2021
11.09
国立民族学博物館

インプットを自覚する -「ユニバーサル・ミュージアム ― さわる!“触”の大博覧会」(国立民族学博物館)-

情報処理

【ネタバレ注意】さわって情報を内面にインプットします。視覚以外の感覚をひらきます。場を認識します。

ネタバレ注意:以下の文章にはネタバレがふくまれます。これから会場にいく人は会場でまず体験していただき、その後よんでください。

「ユニバーサル・ミュージアム ― さわる!“触”の大博覧会」が国立民族学博物館で開催されています(注1, 2)。さわって体感できるアート作品が大集合!さまざまな素材と手法をもちいて「触」の可能性をさぐります。非接触社会ではゆたかな文化がそだちません。会場に足をはこび、手をうごかしてみましょう。

「国宝・興福寺仏頭レプリカ」
さっそくさわりはじめます。仏頭にさわるのははじめてです。「作品に手を触れないでください」という世間の常識がくつがえされます。表面はつるつるしていてつめたい感じがします。おもくるしい雰囲気があります。目をとじてさわってみて、どんな顔をしているのかイメージします。かなりのイメージ訓練(心象法の練習)になります。

体世界地図」
大陸や群島の形やデコボコがわかります。さわると3次元でとらえられます。目をとじてさわってみます。日本列島から中国南部、東南アジア、しかし群島部にくるととたんにわからなくなります。何がどこにあるのか? あらためて視覚の威力に気がつきます。しかし人間は、目でみただけでわかった気になっています。

「てざわりの旅」(耳なし芳一の木彫彫刻)
さっきの金属の仏頭とはちがい、やっぱり木はいいです。ぬくもりが感じられます。耳はありません。肩から腕へ、そして手に、「何だこれ?」、手は、ゴムでできている? 木ではありません。びっくりします。ぞっとします。人間は、それまでの延長で次をとらえようとします。過去とはちがうものがでてくると おどろき、否定しようとします。

れるひと」(彫刻)
生々しい体験です。こんなに人々をさわりまくったことはありません。つめたい材質が感じられます。違和感がかなりあります。人間は、なんでこんな変な形をしているのだろう。形は人間でも人間ではありません。あまり気持ちのよいものではありません。触覚がにぶいため表情まではわかりません。

「Ninguen」「Love Stone Project 2014-15」(つながる石彫)
つめたい感じしますが、さっきの金属の仏頭のつめたさとはちがいます。おもみのあるつめたさです。しばらくさわっているとなじんできます。やっぱり石は自然物です。石の背後の世界を感じます。一方で、金属がいかに人工的なものであったかを再認識します。

「おいらの名前は野良猫とら」ほか(動物彫刻)
動物がすきな人はいろいろな動物をすでにさわっています。ネコ・イヌ・カエル・・・。動物園でも、動物にさわるイベントがふえました。過去の体験がよみがえります。都会人・文明人を動物たちがいやします。

空ピラミッド
途方もない労力・時間が感じられます。何のために?それはかんがえないほうがよいです。つみあげることそれ自体に意味があります。さわるときは怪我をしないように注意してください。

「信楽 壺」ほか(信楽をさわる)
信楽焼をさわることができます。金属とも木と石ともちがいます。つめたくもあり、ぬくもりもあり。自然と人間の合作です。焼き物は本来はつかうものであり、さわるものです。ほかの陶芸品展でもさわれる展示をやってほしい。

「かたちの合成from両手」
左右2つの空間にわかれた紙袋のなかに形のことなる立体が1つずつはいっていて、それぞれの立体を右手と左手で同時にさわり、ひとつのイメージを合成します。触覚によってえられた情報をみずから処理しイメージします。触覚はインプット、イメージングはプロセシングといってもよいでしょう。〈インプット→プロセシング〉のかなりの訓練になります。

「境界 division – m – 2021」
約2000枚の布片を空間に展開するインスタレーション(芸術的空間)です。作品のなかにはいりこむと密集した布片によって視覚がさえぎられ、前方がみえません。かきわけながらあるいていくと肌にふれる布の存在がリアルです。布擦れの音がきこえ、自分のうごきと位置を触覚と聴覚で認知します。空間に気をくばり、全体に心をみたします。配心の実践により場の一部になります。奥深い体感の世界、視覚がうしなわれるからこそ全身の感覚がとぎすまされます。視覚のない体験は瞑想にも通じます。

「Kinesis No.743 (dragon vein)」
大津波がおしよせてきます。すごいパワーが全体にみなぎります。一方、一筋のふとい水の流れがあります。脈によって津波がおおきくなり、津波が脈をつよくします。波の粒は一瞬にして生じ、一瞬にして消え、生と死をくりかえしながら波の変化は永遠につづきます。絵をさわってみるとよくわかります。しかしさわっただけで巨大なこの作品をとらえることはできませんでした。あらためて目の力を感じました。全体を容易にとらえる力が目にはあり、視覚で大観し、触覚で分析するという過程がこの作品でははたらきました。

