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カトマンドゥ、アサン |
<目次> |
5.1 国土の保全 さて、フィールドワークによって、ヒマラヤの「人間社会-文化-自然環境系」という体系すなわち「大自然」は、それが「重力移動」の巨大な場であることにくわえ、近年の近代化や人口爆発などのために急速に崩壊しつつあり、その保全・再生が急務になっていることが検証できた。 さらに、本年6月のネパール国王一家殺害事件以来、反政府武装組織の武力闘争が激化し、ネパールの社会は混迷をふかめつつある。この武力闘争の背景には、貧困問題あるいは貧富の差の拡大があることを直視しなければならない。ヒマラヤあるいはネパールの「大自然」は、自然環境の側からも人間社会の側からも現在急速に崩壊をつづけているのである。 このような情勢の中で何ができるか、問題を解決するための今後の構想をねらなければならない。 まずかんがえられるのは、自然環境の保全あるいは国土保全の立場にたった、地滑り・斜面崩壊・土石流などの「重力移動」による災害を軽減する課題へのとりくみがある。 今までみてきたように、大きな災害をしばしばひきおこす地滑り・斜面崩壊・土石流は「重力移動」としてモデル化することができる。「重力移動」による災害予測にあたっては、災害履歴を調査して過去の災害の総括をし、過去の災害現象を復元しながら、災害パターンの類似性をもとにそれが発生する場所・時間・規模を予測しなければならない。理想的には、重力移動災害予測図をつくり、災害発生場所の予測、災害現象がおよぶ範囲をしめすのがよい。 災害の時間的予測は、何らかの前兆現象に着目してつねに観測をつづけていかなければならないが、ネパールの現状からいってそれは不可能なので、現地での観察や空中写真の判読、記録写真の解析を系統的・継続的に実施していくのがよいだろう。 また、重力移動発生の引き金は降雨あるいは地震であるので、気象観測・地震観測の体制があるとよい。地震観測は、地震災害を軽減するためだけでなく、ヒマラヤ山脈の地下構造や地殻変動を研究するためにも非常に重要である。現状では、地震観測網の整備や地震予知は不可能であるが、ネパールの気象観測体制をもっと整備すれば降雨の予測はでき、降雨量と重力移動危険地域との関係から、災害予測がある程度はできるだろう。 一方で、国際協力事業団の自然災害軽減プロジェクトとトリブバン大学との連携の道もさぐり、内外の協力のもとで災害を軽減する道をひらいていくことがもとめられる。 なおネパール南部のタライにあっては、大河を堤防の建設によってコントロールし、洪水をふせぐとともに、その莫大な水力を有効に利用することがおこなわれている。また近年、ヒマラヤ山脈の氷河湖の決壊が大問題になっており、これをふせぐ抜本対策の一つとして、モレーン(氷河が運搬して堆積した岩塊や土砂からなる堤防状の地形、氷堆石)をきって湖水位をさげることなどもおこなわれている。
5.2 地質学科 私が所属するトリブバン大学地質学科においては、この学科を今後どのように発展させるか、地質学科長らと数回にわたって話しあいがおこなわれた。その内容は次のとおりである。 トリブバン大学地質学科の教育・研究環境を向上させ、地質学科を、世界の屋根・ヒマラヤに関する教育・研究の中核組織にし、さらに、地質学を地球科学・地球環境学へと展開していく。そのために、同学科の情報化をすすめ、研究成果を蓄積・利用できる情報センターをつくり、それを学生の教育にも活用する。そして、ヒマラヤの山岳ポテンシャルを生かした開発と保全に貢献していく。さらに、世界の財産としてのヒマラヤの自然について一般の人々にも知ってもらう努力をする。 そのための具体策として、図書室の建設、自然史博物館の建設、地理情報システムの構築などが構想された。 (1)図書室の建設:ネパールの学生や教官のみならず、世界のヒマラヤ研究者が利用できる情報センターとしてのライブラリーをつくる。学生は一般に教科書をもっていないので、ライブラリーができれば教育効果は非常にあがり、また、データベースを作成することにより研究環境も格段に向上する。 (2)自然史博物館の建設:現在、学科内ホールに小規模な展示場があり、岩石・鉱物・化石などが展示されている。