ネパールからナマステ(ネパールだより)
2.シーカ谷

シーカ谷
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<第2部 目次>

シーカ谷の地質概査

パウダル村訪問


2002年7月17日発行

 

 

 2001年2月22日送信

 シーカ谷の地質概査

 

 私は、昨年4月にネパールにきてから、大学内における教育・研究以外に、ネパール各地にフィールドワークにでかけています。おとずれた地域は、ポカラ、バンディプール、ドゥリケル〜パンチカル〜パナウティ、ルンビニ、タンセン、ダラン〜ビラトナガル、タプレジュン〜イラム〜ケラワリ、ランタン、マレク、ブトワール〜パルパ、ベニ〜カクベニ〜ムクティナート、そしてシーカ谷です。

 シーカ谷は、ヒマラヤ技術協力会→ヒマラヤ保全協会が、地域調査・技術協力を長年つづけている地域です。本年1月27〜30日、私は、トリブバン大学地質学科修士課程の大学院生、プラモッド=ネパール君とともに、この地域の地質概査をおこないました。調査期間はみじかかったですが、大変価値のあるデータがえられ、有意義な調査になりました。今回はこの概査結果を報告します。

 

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 本年1月17日、我々2人は、ヒマラヤ山脈の南北断面の地質調査(踏査)をするために、ベニを出発、カリガンダキ川を北上し、1月23日にムクティナートへ到着。そして、往路をひきかえしカリガンダキ川を南下、1月27日に、北西側(カリガンダキ川)からシーカ谷に入る。

 シーカ谷あるいはガーラ川(Ghara Khola、シーカ谷を流れる川)は、南東から北西方向にのびている。この地域を構成する地層の走向(ソウコウ、地層面と水平面が交わる線がのびる方向)は北西-南東であり、谷がのびる方向とほぼ一致している。地層の傾斜は、30〜40度北東おちである。

 同地に足をふみ入れて誰もが一見してわかることは、谷底をながれるガーラ川の北東側は急な斜面になっているが、反対側の南西側はゆるやかな斜面になっているということである。川の北側斜面は、地層の傾斜面に対して垂直かそれにちかい傾斜をもち、南西斜面は、地層の傾斜面とおなじかそれにちかい傾斜をもつ。この地域をつくっている地層が、北東方向にむかって傾斜しているということが、そのまま地形になってあらわれていて、独特な景観がつくりだされているのである。地質構造が地形に反映されているみごとな実例である。

 この地層を構成する岩石は、センマイ岩(千枚岩、phyllite)を主体とし、その上位にケイ岩(珪岩、quartzite)がかさなっている。シーカ谷に足をふみ入れてから1〜2時間、ビラウタ(Birauta)村の手前にはケイ岩の岩場があり、地形的な高まり(でっぱり)になっている。そこは絶好の見晴台となっており、ロッジが1軒たっている。

 我々はさらにすすみ、ガーラ(Ghara)村をへて、シーカ(Sikha)村へ到着、今日はここで1泊する。

 シーカ村の手前には、巨大な地滑りが存在する。翌1月28日、この「シーカ地滑り」を調査する。この地滑りは、南西から北東方向に発達しており、これは地層面の傾斜の方向と一致している。山の上方からは沢がながれていて、水が供給されている。

 この地滑り地域の構成岩石は、おもにセンマイ岩であり、一部にケイ岩の岩体(転石)が存在する。センマイ岩は青灰色を呈し、劈開(ヘキカイ、間隔のこまかな平行面群にそってさけやすい性質)が発達し、リョクデイ石(緑泥石)などの変質鉱物が多数生じていて、いちじるしく変質し軟質である。ケイ岩は、白色を呈し、塊状・緻密・非常に硬質である。地滑り地域の最上部と、さらにその上の山腹斜面には硬質なケイ岩が分布している。したがって、本地域の地滑りでは、軟質なセンマイ岩の上を硬質なケイ岩がすべったということがわかる。

