6.国際協力の展開
ジュルガート
> ジュルガート(対岸はインド)

<目次>

(1)地震対策シンポジウムが開催される
(2)シーカ谷の写真判読をおこなう
(3)地球温暖化により氷河湖が決壊する
(4)シーカ谷の地滑り図をつくる
(5)ネパール極西部を検証する
(6)チトワン国立公園をみる
(7)パウダル村での国際協力
(8)住民参画による問題解決
(9)国家非常事態宣言が発令される
(10)タンセン地域で学生野外実習をおこなう
(11)バッタライ先生とともに

(1)地震対策シンポジウムが開催される

 2001年9月7日。一般市民を対象にした、カトマンドゥ市の主催による「地震対策シンポジウム」が開催される。

 カトマンドゥでは、国際協力事業団が大々的に協力しながら、地震研究・地震防災に関する調査・研究・対策立案のプロジェクトがすすめられている。カトマンドゥ市防災局は、被害予測の研究、地図作製、防災関係者のトレーニング、市民の意識向上のための集会・デモ、資料・ポスターの配布などの防災対策をすすめている。

 カトマンドゥにはレンガづくりの家が多く、耐震構造がなされていないので横ゆれによわく、巨大地震が発生した場合には家がくずれたり、くずれたレンガの下じきになる人が多数でるなどして、大きな被害がでると予測される。建物の構造を強化したり、道路を拡張するなどの提案はなされているが、実施はほとんどされていないのが現状であり、また現在までのところ、地震発生のメカニズムは解明されたが、社会的に役立つ精度での地震予知はできない状況である。

 会場で配布された一般市民向けポスターには、地震が発生したときの行動の仕方が絵でえがかれており、地震発生時には、あわてて外にでない、机の下やドアの枠の下に待避する、頭をかくす、ガスをとめる、窓やガラスからはなれるなどのことが記載されている。また、カトマンドゥ市地震災害軽減パートナーシップの登録がおこなわれ、e-メールアドレスなどを参加者各自が市に登録する。

 最近、アメリカの「サイエンス」誌で「ヒマラヤで大地震がおこる」と発表されたことをきっかけにして、「カトマンドゥで大地震が近々おこるらしい」といううわさがながれ市民がさわいでいる。しかしサイエンス誌の情報では、あくまでもヒマラヤで地震がおこるとのべているようであり、カトマンドゥでおこると断定しているわけではない。ヒマラヤも日本列島とおなじで、プレートテクトニクスでいうプレートの境界に位置するため地震多発地帯になっており、したがって、ネパールのどこにすんでいても常日頃から地震対策をすすめておく必要がある。

(2)シーカ谷の写真判読をおこなう

 9月24日。今日は、トリブバン大学地質学科の大学院生スベス=ギミレ君とともにネパール測量局にいく。スベス君は、ネパール極東部・タプレジュン地域を昨年の秋に一緒に調査した学生であり、彼はその後、「タプレジュン地域の地質学と変成岩岩石学」というテーマでその調査結果を修士論文にまとめ、口頭発表をさる7月におこない、トリブバン大学から理学修士の学位を授与された。今回は、来月ふたたび調査するシーカ谷地域の空中写真判読をおこない、地滑り・斜面崩壊、岩石の分布状況などについてしらべ、フィールドワークのための基礎データをあつめる。

 前回までの現地調査で、シーカ谷の地層は、千枚岩(せんまいがん)と珪岩(けいがん)とで構成され、谷をながれる川をはさんで南側は「流れ盤斜面」、北側は「受け盤斜面」になっていることが確認されている。

 空中写真をみると、この地域は大部分が千枚岩地帯になっているが、川沿いや尾根筋には珪岩が分布しているようだ。千枚岩地帯は耕作地になっていて、珪岩地帯は集落や崖になっている。そして、川の南側の流れ盤斜面には大規模な地滑りがおこっており、その分布域をよみとることができ、それらを地形図に記入する。

 これらのデータにもとづいて現地で精査をすることにする。

(3)地球温暖化により氷河湖が決壊する

 9月26日。今日から3日間、ネパール地質学会の総会がカトマンドゥで開催される。地域地質学・構造地質学・地形学・水理地質学・鉱床学・応用地質学のそれぞれの専門分野の地質学者たちが研究発表をすすめていく。

 発表の中で、私が特に興味をもったのは、応用地質学部門の、ヒマラヤの氷河湖決壊の危険とその危機管理に関する研究発表である。高ヒマラヤ(ヒマール)には、いうまでもなく多数の氷河が存在しており、近年、地球温暖化の影響で、氷河が縮小・崩壊し、その末端部にある氷河湖が決壊、下流域に大規模な災害をもたらすことが大問題になってきている。

 ネパール政府は、外国の援助をうけて、水路をつくり氷河湖の水をぬき、水位をさげる対策を実施し、危険を予測し、危険警報装置の設置などの危機管理をおこなっているが、それは一部の地域にかぎられている。世界的な問題になっている地球温暖化の影響はこのような形でもあらわれてきており、ここヒマラヤでは深刻な状況になってきているのである。

(4)シーカ谷の地滑り分布図をつくる

 2001年10月1日。私は、トリブバン大学地質学科大学院修士課程の大学院生、スベス=ギミレ君とともに、ネパール西部シーカ谷地域でフィールドワークをおこなうために、まずポカラに入る。今日からフィールドワーク再開である。シーカ谷は3回目になる。

 ポカラのホテルでトリブバン大学地質学科のL.P.ポーデル先生の論文をよみ、この地域一帯の地質構造と地質層序を確認する。低ヒマラヤの地質層序は、地質学科2年生の野外実習地域であるマレク地域のそれと同じである。

 今回は、今までえられたデータにもとづいて現地を精査し土地保全・防災に役立つ、地滑り・斜面崩壊の地図をつくることを目的にし、同時に、国際NGO・ヒマラヤ保全協会のポカラ・オフィスと、その活動村であるパウダル村にいき、土地保全や地域活性化事業の進行状況について確認し、今後のすすめ方について打ち合わせをおこなうことにしている。

 また、スベス君には、ネパール西部カリガンダキ川ルートの地質を理解してもらい、同時に、応用地質学的素養もやしなってもらうことにする。

 10月2日、午前8時。私たちはポカラをバスにて出発、午後1時半、ベニに到着する。今年の春にきたときについで私は3回目のカリガンダキ川であり、なつかしい。ここからは、カリガンダキ川をあるいて北上していく。千枚岩を主体とする低ヒマラヤの地層がどこまでもつづく。所々に砂岩と珪岩をはさむ。午後3時、今日の宿泊地であるガレスワールにつく。ちかくのラウガート川をしらべると、周辺は、細粒の千枚岩である。河川敷には、眼球片麻岩(がんきゅうへんまがん)と角閃岩(かくせんがん)の巨礫がある。

 10月3日。ガレスワールを出発、北へむかってあるきはじめる。千枚岩の地層に砂岩と珪岩がはさまれている。互層(交互にくりかえしかさなった層)もある。地層は、北へいくほどしだいに北落ちが明瞭になってくる。夕刻、温泉の村タトパニに着く。

 10月4日。今日は、スベス君が「主中央境界断層の露頭をまだみたことがないので、是非みたいです」とかねてから言っていたので、みにいくことにする。

 タトパニから、カリガンダキ川を北へむかってすすんでいくと、おもに千枚岩からなる低ヒマラヤの地層がつづき、以前と同様に河岸段丘がみえてくる。地層の傾斜はしだいに大きくなり、岩石の粒度も目にみえて大きくなってきて、千枚岩から片岩(へんがん)になってくる。途中とおった村ダナには、反政府組織マオイストのポスターがはってある。「赤旗の元で国を発展させよう!」

 しばらくいくと、今年の1月にあるいた道はなくなって、そのかわり河床にあたらしい道ができている。そのあたりは地形が前とはかわっていて、斜面崩壊がおこったことがわかる。大雨のときにくずれたのだろう。その崩壊地をすぎると高ヒマラヤの片麻岩の地層にぶつかる。私たちは、斜面をのぼりふるい道をすこしもどる。「これだよ」と、主中央境界断層の露頭までいきスベス君にしめす。「とてもはっきりした断層ですね」スベス君はちかづいて観察し、写真をとる。その露頭は以前とまったくかわりはなく、ヒマラヤの地殻変動をしめすみごとな断層である。

 そばの斜面崩壊は、千枚岩〜片岩の低ヒマラヤの地層でおこっていて、高ヒマラヤの片麻岩のかたい地層ではおこっていない。千枚岩〜片岩は非常に風化しやすく、崩壊しやすいことがよくわかる。

