のメッセージが変化してしまい、遺伝子は基本的にタンパク質をつくるメッセージですから異質のタンパク質をつくってしまい、細胞機能に変化(がん化)がおこります。そのような変異をもたらす要因のすべてががんをもたらす要因ということになり、放射能・宇宙線など物理的要因もあれば、化学的なあるいは生化学的なさまざまの突然変異誘発物質などもそうであり、そういう変異誘発物質は通常の生活環境にあふれていますから、特段わるい生活習慣を持たない人でも普通に生活しているだけで、DNAのコピーミスによる遺伝子変異の蓄積がおこらざるをえませんし、それによるがんの発生もさけられないというのが分子遺伝学者の一致した見解です。したがって人間ががんにかかるということは特別のことではなく、あたりまえにおきるべきことがおきているといえるわけです。
そもそも遺伝子は本質的に変異をおこす能力をもっており、その能力によってすべての生命体は進化してきたのであり、変異をおこす能力というのは生命体の本質みたいなところがあり、がんと変異と進化はきってもきれない関係にあります。
立花さんは、世界最初のがん遺伝子の発見者、ワインバーグ博士に問いました。
「これほど長期にわたって、膨大ながん解明の努力が積み重ねられてきたのに、がん克服の道筋がさっぱり見えてこないのはなぜですか」
それに対して、ワインバーグ博士は、巨大なパスウェーマップを取り出して、それを示しながら、がんが生まれる細胞の世界は想像以上に複雑で、無数の生命分子が相互にからみあいながら信号を取り交わしあっているのだといい、それはもう、ほとんどもう一つの宇宙といってよいような複雑性を持った世界で、それ故にその全貌はまだまだ明らかになっていない(だからがんの世界がまだよくわかっていない)といったことを説明してくれたのです。
がんは超複雑系の病気であり、それを全体としてとらえることはまだできていません。そもそも生物のシステムはすべてが遺伝子によってうごかされており、がんの世界にも、さまざまな信号伝達系やがんの活動にさまざまに関与する機能分子系があり、それらのすべてが遺伝子でコントロールされていて、がんの世界も遺伝子で全体がコントロールされた世界だということがわかってきました。
ワインバーグ博士のこの壮大な見取り図に圧倒されました。そして、そうか、がんはすべての多細胞生物の宿命なのか。それなら自分ががんになるのも仕方がないことではないかと、妙に納得してしまいました。
細胞はすべてがん化する可能性をもっており、健康な人でも、5千個の細胞があらたに毎日がん化しているといわれます。しかしがん化した細胞は、体内の免疫細胞で片端から退治されていくのでそう簡単にはがんは発症しません。また「がん抑制遺伝子」が細胞の無軌道な増殖にまったをかけます。
しかしがん細胞の増殖のブレーキがきかなくなったときに細胞のがん化(無軌道な増殖能の獲得)の最初の一歩がふみだされます。その第一歩は、ナイフできるなどしてできる傷口の修復過程とそっくりです。傷口の修復手順は、「創傷治癒プログラム」としてDNAの中にうめこまれており、そのプログラムにしたがって、一連の「サイトカイン(信号物質)」をつぎつぎにだしていくのが「マクロファージ」とよばれる細胞です。
マクロファージが発出する一連のサイトカインによってはじまる創傷治癒プログラムが、がん化の引き金を引いているということなのです。そしてそれは同時に転移能力獲得の第一歩になっているということなのです。
人間の体は表面も内側も、しょっちゅう何かで傷つき、傷ついたら修復がはじまりますが、まったく正常なこの過程の一部としてがん化の第一歩がはじまります。たとえば胃腸の粘膜がくりかえし傷つけられ、その修復が何度もくりかえされるうちに、治癒しきれない創傷跡がのこるようにがんが発生します。このような傷口の治癒過程では細胞移動によって傷口がふさがれていきますが、おなじことががん化でもおきるのであり、つまり転移もおこります。
