ネパールからナマステ(ネパールだより)
3.王宮事件

 

タプレジュン(バザール)

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<目次>

王宮事件 -ネパールの危機-
今のネパールの様子
休 戦
インドへいってきました
ドゥンゲ・ダーラ(石の水道)
地震とマオイスト
カトマンドゥ、警戒態勢に入る
カトマンドゥ、マオイスト集会は延期に


2002年7月17日発行

 


2001年6月13日送信

王宮事件 -ネパールの危機-

 

 私は、昨日、ネパール極東部からカトマンドゥにもどりました。ネパール極東部にいた時に、今回のおどろくべき大事件が発生し、ネパール国内が危険な状況であったため、しばらく移動できないでいました。

 ネパールにおいて、逝去されたビレンドラ元国王の人気は絶大であり、ネパール国民から真に慕われていただけに、誠に悲しむべき、残念な事態になってしまいました。ネパールは、社会の混乱がここ数年増加する状況下にあっても、ビレンドラ国王が国の中心にしっかりとすわっていたことにより、国が維持できていたということは、我々外国人にもはっきりと読みとることができていました。

 逝去された王族の方々に、ふかく哀悼の意をあらわすとともに、ネパールの平和と安定を心からいのります。

 以下、経緯を報告します。

 

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 2001年6月2日(土)午前5時、私は、ネパール極東部タプレジュン地域における12日間のフィールドワークをおえ、帰路のバスの中にいる。ネパールは、すでに雨季がはじまっており、おりからの大雨で、帰路の道路が崩壊、途中トラックが2台立ち往生し道をふさぎ、私のバスは出発できないでいる。

 フィールドワーク同行者、トリブバン大学地質学科修士課程の大学院生、テズ=プラサド=ゴートム君は、帰宅の連絡をするためカトマンドゥの自宅に電話をかけに行き、そして、おちつかない表情でもどってきた。

 「カトマンドゥで大変な事件がおこりました。王宮内で、国王一家をふくむ11人が殺害されました。ディベンドラ皇太子が結婚問題で、国王と意見が一致せず、泥酔状態で発砲し、みずからは自殺をはかったという話です。」バスの乗客たちに衝撃がはしる。大変おどろき、信じられない様子である。すぐにラジオの大きな音がする。

 立ち往生したトラックを移動するのに約10時間を要したため、我々は、今日の目的地であったイラムへは到達することができず、途中のシンガポールに宿泊することになる。そこには電話・テレビ等はないので、事件の情報源はラジオだけである。報道によると、カトマンドゥで暴動が発生、警察ではコントロールしきれず、軍隊が出動し統治にあたったとのことである。

 翌、6月3日(日)午前6時シンガポールを出発、午後3時半、第一の目的地イラムに到着する。私はすぐに、イラム在住の青年海外協力隊員・池上聖君に電話をする。彼は早口で言う。「JICA(国際協力事業団)ネパール・オフィスからの指令で、日本人は全員自宅待機になっています。カトマンドゥは危険な状態だそうです。すぐに、JICAオフィスに電話してください。『田野倉さんに連絡がつかない』と、協力隊調整員の安部さんから電話がありました。」

 すぐにJICAオフィスに電話をすると、「2日間、移動せず待機してください。『外出禁止令』が発令されました。6日まで喪中であり、政府関係機関はその間閉鎖されます。」「了解しました。2日間イラムにとまり、しあさっての6日水曜日に、バスでカトマンドゥにむかうことにします。」

 6月4日(月)、イラムでの情報源はテレビとラジオである。テレビは、ネパール放送とインド放送が受信できる。ディベンドラ皇太子は、病院にはこばれたが、危篤で話ができない状態である。しかし、故ビレンドラ国王の後を継承し、新国王に即位している。

 イラム・バザールの店はすべて閉まっている。バス・飛行機など、国内の交通機関も完全にストップしている。多くの男性が髪の毛をそっている。

 同日午後、危篤であったディベンドラ新国王の逝去が報道される。そしてその後、故ビレンドラ国王の弟、ギャネンドラ殿下の新国王・即位式の模様が、ネパール放送のテレビにより延々と放送される。ディベンドラ国王の逝去により、喪中は6月8日まで延長される。