 断層の観察をおえ、私たちは高ヒマラヤの片麻岩地帯を北へしばらくすすみ、大きな滝までくる。地形は急峻である。そこで記念写真をとって、スベス君とヒマラヤ形成の地殻変動などについて議論しながら、宿泊地のタトパニへひきかえす。彼は、「日本にいって、地球物理学、特に地震学を勉強したい」という。

 10月5日。今日は、シーカ谷の北側斜面を調査しながら、パウダル村までいくことにする。

 朝8時、タトパニを出発。対岸には、千枚岩の地層と珪岩の地層の境界がよくみえる。岩石のかたさにちがいがあるために、差別浸食がおこったり、地滑りがおこっており、それが地形にはっきりあらわれている。珪岩が千枚岩の上をすべったということもよくわかる。谷底をながれるガーラ川の北東斜面をしだいにのぼっていくと、千枚岩の地層に、珪岩のうすい層がはさまれている。所々に砂岩のうすい層もある。しばらくいくと、急斜面の上にひろがる集落がみえてくる。パルダル村だ。この村は、アンナプルナ・ヒマールの南側、ガーラ川の北東側斜面、カリガンダキ川の東側に位置している。

 スベス君は話す。「そもそも、パウダル村の『パウ』とはサンスクリット語でフィート(足)を意味し、『ダル』(正確にはドゥワル)とはゲート(門)を意味するんです。その昔、ガーラ川やカリガンダキ川に橋がかかっていなかったころ、ヒンドゥー教の巡礼者達は、パウダル村を通って聖地・ムクティナートへむかいました。パウダル村は、巡礼者達がその最初の一歩を踏みいれた地であり、ムクティナートへの入り口でした。私の祖父もここをとおりました。今は、ガーラ川とカリガンダキ川に、サスペンション・ブリッジがかかり、ムクティナートへむかう道は、パウダル村の対岸のガーラ川南西側、カリガンダキ川西側のルートがつかわれ、パウダル村に巡礼者がおとずれることはほとんどなくなってしまいました。」

 昼ごろ、パウダル村に到着。私は2回目である。この村では、(NPO法人)ヒマラヤ保全協会が協力してチーズづくりプロジェクトがはじまっており、チーズ販売による収益を学校の運営などに役立て、村を活性化しようとしている。チーズづくりがその後どうなっているのか、ギャン=バハドゥール=プン校長先生に、チーズ工場とその貯蔵庫をみせてもらいながら話をきく。チーズ工場は、学校の敷地内にすでに建設されており、また、チーズ貯蔵庫は、学校の校舎の一角の1階にある。

 「チーズの生産は順調にすすんでいます。しかし、パウダル村では、夏はかなり暑くなり、貯蔵庫内も高温になって、せっかくつくったチーズがくさってしまいました。特に日差しがつよい日にはチーズはどんどんくさっていきます。そこで、風通しがよくすずしい別のオープンハウスにチーズをうつしたところ、今度はネズミがきてチーズをかじってしまったんです。チーズの貯蔵のためには、8〜12度Cをたえずたもつ必要があります。パウダル村は、元々チーズはつくっていない地域であり、気候がむいていないようです。」ネパールでは、チーズづくりは、比較的高所で元来おこなわれてきた。チーズづくりにも、その土地の気候・風土が反映しているようだ。

 話はつづく。「今10月は、気温がさがってきたので、かなりよい状況になってきています。しかし来年以後のことをかんがえると、エアコンつきの貯蔵庫がどうしても必要です。パウダル村には電気はきているので、エアコンの設置は可能だとおもいます。そのためのプロポーザルを現在つくっています。

 その一方で、チーズの販売の努力もしています。ゴレパニやシーカ・タトパニといった、ロッジがたくさんある、トレッキングルート上の比較的大きな村々にチーズを実際にもっていって、買ってもらうように交渉をしています。ゴレパニでは、ホテルマネージメント協会と話をしました。トレッキングルートぞいのロッジには多数の外国人がおとずれるので、チーズの消費量はたしかに多いです。これらのロッジでは、ポカラなどからチーズを従来購入していますが、ロッジ側の話では、ポカラなどのものよりも低価格なら買うということです。そこで、パウダル村では1kgを300ルピーで販売しています。今後はムクティナートまで販売地域を拡大していくつもりです。」

 10月6日、朝8時。北に、ニルギリ・ヒマール南峰がかがやいている。そのニルギリを背にして私たちはタトパニを出発、今度は、シーカ谷の南側にあるガーラ村へむかう。急斜面にひっつくように家々が点在している。とおくの方には、千枚岩の地層の上にのった珪岩の岩場がみえる。地層・岩石の露出が非常によいため、双眼鏡をつかうと岩石の分布がよくわかる。やや高まった所はすべて珪岩の地層でできている。はるかかなたシーカ村のすぐ手前には、太陽光線があたってひかっている斜面がある。双眼鏡でよくみてみると千枚岩の地層であり、地滑りの滑り面に光があたって光沢を発していることがわかる。スケールの大きいヒマラヤの調査では双眼鏡は非常に有効である。珪岩の岩場をとおりすぎると、そこには馬蹄形の大きなくぼ地がひろがっており、その一帯はすべて千枚岩の地層からできている。上にかさなっていた珪岩の地層はすべて谷底にすべりおちたとかんがえられる。しばらくいってふりかえってみると、尾根筋には、千枚岩層の上に珪岩層がかさなっている地層の断面がよくみえる。

 11時半、ガーラ村につく。ここには三軒の小さなロッジがある。このあたりのトレッキングルート(登山ルート)では、ゴレパニとタトパニが非常に大きく、その次にシーカが大きい。ここガーラはトレッカーの通過点になってしまっており、宿泊する人はほとんどいない。トレッキングルートぞいでは、トレッカーが宿泊するかしないかで現金収入に大きな差がでてしまう。多くの人々が宿泊する村にはたくさんの現金がおちてロッジや店が繁盛して恩恵をうけるが、単なる通過点、あるいはルートからすこしでもはずれたところには何の恩恵もないのである。観光開発は、現金収入という点では、地域格差を拡大する効果ももっており、現金収入が多いところとほとんどないところとの格差はしだいにひろがっていくのである。私たちは、ガーラ村のナマステ・ロッジに宿をとり、今日から3日間はここに拠点をおいてフィールドワークをおこなうことにする。

 そのご私たちは付近をあるき、道で出会ったガーラ村の古老・アムリッド=バードルさんに地滑りについて話をきいてみる。「私はチェットリ族で今年60歳になります。このあたりは場所によって石や土の種類はずいぶんちがいます。地下水の味もちがいます。言葉もちがいます。表面にある白い土は大雨がふると水と一緒に下へながれていきます。晴れているときは強い土でも雨がふるととてもよわくなって、泥流になります。雨がふると土は塩のようにとけます。雨季には岩盤がそのままながれていくこともよくあります。」ここでいう白い土とは千枚岩の風化生成物のことであろう。古老の話は、土壌浸食は地滑りが雨季によくおこっていることをしめしている。

 10月7日。今日はまず、ガーラ村の校長バンバードル先生に話をきいてみる。「この村の西の方には、2つの地滑りが今おこっていて、土地がすこしずつ下へすべっています」先生は高台から西方を指でさしながら説明してくれる。地形をみるかぎり、非常にゆるやかな円弧状のスライディングがおこっているようだ。

 また先生は、「この村はチェットリ族の村ですが、ここから上の村はすべてマガール族の村になっています」とおしえてくれる。ガーラ村は標高が1700〜1800mの所に位置し、チェットリ族の領域は低所からここまであがってきており、ここはチェットリ族の領域の上限になっている。またここは水田稲作の上限でもあり、ここよりも上のマガール族の村々はすべて畑作をいとなんでいる。民族の境界と農業様式の境界とがみごとに一致していてとてもおもしろい。

 その後、私たちはガーラ村から南西へむかって斜面をのぼっていく。上からころがってきた珪岩の巨大なブロックがごろごろしている。しだいに高度をあげていくと、北の方にはアンナプルナ・ヒマール南峰が白銀の頭をしだいにだしてくる。そしてさらにのぼっていくと、アンナプルナ・ヒマールとその西側のダウラギリ・ヒマールがその山群の全容をしだいにあらわしてくる。ヒマールは北のチベットへむかって、はるかかなたへとつづいていく。チベットへむかってつらなるふかい山々、かつて探検家たちはこの風景をみて、未知の世界へといざなわれたのである。あの山のむこうはどうなっているのだろうか?ここに探検家たちの原点があり、かつてヒマラヤは大きな探検の世界であった。