細胞移動は、あらゆる多細胞生物がもっている能力であり、受精卵から出発して身体各部ができあがっていく過程で、先にできあがった身体各部がしかるべき場所に移動していくことがおこるのであり、これは、ある部分から別の部分へ正常な細胞が移動できるようにする遺伝子があるからであり、この遺伝子を利用してがん細胞も移動(転移)する力をえます。
約6億年前からこの遺伝子は存在するとかんがえられ、したがってがんという病気のなかに何億年もの生命の歴史がこめられていて、生命進化ががんに反映しており、生命進化とがんは本質的にむすびついています。がんはすべての多細胞生物の宿命です。
もうひとつ、がん細胞のつよさの秘密に、「がん幹細胞」なるものが存在することがあります。
生命の根源である正常な幹細胞には、そう簡単に死なないように、自分の生命を守る仕組みが沢山ある。がん幹細胞はそのような仕組みを正常な幹細胞からみんな受け継いでいる。
生物の細胞は細胞分裂をくりかえすうちに、子供、孫、ひ孫、玄孫という感じで、たくさんの子孫をつくる親元みたいな細胞もあれば、大家族の末端の末裔で自分の子どもはのこさないタイプもあり、親元が「幹細胞」であり、末裔は分化しきった細胞です。抗がん剤では子孫はころせますが、がん幹細胞はころすことができず、これが1個でもいきているかぎり、がん細胞はかならずよみがえってきます。よみがえってくるがん細胞は、薬剤耐性や放射線耐性を身につけ、よりパワフルになっています。
このようにがんは、もっとも基本的な生命のメカニズムを利用しており、生物進化のながい歴史ががんをうんだのであり、われわれ人間が、60兆もの細胞をもつ多細胞生物の進化の極致にいる生物だからこそがんにかかるのだというわけです。
今日、日本は世界一の長寿国になったと同時に、世界有数のがん大国になりました。国民の2人に1人ががんにかかり、3人に1人ががんで死ぬ時代です。
2007年12月、立花隆さんは膀胱がんにかかり、手術をうけました。
僕の場合、少しでも長生きしたいというより、少しでも長く知的生産活動(本を書くという行為)をしたい。(中略)
僕は何事によらずひととおりがんばるけどあきらめるときはきっぱりあきらめるタイプの人間なのです。(中略)
僕はそんなに苦痛に耐える自信がないので、痛みがきたらすぐ「モルヒネを使ってください」と頼もうと思っています。
立花さんは、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)の維持をのぞんでおり、意識をクリアな状態にたもったままの生を維持し、混濁状態の意識や苦痛とその克服にとらわれる状態の意識での生はのぞみませんでした。いまは、医学が発達したおかげでなかなか人は死なない社会になっており、「リビング・ウィル」(生前の遺書)をのこしておかないと不本意な生の維持が自動的におこなわれてしまいます。日本癌治療学会での依頼講演でも立花さんは、「自覚症状なし・危機感なし・がんばるつもりなし」というタイトルの講演をし、おおくの人々が呆気にとられました。「がんばるつもりなし」といわれても、みんながんばっているのに。そして「モルヒネを使ってください」とは、さらにおどろきます。しかしモルヒネに対する誤解が日本にはあります。
がんは、生命そのものがはらんでいる宿命です。おおくの人々が、がんという病気と人生ののこりの時間のすごしかたについて折り合いをつけねばなりません。
徳永先生のところで学んだことは人間は皆死ぬ力を持っているということです。
死ぬ力というといい過ぎかもしれません。
死ぬまで生きる力といった方が良いかもしれません。
単純な事実ですが、人間みな死ぬまで生きるんです。
ジタバタしてもしなくても、死ぬまでみんなちゃんと生きられます。
その単純な事実を発見して、死ぬまでちゃんと生きることこそ、がんを克服するということではないでしょうか。
人間をふくむ生物はみな生まれればいずれ死にます。はじめがあればおわりがかならずあります。そもそも死ぬようにできているのであり、死ぬ力をもっています。しかし死ぬまでは誰でも生きられるのであり、そのときまでちゃんと生きよと立花さんは提言しています。そのためには、死ぬまで何をするか、主題をはっきりさせる必要があるでしょう。