 故ビレンドラ国王は3人兄弟の長男であり、上の弟がギャネンドラ現国王、下の弟はディレンドラ殿下である。故ビレンドラ国王には、ディベンドラ(長男・前皇太子→前国王)、ニラジャン(次男)、スルティ(長女)の3人の子があった。国王、王妃、3人の子供の一家全員が逝去されたわけで、まことに痛ましく悲しい事件である。

 このころから、ネパール人達がささやきはじめる。「ディベンドラ皇太子は本当は殺されたのではないか?」

 6月5日(火)、カトマンドゥのJICAオフィスから電話がはいる。「カトマンドゥで暴動が発生し、警察と衝突、市民7人が死亡しました。『外出禁止令』がふたたび発令されました。危険な状態がつづいていますので、9日まで、そこから移動しないでください。」

 同日午後、イラム・バザールで、ネパール人約100人によるデモ行進がある。人々はさけぶ、「我々の王を殺したのは誰だ!」また、故ビレンドラ国王の逝去を追悼する、女性約50人による行進もある。

 イラムちかくのビラトモドでは、約2000人の民衆がデモ行進し、警察と衝突、おさえきれず軍隊が出動、催涙弾がはげしくとびかったそうである。

 ネパール・テレビにより、故ディベンドラ国王の葬儀の模様が放送される。遺体は沢山の花でつつまれ、カトマンドゥ市内を車ではこばれ、パシュパティナートで荼毘にふされていく。

 さらに、おどろいたことに、皇太后(故ビレンドラ国王の母親)、さらに、故ビレンドラ国王の下の弟・ディデンドラ殿下も逝去したとの報道がある。結局、ギャネンドラ現国王一家をのぞく王族全員が逝去したことになる。

 6月6日(水)、バスの運行がわずかに始まる。大学院生のテズ=プラサド=ゴートム君はバスで出発することにする。カトマンドゥが危険で もどれない場合は、実家があるネパールガンジにむかうことにする。

 同日午後、ネパール・テレビにおいて、ギャネンドラ新国王が声明を発表する。今回の事件について、真相を調査し、3日以内にその結果を発表するとのことである。

 6月7日(木)、今日から、ネパール放送局の放送が一切停止される。何も放送されていない。しかし、インド放送は、連日、"Nepal Crisis"(ネパールの危機)として、今回の事件、その後の様子を報道している。

 イラム・バザールの店は、少しずつ営業を再開しはじめる。

 テズ=プラサド=ゴートム君から、カトマンドゥは危険と判断し、ネパールガンジに到着したとの連絡が入る。また、日本の私の実家から宿泊先に電話が入り、日本でも、今回の事件について大々的に報道があったとのことである。

 6月8日(金)、イラム在住のカナダ人ヴォランティア宅を訪問し、UK(イギリス)のニュースのホームページの記載をみる。ここでは、ディベンドラ前皇太子が泥酔して発砲したという当初の報道のままである。

 6月9日(土)、現国王が3日以内に発表するといった調査結果は発表されていない。JICAオフィスに電話したところ、火曜日に発表との情報があるとのことである。JICAオフィスから移動許可がでる。ただし、調査結果の発表後に、抗議行動が再度おこる可能性があるので、十分な注意が必要である。また、長距離バスは危険をともなうので、飛行機で移動するようにとの指令がでる。

 6月10日(日)、私はカトマンドゥに帰るため、 とりあえず、イラムからバスで5時間半のところにあるダランまで移動する。JICAオフィスから連絡があり、調査結果の発表は、15日(金)になる見込みとのことである。なお、ダランでも、大規模なデモ行進があったそうである。

 6月11日(月)、明日の航空券の手配がすむ。ダランの町は、平静をたもっている。

 6月12日(火)午後、私は、ダランから南へ1時間のところにあるビラトナガル空港から、カトマンドゥに無事もどる。髪をそった男性が沢山みかけられる。街中はくらい雰囲気である。

