特別展「法然と極楽浄土」(東京国立博物館)をみる

日本

鎌倉仏教のトップバッターでした。「南無阿弥陀仏」ととなえればすくわれます。高弟・親鸞は独立しました。

特別展「法然と極楽浄土」が東京国立博物館で開催されています。令和6年(2024)、法然を開祖とする浄土宗が開宗850年をむかえました。これを機に、全国の浄土宗諸寺院が所蔵する数々の名宝によって浄土宗の歴史をたどります(注)。

会場図

時代は平安時代末期、あいつぐ戦乱、頻発する天災や疫病、のがれられない貧困など、苦悩にみちた「末法(まっぽう)」の世になっていました。

法然(法然房源空、ほうねんぼうげんくう、1133~1212)は、天台僧としての修行を比叡山でつんでいましたが、中国・唐代の阿弥陀仏信仰者である善導(ぜんどう、613~681)の著作に接し、43歳(承安5年(1175))のときに、阿弥陀仏の名号をとなえることによって誰もがひとしく阿弥陀仏にすくわれ極楽浄土に往生できるととき、浄土宗をひらきました。「南無阿弥陀仏」ととなえればすくわれるというこの教えは、貴族から庶民にいたるまでおおくの人々に支持され幅ひろい信者をえました。しかし既存の仏教界からみればこれは邪教であり、はげしい批判にさらされ、75歳のときに讃岐国(香川県)へ配流されました。そのご赦免され帰京し、80歳で往生をとげました。

法然は、阿弥陀如来の名号をひたすらとなえる称名念仏をなによりもおもんじ、貴賎による格差がうまれる造寺造仏などの善事には否定的であり、阿弥陀の造像には積極的ではありませんでした。しかしそれを必要とする門弟や帰依者らにはみとめ、彼らは、阿弥陀の彫像や来迎する様をえがいた絵画を拝し、日ごろ念仏をとなえ、あるいは臨終をむかえる際の心のよりどころとしました。人々の願いがこめられた阿弥陀の造形の数々は末法の世に庶民にまでひろがった浄土宗の信仰の高まりを今につたえています。

法然没後は、称名念仏の教えをひろめようと浄土宗の門弟らが精力的に活動し、九州(鎮西)を拠点に教えをひろめた聖光(しょうこう)の一派である鎮西派は、その弟子・良忠(りょうちゅう)が鎌倉を拠点として宗勢をおおいに拡大しました。また証空(しょうくう)を祖とする一派である西山派は、京都を拠点に活動し、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』を図示した當麻曼陀羅(たいままんだら)をみいだし、その流布などをとおして業績をのこしました。

その後、聖冏(しょうげい)が、関東浄土宗の礎を常陸国できずき、聖聡(しょうそう)が増上寺を江戸にひらくと、体系化された浄土宗の教義を彼の弟子たちが全国へ普及していきました。その流れは、三河の松平氏による浄土宗への帰依へとつながり、末裔(まつえい)の徳川家康が増上寺を江戸の菩提所、知恩院を京都の菩提所とさだめたことにより、教団の地位は確固たるものになりました。浄土宗は、将軍家や諸大名の外護(げご)をえて飛躍的に興隆しました。

浄土宗の系譜(出所:図録 303ページ)
浄土宗の系譜
(出所:図録 303ページ)

法然の有力な門弟としては、聖光、証空、親鸞がおり、聖光は、鎮西派の流れをつくり、証空は西山派の流れをつり、親鸞は浄土真宗の流れをつくりました。聖光の鎮西派は浄土宗の主流となり、浄土宗総本山知恩院につながります。証空の西山派は、西山浄土宗・浄土宗西山深草派・浄土宗西山禅林寺派の3派にわかれ、西山浄土宗の総本山は光明寺、浄土宗西山深草派の総本山は誓願寺、浄土宗西山禅林寺派の総本山は永観堂禅林寺となります。親鸞は、もっとも有力な門弟でしたが浄土宗から独立し、のちに、浄土真宗がひらかれます。また証空の孫弟子に、踊念仏でしられる時宗の開祖・一遍がいます。

総本山知恩院(京都市東山区)は、華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざんちおんきょういんおおたにでら)というのが正式呼称であり、鎮西派の流れをくみます。ここは、浄土宗を法然が開創し、また建暦2年(1212)に入寂した地でもあり、高台には法然の御廟があり、本殿は、御影堂と称して法然上人像をお祀りしています。境内は7万3千坪をほこり、近世初期の建物である三門・経蔵・大方丈・小方丈など国宝・重要文化財もたくさんあり、信徒の宿泊・修練道場など付帯施設も充実しています。