「思考する手から感じる手へ、そして・・・」
ブラックボックスがならんでいます。順番に手をいれて中にあるものをさわります。点字がほどこされた「手」の焼き物があり、手の形は「指文字」をしめします。視覚はつかわず触覚だけで字をよみとっていきます。字とは物事をあらわすための記号であり、字でできた言葉は物事そのものではなく、物事の「表面」につけた「ラベル」にすぎません。ラベルは物事の本体ではなく表面構造でしかありません。言葉だけをしって物事がわかったとおもうのはあやまりです。ひらがな・カタカナ・漢字でできた言葉でもおなじです。物事の本体(本質)にアプローチしなければならず、感覚のさきに本当の認識があります。ブラックボックスに順番に手をいれていくと感覚をこえた認識があることに気づかされます。

「とろける身体 一 古墳をひっくり返す」
靴をぬいで、古墳の上であおむけになります。いままでは手でさわって感じましたが、ここでは全身で感じます。全身がセンサーです。ほかに誰もいなかったのでしばらくうとうとしていたら感覚がなくなってきて古墳のなかにはいりこんだようになり、そして古墳になってしまいます。日常をこえた体験です。できれば、あまり人がいないときにでかけて時間をかけて体験してください。

「弥陀如来坐像(大阪・四天王寺)レプリカ」ほか(触れる仏像)
仏像はさわってもよいのでしょうか? 寺々をめぐっていると秘仏という表示をときどきみかけます。秘仏は、さわってはいけないどころか みることもめったにできません。東京の浅草寺などは本尊は絶対秘仏であり、僧侶といえどもみることはゆるされません。感覚ではとらえられない とおい存在であるからこそ神秘性がうまれるのであり、宗教の仕掛けがそこにあります。でも撫仏がいるではないか。自分の体のわるい所とおなじところをなでて人知をこえた平癒を信じます。撫仏もやはり、神秘性をもっています。しかし今回はちがいます。どこでも自由にさわってよく、仏像に対する したしみがうまれます。近年は、仏像が寺からよくおでましになり、博物館などでしばしば展示され、さわれるかどうかにかかわらず仏像が身ぢかな存在になりつつあります。仏像の分析がすすみ、学術的研究がすすみます。しかし情報がふえれば神秘性はうしなわれます。宗教は変容せざるをえません。宗教をはなれたイメージ訓練や瞑想法が発展します。絶対的なものが心の外部にあるといった認識からも解放されます。心のなかの仕組みをしることが大事です。

「土の音」
粘土をこねて野焼きをしてつくった「打楽器」を棒でたたいて音をだします。打楽器にさわると振動を感じます。音とは振動でした。さまざまな振動がたのしめます。じわっとくる振動、こまかい振動、しめった振動・・・。音楽ライブにいったことがある人はすでにしっています。壮大な交響曲のなかで大太鼓がなると全身にひびきます。きわめて高周波の音は皮膚で感じます。音楽は元来は全身でたのしむものです。イヤホンできくのはあまりおすすめできません。物をたたくと物が振動し、その振動が空気につたわって空気振動になり、両耳がそれをとらえて電気信号に変換し、その信号を神経が脳におくり、それを脳が処理すると音が生じます。音は実は脳がつくりだしたものでした。音そのものは外界には存在しません。この現象は、色は脳がつくりだしており、光(電磁波)そのものには色はついていないことと似ています。わたしたちは音を「きく」とおもっていましたが、音とは振動を感じるものでした。振動現象に気づかせてくれる重要な展示です。

「確動カム」ほか(おもちゃと遊ぶ手)
円運動(回転運動)を直線運動(上下運動)にかえるおもちゃ(機械)であり、さわって実際にうごかしてみると仕組み・機能がよくわかります。みただけではわかりません。こんなものつくって何の役にたつのかとおもったら、エンジニアになったつもりで、蒸気機関車や電車・自動車・自転車をおもいだしてください。感覚だけでなく心をはたらかせます。インプットだけでなくプロセシングをすすめます。円環的な運動と直線的な運動といういっけん矛盾する運動をむすびつけたところに発明があります。異質の統合が創造には必要です。原理がしめされたすぐれたモデルです。

「ヒマワリ(ゴッホ)」ほか
美術館でみたことがあります。色彩とともに独特のタッチがわかります。しかし美術館で絵にふれるなど、絶対にゆるされません。ところがここでは、「さわるアート」が展開します。美術館の常識がくつがえされます。はげしい凹凸に感情があらわれます。ゴッホはかなり心をやんでいたのではないか。狂気は、色覚だけでなく触覚にもあらわれます。このほかにも、視覚アートを触覚アートに翻案した作品がならびます。そもそもアートにおいて翻案はよくおこなわれます。言葉でかかれた物語を音楽にしたり絵画にしたり演劇にしたりダンスにしたり、逆に、音楽や絵画を言葉であらわしたり、言語や聴覚から視覚へ、またその逆など、すでにおこなわれています。そうだとしたら触覚への翻案もあっていいはずです。視覚と聴覚は絶対的なものではありません。視覚も聴覚も相対化できます。表現方法はいろいろあってかまいません。いろいろあったほうが相乗効果がうまれます。

