ネパールからの帰国報告 |
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総合的なアプローチが重要 それでは、講演要旨にしたがって話をつづけます。 要旨の2番目の「ネパール・ヒマラヤの世界をみる」ということで、私は、トリプバン大学の地質学科に勤務していてましたので、地質学という学問の特性上、ネパール各地に野外調査にでかけました。地質学では、調査・研究の手段としてフィールドワークが必須です。 こちらにネパールの地図があります。ネパール中央からやや東に、首都カトマンドゥがあります。私たちは、極東部のタプレジュン、西部の、観光地で有名なポカラからムクティナートなどへ調査へでかけました。また、極西部の地域にもいきました。ポカラの南、インド国境にちかいところにルンビニがあり、ここは、お釈迦様が生まれたところです。インド領にちかいですが、今はネパールの領土内にあります。このあたりにもいってきました。 トリブバン大学地質学科の2年生は、カトマンズにちかいところで野外実習をします。3年生は、ルンビニとポカラの中間のタンセンのあたりでおこないます。 ネパールの自然環境のパターンとしては、これらのフィールドワークでほぼ全部をみることができました。 これは、ネパールの地質をあらわした地図です。南(下)の黄色いところがタライです。地形と地質の区分はほぼ一致しています。 そして、カトマンズ盆地はなぜ「ヘソ」になったのかというと、ヒマール(高ヒマラヤ)の岩盤が、北から南側へおしだしてきたからです。地質学的には、地下深部の岩盤がおしだてきて盆地をつくったということができます。 ネパールは緯度的には沖縄とおなじぐらいのところに位置していますが、ここカトマンドゥは、標高が約1300メートルもあるので、その分すずしくなり、温帯の気候をもちます。夏はそれほど暑くなく、冬はそれほど寒くはなりません。大変すごしやすいところです。 カトマンドゥ盆地には、かつては湖があったので有機堆積物が堆積しました。これが肥沃土となり、高い農業生産性をうみだし、カトマンドゥの集約農業を可能にしました。また、ここには灰色の粘土層も分布しています。これをかためて乾燥させ、高温でやくと良質な赤茶色のレンガができます。つまり、湖の堆積物からレンガが生産されているというわけです。カトマンドゥが全体的に、赤茶色の感じがするのは、建物にこのレンガがつかわれているためです。これらの湖成層はかなり厚いので枯渇する事はかんがえられていまん。 そして、15世紀には、ここに都市国家が形成されました。都市国家をささえるゆたかな自然環境がもともとこの地にはあったからこそ、高度な文明が発達しえたのです。カトマンドゥ盆地は、地形・地質的な意味あいのみならず、文明的な中心という意味においても、ネパールの「ヘソ」になっています。 ネパールは、ひろさでは北海道の2倍くらいしかない小さな国なのに、なぜインド領にならずに独立をたもったかというと、カトマンズ盆地の都市国家文明がふるくからあった、文明的中心があったということがひとつの理由だとかんがえられます。 ネパールの人口密集地帯は、パハール(低ヒマラヤ)で、この地域は標高約1000から3000メートルです。緯度は沖縄と同じでも、気候は温帯ですので、亜熱帯とはあきらかにちがう生活様式がみられます。 このパハール(低ヒマラヤ)は、いうまでもなくネパールの中軸であり、山岳国家ネパールを特徴づけるものです。この「中軸」のパハールと、さきほど のべました「ヘソ」のカトマンドゥというふたつの観点がネパールを理解する上でとても重要です。中軸とヘソがネパールの基本構造であり、このことをよく理解しておくことが、ネパールでいろいろな活動をしていくうえでとても重要になってきます。 そして、「中軸」と「ヘソ」があったからこそ、ネパールは、山岳国家としてのつよい独自性をもちちづけ、インドなどに吸収されることはなく、独立をたもちつづけたともかんがえられます。 このような話は、自然環境から人間社会までの全体をとらえる、あるいは、自然史から文明をときあかすといった、総合的なものであり、私の基本的な論法です。従来の自然科学者や民族学者などは、自分の専門分野の枠組みから外へでることはありませんでした。自然科学とか文化人類学とかいったふるい枠組みにとらわれているかぎり、現在問題になっている環境問題や国際協力のような総合的な問題は解決できません。そこで、このようなことをここでのべたわけです。
ヒマラヤは崩壊している さて、このように、自然環境から人間社会までを総合的にとらえながら、私は活動をつづけました。総合的にとらえるとは、いいかえれば、ネパールを、あるいはある地域を、「人間社会-文化-自然環境系」というひとつの体系としてとらえる観点にたつということです。これをモデル図にあらわすとこのようになります。このモデルにおいては、人間社会とそれをとりまく自然環境とをつなぐものが、その地域独自の文化(生活様式)ということになり、人間社会と自然環境とのたえまない相互作用の結果として独自の文化が生まれます。そして、このような体系を歴史的にもみていくことが大切です。 このような観点にたって、ネパールやヒマラヤの世界をみてみると、近年、人間社会の急速な変化にともなって自然環境の破壊がすすんでおり、人間社会と自然環境との調和がくずれてきているのが現実です。