 午前9時、標高約2050mキバン村につく。ここはマガール族の村であり、下のチェットリ族と上のマガール族とはきれいにすみわけている。比較的大きな学校があり子供たちがあそんでいる。水泳用のプールがあるが、土砂でうまってしまって今はつかえない。土砂崩れはあちこちでおこっている。「ヒマラヤ保全協会の苗畑はどこにある?」とちかくにいる子供たちにきいてみると、「こっちだよ」といって案内してくれる。村のすこし上にその苗畑があり、ここでも、森林再生の努力が国際協力によりつづけられている。

 斜面をさらにのぼっていくと地滑り地がある。千枚岩層の中にうすい粘土層がはさまれていて、そこが滑り面になっている。粘土層は変質していて灰緑色をしている。そばにいる村人にきいてみると、「家をたてたらすべってしまったんだよ」という。

 次に北西の尾根まであるいていくと、千枚岩の地層の上位に珪岩の地層がかさなっている。その境界は、千枚岩と珪岩とのうすい互層(交互にくりかえしかさなった層)になっており、千枚岩は灰緑色に変質しており、そこが岩盤滑りの滑り面になっている。

 そして私たちは、尾根の東側にひろがっている、校長先生が今朝おしえてくれた地滑りをたしかめにいく。ガーラ村の西方は耕作地にはなっていないで、家畜の放牧地になっている一帯がある。多数の水牛が草をたべていて過放牧になっている。そこは土壌が非常にうすく土壌浸食がはげしい。上の方には段差地形があり、土地には地割れがたくさん発達していて、地割れの最大のものは、長さ100m、幅3m、深さ5mもある。ここから地中に水が入り、地滑りを促進している。森林は尾根筋にのこっているだけで一部には松を植林しているが、地元の人々は広葉樹をほしがっているという。このような状況から、この一帯は大地滑り地帯であることはあきらかである。ガーラ村の校長先生の話は本当であった。シーカ谷の谷底をながれる川が地層の浸食をつづけており、浸食をくいとめることはできないので、地滑りはかぎりなくつづいていく。

 夕刻ナマステ・ロッジにもどる。今日は、オーナーの奥さんと5人の子供たち(うち女の子3人)が買い物からかえってきている。「私たちはむこうのパウダル村からきたんです」と彼らにいうと、「パウダル村ではこのごろチーズをつくっているよ。僕たちは、パウダル村に行って、2kgのチーズを570ルピーで買ってきた。とってもおいしいチーズだよ」と子供がこたえてくれる。その後、奥さんが夕食のダルバートをつくってくれる。チェットリ族のダルバートである。

 食事の後、奥さんの話がつづく。「昔々、このあたりには、ヒンドゥー教の立派なお寺がありました。そこにはひとりの高僧がいて、昼間は、村人のためにお説教をし、お祈りを毎日つづけています。この高僧は それはそれは立派なかたで、誰からもしたわれ尊敬されています。

 ところで、このあたりには夜な夜なトラが出没して、何頭もの家畜がトラにくいころされています。村人たちはこの凶暴なトラを大変こわがり、何とかならないものかとおもっています。

 ある時この村のひとりの男が、高僧は夜は何をしているのだろうかとおもい、寺の壁の隙間からそっと中をのぞいてみました。するとどうしたことでしょう。高僧はみるみるトラに変身し、村にでかけていきます。そして、おどろいたことに家畜にくいつき、生き血をすいはじめたではないですか。 翌日、男はこの事実を村人たちに話し、村の男たちは一丸になって寺へいき、この高僧をころしました。昔々の物語です。」

 10月8日。朝からラジオネパールがくりかえしつげる。「昨日、9月11日のアメリカ同時多発テロに対する、アメリカ軍による報復攻撃がアフガニスタンではじまりました。」こんな山奥にも、世界のニュースはリアルタイムでつたわってくる。

 今日は、ガーラ村の南東方向へむかってすすんでいく。かたい珪岩の地層が地形的な高まりをつくっており、尾根沿いには、その巨大なブロックがごろごろしている。川をはさんだ対岸のパウダル村のすぐ下には、珪岩の急峻な崖がひろがっている。すこしいくと、地形はなだらかなくぼ地になる。珪岩はなくなり、軟質な千枚岩の地層がひろがる。千枚岩層の上位にかさなっていた珪岩層は岩盤滑りによって下へすべりおちてしまったのだろう。私たちは、まず肉眼で遠方を全体的にみて、次に双眼鏡で確認し、そしてそこへいって露頭(現場)をくわしくしらべ、マッピング(地図作製)をするという方法をくりかえしていく。

 さらにすすみシーカ村までくると、ふたたび珪岩層があらわれ、地形的な高まりをつくっている。シーカ村のすぐ手前には以前調査した巨大な斜面崩壊地がひろがっている。ここは、千枚岩層とその上位に累重する珪岩層との境界が露出しているところであり、千枚岩層の上を珪岩層が下方へむかって滑り落ちた現場である。したがって、珪岩層の上にのっているシーカ村は、地滑り災害が発生する危険が非常に大きい場所になっている。

 私たちはシーカ谷を通りすぎさらにすすんでいくと、どこかでみたことがあるネパール人がむこうからあるいてくるではないか。誰だろう。むこうも私たちに気がついた。アルジュン=アリャールさんだ。「ナマステ(こんにちは)。お元気ですか。1年ぶりに、こんなところで再会するなんて。まったくおどろきました。」彼は、1年前までトリブバン大学地質学科の講師をしており、その後、イギリスのケンブリッジ大学に留学してリモートセンシングと地理情報システムを専攻していた。彼は「先日、ケンブリッジで修士の学位を取得して帰国しました。今は、ガールフレンドとともにトレッキングをたのしんでいるところです。」という。私たちは、カトマンドゥのキャンパスでまたあう約束をする。

 そのご私たちは、シーカ谷南側斜面の上部をあるきながら、ガーラ村へとひきかえす。珪岩の岩盤滑り、千枚岩のスライディング、地滑りをしめす段差地形をみることができる。千枚岩層との境界付近の珪岩層には葉状構造が発達し、滑りやすくなっている。珪岩の崖の先端部では岩盤の転倒もおこっている。私たちはあるきながら、地滑り・斜面崩壊の形態として、岩盤滑り・スライディング・転倒の3種類を確認する。

 10月9日。私たちはガーラ村をあとにしてシーカ村へむかう。ここで宿を確保したのち、シーカ谷の谷底までおりていく。谷底をながれるガーラ川の南側は千枚岩層の流れ盤斜面、川の北側は珪岩層の受け盤斜面になっており、みごとなコントラストをみることができる。南側の千枚岩は軟質であるため川の流水で浸食され、それによりシーカ谷の南側斜面では地滑りや斜面崩壊が発生する。一方、対岸の珪岩は硬質であるため浸食されにくく、したがって、シーカ谷の北側斜面は急峻であるにもかかわらず安定している。予想以上に珪岩層は厚い地層となっており、この珪岩層が基盤になってシーカ谷北側の「受け盤斜面」が成立している。

 その後、北東へむかって急斜面を一気にのぼる。しばらくいくと、シーカ谷の北側の急な斜面がつづくなかにあって、比較的ゆるやかな特異な斜面がひろがってくる。パハールにうかぶ島のような土地に、緑の畑と集落がひろがってくる。スワット村である。この村はシーカ谷でもっともふるい村であり、地盤が安定していることにくわえ、すみやすさからいってふるくから人がすむのは必然である。

 10月10日。朝、ロッジが一瞬ガタンとゆれる。地震である。震度3ぐらいだろうか。地殻変動がおこっている証拠である。

 そのご私たちはファラテ村へむかう。ファラテの手前すぐ下のところに、大きな地滑り〜斜面崩壊地がある。ロッジの娘にきいてみると、「そこは、5年ぐらい前に大きな山崩れがおこったところです。今はうごいていません」とおしえてくれる。対岸にはスワットと厚い珪岩層がひろがっている。スベス君がいう。「ロッジでみた小冊子に、スワットには、200〜300年前には王様がいた。ここの人たちが、対岸に移住してシーカ村をつくったとかいてありましたよ。」

 10月11日。私たちはファラテを出発、9時半、ゴレパニ峠につく。かなりさむい。かなたにはダウラギリヒマールがみえる。それは、北側に傾斜した傾向の地形をしめし、プレートテクトニクスでいうプレートが北側へむかってしずみこんでいるという、大規模な地殻変動がおこっていることを感じさせてくれる。