本展は、とにかくさわってみることからはじまります。さわってみるとより立体的に対象がとらえられ、手ざわりから材質が推測できます。やっぱり木や石はいい。しばらくさわっているとなじんできます。したしみがわいてきます。しかし形と材質のちがいから違和感をおぼえることもあります。またさわっていると記憶がよみがえります。あらたな感覚とすでにある記憶があわさって認識がすすむこともわかります。

視覚をさえぎる装置ではさわるだけで対象をイメージしなければなりません。すぐれたイメージ訓練になります。物事は、心のなかで合成されてできあがります。また空間における位置を認知し、空間に心をくばるとその場の一部になれます。センサーとして全身がつかえるのもおもしろく、その場と一体になれ、その場にとけこみ、その場になれます。

このような触覚体験をしていると視覚の再認識もでき、視覚で大観し、触覚で分析するという方法が有効であることに気づきます。

触覚がもたらす親しみ効果は人間の精神文化にもおおきく影響します。人間関係をみればあきらかです。仏像も身ぢかになります。情報量がふえるので神秘性はうしなわれますが距離はちぢまります。触覚そして多感覚は文化を改善します。

また本展を体験していると、感覚という現象がどういうものなのかわかってきます。たとえば音は、色と同様に脳で生じています。人間は、情報処理をしており、みずからの感覚でとらえられた現象だけを認識し、感覚にひっかからなければその存在すらわかりません。さまざまな現象が宇宙にあるのではなく、触覚・視覚・聴覚・嗅覚・味覚など、さまざまな感覚があっただけでした。人間は、独自の感覚で独自の世界をつくりだしています。

感覚でえられる情報は表面的なことでしかなく、感覚だけで言葉だけでわかった気になってはなりません。物事の本質へアプローチすることがとても大切です。機能や仕組み、物事の本質はみただけではわかりません。みるだけでなく手も体もいります。さわって、うごかして、行動して、そして心をはたらかせます。それにしても内面への情報の入り口である感覚器官が必要です。

多感覚が活用されればアートの世界もかわります。これまでは、視覚に依存する美術と聴覚に依存する音楽が重視されてきましたが、これからは工芸が発展するでしょう。ただし展示をしているだけではだめです。本展のように、多感覚をつかって相乗効果をうみだすのがよいです。

本展は、イメージし、空間をとらえ、場になり、認識の仕組みやあたらしい表現方法までもおしえてくれる前代未聞の挑戦的な博覧会でした。

さわることあるいは感覚とは内面への情報のインプットであり、イメージしたり空間をとらえたり認識したり場になったりすることはプロセシングであり、表現することはアウトプットといってもよいでしょう。順路にしたがって会場をあるいていくと、〈インプット→プロセシング→アウトプット〉という人間主体の情報処理が実践できます。

みただけで認識することは、かぎられた情報だけをつかって情報処理をすすめることであり、言葉のインプットにとくにかたよりすぎた現代文明人にはおおきな問題があります。多感覚があってこそ認識はふかまるのであり、全身の感覚をとぎすますことが大事です。

視覚の束縛から解放され、心の場をととのえ、心の場をつくるという点では、「境界 division – m – 2021」と「とろける身体 一 古墳をひっくり返す」がとても印象にのこりました。歴史的には、瞑想という方法もあります。

情報のインプットは情報処理の第1段階であり、初歩的なあさい理解ができたときに「感覚としては理解できた」という人がいるのはそのためですが、情報処理は第1段階でおわってはならず、第2段階のプロセシングにすすまなければならず、こうなると、どの感覚をつかったか(どのルートでインプットしたか)は問題ではなくなり、感覚の先にある心の領域をはたらかせることが重要です。「五感を取り戻そう!」といった掛け声倒れにおわらないためにも情報処理をすすめます。

情報のインプットがうまくできれば、プロセシング、そしてアウトプットへおのずとすすめます。インプットが自覚できれば情報処理が制御でき、情報処理が発展します。情報処理の広大な世界へはいっていくためにユニバーサルミュージアムがとても役だちます。

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企画展「知的生産のフロンティア」(国立民族学博物館)をみる
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▼ 注1
ユニバーサル・ミュージアム ― さわる!“触”の大博覧会
会場:国立民族学博物館・特別展示館
会期:2021年09月02日〜2021年11月30日

▼ 注2:本博覧会の実行委員長・広瀬浩二郎さんの著作

▼ 関連書籍

▼ 参考文献
国立民族学博物館・広瀬浩二郎編『ユニバーサル・ミュージアム ー さわる! “触” の大博覧会』(図録)合同会社小さ子社発行、2021年9月2日