 ガーラ川の北東斜面は、比較的急な斜面〜崖になっているので、一見するとこの急な斜面が脆弱で、地滑りや斜面崩壊がおこりやすいのではないかと誤解されやすい。しかし実際には、山腹斜面と地層面の傾斜とが一致する、ガーラ川の南西側のゆるやかな斜面に地滑りや斜面崩壊がおこりやすいのである。

 シーカ村からとおく北西方向の山腹を遠望すると、北東方向に傾斜した地層が何枚もかさなっている様子が、地形にはっきりとあらわれている。比較的厚い地層が下にすべったような地形をしめす部分もあり、その地層の境界部には木がうえられている。地滑り防止のために、意識的に植林したのかもしれない。

 同日の午後、我々はシーカ村を後にし、ファラテ(Phlante)へむかう。途中、別の地滑り地域を発見。ここでも沢ぞいに地滑りが発生している。地滑りの直接の誘発原因は水の作用であろう。ここでも、「シーカ地滑り」同様、センマイ岩の上を、ケイ岩の岩体がずりおちてきている。

 この地滑り地の上方山腹へ行ってみると、沢の周囲に河岸段丘が形成されている。地質時代を通して、沢は、堆積と侵食の両者をくりかえしてきている。水は、土砂を堆積させつつも、下流にながしているのである。 水の作用の大きさがよくわかる。

 そしてファラテ村のすぐ手前には、シーカ谷最大の地滑り崩壊地が存在する。これは翌日調査することにし、今日はチトレ(Chitre)まで概査をおこない、チトレで1泊する。チトレでとまったホテル「ダウラギリ」のオーナー(マガール族の女性)は小さいときから川喜田先生のことをよく知っているそうで、学校への援助、ロープライン、簡易水道のことなど、川喜田先生(ヒマラヤ保全協会会長)らが長年おこなってきた国際協力の話をきくことができた。

 翌1月29日、大きな地滑り崩壊地である「ファラテ地滑り」を調査する。ここも、地層は、灰緑色を呈し、いちじるしく変質したセンマイ岩を主体とする。地すべり地内部には、上方からすべってきて途中でとまっている、センマイ岩・ケイ岩の岩体(転石)が存在する。非常に巨大な岩体もある。ただしケイ岩は意外に少ない。センマイ岩の中には、メタベイサイト(変成塩基性岩、metabasite)を挟在するものもある。メタベイサイトとは玄武岩質火成岩起源の変成岩であり、濃灰緑色を呈し粗粒・硬質である。

 ここでも地形は地質構造を反映して、地滑り地の南西斜面はゆるやかな斜面、北東斜面は急な崖になっている。現在、当地は、崩壊堆積物で一面がおおわれ、その上に木がかなりはえている。 地滑り地の上方の沢には、砂防ダムが数ヶ所にわたって設置されている。斜面崩壊は今はとまっているようである。

 同日午後には、ファラテ〜チトレをあとにして、ゴレパニ(Ghorepani)へむかう。途中の地層は、センマイ岩を主体とし、所々にケイ岩が存在する。夕方にはゴレパニにつき、ここで1泊する。

 翌1月30日、早朝5時におき、標高3193mプーンヒルに暗い中むかう。プーンヒルでは、ドウラギリ山群〜アンナプルナ山群〜マナスル山群の一大パノラマと、朝焼け・日の出に遭遇、それは自然界の空間と時間がおりなす偉大なシンクロナイズであり、神秘的ですばらしい。シーカ谷も一望できる。

 ゴレパニ〜プーンヒル間はセンマイ岩により構成されるが、その頂上付近にはケイ岩が分布する。地質を確認して、我々はプーンヒルをあとにし、次の調査地域であるゴレパニ〜ビレタンティ(Birethanti)ルートへと足をはこんで行く。

 

 


 

 2001年5月10日送信

 パウダル村訪問

 