 JICAオフィスからは、14日までは外出してもよいが、外出は極力ひかえるようにとの指令がだされている。何がおこるかわからない。また、こちらネパールは、現在、e-mail送信、インターネット接続が非常にできにくい状況である。

 国の中心をうしなった病める国・ネパール、今後どこに迷走していくのだろうか。

 

 


 

2001年7月26日送信

今のネパールの様子

 

 ネパール国王一家殺害事件から2ヶ月がすぎようとしています。現時点でのこちらの様子をお知らせします。

 現在、カトマンドゥは、警察による警備がきびしくなったこともあり、かなりおちついた状況です。日本外務省の危険度も、カトマンドゥ市内・パタン市内は、危険度2(観光旅行延期勧告)から危険度1(注意喚起)に緩和されました。しかし、時々、マオイストによるとみられる爆弾事件が小規模ながら発生しています。

 こちらのニュースによりますと、王宮事件以後、マオイストによるテロ事件はたしかに増加しています。おもに、ネパール中西部において以前にもまして大きな事件がおこっており、事件鎮圧・解決のために、ネパール国軍も警察を援助する形で出動しています。

 ポカラでも、アンナプルナ保全事務所内で小規模ながら爆弾爆発事件がおこりました。また、マオイストから私立学校への要求等があり、ポカラの私立学校が一時休校になったりしています。

 私が以前滞在した、バンディプールと、イラム〜タプレジュン地域でもマオイストが進出してきています。

 バンディプールは、カトマンドゥから約5時間、ポカラから約3時間の標高約千mのところにある人口約5千人の町です。私はここに、今までにのべ5回滞在しまし

た。1年前まではまったく平和な町でしたが、ここにも現在マオイストが進出しはじめ、ノートルダム・スクールという私立学校が閉校においこまれました。この学校は、日本人2人をふくむ外国人教師が17年間にわたって協力してつくりあげてきた学校です。しかし、外国人教師がいるということで、植民地主義・金もうけと批判され、はじめは金を要求され、そのご閉鎖を要求されました。要求に応じない場合は学校を爆破するとおどされました。

 現在、ネパール各地で、外国人教師のひきあげや私立学校の閉鎖がふえつつあるようです。

 イラム〜タプレジュン地域はネパール極東部地域であり、ネパールではもっとも安全な地域とされ、日本外務省による危険度指定もなされていません。しかし、約2ヶ月前に滞在していたところ、マオイストが村々、特にバザールと学校をごく普通に巡回しており、「酒はのむな」「伝統的な民族服をきるように」とよびかけています。また、トリブバン大学イラム・キャンパスでは、マオイストの学生による放火事件がおこりました。

 マオイスト達は、現在、ネパールの東端から西端までほぼ全国にひろがって活動をしています。酒屋の襲撃等もおこなっています。

 ちなみに、カトマンドゥのトリブバン大学世界言語キャンパスでも、小規模ながら爆弾事件が去年ありました。

 私の勤務先のトリブバン大学トリ=チャンドラ・キャンパス(カトマンドゥ)では、今のところ何もおこっていません。しかし、色々な学生がいるので、不用意に学生を研究室にいれないようにとの注意が学科長からなされています。

 マオイストは、旅行者(観光客)や研究者にはほとんど手をだしていません。現在までNGOが被害にあったという情報もありません。しかし、スペイン人のトレッキング・グループのキャンプがおそわれ、金銭とカメラをとられたという事件は去年ありました。また、JICA(国際協力事業団)事務所の支所は、2回にわたり襲撃をうけています。

 マオイストは、国際協力活動をふくむ何らかの活動をネパール国内でおこなっている外国人は排斥しようとしています。旅行や調査だけならまだよいのですが、何らかの「活動」をネパールでおこなう場合は、今後とも十分な注意が必要です。

 しかし、ネパールが、危険であるといたずらに強調する必要はありません。危険度指定のない地域と危険度1の地域には、注意をしながら十分入ることができます。今後ネパールにくる方は、日本外務省のホームページで、危険情報をしっかり確認し、危険度2以上のところには入らないようにすれば大丈夫でしょう。外務省のホームページには、危険情報の他に、海外旅行をする上での注意点など、有益な事柄が多数掲載されていますのでよくみておくとよいです。

