ネパールからナマステ(ネパールだより)
5.ネパールガイド

カリガンダキ川(カクベニ付近)

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<目次>

ヒマラヤの全体像をみる
カトマンドゥ盆地はヒマラヤのヘソである
情報源としてのODA
マレク地域で学生野外実習をおこなう
大陸移動と造山運動
カリガンダキ川上流をいく
山岳エコロジースクール無事終了する
チトワン国立公園
パウダル村・チーズプロジェクト その後


2002年7月17日発行

 

2002年1月23日送信

ヒマラヤの全体像をみる

 

 こちらネパールは、いまだ非常事態宣言が発令されたままですが、かなりおちついてきました。こちらの様子はまた連絡させていただきます。

 さて、今日から何回かにわけて、こちらでの私の協力隊活動と研究結果について報告することにします。今日はそのイントロダクションとして「ヒマラヤの全体像をみる」です。今後、現地調査や学生実習など、トリブバン大学地質学科の人々とおこなった仕事について順次紹介していきたいとおもいます。

 ヒマラヤ山脈は、地形学的・地質学的に亜ヒマラヤ・低ヒマラヤ・高ヒマラヤに3区分でき、一方、ネパールの国土は、タライ・パハール・ヒマールに3区分できます。タライは、ヒマラヤ山脈の南側にひろがる平原であり、パハールは亜ヒマラヤと低ヒマラヤに、ヒマールは高ヒマラヤに相当し、タライの低地からヒマールの高地まで、ネパールには世界でもっとも大きい高度差があります。

 一方でネパールには、東南アジアの国々同様に雨季と乾季があって、これはモンスーンによってもたらされます。このモンスーンと国土の高度差によって、亜熱帯から氷雪帯までの多様な気候帯が生じ、この中で、北インド系民族、山岳のヒンドゥー教徒、チベット-ビルマ語系山地民、チベット系高地民、ネワール族など、実に多様な民族がすみわけています。

 タライ・パハール・ヒマールという東西にのびるネパールの帯状構造の世界は、このような自然環境と民族の多様性によって成立しているもので、これがこの地域の基本構造であり、それは、地殻変動とモンスーン変動がおりなす悠久の自然史と、そこにくらす人々によってつくりだされたものです。

 (添付資料は省略)

 


 

2002年1月29日送信

カトマンドゥ盆地はヒマラヤのヘソである

 

 私は、一昨年の秋、ネパール極東部・タプレジュン地域のフィールドワークをおえて、カトマンドゥにもどってきました。以下の論考は、その時とヘリコプターによるマウンテン・フライトにいったときの体験にもとづいています。

 カトマンドゥ盆地は、ヒマラヤ山脈の中にできた広大な大地であり、起伏のはげしいヒマラヤ山脈の中にあっては非常に特異な地形をしめしており、まるでヒマラヤ山脈のヘソのようになっています。これは、高ヒマラヤ地帯の地層が南側に前進・流動してきた結果形成されたのだと地質学者は説明します。

 そして、ネワール族は、この肥沃で温和なカトマンドゥ盆地にすぐれた都市国家文明をきずきました。その昔、ネパールといえばカトマンドゥ盆地をさし、カトマンドゥ盆地はネパールそのものであったのであり、この盆地を中核にしてヒマラヤの国・ネパールが発展していきました。

 したがってカトマンドゥ盆地は、地形学的・地質学的な意味あいだけではなく、歴史的・社会的な意味においてもヒマラヤのヘソであり中核になっています。

 (添付資料は省略)

 


 

2002年2月2日送信

情報源としてのODA

 

 先日、ネパールNGO連絡会のホームページをみました。関係団体へのリンクもはられていいたので、他の団体のホームページもいくつかみてみました。シャプラニール(市民による国際協力の会)のホームページなどはたいへんよくできていました。

 現在、ホームページは情報源としてもっとも重要な役割を演じており、IHC(ヒマラヤ保全協会)としても ホームページをもっと充実させる必要があるでしょう。それは、IHCが今後発展していくためための重要なポイントになるとおもいます。

 今日、何らかの課題(テーマ)が発生した場合、まず第一に、ホームページをみてそこから情報をえるのがあたりまえになっています。まずホームページをみて、それから第2段階として、関係する書籍をあたったり、そのことにくわしい人にきいたりします。そして、第3段階として自分なりに考察をすすめます。このようなことは、現代の情報化社会では誰もがごく普通におこなうようになっています。