 私たちは、一杯のチィヤ(ミルクティー)をのんで、このあたりではもっとも標高が高い、ちかくのプーンヒルへいくが、しだいにくもってきてしまい、ヒマールはみえなくなる。ロッジにもどり地質・地滑り分布図を完成させる。今回の踏査で、地滑り・斜面崩壊の分布が明確になった。今後の対策としては、今回の調査結果や図面を村に公表して、村人自身の努力や住民参画によって、それらの分布地域に重点的に植林をし、土地保全をすすめ、また、災害危険時の避難態勢を確立することがさしあたり必要だろう。かなりつかれたので午後はゆっくりやすむ。フィールドワークは苦楽である。

 10月12日。ゴレパニを出発、尾根づたいに東へとあるいていく。千枚岩の地層がつづいていく。しばらくいきバンタンティ村にくる。ここはもうグルン族の領域である。マガール族とグルン族とも明瞭にすみわけている。午後4時半、グルン族の大きな村・ガンドゥルンへ到着する。村には、石畳がしかれ、石積みの家がならんでいる。北東方向には、ポカラからもみえるマチャプチャレ山(標高6993m)がとんがり山を天につきさしている。町のうつくしさ、景観のうつくしさにはまったくおどろかされる。

 10月13日。私たちは山をくだっていく。途中、眼球片麻岩(がんきゅうへんまがん)の転石がごろごろしている。しばらくいくと、イギリスのNGOの協力により建設された、自然保護・教育センターがある。ささやかな施設ではあるが、環境破壊・戦争・病気・自然保護などについての展示・解説があり、誰でも自由に見学できるようになっている。ここでも、国際NGOによる地道な活動がつづけられているようだ。その後、トレッキングルートの入り口のビレタンティをへて、夕方には無事ポカラに到着する。学生のスベス君は、「今回はじめてこの地域にくることができ、ヒマラヤ山脈の変動について、以前に調査したタプレジュン地域と比較しながら理解することができました」という。

(5)ネパール極西部を検証する

 2001年10月20日。私と、大学院生のテズ=プラサット=ゴートムは、ネパール極西部ダデルドラに到着する。今回の調査は、シーカ谷地域やタプレジュン地域で確認された山崩れが、このネパール極西部でも同様なメカニズムでおこっていることを検証することを目的にしている。本来は6月に予定していた調査であったが、王宮事件のためにそのときはいくことができず、今回実施することになった。

 ダデルドラ・バザール周辺をあるいてみると、あたりは、低ヒマラヤの千枚岩の地層がひろく分布していることがわかる。

 翌21日、私たちは、ダデルドラのバザールから東へむかって道路ぞいをあるいていく。ネパール極西部は、ネパール東部や中部にくらべて人口が少ないのは目にみえてあきらかであり、その分、森林がのこっている割合が大きい。しばらくいくと、千枚岩層に貫入した巨大なカコウ岩の岩体がみえてくる。表面は風化しているが岩盤崩壊の危険はない。このあたりの地盤は比較的安定している。

 10月22日、ダデルドラの北にあるバイタリにつく。ここには、山奥であるにもかかわらず比較的大きなバザールが発達していて、さしずめ「極西部のタプレジュン」といったところである。あたりには千枚岩の地層がひろく分布していて、道路ぞいには斜面崩壊が多数発生しており、タプレジュンと同様である。

 10月23日、今日は、西へむかいインドとの国境の町・ジュルガートまでいくことにする。この一帯の地層も千枚岩から構成され、そこにはさまれる粘土層が滑り面になって地滑りが発生している。特に、林道をきった所に地滑りが多数発生している。このような山奥にまで開発の波はおしよせてきており、斜面をけずれば山崩れがおこるのは必然である。

 昼過ぎ、国境の町ジュルガートに到着する。はるばる山をこえてやってきたというのに、なんと、対岸には立派な舗装道路がついている。私たちは愕然とする。きくところによると、インドの首都デリーへの直行夜行バスが走っているという。やはりインドはよく開発されている。インドは文明国だ。

 10月24日、私たちはバイタリ・バザール周辺を調査、その後、宿で地質図を完成させる。短期間の調査ではあったが、ネパール極西部でも、私たちが調査してきたほかの地域と同様なメカニズムで山崩れがおこっていることが検証できた。

(6)チトワン国立公園をみる

 10月26日、私は、極西部からカトマンドゥにもどる途中でチトワン国立公園にたちよることにする。ネパールには現在13の国立公園・保護区があり、チトワン国立公園はそのうちのひとつであり、ほとんどの国立公園がヒマラヤの山地に位置しているのに対して、ここはインドに隣接したタライ平原にあり、しかも野生動物の巨大な生息地であることが特色である。それは、東西80km、南北23kmにひろがる広大なジャングルであり、北にラプティ川、西にナラヤニ川、南はサラの木がふかくしげった丘陵となっていて、一部はインドと接しており、一角サイ・トラ・ヒョウ・ワニ・シカにくわえ440種類以上の鳥たちなどの多くの動物たちが生息しているという。現在チトワンは、カトマンドゥ・ポカラにつぐネパール第3の観光地になっている。

 私は、ソウラハ村のロッジに宿をとり、今日はゾウ繁殖センターへいく。それは、小さな川をわたったところにあり、10数頭のゾウが飼育されていて、子ゾウだけが自由にあるきまわっている。周辺にはタルー族の土の家がたくさんみられる。タルー族は13世紀にこの地へ移住してきた、マラリヤをふせぐ技術をうみだしたこの地域の先住民である。夜は、タルー族の伝統的なスティック・ダンスをみる。

 翌27日、今日は川のむこうへジャングル・ウオークへいく。500ルピーを支払い、入園許可証をうける。ジャングル内はコースがさだめられており、公園内には公認ガイドと一緒でなければ入れない。ガイド料は1回300ルピーである。公認ガイド二人とニュージーランドからきた人と私の4人で、丸木舟にのって川をくだっていく。川にはワニがいる。30分ぐらいくだったところで舟をおりむこう岸におりる。

 ガイドによると、「ここ一帯はジャングルがのこされていて、かつては、タルー族の人々がすんでいました。今は1ヶ村をのこすのみで、ほとんどの人々は国立公園の外へ移住し、その村の人々も徐々に外へ移住をすすめているんです。」とのことである。

 しばらくいくとサイが1頭いる。私たちに気がついてにげていく。こんどはサルの群れがやってきた。サルは、木から木へと高木の上の世界を自由に移動する。ガイドは「サルは、森の上のモンキー・ロードをいくのです」という。私たちは底の世界をあるいている。

 午後は、エレファント・サファリ(ゾウ乗り)である。1頭のゾウに4人の観光客、ゾウ・ステーションがあり、ハシゴをのぼってゾウに簡単にのれるようになっている。ソウラハの街のなかをぬけ、草原をとおり、ジャングルへとわけいっていく。サイが数頭いる。ゾウはサイをこわがる。サイもものすごいいきおいで走ってにげる。

 10月28日朝7時、ロッジを出発、あるいて北のダディー・バザールへむかう。目前には、黒いパハールが、さらにそのむこうには白銀のマナスル・ヒマールとアンナプルナ・ヒマールが一線にひろがっていて、ネパールの巨大な三段構造を体験できる。ここタライからでもはるかかなたにヒマールはみえるのである。

 かつてタライ平原一帯は、亜熱帯の植物がおいしげる厚いジャングルでおおわれ、ゾウ・トラ・サイなどの多くの野生動物の楽園だった。1950年代以降、外国の援助によりマラリヤを撲滅し、ジャングルを耕地にかえる大プロジェクトがはじまる。タライ平原では現在ジャングルはほとんど姿をけし、各地に点在しているにすぎない。チトワンは元々は狩猟保護区であり、1961年にはサイ保護区に、1973年にはネパール初の国立公園に指定され、1977年には現在の区域まで面積が拡大され、1984年にはユネスコの世界遺産に登録され世界的にも注目されるようになる。

 ここはネパール有数の国立公園であり、自然保護と観光さらに先住民の共存の道を模索しており、自然保護と現地住民との共存が大きな課題になっている。ロッジの経営もカトマンドゥなどの旅行会社がおこなっており現地住民のタルー族とは関係がないが、環境保全と観光との接点をさぐりつつ、地域社会の雇用を創出したり、先住民の利益もはかり、調査や環境教育にも力をいれようとしているときく。チトワンが、ネパールにおけるエコツーリズムの発展のモデルになることを期待したい。