 ちなみに私が所属するJICAでは、最悪の事態としての国外脱出をふくむ、様々なシミュレーション(思考実験)をおこない、十分な安全管理体制の元で、活動を継続しています。インターネットやラジオ・テレビ等で我々も日々情報収集をおこないながら、現在、無線・携帯電話緊急連絡体制の整備等がすすみ、また、最悪の場合には、カトマンドゥ盆地内在住者はタイへ、地方在住者はインドにすみやかに脱出できる体制で生活をしています。地方在住者にはインドの長期ビザが発給されつつあります。

 マオイストは武装している場合があるという事と、国内の混乱に乗じた一般犯罪がふえてきている事をかんがえると、今後ネパールにくる方は、念の為に、マオイストや強盗・山賊等に万が一遭遇してしまった場合、どのようにするかということをシミュレーション(思考実験)しておくことは必要でしょう。具体的には、自分は単なる旅行者であることをはっきりとしめしたり、金銭等を要求されたら、生命を第一にしてさからわない、緊急連絡体制を確立しておくなどがかんがえられます。自分がいつどこにいるか、行動予定表等は自宅・事務所等にもおいておくべきでしょう。

 それでは、また何かありましたら連絡します。

 

 


 

2001年8月21日送信

休 戦

 

 こちらネパールは現在、マオイストと警察・政府軍とは休戦状態になり、かなりおちついた状況になっています。カトマンドゥは、朝晩はめっきりすずしくなり、秋の気配を感じさせるこの頃です。

 ところで先日、Bさん・Iさん夫妻が、私の職場と自宅においでになりました。Bさん・Iさん、この前は、たのしいお話に、ダルバートごちそうさまでした。また、お話をきかせてください。

 

 


 

2001年8月28日送信

インドへいってきました

 

 こちらネパールは、今週の木曜日にも、政府とマオイストとの話し合いがおこなわれる見通しとなりました。ネパール・デウワ首相は、マオイストに対して、「共和制の要求を断念し、これまで実績があり、国民の支持を得ている立憲君主制の体制の中で政治に参加すべきである」とよびかけています。話し合いがうまくゆき、ネパールに平和がもどることをねがわずにはいられません。

 さて、先日私は、インドにいってきました。今日インドは、ネパールともっとも関係のふかい国です。社会〜文化のあらゆる面で、ネパールはインドから大きな影響をこうむっています。

 今回の旅行では、北インドの、デリー、サルナート、ヴァラナシをおとずれ、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教の遺跡や寺院、それらをとりまく環境をみてきました。中でもヴァラナシは、ヒンドゥー教の聖地の中の聖地であり、いろいろな発見がありました。ヒンドゥー教は、ネパールの国教でもあり、ネパールを研究する者にとって非常に重要なテーマです。また、行きの飛行機の中からは、ヒマラヤ山脈地帯が一望でき非常に幸運でした。

 インドには、古代インダス文明の発祥、ヒンドゥー文明の成立、イスラム帝国の支配、イギリスの植民地化、イギリスからの独立というながい歴史があります。ヒンドゥー文明は、先住民族の地にアーリア人が侵入してつくられたもので、現在インドに存在する身分社会構造はこのときに生じたものです。そしてその後、イスラム帝国の侵略があり、それにより、ヒンドゥーとイスラムとの争いがおこって、その図式は今日までもつづいて大問題になっています。

 また、インドで発展した文明は、周辺諸国、ユーラシア大陸の東にまで大きな影響をあたえ、今日みられるヒンドゥー文明圏、仏教文明圏をうみだしました。

 ところで、ネパール語と、インドの公用語であるヒンディー語とは、非常に似ていますが、通じるようでほとんど通じません。 ネパール語とヒンディー語とは、フランス語とスペイン語とのちがいぐらいの距離があります。両言語ともサンスクリット語をルーツとしますが、ある段階から別の道をあゆみました。現在のネパール王国の主流派になっている、ネパール語を母語とする山岳のヒンドゥー教徒達は、ネパール山岳地帯に移住してきた後、長い間、かなり隔離された世界にすんでいたと推定されます。