つまり、地域の体系はこわれてきているのです。ネパールでも、いわゆる近代化の速度はおどろくべきものがあります。 そして、この人間社会と自然環境との不調和こそ、いわゆる環境問題の本質であるとみなすことができます。 私たちは、このような仮説を検証するために、ネパール極東部のタプレジュン地域と、ヒマラヤ保全協会が活動しているシーカ谷地域を重点的に再調査しました。 タプレジュン地域でも、山崩れにともなう環境破壊は確実にすすんでおり、そのことは、そこにすんでいる人々はよく知っています。現地にいって村人にきいてみると「地面が下へうごいているんだよ」といっていました。村に大きな危険がせまっています。 一方、ヒマラヤ保全協会が活動をつづけているシーカ谷地域でも森林破壊がすすんでおり、約30年前に撮影された写真と現在とをくらべてみると、森林の面積は約半分にまでへっています。そして、たとえばパウダル村では、家の数が約2倍になっており、人口増加と森林破壊との間には密接な関係があることがわかります。 森林の面積が少なくなり、土地がよわくなると、地滑りや斜面崩壊などの山崩れがふえてきます。村のお年寄りから話を直接きいたところ、たしかに地滑りがふえていて、今でも土地が川へむかってすべりおちているとこたえました。 近代化にともなって、人口が増加し、土地開発がすすみ、森林が破壊され、山崩れがふえ、自然災害がおきやすくなる。このようなことがヒマラヤではおこっているのです。 私たちは、次の集中豪雨によって、地滑りがおこりやすような地域をいくつか確認しました。危険なところに住んでいる住民には注意をうながしましたが、山奥であるため日本のように対策工事をおこなうことはできません。したがって、住民は、注意しながら生活し、危険を察知したらすばやく避難するしかありません。 このように、山岳立国ネパールでは、自然災害をいかに軽減するかは大問題になっています。
ネパールはどうなるのか 去年の6月1日、私は、フィールドワークで、ネパール極東部のタプレジュンに滞在していました。そのとき、ネパール国王一家全員が殺害されるという衝撃的な事件がおこりました。ネパール国内のすべての交通機関と経済活動がストップしました。なぜこのようなことがおこったのか、様々な憶測がとびかい、事件の真相はよくわかっていませんが、私にとっては、この事件が、ネパールの社会と歴史を根本的にみなおす機会になりました。 ネパールは、1990年に王制から立憲君主制に移行しました。前にもうしあげましたようにネパールは多民族国家です。したがって、民族内部でのまとまりは非常につよいのですが、様々な民族と民族とをどうまとめ、国家として統一していくかはネパールの大きな問題になっています。民族同士の対立は比較的すくない国ですが、それでも少数民族の中には不満をもっている人がいます。 このような情勢の中で、ネパール国王は、ネパールの民族統合のシンボルとして、きわめて大きな役割をはたしていたというのが私の見方です。英国連邦の女王は連邦統合のシンボルですが、ネパール国王は民族統合のシンボルです。逝去されたビレンドラ国王には特に絶大な人気があり、民族をこえて多くの国民からしたわれ、カリスマ的な存在であったので、そのような方が亡くなられたということは、ネパールにとって非常に大きな損失です。とりかえしがつかないことになりました。国の中心をうしなったネパールは、これからどうなるのでしょうか。
国際協力の実践 この事件以後、反体制武装組織の活動が活発になり、ネパールは治安が大変わるくなりました。最悪の場合は、協力隊活動の任期を短縮して、帰国しなければならないという情勢です。私の任期はまだ1年弱のこっていましたので、最悪の事態がおこっても悔いがのこらないように、自分にできることを着実にひとつひとつやっていこうとおもいました。 協力隊には、必要に応じて任期を延長できる制度もありますが、そのようなことはせず、期限をはっきりくぎり、計画をしっかりたてて、あたえられた任期・時間の中でできることだけをやろうと決意しました。いいかえれば、期間内でできないことには一切手をつけないということです。 私は、人材育成と現地人の参画を中心的課題にして活動をすすめることにしました。国際協力をすすめる場合、外国人がいくら援助をしても、現地に人材がそだたないかぎり、そして、何といっても、現地の人々がやる気になって主体的に行動し、地域づくりなどに参画していかなかぎり、事業は継続せず、また人々や国の自立もありえないわけです。 そこで私は、私が指導している学生をフィールドワークに積極的につれだし、また、ヒマラヤ保全協会が現在協力しているパウダル村で参画的な事業展開をおこなおうとかんがえました。 私たちは、ふたたびシーカ谷地域へいき、地滑り等分布図を作成しました。この地域で、このようなマップがつくられたのは初めてのことです。このような作業を通じて、学生は実践的にいろいろなことをまなびました。また、パウダル村では、KJ法も活用しながら、チーズ製造プロジェクトを推進しました。 その後、昨年の11月になると、反政府武装組織の武装闘争が再開され、国家非常事態宣言が発令されました。ネパールの治安はいっそう悪くなり、フィールドワークもおもうようにできなくなりました。