(7)パウダル村での国際協力

 2001年11月5日、私は、日本からきたヒマラヤ保全協会のメンバー3人とともに、カトマンドゥからポカラにふたたび入る。地域の発展のためには、自然環境の調査・保全をしているだけでは不十分であり、地域社会の活性化とともに、その社会と自然環境とを調和させるあたらしい文化あるいは技術を開発していかなければならない。今回は、その道をさぐるために、シーカ谷のパウダル村において住民参画方式の国際協力活動をモデル的に実践しようとおもっている。

 ポカラでは、ヒマラヤ保全協会のネパール人スタッフとともに、今回の活動について協議する。今回は、パウダル村の現状を再確認し、今おこなわれている「チーズ・プロジェクト」の進行状況を検証し、今後のすすめかたを村人とともに協議し、パウダル村の活性化の道をきりひらくことを目的にしている。

 11月7日、私たちはウレリをへて、ゴレパニにつく。ゴレパニのロッジでつかわれているチーズを調査したところ、ゴレパニでは現在、パウダル村産のチーズをどこのロッジでもつかっている。ポカラ産のものよりも価格がやすく、味もそん色がなく好評である。

 11月8日、私たちはゴレパニからシーカ村までおりてくる。雨がぱらついてきたとおもったら、バラバラと音をたてて大粒の雹がふってくる。それは機関銃の一斉射撃のようであり、あたりは冬のように急にさむくなる。先にいったポーターたちはどうしただろうか。雨季あけの10〜11月にかけては上昇気流が発生しやすく、タライとヒマラヤ山脈との温度差が大きくなり、山の南斜面にそってつよい上昇気流が発生するため雹がふることがよくある。それは収穫直前の田畑をおそい、多大な被害をもたらすこともあるという。すこしたつと雹はやんだが雨はやまない。この時期にはめずらしく大雨である。予定を変更して今日はシーカにとまることにする。ただし、荷物はすべて先へいってしまって何もない。毛布をかりてねる。

 11月9日、私たちはパウダル村に到着、校長のギャン=バードル=プン先生らがでむかえてくれる。私は今回で4回目の訪問である。

 打ち合わせをしたのち、チーズ工場をみせてもらう。チーズ工場は、学校の敷地にあった平屋建ての会議室を改造した小さなものであり、すでに完成しており、チーズの生産も順調にすすんでいる。

 同行したウムさんはいう。「乳酸菌がこのあたりでは手に入らないので、カトマンドゥまでかいにいかねばならず大変です。種菌をつぎたしてふやしています。」次に、チーズ貯蔵庫をみせてもらう。ギャン先生はいう。「夏場には、室内の温度が22〜26度Cまであがってしまうので、チーズがくさってしまいます。また、ネズミがきてチーズをたべてしまうのでこまっています。」

 次に学校のホステルをみせてもらう。ギャン先生は説明してくれる。「このホステルは、シンガポールの友人たちが寄付してくれたもので、家がとおくにあって学校までかようことができない14人の生徒がくらしています。」

 次に、博物館ならぬ博物室をみせてもらう。博物館は学校の校舎の2階の一角にある。「マガール族の文化保全と、それを外国人に紹介するためにつくりました。マガール族は、パハールの比較的上部で農耕をおこなってきた民族で、独自のマガール語をもっていますが、それがうしなわれつつあります。」

 次に学校の図書室をみせてもらう。図書室は学校の2階の一角にあり、ネパール語の本のほかにアメリカ人から寄付された英語の本、マガール語でかかれた本がある。それは小さな図書室であり決して立派なものとはいえない。ホステルに入りきれなかった5人の生徒がこの図書室でくらしている。

 次に苗畑をみせてもらう。ここパウダル村でも森林減少が大問題になっており、苗畑の運営がアンナプルナ保全プロジェクトによっておこなわれている。アンナプルナ保全プロジェクトから派遣されてきているグルン族の男性がこの管理に専属であたり、村をあげて森林再生にとりくんでいる。

 私は、前回きたときにも泊めてもらったビン=バハドゥール=プンさんの家にまたお世話になる。ビン=バハドゥール=プンさんが飼っていたホルスタイン牛は2ヶ月前に死んでしまった。大損害であり大変こまっているという。

 11月10日、今日は、チーズ・プロジェクト関係者と協議する。チーズ生産にともなってホエーとよばれる高タンパク質の排水がでる。これは分解しないので、これを下流にたれながししていると下流域の草木がかれてしまい公害問題になってくる。たれながしせずに家畜にのませるなどの処置が必要である。また、チーズ技術者をもっとトレーニングしなければならず、チーズ製造の過程でお湯をわかすために薪をつかうため、その煙が工場内に蔓延しチーズ職人に害をあたえているという。さらに、チーズは村人自身があまりたべないので、その善し悪しがよくわからないらしい。

 今回同行した日本人のチーズ製造専門家によると、「チーズづくりには、それにあった気候・風土が必要です。元々チーズをつくっていなかった所でチーズをつくるのは困難をともないます。ジャージー牛は、脂肪の多いミルクをだすので、チーズよりもバターの生産にむいています。チーズにあったミルクをだす牛がいます。脂肪の多いミルクでチーズをつくるとくさりやすいので、脂肪をぬいてつくらなければなりません。」それぞれの土地にはそれぞれの産物が伝統的にあり、産物には風土が反映されている。風土にあった産物を生産するとうまくいく。

 11月11日、「ゴー」ジョムソンへむかう飛行機の爆音が毎朝なりひびく。文明の音である。私の滞在先のビンさんはいう。「2人の子供たちは今は村の学校にいっていますが、11年生からはベニかポカラの学校にかよわなければなりません。お金がたくさんかかりますが、お金はありません。わかい人はみんな村をでていって、村にのこるのは老人ばかりです。そののこった老人たちが農作業をやっているのです。」近代化がすすむと高齢化がすすんでしまう。わかい人が村にのこれるようにしなければならない。

 ギャン校長先生も話す。「パウダル村の人口は現在1950人、385戸の家があります。学校は、1年生から10年生まであり、1年生 は85人、2年生は28人、3年生以上は20人前後となっていて、ここもほかの学校とおなじように10年生までいけない子供の方が圧倒的に多いです。チーズ・プロジェクトを何としても成功させて、現金収入をふやし、そのお金を学校のために村のためにつかっていきたいです。」山村の村々は現金収入にむすびつく事業をすすめたがっている。

(8)住民参画による問題解決

 国際協力によって地域事業をすすめる場合、外国人が地域に入って、一方的に調査・指導をするだけではまったく不十分である。地域住民が事業に主体的に参画し、共にかんがえ、その過程を通して住民の意識も向上していかなければならない。テーマをめぐって、問題意識と情報を当事者間で共有し、住民参画方式で問題解決の実践をおこなっていくことが必要である。

 今日11月11日午後から明日の午前中にかけて、そのための具体的な方法として「KJ法」を実施することになる。参加者は、パウダル村のマイクロファイナンス・チーズ委員会のメンバーを中心にしたのべ29人であり、Aチーム16人(男性10人、女性6人)、Bチーム13人(男性8人、女性5人)の2チームにわかれて作業をおこなう。作業は私がリードし、ヒマラヤ保全協会のウム=バードル=プンさんが補助しながらすすめる。言語はネパール語をつかう。

 今回もちいる方法は、「パルス討論」→「KJ法1ラウンド」→「衆目評価法」という方法である。「パルス討論」とはグループでの議論であり、今回は、「パウダル村の未来-マイクロファイナンスとチーズ工場-」をテーマにし、AチームとBチームにわかれて、約2時間にわたっておこなう。その結果を「KJ法1ラウンド」をもちいて図解としてまとめ、議論の結果の全体像を掌握する。そして「衆目評価法」とは、参加者に、テーマをめぐって重要だとおもうKJ法図解上の項目に点数を投票してもらい、問題を解決するための重要なポイントをあきらかにする方法である。その結果は、Aランク・Bランク・Cランクに区分され、Aランクが、村人によりもっとも重要であると判断された項目である。ついでBランク、Cランクとなっている。これにより村人の意識がどのようなものであるかが明確になる。最後には全体発表会をおこなう。

 なお「KJ法」は、ラベルに文章をかきこみながら作業をすすめるので、読み書きができない人は直接参加できないという問題点がある。それをおぎなうためには、パウダル村で私たちが今回おこなった調査のように、「KJ法」と「聞き取り調査」とを併用するのがよい。KJ法を実施したら、一方で、聞き取り調査をおこなう。聞き取り調査では、読み書き能力の有無にかかわらず様々な人々から取材し、取材者が記録をとる。そして第三段階では、KJ法と聞き取り調査の結果を総合して考察をおこなう。このような三段がまえの実践方法が地域事業では非常に有効である。