 それにしても、ヒンドゥー教のエネルギーは巨大です。人間をもふくむ大自然の本源的な生命力を開花させようとしているかのようです。 結局、インド人達は生命力を信じているのであり、ヒンドゥー教とは生命力信仰なのだとおもいました。

 (添付資料は省略)

 

 


 

2001年9月5日送信

ドゥンゲ・ダーラ(石の水道)

 

 カトマンドゥ盆地に発達したドゥンゲ・ダーラ(石の水道)について理解することは、ネワールがきずいた都市国家文明を解明する上で、決定的に重要なことだとおもいます。文明史的にいうと、都市国家段階は、亜文明段階に相当し、これは日本や西ヨーロッパが経験したことがない段階であり、領土国家(帝国)が出現する前の段階をしめしています。

 ネパール王国という領土国家が発生する前に、カトマンドゥ盆地内に、いかにして都市国家が発展したのか、興味がつきません。ドゥンゲ・ダーラは、当然、自然の力をたくみにつかっているわけであり、そこに、地域社会と自然環境とをむすびつける重要な側面をみることができます。

 ネワールの都市国家では、社会と環境とが調和し一体になっていたとかんがえられ、当時、カトマンドゥ盆地に独自の世界がひろがっていたことが想像できます。この独自な世界こそを、昔は、「ネパール」とよんでいたのです。領土国家・ネパール王国が発生したのは、その後のことです。

 現在、ユネスコ・ネパールでは、ドゥンゲ・ダーラの重要性・歴史的価値に気づき、ドゥンゲ・ダーラ補修・再生プロジェクトを大々的におこなっています。このプロジェクトが成功し、ドゥンゲ・ダーラを知る人が一人でもふえることをねがっています。

 今後とも、ドゥンゲ・ダーラについて、ネワールの人々に色々おしえてもらいたいとおもっています。明後日には、Sunil Joshiさんにお会いしますので、話がきけるとおもっています。 また、情報を提供してください。

 それでは。

 

 


 

2001年9月12日送信

地震とマオイスト

 

 最近さわがれている地震についてです。

 アメリカの「サイエンス」誌などで発表された、地震予知情報では、あくまでも「ヒマラヤ」でおこるとのべているのであり、具体的にどこでおこるかはわかりません。カトマンドゥ盆地でおこるかもしれませんが、カトマンドゥでおこると断定しているわけではありません。

 ヒマラヤ全域ですと非常に広大であり、20〜30年に一回ぐらいは、大地震はおこっています。約10年前にも、ネパール東部ダラン地域でおこりました。

 日本列島とおなじで、ネパールも、プレート・テクトニクスでいうプレートの境界に位置するため、地震多発地帯になっています。したがって、常日頃から地震対策をすすめる必要があります。

 先週の金曜日に、カトマンドゥ市主催による、一般市民を対象にした地震対策シンポジウムが開催されました。場所は、ロシア文化センターのホールで、私も出席しました。シンポジウムの内容は以下の通りです。

 カトマンドゥにおける地震研究・地震防災に関するプロジェクトは、日本のJICAが大々的に協力しながら、調査・研究・対策立案をおこなっています。

 カトマンドゥ市の防災対策は、カトマンドゥ市防災局が中心になっておこなっており、地震のメカニズムの研究、被害予測の研究、マッピング、防災関係者のトレーニング、市民の意識向上のための集会・デモ、資料・ポスターの配布などがおこなわれています。

 現在までのところ、地震発生のメカニズムは解明されましが、社会的に役立つ精度での地震予知はできない状況です。

 ネパールの建造物のほとんどは、耐震構造がなされていないので、巨大地震発生の場合には、大きな被害がでると予測されています。建物の構造を強化したり、道路を拡張するなどの提案はなされていますが、ほとんど実施されていないのが現状です。

 シンポジウム当日配布された一般市民向けポスターには、地震が発生したときの行動の仕方が絵でえがかれています。地震発生時には、あわてて外にでない、机の下やドアの枠の下に待避する、頭をかくす、ガスをとめる、窓やガラスからはなれるなどのことが記載されています。