総本山光明寺(西山浄土宗、京都府長岡京市)は、法然が他力の念仏の教えをはじめてといた縁の地であり、法力房蓮(ほうりきぼうれん)が建久9年(1198)に念仏三昧院をたてたことにはじまり、安貞2年(1228)、比叡山衆徒による迫害をおそれ、法然のご遺骸を当所にうつして荼毘に付したのち、ご芳骨をおさめ御本廟としました。以来、法然の御遺廟の聖地として信仰をあつめています。

総本山誓願寺(浄土宗西山深草派、京都市中京区)は、飛鳥時代(667)、天智天皇の勅願により奈良に創建され、平安時代後期、興福寺の蔵俊僧都(ぞうしゅんそうず)より法然が当寺をゆずられてから浄土宗になり、鎌倉時代初期に京都に移転し、天正19年(1592)に豊臣秀吉により三条寺町の地にうつされました。清少納言、和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿が帰依し、女人往生の寺としてしられます。

総本山永観堂禅林寺(浄土宗西山禅林寺派、京都市左京区)は、仁寿3年(853)に、空海の高弟であった真紹僧都(しんじょうそうず)により、真言密教の道場として創建され、延久4年(1072)に第7世永観(ようかん)が座ったことで、念仏道場としての一面がくわわり、中世に、浄土宗寺院へ転向していきました。「永観堂(えいかんどう)」と通称され、また紅葉の名所としてもしられ、「紅葉の永観堂」としてもひろく したしまれています。

このように、4つの総本山を浄土宗はもちますがこれらの下に7つの大本山が位置し、大本山増上寺(東京都港区)はそれらのなかでとくに有名です。江戸時代のはじめ、源誉存応(げんよぞんのう)が徳川家康の帰依をうけ、大伽藍が造営され、以後、徳川家の菩提寺として、また関東十八檀林の筆頭として興隆、さらに総録所として浄土宗の統制機関にもなりました。戦災によって、徳川家の将軍とその一族の御廟は焼失しましたが、三門・経蔵・旧方丈門などは焼失をまぬがれ、昭和49年(1974)、大本堂の完成とともに境内が整備されました。

法然がうまれたのは平安時代末期、約500年つづいた律令体制が崩壊して鎌倉幕府が成立するという、古代がおわって中世という時代がはじまる未曾有の変革期でした。この歴史のうごきを『平家物語』は「諸行無常」と表現しました。みだれきった世において、当時の仏教界は、自衛の手段としての僧兵という武力をもつことによっていっそう堕落しました。そういう既成仏教に乱世をすくう力はなく、そこで宗教改革運動がおこったわけです。

今回の特別展をみればあきらかなように、法然の御影や絵伝、その他の名宝が非常におおいということは、法然が時の人であったことをしめしており、じっさい法然は、上は後白河法皇や九条兼実から、下は武士・百姓・遊女・強盗まであまねく崇拝されていました。法然は、宗教改革運動のトップバッターであるとともにトップスターでもありました。ヨーロッパのキリスト教の歴史ではルターに相当するといってもよいでしょう。

法然は、それまでの仏教の伝統を否定し、あたらしい浄土教をつくり、浄土宗という宗派の祖師となりました。法然の専修念仏は、阿弥陀仏以外の信仰を無用なものとし、念仏以外の修行をすくなくとも二次的なものにすぎないとしました。しかしそれは、真言・天台・南都六宗の名でおこなわれていた従来の仏教を否定し、その基盤をあやうくさせるものでした。

法然の浄土教がひろまればひろまるほど、それに反対する興福寺あるいは延暦寺などの僧による反対運動がつよまったのは当然のことです。その思想があたらしければあたらしいほど、ふるい思想から猛烈な反発がおこります。あたしい思想家が布教にふみきるにはそのような思い煩いを克服しなければなりません。あらたなリーダーはそのような修羅場にとてもつよい人間でした。

法然は、聖光(鎮西派)や証空(西山派)など、おおくの門弟もそだてました。しかしなんといっても親鸞がよくしられています。親鸞の師として法然をしったという人もおおいとおもいます。親鸞は、法然の思想をうけつぎながらも、それをこえてさらに発展させました。法然の思想を深化させました。

たとえば「人を千人殺さないことも、千人殺すことも、わが心によって起こるのではなく、業縁によって起こることであり、善悪の区別なく念仏者を極楽浄土へ往生させるのが阿弥陀の慈悲だ」と親鸞がのべたとされますが、近年の研究によれば、このような「悪人正機」説もその源は法然にありました。地獄に堕ちた人あるいはこれから地獄へ堕ちるであろう人を極楽に往生させる精神が浄土教の本質であり、人間の悪の自覚の問題が法然・親鸞の思想には存在していました。