 AチームのKJ法図解の内容

 Aチームが作成したKJ法図解の内容を文章化すると次のようになる。

 (1)農家への融資がもっと必要である。
 農家が乳牛を購入するために融資がもっと必要である。融資額をふやさなければならない。

 (2)牛の数をふやし、牛乳の質をあげる。
 チーズの質をあげるためには、まず牛乳の質をあげなければならない。そのためには、よい乳牛の数をふやし、そして、牛の数をふやすためには、村としても個人としても牛がたべる草をもっとそだてて、草をふやしていかなければならない。

 (3)牛の健康維持のために獣医が必要である。
 牛は、しばしば病気になるので、獣医と、牛の健康をまもるための設備が必要である。同時に、農家自体が、牛の健康とエサ・薬に関する知識をもたなければならない。したがって、獣医による農家へのトレーニングも必要である。これがあってこそ、チーズ製造・販売事業は、人々や村の経済状態の向上に役立つことになる。

 (4)レネットとカルチャーをどのようにして購入するか。
 レネットとは、牛乳を凝固させてチーズをつくるものであり、カルチャーとは培養菌(乳酸菌)のことである。これらは現在カトマンドゥで購入しているが、継続的に購入していくのが困難な状況にある。どうすればよいだろうか。

 (5)チーズ製造に電力をつかう。
 チーズ製造のために大量の薪を使用しており、このままでは森林を破壊してしまうので、電力をつかう方法をかんがえるべきだ。

 (6)チーズの低温貯蔵庫が必要である。
 現在、チーズを貯蔵する低温貯蔵庫がないので、夏の高温期にはチーズがくさってしまう。今後、継続的にチーズの製造・販売をおこなっていくためには、チーズの低温貯蔵庫を早急に建設しなければならない。また、そのための予算がすぐに必要である。

 (7)学校教育に支障がでている。
 現在、学校の先生が、周辺の村々をまわってチーズの宣伝広告をおこなっている。また、その他のことでも、学校の先生がかなりの労力をチーズ事業のためにさいているのが実情である。このために、学校の先生の本来の仕事である、学校での教育活動に支障がでてきてしまっており問題になっている。

 (8)マーケッティングが必要である。
 パウダルのチーズをよその土地で販売するためには、宣伝広告やマーケッティングが必要である。

 (9)製造過程における損失を明確にする。
 チーズの製造過程を正確に記録し、損失をただしく把握しなければならない。

 BチームのKJ法図解の内容

 Bチームが作成したKJ法図解の内容を文章化すると次のようになる。

 (1)農家へのマイクロファイナンスの額をふやさなければならない。
 パウダル村の経済的な問題について、ヒマラヤ保全協会と村は協力して解決策をかんがえださなければならない。そのたもにも、マイクロファイナンスの金額は増額されるべきであり、農家の意識を向上させ、農家が牛を購入するためには、低金利ローンが必要である。

 (2)牛乳の生産量をふやさなければならない。
 パウダル村は、牛乳の生産量が不足しており、当初計画しただけのチーズが生産できず問題になっている。牛の数をふやして、牛乳生産量をもっとふやさなければならない。

 (3)獣医による農家へのトレーニングが必要である。
 牛が病気になったとき、獣医がいないのでこまっている。ヒマラヤ保全協会は、村の農家のために獣医を派遣してほしい。農家が購入した牛を健康にそだてるために、獣医とそのための設備が村にどうしても必要である。

 (4)代替エネルギーが必要である。
 チーズ工場で薪を大量使用していると、将来的には森林の破壊が深刻な問題になってくる。そこで、電力を利用した設備にきりかえるなど、代替エネルギーが必要である。

 (5)あたらしい低温貯蔵庫とチーズ工場建設の補助金が必要である。
 パウダル村は夏場には高温になるため、貯蔵庫のチーズがくさってしまう。そこで、チーズを低温保存できるあたらしい貯蔵庫が必要である。また、牛乳の価格とチーズの価格との間にアンバランスがあるので、マーケットもチーズ工場も十分うまくいっていない。今後、チーズ事業を発展させていくためには、質の高いチーズの生産と農家の意識向上がどうしても必要であり、そのためには、財政的な援助が必要である。ヒマラヤ保全協会からの補助金があれば、あたらしいチーズ工場を建設し、これからも事業を継続していくことができる。

 (6)マーケット拡大が必要である。
 現在、トレッキング・ルートの旅行者が減少しているので、チーズのマーケット拡大のためにさらなる努力をしなければならない。

 (7)村の収入をふやす。
 チーズ事業を拡大して、パウダル村の現金収入をふや していく。

 衆目評価法の結果(住民が評価した重要な項目)

 11月12日午前、作成したKJ法図解に対して、衆目評価法を実施し、問題を解決する上で重要だと判断される項目をあきらかにする。衆目評価法は、AチームとBチームの参加者全員でそれぞれの図解に対しておこなる。これにより、村人の意識と問題の核心が明確になる。

  Aチームの図解についての結果

 (1)Aランク
 ・チーズの低温貯蔵庫が必要である。

 (2)Bランク
 ・乳牛を購入するために農家への融資がもっと必要である。
 ・牛が病気になるので、獣医が必要である。

 (3)Cランク
 ・牛の数をふやし、牛乳の質をあげる必要がある。
 ・牛がたべる牧草をふやさなければならない。
 ・農家は、牛の健康をまもり、エサや薬も用意しなければならない。

 Bチームの図解についての結果

 (1)Aランク
 ・チーズの低温貯蔵庫が必要である。
 ・農家へのマイクロファイナンスの金額をふやさなければならない。

 (2)Bランク
 ・チーズ工場建設と事業継続のために補助金が必要である。

 (3)Cランク
 ・牛の育成のために、獣医によるトレーニングが必要である。
 ・チーズ製造のための牛乳が不足している。
 ・マーケットを拡大しなければならない。
 ・農家の意識を向上させ、農家が乳牛を購入するための低金利ローンが必要である。

 結 論

 AチームとBチームの結果を総合すると、パウダル村の人々は、第一に、チーズの低温貯蔵庫が必要だとかんがえており、第二に、乳牛を購入するために農家への融資を必要としている。それらのためには補助金が必要であるとのことである。一方で、乳牛の育成に大変こまっており、獣医と獣医によるトレーニングをもとめている。これは、乳牛を今まで飼育したことがないため、飼育がうまくいかず、せっかく購入した牛が死んでしまうケースがでてきているからである。さらに、マーケット拡大にも、学校の先生の多大な労力を必要とするなど問題が多い。なお、ホエーのたれながしによる環境破壊の問題はでてきていない。これは、これに関する専門的な知識がそもそもないからである。このような専門的な事柄については、専門家の指導が今後必要である。

 今回のKJ法の実践は、住民みずからがかんがえ結論をだしたところに大きな意味がある。そして今回の実践により、参画の方法としてのKJ法はネパール山村部においても十分実施可能であり、有効であることが実証された。また、国際協力では、その地域にくわしい人と、事業をすすめる上で必要な分野の専門家との共同作業が絶対に必要であることもあきらかになった。

 ヒマラヤ保全協会は、この結果をうけ、さらによく検討した上で、チーズ・プロジェクトに今後とも協力していくことを約束して、私たちはパウダル村をあとにし、カトマンドゥにもどる。

(9)国家非常事態宣言が発令される

 2001年11月21日、ニュースによると、「ネパールの反政府武装組織は、政府との話し合いはつづけられず、4回目の協議には応じないとの声明を発表した」とのことである。3ヶ月前から、反政府武装組織と政府との話し合いが3回にわたっておこなわれていたが、話し合いは不調におわった。

 11月24日朝、国際協力事業団ネパール事務所から緊急連絡が入る。「昨夜から、反政府武装組織が大規模な武装闘争をネパール各地で再開しました。十分注意してください。」ニュースによると、今回の闘争は、政府機関・警察・銀行などのみならず、ネパール陸軍をも攻撃するという今までにない大規模なものであり、多数の死傷者がでている。非常事態宣言がだされる可能性もでてきた。

 11月25日、今日も、国際協力事業団ネパール事務所より緊急連絡が入る。「当分の間、自宅と職場以外の所への移動を禁止します」。

 11月26日、午後9時、ラジオ・テレビにて「国家非常事態宣言」が発令される。11月26日午後の閣議で、国家非常事態を全国的に宣言することがきまり、ギャネンドラ国王もそれを承認し、同日夜、同国王が全国に非常事態を宣言した。

