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上山春平著『受容と創造の軌跡』(日本文明史 第1巻 日本文明史の構想)角川書店、1990年

目次

序説 日本文明史の基本構想
第一部 文明史とは何か
第二部 人類文明史の時代区分
第三部 日本文明の時代区分

要点

 「文化」とはある社会集団の生活様式のことであり、「文明」とは、ある水準以上に発達した社会における広範囲におよぶ共通な文化である。ここで「ある水準」とは「都市革命」あるいは「産業革命」をさし、「都市革命」は経過したが「産業革命」を経過していない文明を「第一次文明」、「産業革命」を経過した文明を「第二次文明」とよぶ。
 紀元前8000年〜6000年ごろ、イラン高原の中部から北メソポタミアの台地、シリア、パレスティナにいたる「肥沃な三日月地帯」に、ムギの栽培とヒツジ・ヤギ・ウシ・ブタなどの飼育をおこなう村落が成立しはじめた。紀元前4000年以降、メソポタミア低地をとりまく丘陵の上に発達した村落の住民たちが、チグリス川とユーフラテス川流域の低地に都市をつくりはじめ、紀元前3000年ころには、人類最初の国家をつくった。文明の成立という観点からみて注目されるのは、丘陵地帯で蓄積された技術をもちいて、低地の氾濫原を開発したことである。丘陵地帯の農耕や牧畜が、あたえられた自然環境に対する受動的適応の範囲をでないのに対し、低地の農業には、自然環境をつくりかえようとする能動的な態度がはっきりとみとめられる。これを転機として、人類は、国家の時代、文明の時代に入った。
 日本における「第一次文明」の成立の時期、つまり「自然社会」から「農業社会」への転機は、西紀700年前後である。時代区分の観点からもっとも重要なのは、701年の「大宝律令の完成」である。日本文明は中国文明の周辺文明としてスタートし、1600年以降の江戸時代に大衆的規模における成熟をしめした。しかし19世紀後半の明治維新を転機として、西欧文明の周辺文明となって、「第二次文明」の世界に転入した。

コメント

 本書は平易な日本語でかかれており、きわめてわかりやすい。本書をよめば、文明史の大きな構想のなかで日本の歴史を明確にとらえなおすことができる。また、「文化」と「文明」のちがいを明快に理解することもできる。
 歴史的時間的にとらえれば、文明とは高水準に発達した文化のことである。中国文明・ヒンズー文明・チベット文明・イスラム文明・ビザンチン文明・西欧文明といったとらえかたはこれに属する。
 一方、地理的空間的にとらえれば、「文明」はかなりのひろがりをもつが、その全体の部分は「文化」とよぶことができる。相対的にみて、普遍的な「文明」と特殊な「文化」ということである。関東の文化と関西の文化とはちがうなどというときはこれを意味する。
 このような見地にたてば、照葉樹林文化は「文化」とはいえても、「照葉樹林文明」とはいえない。照葉樹林文化は、日本においては、西紀700年以前に存在した「文化」であり、それが日本の基層になって、その上に中国文明がかさねられ、日本文明が成立したとかんがえられる。したがって、照葉樹林文化を研究することは日本の深層を探求することにもなってくる。
 上山春平氏の構想は、今西錦司教授を中心とする共同研究グループの活動の中からうまれたという。そのメンバーは、梅棹忠夫・川喜田二郎・中尾佐助・飯沼二郎・角山栄・伊谷純一郎・岩田慶治・和崎洋一・藤岡喜愛・谷泰・米山俊直・佐々木高明・飯島繁などで、だれもがフィールドワークの経験者であった。中尾佐助氏の「照葉樹林文化論」も、上山春平氏の「日本文明史の構想」も、梅棹忠夫氏の「文明の生態史観」もこのグループの活動の中からうまれたおちた。


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2005年2月11日発行(C)田野倉達弘