また親鸞は、「二種廻向」説をといたとされ、念仏すれば阿弥陀仏の本願によって極楽浄土に往生しますが、極楽に往生した人間はいつまでも極楽にとまっていることはできず、悩める衆生を救済するためにこの世にまた還ってこなくてはならないとされ、極楽浄土に死後 往くようにさだめられていることを「往相廻向(おうそうえこう)」といい、この世の苦しめる衆生を救うために極楽浄土から還ってくるようにさだめられていることを「還相廻向(げんそうえこう)」といいますが、この説もその源は法然にありました。

しかし親鸞は、法然の思想をさらに徹底し、宇治の平等院鳳凰堂に代表される平安時代の美的浄土教(貴族の信仰)に別れをつげようとしました。法然にはまだのこっていた美的浄土教への名残をまったく否定し、法然を超えていきました。

親鸞は、たしかに法然の門弟でしたがほとんど当時は無名であり、主として武士や農民の間に若干の信者を常陸を中心にしてもっていたにすぎず、親鸞を祖師とする浄土真宗をあらたにたてる気はありませんでした。しかしのちに、親鸞の女系の孫に覚恵、その長男に覚如がでて、親鸞の墓を中心に本願寺教団の組織をつくり、その覚如のつくった組織をもとに、蓮如(本願寺8世、覚如6世の孫)が浄土真宗の教団を飛躍的に発展させたため、浄土真宗は、浄土宗よりもおおきな勢力をもつにいたります。こうして親鸞は、浄土宗から結果的に独立することになったわけです。したがって浄土宗のなかでは親鸞はかたられることはなく、今回の特別展でも親鸞についてはほとんどふれられていません。

しかし法然と親鸞の連係プレーによって日本の “浄土教” が成立したのは確かであり、こうして法然のまいた専修念仏の種は日本全国にひろまり、法然の流れをくむ浄土宗・浄土真宗・時宗の信徒は仏教徒の約半数を占めるまでにいたり、巨大な潮流となりました。

それのみならず法然は、鎌倉仏教の諸宗派(日蓮宗、禅宗など)の興隆にもおおきな影響をあたえました。従来の日本の仏教宗派(奈良仏教や、最澄・空海によってたてられた天台仏教・真言仏教など)は中国あるいは朝鮮からつたえられた師資相承の系譜をもつもの(輸入された仏教)でしたが、法然は、それまでの仏教を根本的に変革しました。改革の突破口をきりひらいたトップバッターでした。

こうして ひとりの改革者に幾多の改革者がつづき、したがって日本独自の仏教は法然からはじまったといってよいでしょう。法然を理解せずして日本仏教は理解できません。

法然は、末法の世、日本史のおおきな転換期がうみだしたとかんがえることもできるでしょうが、法然からの潮流があらたな時代をつくっていったとかんがえることもできるでしょう。日本の歴史・文化の独創性・創造性がここにあらわれています。今回の特別展をとおしてこのような観点から法然をとらえなおすことにとてもおおきな意義があるとおもいます。

▼ 注
特別展「法然と極楽浄土」
会場:東京国立博物館・平成館
会期:2024年4月16日~6月9日
1089ブログ「法然と極楽浄土」
公式特設サイト
※ 京都国立博物館(2024.10.8-12.1)と 九州国立博物館(2025.10.7-11.30)に巡回します。

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▼ 参考文献
東京国立博物館・京都国立博物館・九州国立博物館・NHK・NHKプロモーション(編)『特別展「法然と極楽浄土」』(図録), 2024年, NHK・ NHKプロモーション・読売新聞社
山折哲雄(著)『法然と親鸞』(CDとテキスト), 山折哲雄講演選集「日本人の心と祈り 2」, 2022年10月25日, アートデイズ
梅原猛(著)『法然の哀しみ』(梅原猛著作集 10), 2000年10月20日, 小学館
梅原猛(著)『法然 十五歳の闇』(上)(角川ソフィア文庫), 2013年9月15日, 角川学芸出版
梅原猛(著)『法然 十五歳の闇』(下)(角川ソフィア文庫), 2013年9月15日, 角川学芸出版
梅原猛(著)『梅原猛の仏教の授業 法然・親鸞・一遍』(PHP文庫), 2014年9月17日, PHP研究所
大角修(訳・解説)『全文現代語訳 浄土三部経』(角川ソフィア文庫), 2018年, KADOKAWA

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