 その後、午後11時半、国際協力事業団から緊急連絡がまた入り、「ネパールは非常に危険な局面に突入しました。今後一層の注意が必要です。しかし、カトマンドゥでは、今までのところ大きな混乱はおこっていないので活動は継続してください。ただし、とりあえず12月3日までの1週間は、自宅と職場以外への所への移動はおこなわないようにしてください。その後の措置については情勢をみてあらためて連絡します。」との通知がある。ネパールは今までにない重大局面をむかえている。

 11月27日、カトマンドゥにちかいドゥリケルのバザールでも、反政府武装組織と警備部隊との間で銃撃戦がある。

 11月28日、インドのバジパイ首相は、ギャネンドラ・ネパール国王と電話で会談し、反政府武装組織対策のためにはインド政府が援助をおしまないことをつたえる。政府筋によると、インドや米国からヘリコプターなどを調達することが検討されているという。

 11月29日、早朝、カトマンドゥ市内北部にあるバラジュ工場団地で爆弾の爆発があり、コカコーラ製造工場の一部がこわれる。反政府武装組織が仕掛けたパイプ爆弾によるものとされる。

 11月28〜29日、青年海外協力隊の地方隊員はポカラの隊員をのぞきカトマンドゥに全員退避する。国家非常事態宣言の発令、国内での戦闘の激化をうけ、国際協力事業団は、カトマンドゥ市内におけるオフィス・ワークをのぞきネパール国内での活動を中止する。

 12月1日、カトマンドゥの上水道水源地の一つであるシバプリ地区にある警察署が反政府武装組織の襲撃をうけたが警備部隊が撃退する。

 12月2日、ホテルや旅行業者など20社を対象にした調査によれば、非常事態宣言がだされてから1週間で、外国からの予約客に 1000人前後のキャンセルがでている。また、マハト財務大臣は、現在おこなわれている反政府武装組織の掃討作戦のために財政が窮迫することを指摘し、そのために開発予算を国防予算に適用する予定であることをあきらかにする。政府筋によれば、すでに20億ルピーが国防関連経費として歳出されている。

 12月3日、カトマンドゥの南にあるラリトプール市(パタン)のジャワラケルのカーペット店で爆発があり1人が死亡、ちかくであそんでいた子ども1人をふくむ3人が負傷する。また、市内カランキにある警察幹部の自宅に火炎瓶がなげこまれ、政府高官がのった自動車2台にも火炎瓶がなげつけられる。

 12月4日、「ガンタガールにある、トリブバン大学・トリ-チャンドラ・キャンパスの時計台を爆破する」という脅迫電話が、私の勤務先であるトリブバン大学にかかってくる。トリブバン大学キャンパス内には、不審な人物が巡回しているようである。反政府武装組織は、国際協力活動や外国人教師を排除しようとしているので厳重な警戒が必要である。

 12月5日、先月の25日夜、ネパール東部のソルクンブ郡でおこった警備部隊と反政府武装組織との戦闘で死亡した反政府武装組織の数は200人をこえたことが国防省によって確認される。この戦闘では警備部隊側も40人が亡くなっている。また、カトマンドゥ盆地内で、午後10時から翌朝5時の間に外出する場合は身分証明書の携帯が必要になる。

 12月6日、ヒマラヤ保全協会のネパール事務所(ポカラ)があるカスキ郡内でも反政府武装組織の掃討作戦がつづいている。

 同日午後3時からは、青年海外協力隊の安全対策連絡協議会が開催される。今日までの経過を確認するとともに防衛に関する協議をおこなう。反政府武装組織の掃討作戦は、ネパール政府・ネパール国軍が威信にかけておこなっており、ネパール政府は、3ヶ月間で掃討を終結させると宣言しているが、もしも3ヶ月間で終結しなかった場合は、3ヶ月間延長し6ヶ月間で終結させるとしている。国際協力事業関係者の退避生活はつづいており、いつまでつづけるかは現在のところ判断ができない。ネパールにきていた国際協力事業関係の調査団はすでに日本に帰国した。また、これからくる予定だった調査団には計画を延期をしてもらった。

 12月7日、反政府武装組織が以前から発表していた「バンダ」(強制ストライキ)実施の当日である。前日から、軍隊・警察による厳重な警戒体制がしかれ、チェックポイントでは、歩行者をふくめすべてをとめてバッグの中身にいたるまでを徹底的に検査している。交通機関などはストップしたが大きな混乱はおこらない。

 12月8日、ヒマラヤ保全協会の活動地域である、ネパール西部・ミャグディ郡でも、軍隊・警察部隊と反政府武装組織との戦闘がある。また、トリブバン国際空港をふくむ国内主要空港の警備を、警察から軍隊による警備にきりかえることが決定される。

 さて、このように、非常事態宣言の元で、軍隊・警察部隊と反政府武装組織との戦闘は連日つづけられており、軍隊・警察部隊の圧倒的優勢が報道され、反政府武装組織側の死者は250人以上、実際にはそれよりもかなり多いと予想されている。死体の多くは、顔がわからないように傷つけられていたり、首から上がない状態であり、身元の確認が困難であるという。また、全国各地で夜間外出禁止令が毎日発令されている。観光客は激減し、毎日早朝になりひびいていたマウンテン・フライトの飛行機の音も最近はきこえなくなる。

 このたび発令された「非常事態宣言」とは、ネパール国民の憲法上の権利を制限するものであり、個人と団体の自由をうばうものである。これにより、軍隊が全国的に活動できる法的根拠が生じた。この非常事態宣言にあわせて、テロ活動対策特別法の施行も発表され、反政府武装組織と反政府武装組織に関係する個人や団体をテロリストと定義づけ、同法の対象としている。これらによって、ネパール国軍による反政府武装組織・掃討作戦の全国展開が可能になったのである。そもそも、警察と軍隊とはまったくことなるものであり、警察は市民生活をまもるためのものであるが、軍隊は人を殺してもよいのである。国民の自由が制限されたという意味において、今回の事態は、民主主義にとって重大な危機であると言うこともできる。

 そもそも、反政府武装組織の戦闘の背景には、ネパールにおける、貧困層および貧富の差の拡大という大問題があり、今後、掃討作戦が成功したとしても、この大問題がなくなるわけではなく、怨念がのこるだけである。テロ活動はいつまでもつづくことになり、したがって、どの段階をもって掃討の終結とするのかは判断が非常にむずかしいところであろう。

 ネパールにおいて長年にわたってつづけられてきた各種組織による国際協力の活動も、ネパールにおける貧困や貧富の差の問題を解決するためにおこなってきたはずなのであるが、すべてのネパール人は「昔の方がよかった」と言っている。このような最悪の事態が生じるにおよんで、今までの人達がおこなってきた国際協力のやり方も、根本的に見直さなければならなくなってしまった。

 ところで、現在、ネパール-インド国境付近には、約1万人からなるインド軍が待機しており、インド政府は、ネパール政府に対して軍事的援助をもうしでている。インド軍がネパール領内にて援軍活動をおこなった場合、インド軍の退却は容易にはありえず、その場合、ネパール王国の領土独立問題にも発展しかねない。ネパールの東側に位置するシッキムはかつては独立国であったが、国内紛争が発生、それにインドが介入し、結局、シッキムは独立をたもてず、インド領になったという経緯がある。ネパール政府は現在、ネパール陸軍は世界一の軍隊であり、外国からの援軍はまったくありえないとしている。

 また、軍事活動にかかる予算は、ネパールの国家予算約1千億ルピーのうち5〜10%をしめ、今後、軍事予算は増額される予定であり、国家予算にも危機的状況が生じる可能性が大きくなった。

 非常事態宣言が継続されているため、この4月に予定されている地方レベルでの総選挙の実施も困難となった。いつ選挙を実施できるのか、将来的な見通しがまったくたたない状況だという。現在、地方行政システム自体がなかば崩壊の危機に瀕しているため、今後どのように建て直しをはかっていくのかも大問題となっている.