 今回のツアーでは、おもに、パウダル村にホームステイしてチーズづくりを見学し、国際協力や村づくりについてまなびました。ネパール山村の最大の問題点は現金収入がないことです。パウダル村では、学校の運営資金にも事を欠いている状態です。村の近くには、欧米や日本からたくさんの観光客がトレッキングでおとずれているので、牛乳でつくったチーズをロッジに売って現金収入をえれば、学校運営のたすけになります。この村人のアイディアによって、「チーズづくりプロジェクト/マイクロファイナンス」がはじまりました。

 以下はその要約です。

 

 ---------------------------- 要 約 ------------------------------

 スタディ・ツアーのトレッキングに先立ち、3月27日、ヒマラヤ保全協会ネパール事務所にて、理事会が開催され、今後の活動のすすめ方について話しあう。「パルス討論」→「KJ法1ラウンド」→「衆目評価法」をつかい、「ヒマラヤ保全協会の将来計画」を議論する。その結果、「村人達と共に村づくりの計画をつくるために、村人たちにアドバイスができるようにしなければならない」という結論(合意)がみちびきだされる。

 3月29日ポカラを出発、ウレリ・チトレをへて、ガーラ谷を一気にくだってのぼって、3月31日、パウダル村に到着する。途中、ラリグラスが満開ですばらしい。ガーラ谷の急斜面に発達したパウダル村では、現金収入を得るために、ヒマラヤ保全協会の協力のもと、チーズ工場の建設がすすめられている。乳牛の飼育と、チーズづくりのトレーニングも着々とすすめられている。

 私のホームステイ先のビンバハドゥール=ティルザさんによると、ヒマラヤ保全協会の現在のプログラムは、教育・人材養成が柱になっているので、以前にくらべて大変よくなったとのことである。マイクロファイナンスがしっかり活用され、村の活性化がすすめられていることを確認して、私達はパウダル村を後にする。

 

 くわしくは添付書類をご覧ください。

 

 ---------------------------- 添付書類 ------------------------------

 2001年3月27日午前、私は、ヒマラヤ保全協会(IHC)事務局長の田中さんと、カトマンドゥ、トリブバン空港にておちあい、飛行機にてポカラへ移動する。

 ポカラ到着後、ヒマラヤ保全協会ネパール(IHC-N)事務所に行く。スタディツアーのトレッキングに先立ち、ネパール・ヒマラヤ保全協会の理事会が開催されるので参加し、ネパール人スタッフらと今後の活動計画について話しあう。ネパール人参加者は、マハビール(Mahabir)さん(IHC-N会長)、ナル=バハドゥール(Nar Bahadur)さん(IHC-N専任スタッフ), ウム=バハドゥール(Um Bahadur)さん(IHC-Nフィールドスタッフ), ギャン=バハドゥール(Gyan Bahadur)さん(パウダル村校長), ツァムパ(Tsampa)さん(チベット医学医師), デウ=バハドゥール(Deu Bahadur)さんの6人である。

 簡単な打合わせの後、同事務所にて「ヒマラヤ保全協会の将来計画」というテーマに、KJ法をつかってとりくむことになる。KJ法を実践したいという、ネパール人スタッフらのつよい希望が以前からあったので、今回、オリジナルなKJ法を実際に実施することになる。

 まず最初に、「パルス討論」を実施する。「パルス討論」とは、広義のKJ法に属する、プレーンストーミングを応用した討論法である。私が司会をしながらすすめられ、のべ約4時間にわたり討論をおこなう。最初のうちは、ネパール語と英語の両者をつかいながらすすめられたが、最後の方ではネパール語だけがつかわれるようになる。

 出された情報や意見はすべてラベルに記載され、約150枚のラベルがえられた。そこから、「多段ピックアップ」という方法をつかて、25枚の重要なラベルをピックアップする。今日の作業はここまでである。