 したがって、ホームページは情報の海の入り口としてきわめて重要な役割をもっています。

 こちらネパールでは、ネパールに関する書籍等は簡単には手に入らず、また長期滞在していると、ホームページが情報源としてますます重要になってきます。

 現在では、こちらからでもホームページに簡単にアクセスでき、そこから実にたくさんのまた質の高い情報がえられるので、正直いっておどろいています。たとえば、日本外務省のODAのホームページなどは大変すぐれており、そこには、世界各地の情報が大量に掲載されており、もちろんネパールに関する情報も大量にみることができます。ネパールにきたある調査評価団の報告書も全文掲載されており、私がよんだかぎりかなりポイントをついた報告がなされています。世界および各国の「情報源としてのODA」という、ODAのもう一方の側面をみることができまますので、興味がある方は是非ご覧ください。

 

 


 

2002年2月2日送信

マレク地域で学生野外実習をおこなう

 

 さて今日は、私の勤務先であるトリブバン大学地質学科がおこなっている教育の一部を紹介します。私たちは、カトマンドゥの西にあるマレク地域で学生野外実習を毎年おこなっています。

 この実習では、学生に地質野外調査の基本的方法をおしえながら、地層や岩石を観察し、地質現象について考察していきました。カトマンドゥ盆地をつくりあげたカトマンドゥ・ナップの運動も、この地域で具体的に確認することができました。

 またここには、首都カトマンドゥに通じる大動脈・プリディビ自動車道路が通っており、この地域をながれるマレク川をわたるところにはマレク橋がかかっています。かつて集中豪雨のときに、マレク川に土石流が発生しこの橋がこわされたため、インドからカトマンドゥへの物資の供給がとだえ、カトマンドゥは陸の孤島と化したことがあります。

 ネパールでは、雨季には集中豪雨が毎年おそってきて、斜面崩壊や地滑り・土石流・洪水などを発生させ、国土に大きな被害をもたらします。このような自然災害を予知・防止し、国土を保全していくことは、ネパールのもっとも重要な課題になっており、地質学は、地盤の基礎的な調査・研究をふまえつつ、このような大きな課題に対して貢献していかなければならず、特にこの国においてはその役割がとても大きくなっています。

 (添付資料は省略)

 

 


 

2002年2月4日送信

大陸移動と造山運動

 

 こちらネパールは、治安状況がかなり改善されてきたため、JICA関係者の外出規制も解除され、フィールドワークを再開できることになりました。

 そこで、私はさっそく、明日から3週間の予定で、学生実習のフィールドワークへいってきます。2月25日にカトマンドゥへもどる予定ですので、カトマンドゥにかえりましたらまた連絡させていただきます。

 さて、今日は、ネパール西部地域で、学生たちとおこなったフィールドワークの様子を報告します。

 このフィールドワークでは、トリブバン大学地質学科の3年生に対して地質調査の方法をおしえながら、大陸移動やヒマラヤ山脈の形成に関する地殻変動の歴史について考察しました。

 今から3億6000万年前〜1億5000万年前(古生代の中ごろ〜中生代の中ごろ)には、地球上の大陸はひとかたまりになっていて、一つの超大陸が形成されていました。その超大陸のことをパンゲアとよび、その南半分(南半球)をゴンドワナ大陸とよんでいます。

 約1億5000万年前になると、このゴンドワナ大陸に割れ目が生じ、そこからインド亜大陸が分裂、インド亜大陸は大陸移動によって北上し、約5000万年前に、北半球にあるユーラシア大陸に衝突、その結果、地殻がもちげられヒマラヤ山脈が形成されました。ネパールでは、このような大陸移動と造山運動の悠久の自然史をみることができます。

 (添付資料は省略)

 

 


 

2002年2月25日送信

カリガンダキ川上流をいく

 

 ネパールは、ふたたび、治安がわるくなってきました。

 ヒマラヤ保全協会の山岳エコロジースクールの開催場所が、ミャグディ郡からカトマンドゥ近郊に変更されましたが、安全を第一にした適切な判断だとおもいます。

 カトマンドゥおよびカトマンドゥ近郊は、ネワール族の都市国家文明とその周辺文化が花ひらいたところであり、また近年、カトマンドゥの都市化にともない環境問題が深刻になってきており、NGOの活動地域としても研究地域としても大変意味があり、興味がつきない所です。

 このような今回のチャンスをいかし、「ヒマラヤのヘソ」としてカトマンドゥ盆地をみなおすなどして、ヒマラヤ保全協会のあらたな方向をさぐってみるのもよいかもしれません。

 なお、こちらの治安状況については日本でもいくらか報道されているようですが、カトマンドゥおよびカトマンドゥ近郊では、夜間の外出をひかえ、単独で行動しなければ安全ですのでご安心ください。