 いずれにしても、ネパール王国は、かつてない歴史的危機に遭遇している。

 現在、日本外務省により、ネパールは、全国すべてが、危険度1「注意喚起」以上に指定されている。カトマンドゥは、リング・ロード内(市街地)をのぞき危険度1に指定された。危険度1であっても、これは通常のそれではなく、非常事態宣言下のものであることをよく認識しなければならない。

 今後とも、予期せぬ地域、予期せぬ形で武力衝突が発生するので、これまでの戦闘の有無にかかわらず、すべての場所において注意をはらう必要がある。最新情報には常に注意し、不測の事態に絶対にまきこまれないようにしなければならない。現場での危険察知は、自己判断にたよらざるを得ないことを念頭に入れ、自らの安全は自らがまもるという意識をもって行動していかなければならない。国際協力事業団からは、「カトマンドゥ盆地内でも爆弾事件が発生しているので、不必要な移動はしないように。夜間の外出は禁止します。常に連絡がとれる体制でいてください」との指令がでている。

 また、トリブバン大学地質学科では、12月25日から、マレク地域で2年次学生の、タンセン地域で3年次学生の学生野外実習を予定していたが、これらのうち、マレク地域については、安全な地域のみをあるくことにして実施することにするが、タンセン地域については治安が非常に悪化しているので延期することになる。私は、マレク地域の実習に参加するように地質学科から要請をうけたが、国際協力事業団ネパール事務所から移動許可がおりなかったため参加できないことになる。

(10)タンセン地域で学生野外実習をおこなう

 2002年1月30日、ネパール国軍による、反政府武装組織の掃討作戦により、事態はかなり沈静化してきたようだ。国際協力事業団ネパール事務所は、関係者にだしていた国内移動の規制を、非常事態宣言以前の状態に解除する。トリブバン大学地質学科も、3年次学生を対象としたタンセン地域での学生実習を実施できると判断し、2月4日にカトマンドゥを出発することにする。今の3年次学生は、去年、マレク地域において指導した学生たちである。あれから1年がすぎさり学生たちは成長しただろうか。

 タンセンの郡役所・警察に実習の届け出をしたところ、「山間部・川の流域など、自動車道路以外は絶対にあるかないように。」という指令をうける。これでは本当の野外実習にならないのであるが、仕方がない。

 2月6日、カトマンドゥの国際協力事業団事務所に電話したところ、カブレ郡で、反政府武装組織により警察官16人が殺害される事件がおこったとのことであり、ふたたび緊迫した情勢になってきた。

 学生実習は、まず、南部のブトワールからキャンプ地のドゥムレまでの道路ぞいにおいて、岩石・地層を観察しルートマップをつくる作業をつづける。これは10日までつづく。実習の内容は、去年と同じものをめざしたが、何分あるける範囲がかぎられているので限界がある。

 その後、北部地域のルートマップづくりの実習をはじめる。

 2月15日、今日は、ここパルパ郡で「バンダ」が実施される。軍隊が巡回し、バザールを1軒1軒捜索している。

 2月17日、ラジオ・ニュースによると、昨夜から今日の未明にかけて、ネパール極西部にて、反政府武装組織が空港と郡庁舎などを襲撃、100人以上の死者がでたとのことである。ますます緊迫した情勢になってきた。

 2月18日、今日からは応用地質学の実習であり、道路ぞいに発生している地滑り・斜面崩壊の調査をはじめる。

 その後ラジオ・ニュースにより、2月22〜24日にかけて、「ネパール・バンダ」が実施されるとの情報が入る。私たちは2月24日にカトマンドゥにもどる予定であるが、バンダになった場合は移動ができなくなり、また食料も底をつくので、余裕をみて2月21日に急きょカトマンドゥにもどることにする。

 2月21日、今日の国会下院で、「非常事態」の延長が承認され、これからさらに三ヶ月間、「非常事態」が継続することになる。

(11)バッタライ先生とともに

 ところで、トリブバン大学地質学科にはバッタライ先生という土木地質学が専門の教官がいる。先生は、現九州大学教授の酒井治孝教授がかつて青年海外協力隊員としてトリブバン大学地質学科に勤務していたときの教え子のひとりであり、トリブバン大学卒業後、九州大学大学院工学研究科で博士の学位を取得し、今年の4月にネパールに帰国され、ネパールにおける土木地質学のリーダーとして大いに期待されている。先生のような人材がそだったということは、トリブバン大学地質学科において30年間におよぶ協力隊の活動がひとつの大きな成果をあげたことをしめしており、ここに、人材育成という息のながい国際協力のひとつの実例をみることができる。私が指導した学生のひとりであり、日本の大学に留学することになったスベス=ギミレ君も第二のバッタライ先生になってくれればと期待している。

 バッタライ先生は日本に5年間滞在し、その間一度もネパールにかえらなかったという人で、日本語はきわめて堪能である。以前から先生は「日本とネパールとのかけ橋になりたい」とおっしゃっていて、土木地質学の分野でそのような仕事をすることを希望されていた。私も是非協力して仕事をしたいとおもい、その可能性をさぐるために、まずは、国際協力事業団が全面的に協力している水資源省水災害防止局にいって、ネパールの自然災害軽減プロジェクトについて話をきくことにした。

 水資源省水災害防止局は水災害技術センターを発展・解消して開設され、国際協力事業団の協力のもとで運営されており、自然災害軽減援助プロジェクトが推進されている。10年前から、第一フェーズとして基礎的な技術移転がなされてきた。今は第二フェーズとして、第一に、ネパールの実情にあった実際的な防災を住民参画のもとでおこなっており、災害軽減のための観測や建設方法など確立している。一般的におもわれているよりも小規模な事業である。第二に、災害復旧にとりくみ、つぎの災害にそなえている。第三に、データベースを作成し情報の共有化をおこなっている。第四に、防災に対する住民の意識向上をはかっている。現在、カトマンズ近郊ムグリンへ行く幹線道路の、ノウビセをモデルサイトにして技術協力をおこなっている。

 ここの方針はあくまでも、技術協力であって、大規模な工事をするのが目的ではない。今すぐにバッタライ先生におねがいすることはないが、突然の災害に対して、余力があれば随時対応しているので、その時にはおねがいすることがあるかもしれない。また、ネパール人に対して研修をおこなっているので、講師をおねがいすることはありえるとのことである。

 また、カトマンドゥ盆地内にも1カ所モデル・サイトをつくり、地滑り〜土石流の調査をすすめ、地域防災計画をすすめている。断面図をネパールの調査会社につくってもらったがどうも納得できない。地滑りの滑り面が今ひとつ理解できないというので、今度共同で調査することにする。

 その後、バッタライ先生と私は、北海道大学大学院地球環境科学研究科の大学院生であり、現在は、トリブバン大学地理学科に留学しながら、ヒマラヤ山脈の自然地理学的研究をおこなっている朝日克彦さんの案内で、カトマンドゥ盆地内で唯一の活断層とそれに付随する大きな地滑りを調査しにいく。その活断層はカトマンドゥ盆地の南西縁に走っている。

 私は、朝日さんとともに以前にもここへきているが、バッタライ先生にも是非みてもらい、今後、研究に教育に生かしてもらいたいとおもう。現在、ネパール国内の治安が悪化しているため、山間地のフィールドワークができないので、カトマンドゥ盆地内でできる仕事を積極的に発見していかなければならない。

 空中写真をみると、カトマンドゥ盆地の縁に正断層が走っており、その東端には大きな地滑り地帯があり、地滑りの東の末端はバグマティ川に接している。バスでタンコットのちかくまでいき、南へむかってあるいていくとネパール語で黒い土を意味する「カロマト」とよばれる土の地層がみえる。このカロマトは文字通り黒い土であり、植物の根などの有機物を大量にふくんでいる肥沃土である。カトマンドゥ盆地内にはこのカロマトの地層がひろく分布するので、ここは農業生産性が元々非常に高く、大昔から肥沃な大地となっていた。カトマンドゥ市街地内にはカリマティという地名があり、これはカロマトからきており、今は市街地になっていてよくわからないが、カロマトがひろく分布することをしめしている。

 活断層をしめす地層断面の露頭をみると、あきらかに北落ちの正断層であり、これがうごくとき、カトマンドゥ盆地に地震がおこるとかんがえられる。それは大地震になる可能性もある。

 断層のそのそばからは水がわきだししており、水道もある。第四紀層の正断層から水がわきだすことはよくある。さらに西にいくと、ネワール族の町・マチャガウンにくる。道路にはレンガがしきつめられ、その両側にはネワール様式の街並みがつづく。大きな水場と池の中にうかぶ寺院があり、水道から水がこんこんとながれだしている。ここは断層からわきだす水がつくった町である。

 そのマチャガウンの東側に巨大な地滑り地形がみられる。これは、断層にそって発達しているので、地滑りの発生は断層の運動と関係しているとかんがえられる。「このような観点から調査・研究をすすめるとおもしろいですね。修士論文のフィールドとしてもよいでしょう。」私たちは議論をしながら帰路につく。

 ネパール国内の治安が悪化し、山間部のフィールドワークができなくなった現在、カトマンドゥ盆地内でできる仕事を発見していかなければならないが、さがせばおもしろいテーマはたくさんあるようだ。

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