 同夜、今回のツアー参加者3人と、ダムサイトにあるアショカ・ゲストハウスにて合流する。

 翌3月28日、午前8時〜12時半、「KJ法1ラウンド」→「衆目評価法」を実施する。作業はすべてネパール語でおこなう。その結果、「村人達と共に村づくりの計画をつくるために、村人たちにアドバイスができるようにしなければならない」という結論(合意)がみちびきだされる。ネパール人スタッフらによると、KJ法の簡略化手法は以前やったことはあったが、オリジナルな本格的なKJ法は今回がはじめてであり、大変有効な方法で、是非、今後ともKJ法を実践していきたいとのことである。また、今回の実践により、KJ法の英文ガイドが必要とわかり、パウダル村からポカラにもどったときに私が作成することを約束する。

 3月29日、私達5人は、パウダル村をめざしてトレッキングを開始する。国際協力事業団からの情報により、4月4〜5日にはチャッカジャム(交通阻止)とバンダ(ストライキと交通・営業妨害)があり移動ができないので、当初の予定を変更して、はやめにパウダル村へ行き、4月3日にポカラにもどってくることにする。近年、ネパールの社会情勢は非常に不安定になり、チャッカジャムとバンダは頻繁におこなわれている。特に、マオバディとよばれる組織は過激であり、十分注意しなければならない。

 ポカラからタクシーにてナヤプールまで移動し、そこからトレッキングをはじめる。途中のビレタンティで食べたタカリー族のダルバートは大変おいしい。ティケドゥンガをすぎると急斜面ののぼりがはじまる。その日はウレリで宿泊。そこで私は、偶然、ネパール人ガイドのLBさんと約1年ぶりに再会する。

 3月30日、早朝ウレリを出発。ゴレパニ付近では、ピンク〜赤色の満開のラリグラスがさきみだれている。特にゴレパニ峠をこえた北側斜面ではすばらしい。ゴレパニ付近で雨がふりはじめ、ラリグラスのしっとりした美しさに一時心をうばわれる。今日は、チトレに宿泊することにする。チトレでは、ヒマラヤ保全協会が協力している苗畑を見学する。森林保全・森林再生のための地道な努力がつづけられている。

 3月31日朝、我々はチトレを出発。このあたりまでおりてくると、ラリグラスはまばらになってくる。シーカで午前の食事(ダルバート)をたべたのち、急斜面を谷底まで一気にくだっていく。そして、谷底をながれるガーラ川にかかる小さな木橋をわたり、今度は、急斜面を一気にのぼり、パウダル村をめざす。途中、反対側の斜面にシーカ村〜ガーラ村がよくみえる。上シーカは、ややもりあがった地層の上に発達しており、地すべり発生の危険性が非常に高いことが、地形からうかがえる。

 昼ごろパウダル村に到着し、学校の事務所にて村人達から歓迎をうける。その後、学校の校庭のわきに建設中のチーズ工場を見学する。山村の最大の問題の一つは現金収入がないことである。パウダル村では、学校の運営資金にも事を欠いているそうである。村の近くには、トレッキングで欧米や日本からたくさんの観光客がおとずれているので、牛乳でチーズをつくって、観光客に売って現金収入をえれば学校の助けになるという村人のアイディアを、ヒマラヤ保全協会で検討し、「チーズ造りプロジェクト/マイクロファイナンス」がはじまったそうである。

 チーズ工場は9割方完成しており、チーズづくりの先生・サーキラム=ジレルさんが村人にチーズのつくり方を指導している。彼は、ドゥルカ・ディストゥリクトのジリからまねかれているチーズづくりの専門家で、今日まで27年間チーズづくりにたずさわってきている。今回パウダル村には、2〜3ヶ月滞在して、チーズ工場を建設し、牛のチーズのつくりかたを指導する。

 パウダル村のチーズのブランド名は、カヤル・バラヒと言い、パウダルの女神の名前である。チーズづくりに必要な道具は、サーキラム=ジレルさんが指導してつくらせている他、ネパール・ヒマラヤ保全協会フィールド・スタッフのウムさんがジリでみてきて、村の職人につくらせている。牛は、たくさんの牛乳をだすジャージ牛を、パルパ郡やクスマ郡から数頭買ってきて飼育している。将来、トレッキング・ルートぞいのロッジにチーズが販売できれば、現金収入がえられ、学校の先生の給料や、学校の整備、その他の村づくりのためにつかうことができる。