 また当日は、Kathmandu Metropolitan City Earthquake Disaster Mitigation Partrershipが登録がおこなわれ、参加者各自のe-mailアドレスを登録しました。

 カトマンドゥには、レンガづくりの家が多いので、大地震の際には家がくずれ、レンガの下敷きになる人々が多数でることでしょう。レンガづくりの建物は、横ゆれには非常によわいのが現実です。

 

 次に、マオイストについてです。

 来週の17日に学生マオイストの集会が、21日には、30万人規模のマオイストの集会が、カトマンドゥで予定されており、現在、マオイスト達が続々とカトマンドゥに集結してきています。

 私の同僚の話によると、彼らは、あちこちのバザールの食堂で食事をし、学校や公民館、その他の宿泊施設に宿泊しているそうです。ニュースによると、マオイストは宿泊先を確保するために、様々な圧力をかけています。政府は集会の中止を要求していますが、実際には、セキュリティー・レベルを最高にあげた上で許可する見込みです。

 集会が実施された場合は、カトマンズ市内で大きな混乱が生じることも予想されており、 現在JICAでは、警戒態勢に入り、情勢をみているところです。

 なお、マオイストがらみみの事件は、ネパール各地であいかわらず発生しています。

 

 


 

2001年9月15日送信

カトマンドゥ、警戒態勢に入る

 

 こちら、カトマンドゥは、来週17日の学生マオイストの集会、21日のマオイスト大規模集会にそなえ、厳重警戒態勢に入りました。非常に多数の一般警察官および武装警察官が、市内各所いたるところに配置され、きびしい警戒をしいています。

 カトマンドゥから約1時間のドリケルにすむ青年海外協力隊員の友人の話によると、ドリケルでは、バザールや周辺の家々の一軒一軒すべてにマオイストがあらわれ、一つの家から最低一人は21日の集会に参加するように命じています。参加しない場合は、家を爆破するなどと言い、圧力をかけています。

 私の友人の家にもマオイストがあらわれました。その友人が「私も参加した方がよいでしょうか?」とたずねたところ、相手は彼が外国人であることをみて、「おまえは行かなくてよい。」と言ってたちさったそうです。

 市内の学校は、ほぼすべて休校状態に入り、集会関係者の宿泊所になっています。

 また、私が勤務する、トリブバン大学、トリ=チャンドラ・キャンパスでは、過激派学生によって、キャンパス・チーフ室が約1週間前から封鎖されています。

 政府とマオイストとの第2回会合はおこなわれましたが、歩み寄りはみられず不調におわりました。

 ところで、マオイストとは関係ありませんが、近国パキスタンでは、アメリカ同時テロ事件をうけて、JICA関係者全員の出国、日本待避がはじまりました。

 

 


 

2001年9月18日送信

カトマンドゥ、マオイスト集会は延期に

 

 本日、開催される予定だった、学生マオイストによる集会は、24日に、ネパール東部のビラトナガールにて開催されることになりました。また、21日に開催される予定だったマオイスト大規模集会は延期になり、地域レベルでの集会を今後開催するとのことです。

 カトマンドゥ市民は、とりあえずはほっとしているところです。

 ただし、トリブバン大学では、学生寮に、軍隊・警察が入り、大規模な捜索がおこなわれ、これに反発する過激派学生がいて緊迫した状況です。また、カトマンドゥ盆地に入る道路のチェックポストでは、軍隊によるきびしい取り締まりがおこなわれています。現状では、軍隊が出動していることによって、マオイストの活動がかなりおさえられているといったところです。

 こちらは、雨があまりふらなくなり、そろそろ雨季があけようとしています。雨季があけると、いよいよ行動のシーズンです。今回、集会が延期になったことにより、フィールドワークなど、ネパール国内での移動・活動は、安全を確認した上で十分実施可能であるとかんがえています。

 ただし、マオイストはすでに全国展開をしており、また、最近は、マオイストと住民との衝突もふえてきているので、それらにまきこまれないように注意する必要があります。今後、ネパールにこられる方は、ネパールの情報に十分注意をはらってください。

 

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