フロンティアを開拓せよ 最後に、まとめと結論です。私は、ネパール全体を、あるいは個々の地域を「人間社会-文化-自然環境系」としてとらえ、これを基本仮説あるいはモデルにして、調査・研究と国際協力の実践をおこなってきました。 その結果、ネパールでは、急速にすすむ近代化の影響により、人間社会と自然環境との調和がこわれ、「人間社会-文化-自然環境系」の再生が急務になっていることがあきらかになり、それに対処するために、人材育成と現地人の参画を基本に活動をすすめました。 ここでの重要なポイントは、総合的なアプローチをおこない、それに歴史的考察をくわえていくということです。 総合的アプローチというと、かけ声だけは最近多いですが、本当に実行するのはかなりむずかしく、実際には、課題をめぐる情報を全体的に記述・記載し、それを報告書にまとめるだけでおわっています。なぜそうなるかというと、それは、基本仮説あるいはモデルをもたないからです。基本仮説あるいはモデルとは、全体状況を一気にみわたすことができる、きわめて単純化された図式のことです。 自然科学者であるとか、民族学者であるとか、何々の専門家だとかがいくら専門的なことをくりかえし、それらをたしあわせていても、結局、過去の失敗をくりかえすだけです。専門分野は、総合的方法の中に位置づけてつかっていくべきものなのです。 人材育成という点では、私は、研究即教育・教育即研究ということを心がけました。フィールドワークはそのための具体的な方法であり、調査研究を現地でおこないながら、同時に、つれだした学生の教育を実践的におこなうことができました。教え子のひとりは、現在、北海道大学大学院に留学し地球物理学を勉強しています。また、現地人の参画という点では、ヒマラヤ保全協会の会長である川喜田二郎先生が開発したKJ法を実践しました。KJ法は同時に総合的な方法でもあります。 また、国際協力では、従来のやり方をくりかえしているだけでは意味がなく、フロンティア開拓が必要です。この使命を特にになっているのが青年海外協力隊です。国際協力でネパールに入る人は近年非常に増加していますが、いわゆる専門家も、あるいはNGOもほとんどは首都あるいはその周辺で活動しているにすぎません。その点、ヒマラヤ保全協会は長年山奥で活動しており、大変よくやっているとおもいます。青年海外協力隊の隊員も地方に派遣される場合が多く、そこには危険もありますが、特に若い人は、フロンティア・スピリットをもって、どんどん奥地へ入ってほしいです。フロンティア開拓とは、このような地理的なフロンティア開拓を意味するだけではなく、あたらしい領域・分野を開拓する、あるいは、あたらしい方法を開拓するという重要な側面もあります。このような仕事こそ若い人の仕事です。そして、現場をみて現地の実態をつかんだら、機会をみてそれを報告してください。
問題解決の三段階循環モデル 最後に、私が今回たどってきた道のりをまとめておきます。 第1に、ネパールに派遣される前に、青年海外協力隊の派遣前訓練をうけました。これは、国際協力をこれから実践するにあたっての「問題提起」の段階です。国際協力という課題を通して、世界がかかえる問題の大局をつかみました。 第2に、現地に入り、現地の「情報収集」を徹底的におこないました。 そして、第3に、あつまった情報にもとづいて、ネパールの「状況判断」をおこないました。これは、いいかえれば課題をめぐり仮説をたてるということです。 第4に、状況判断あるいは仮説にもとづいて「実験」をおこないました。これは、仮説あるいはモデルを検証する作業であり、そのためのテストを何回かおこないます。 第5に、実験の結果をふまえて、その後の活動の「構想」をねりました。これは、計画をたて、任期の後半戦の目標を明確にするということです。ここで重要なことは、できることに目標をしぼるということであり、できそうにないことは重要であっても目標に入れないことです。 第6に、構想を「実施」にうつします。つくった計画を実行するということです。ここまでが現地での活動です。 そして、第7に、日本に帰国してから「本質論」をおこないます。これは、いままでのプロセスすべてをふりかえり考察をおこない、課題・問題をめぐる本質をあきらかにする段階です。この考察にもとづいて、今日ここで帰国報告会での発表をおこなっているわけです。 つまり、私がたどってきたプロセスは、(1)問題提起、(2)情報収集、(3)状況判断、(4)実験、(5)構想、(6)実施、(7)本質論、ということになり、(1)と(7)は日本で、(2)〜(6)は現地でおこないました。 これを図示したのがこちらのモデルであり、この図は、これらを、3段階を1ユニットにして循環的に展開していくということをしめしています。このモデルでいうと、(2)→(4)→(6)のラインは、現場でのフィールドワークあるいは実践のラインであり、(3)→(5)→(7)のラインは思考・理論のラインになっているます。したがってこのように、実践と理論とを往復しながら、あるいは、フィールドワークとオフィスワークとを往復しながら国際協力の仕事をすすめるのがよいとおもいます。 今後、ある程度の期間 現地に滞在しながら国際協力をやろうという方は、このような方法を参考にしてやってみるといいでしょう。 以上で私の活動報告をおわります。ありがとうございました。
質疑応答
参加者の感想
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