 さて今回は、「カリガンダキ川上流をいく」を送信させていただきます。

 私は、ネパール西部(ポカラの西)、ヒマラヤ保全協会の活動地域の一つであるカリガンダキ川上流へいってきました。そこでは、低ヒマラヤから高ヒマラヤにいたるヒマラヤ山脈の断面をみることができ、ヒマラヤ山脈の上昇と崩壊の現場をみることができました。

 このルートで観察できる、河岸段丘・衝上断層(しょうじょうだんそう)・堆積物・アンモナイト化石などは、かつては海底であったヒマラヤが造山運動によって上昇し山脈になったことを物語っています。一方で、押しかぶせ褶曲・正断層・地溝帯は、ヒマラヤ山脈がしだいに崩壊していることをしめしています。つまり、ヒマラヤ山脈は、造山運動によって世界でもっとも高い山脈へと上昇している一方、高くなりすぎたために、みずからをささえきれなくなり自重で崩壊をつづけているのです。

 また、カリガンダキ川上流域には、下流から、マガール族・タカリー族・チベット人が実にみごとにすみ分けており、マガール族はモンスーン気候下の多雨地帯に、チベット人はモンスーンの影響のない乾燥地帯に、タカリー族は両者の中間に居住しており、気候の変化は、彼らの住居や生活様式にはっきりとあらわれています。

 このルート上にあるジョムソンには、ヒマラヤ保全協会が現地の人々と協力してつくったムスタン・エコミュージアムがあり、タカリー族やチベット人の生活の様子、約100年前にこの地をおとずれた日本人僧侶・河口慧海(かわぐちえかい)のことなどが紹介してあります。カリガンダキ川流域の伝統と文化を保全する上で、このようなミュージアムのはたす役割はとても大きいといえます。

 (添付資料は省略)

 

 


 

2002年3月31日送信

山岳エコロジースクール無事終了する

 

 ヒマラヤ保全協会の山岳エコロジースクールは無事終了しました。カトマンドゥ南部のブンガマティ村とポカラにいき、大変充実した時をすごすことができました。

 (添付資料は省略)

 

 


 

2002年4月4日送信

チトワン国立公園

 

 今日は、ネパールの野生動物の巨大な生息地であるチトワン国立公園の話です。

 ネパールというと、雪と氷のさむい世界と何となくおもいこんでいる外国人が多いですが、ネパールは日本の沖縄とおなじぐらいの緯度にあり、南部に位置するタライ平原はマンゴやバナナがしげる亜熱帯に属しています。タライ平原は、モンスーンにより雨季にはたくさん雨がふって湿潤になるため、かつてはマラリアの悪疫が流行していました。それをさけるために、人々は標高1000m以上のパハール(山岳地帯)にすんでいたのであり、このためにタライ平原は開拓がすすまず、ながいあいだ森林がのこっていました。

 しかし、1950年代後半から、国連が協力してマラリア根絶作戦をおこない、その結果マラリアはほとんどなくなり、タライへの住民の移住が開始されます。人口が急増したパハールと北インドからの入植によりタライはみるみる開拓されていき、今日みられるようなみわたすかぎりの水田地帯と点在する集落と化しました。そこはインド経済圏に接していることもあり、インド国境ぞいにはいくつかの大都市も形成され、幹線道路の建設もすすみ、今やタライの方がパハールよりも経済的に重要な地域になっています。

 このような開発にともない、タライの野生動物の数は激減し、今や絶滅の危機に瀕しており、現在、国立公園を整備して、動物の保護と増殖に努力しています。

 (添付資料は省略)

 

 


 

2002年4月8日送信

パウダル村・チーズプロジェクト その後

 

 パウダル村では、ヒマラヤ保全協会の協力のもとでチーズ工場を建設し、チーズの生産・販売をおこない、チーズの販売によってえられた収益を学校の運営などに役立てようという事業が、今でもすすんでいます。

 現在、このパウダル村の人々は、第一に、チーズの低温貯蔵庫が必要だとかんがえており、第二に、乳牛を購入するために農家への融資を必要としています。一方で、乳牛の育成に大変こまっており、獣医と獣医によるトレーニングをもとめています。

 これは、乳牛を今まで飼育したことがないため飼育がうまくいかず、せっかく購入した牛が死んでしまうケースがでてきているからです。さらに、マーケット拡大にも、学校の先生の多大な労力を必要とするなど問題が多いです。また、排水による環境破壊の問題に関しては専門家の指導が今後必要です。

 今回のこのような結論は、住民みずからがかんがえ、討論し、みちびきだしたというところに大きな意味があります。また国際協力では、その地域にくわしい人と、事業をすすめる上で必要な分野の専門家との共同作業が絶対に必要であることもあきらかになっています。

 (添付資料は省略)

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