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立花隆さんとNHKスペシャル取材班は膨大な取材をふまえ、がんは遺伝子変異と細胞増殖の病気であるという仮説を基本とし、その現象の根本にがん幹細胞があるとするがん幹細胞説にもとづいて本書を構成しました。
このような仮説をたてると、細胞分裂がさかんなところ(新陳代謝がはげしいところ)は遺伝子変異がおき細胞分裂システムがくるいやすく、がん細胞ができやすいことが理解できます。たとえば胃腸などの消化器の粘膜部分は数日のうちに全部いれかわるほど細胞分裂がさかんであるため胃がんや大腸がんが発生しやすいわけです。
胃腸の粘膜がくりかえし傷つけられると、その修復が何度もくりかえされているうちにがんが発生してしまうことがあり、そういう傷をつけないほうがいいので、刺激がつよい食物や発がん性物質をふくむ食物はあまりたべないようにといわれます。また胃痛をもたらすようなストレスも解消しなければなりません。
「胃腸を整えれば万病に効く」といわれるように胃腸の調子をととのえることが大事であるため、立花さんは、「ビオラクチス」という乳酸菌の生菌製剤を東大病院から処方されて毎日のんでいたそうです。乳酸菌の効用は細菌叢をととのえるということで、東大によると、膀胱がんの患者にもデータ的にいい結果がでており伝統的に処方しているそうです。
またがん細胞が発生しても免疫細胞が普通は退治するため、免疫力がつよい人ほどがんにかからず、免疫力がよわった人ほどがんにかかりやすく、したがって免疫力がよわってくる高齢者ほどがんにかかりやすくなります。免疫力をたかめるために日々の生活習慣をみなおす必要があり、また人間の成長過程でも、清潔をもとめすぎたり消毒をしすぎたりすると免疫力がたかまりません。
しかしどのような予防をしてもがんはさけられないことがおおく、がんは多細胞生物の宿命です。生物進化のしくみをがんは利用しており、わたしたち人間をふくむ多細胞生物はがんと共存していきていかねばなりません。
iPS細胞をつくりだした山中伸弥さんも「がんは生命の根源ときわめてちかい」といいます。
iPS細胞を作る過程でも、やはりがんが起こる過程とプロセスと本当に重複している、よく似ている、(中略)。
結局再生能力というのは、がんになるのと紙一重だと思うんです。だから高い再生能力を持っているということは、その生物が足が切れたらたしかに足が生えてくるかもしれないが、同時にがんがすごくできやすいということなんじゃないかと。
生命の進化において多細胞生物がうまれて、それが自己の再生をくりかえすというながい歴史の延長上にわたしたち人間もおり、その仕掛けそれ自体ががんをうんでいるといえます。このような生命の歴史があるからこそわたしたちはがんからのがれられず、そういう宿命をおっています。
ここに、あらゆる生命をつらぬく本質をみることができます。すべての生命がひとつの遺伝子ファミリーをなしているのであり、すべての個体に生と死があり、がんのゲノムも、地球上の全生命体遺伝子ファミリーの一部をなすものです。何十億年ものあいだ生命はつらなり、つながりあって今日まできました。「連続体」であり「連環体」であるという生命の本質が、がんを追究することによってあきらかになりました。
2022年4月30日、NHKスペシャル「見えた 何が 永遠が 〜立花隆 最後の旅〜」が放送されました。立花さんの膨大な蔵書のすべてが譲渡され空っぽになった「猫ビル」(オフィス)の内部がうつしだされました。
「立花隆が持っていた本が欲しい人でなく、本の内容そのものに興味がある人の手に渡るようにしてほしい。自身の名を冠した文庫や記念館などの設立は絶対にしてほしくない。遺体はごみとして捨ててほしい」
と立花さんは遺言していました。すべてをやりきった、みごとな死に様がその映像に象徴されていました。物事に執着せず宿命をさとり、生命体の一員として死ぬまでちゃんと生きたことを身をもってしめしていました。
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