 チーズ工場を見学した後、村の中をあるきまわって各地を見学する。学校のとなりでは、9〜10人が宿泊できるホステルを建設中で、遠くにすむ子供たちも勉強ができるようにする計画がすすんでいる。パウダル村は、ダーラ、アンタラ、プツァールという3ヶ所から構成されている。村は、かなりの急斜面につくられた村であり、平地といえば、学校の校庭ぐらいしかない。急斜面といっても、地質学的には、地層の傾斜と地形斜面の傾斜が斜交しているので、非常に安定した土地になっており、地すべり等も比較的おこりにくい。

 その後、私達日本人5人はばらばらになり、ホームステイ先の家に行く。私は、ビンバハドゥール=ティルザ(Bhinbahadur Tilja)さんの家にお世話になる。彼の家は、パウダル村の中でも比較的大きな家である。家やトイレの中まで水道がひかれており、下水は、比較的太いパイプで下へスムーズにながれるようになっている。家の内外はどこもきれいで、ゴミ一つおちていない。トイレのとなりにはシャワールームまであり、少々おどろいた。ビンバラドゥルさんの家では、ホルスタイン牛を飼育しており、毎日その牛乳(生乳)をご馳走になる。

 彼によると、昔にくらべて、ヒマラヤ保全協会のプログラムは大変よくなったということである。最初におこなったロープライン・プロジェクトは、ロープラインの基地の付近の木ばかり切りたおしてしまい、また、事故で一人が亡くなった。次の簡易水道は、しばらくはよかったがこわれてしまった。それに対して、今のプログラムは、教育・人材養成が柱になっているので、村にとって長期的に有効である。学校の先生や看護婦の養成に役立ち、村のためになっているとのことである。

 4月1日、午前7時に起床。チヤ(ミルクティー)と卵焼きをご馳走になってから、学校へ行き、牛や牛乳に関する、村人を対象にしたトレーニングコースを見学する。講師は、タクール=プラサド=バルワウ(Thakur Prasad Baruwau)さん。"Livestock service Centre, Shikha, Ghara"からきている。彼は、ガーラ村に、サンギータ・ロッジ&レストランも経営している。話しているネパール語はむずかしく、あまり理解できなかったが、今日は、牛のお産に関する講義をしていた。また、彼によれば、今までのローカルな村の牛は、1日に1リットルの牛乳しかださないが、ジャージー牛は、1日に5〜6リットルの牛乳を生産することができるそうである。

 その後、ツアー参加者らが、日本からもってきたチーズをつかって、チーズ・オニオン・ポテトをつくり、村人に試食してもらう。いたって好評の様であったが、何分、チーズははじめてたべたという人がほとんどであり、おいしくないと言う人もいる。

 試食会の後、私は、ホームステイ先ビンバハドゥール=ティルザさんの家へもどり、夕食をご馳走になる。わるいことに、食後に飲んだ牛乳でひどい下痢になる。「ウマレコ ドゥドゥ ディヌス(沸かした牛乳をください)」と念をおしておいたのであるが、沸騰していなかったようだ。牛乳も沸騰させたものだけを飲むようにしなければならない。しかし家の人々はみな平気である。何分、家の中にはくらい電球が1個あるだけで、あたりはくらくてよくみえず、沸騰しているのかいないのかわからない。また、部屋の中で薪で炊事をするのに、部屋には小さい窓しかないため、煙が部屋中に蔓延している。パウダル村などでは、目がわるくなる人が多いときいていたが、くらくて煙が蔓延しているからである。

 4月2日、午前7時〜9時、我々ヒマラヤ保全協会とパウダル村基金委員会との会議である。お金の貸しつけ条件などについて話し合い決定する。マイクロファイナンスもきちんとルールを作って貸しているようで何よりである。その後、マイクロファイナンスで購入した、牛乳の品質をチェックする機器、牛乳からバターを分離する機器の実演をみる。牛乳1リットルから、1キログラムのチーズと300グラムのバターがとれるそうである。

 そして、当日午後1時半、村人たちにわかれをつげ、パウダル村を後にする。ポカラ・バガールへと急斜面をくだっていく。対岸の地形がよくみえる。谷はしだいにせばまり、カリガンダキ川合流地点に到達する。少しあるいて、夕方にはポカラ・バガールにつく。翌4月3日、午前7時半、ポカラ・バガールを出発、午後5時ベニに到着する。そこからは、タクシーにのりポカラへ。2時間45分間かかり、ポカラの、ダムサイト、アショカ・ゲストハウスへ無事もどる。ただしチャッカジャムは中止されていた。

 4月4日、私達は、国際山岳博物館(International Mountain Museum)の建設現場を見学する。この博物館は、現在約5割が完成しており、予想をはるかにこえた巨大な建物であった。日本山岳会が援助をしているとのことである。あまりにも巨大なことにおどろくとともに、完成しても、維持・管理にかなりの予算がかかり、運営に困難が生じることが懸念される。ネパール人社会のスケールに合っていないのではないか。ネパール人がどこまで参画できるのだろうか。日本の巨大な箱物主義がここにもあらわれているようだ。

 次に、ポカラ地域博物館(Regional Museum)へ行く。ここでは、ネパールのそれぞれの民族について簡潔に紹介されていて、民族の多様性がよく理解できる。入場料も5ルピーと安い。小じんまりとしているが、ネパール人による運営ができる。

 その後、レークサイドへ行きチベット料理をたべた後、オールドバザールの、スニール・セラチャンさん宅をお邪魔する。スニールさんは現在、日本の中部大学で留学生の世話をする仕事をしながら、修士課程でマネージメントを勉強している。奥さんとお子さん、お母さんらにお会いしお話しをうかがう。奥さんは、今度日本に行くので、日本語を毎日勉強しているそうである。

 4月5日、IHC事務局長の田中さんと、スタディーツアー参加者の3人は、カトマンドゥへかえる。私は、ヒマラヤ保全協会事務所へ行き、トレッキングの前に約束してあった、KJ法の英文ガイドを作成する。その内容(目次)は以下の通りである。

  Basic Techniques of KJ Method
   1. Pulse Discussion
   2. Multi-Step Pick Up
   3. KJ Method 1 Round
   4. Structural Estimation
   5. Fieldwork
   6. 6 Round Cumulative KJ Method

 スタッフのナル=バハドゥールさんに、これらのうち今回は1〜4までを解説する。今後、これを発展させて、"A Guide to the KJ Method"を作成する予定である。一緒にまたKJ法を実践することを約束して、事務所を後にする。

 その後、トリブバン大学プリティビ・ナラヤン(PN)・キャンパス内にある、自然史博物館(Natural History Museum)を見学する。ヒマラヤにおけるチョウの棲みわけの図は見事である。標高があがるにしたがって、きれいに分帯がなされている。カリガンダキ川ぞいの例を図で示しながら、写真が展示されている。また、動物の棲みわけ図も示されているが、チョウほど明瞭に分帯はできないようだ。標高差による棲みわけ・分帯成層構造はヒマラヤの特徴であり、それを理解するためには、ある標準地域(モデル地域)をえらび、徹底してローカルに見ていくのが理解のたすけになる。また、ヒマラヤの断面を切って、断面図をかいてみると非常にわかりやすい。ただし、博物館は、アクション・プランがないと死んでしまうと感じた。

ネパールからナマステ >>>全体目次
1.ネパール語をまなぶ
2.シーカ谷
>>>3.王宮事件
>>>4.ネパールの危機
>>>5.ネパールガイド
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