これを、拡充整備すれば、学生のための教育や、地質調査によって採集された標本の蓄積・管理に活用できる。また、博物館を一般に公開することにより、ネパールの自然史について多くの人々に知ってもらうこともできる。この博物館では、標本展示・解説にとどまらず、現代の情報機器を活用した、ディスプレイ、データ検索システム等も構築し、ネパール・ヒマラヤの自然について、その全体像が視覚的・総合的に理解できるようにする。トリ=チャンドラ・キャンパスは、王宮通りにあり、大きな時計台もあるので、観光地としても立地条件が大変よい。 (3)地理情報-リモートセンシング・システムの構築:地質調査等の野外調査によってえらえたデータは、先進国ではすべて、地理情報システムというシステムによって処理・統合され、マッピングその他の総合的研究がおこなわれている。また、リモートセンシングとよばれるシステムにより、人工衛星からえられる画像データを活用した調査・研究方法が、世界各地でさかんにおこなわれており、その有効性が十分に確認されている。そこで、本学科にも、地理情報システムとリモートセンシングを導入すれば、学生に対する教育効果は格段に向上し、また、同学科の教官のレベルも上がり先進国の水準にちかづくと共に、ヒマラヤの総合的研究にも貢献できる。ネパールで特に問題になっている、山岳環境の保全や防災事業のためにも非常に有効である。また、本システムを構築すれば、ネパールに設置されている総合山岳開発センター(ICIMOD=International Center for Integrated Mountain Development)と本学科との協力体制が強化され、国内外の協力活動の推進のためにも非常に効果的である。このシステムの内容は次の通りである。コンピュータ(端末およびサーバー)、ソフトウェア、プリンター、オーディオヴィジュアル、サテライト(人工衛星)イメージ、GPS(Global Positioning System)、GPSレシーヴァー、プロッター、デジタイザーなど。 さらにつけくわえるならば、教官の教育・研究環境を整備するとともに、地質学から地球科学への発展を展望して、地球物理学分野を将来的には創設することを検討していくのがよく、またそのための人材を養成していく必要がある。地球物理学的な広域観測、地質学的なフィールドワークと試料分析、そして、それらをふまえて考察をするという、三段階のアプローチがあってこそ、はじめて総合的な地球科学の研究が可能になる。 また、情報発信のために、地質学科の同僚のプレム=タパ先生が中心になって地質学科のホームページをつくることになった。無料ホームページ・サービスをつかえば比較的簡単にホームページをつくることができるとのことである。すぐにできることはすみやかに実行したほうがよい。
5.3 地域の活性化 すでにのべたように、地域とは「人間社会-文化-自然環境系」という体系であり、ネパールではその再生・活性化が急務になっている。 地域の再生や社会の貧困層の生活向上を目指すのであれば、まず彼らのかかえている問題と、必要としているものをただしく理解することが必要である。そのためにはまず人々が生活する村にいき、住民と一緒に問題点を議論し、解決の方法をみつけるよう努力しなければならない。大切なのは必要な時に必要な場所に技術的あるいは経済的な支援をすることである。 つまり計画の立案と実施は、たすけを必要としている草の根レベルの村人とともにおこない、住民と一緒に議論をして、本当のニーズをつかみ、解決の方法をともにかんがえていかなければならない。トップダウン式の準備された計画は悲惨な結末をまねくだけである。 そして実行にあたっては、村人の合意と参画を実践しながら、あわせて現地指導者となる人材の養成をおこなう。住民参画と人材育成の両方があってこそ、地域に根ざしたボトムアップ方式による村づくりが可能になる。 なおネパールには、外国からの援助により何本もの自動車道路がつくられたが、それはこの国の過疎過密問題を激化させてしまっている。地方の村々の活性化を展望にいれた、過疎過密問題を緩和するバランスのある国土開発をすすめなければならない。個々の山村が、自立自助の精神で地域の諸資源を有効につかって、健全な開発と環境保全をおこなえる道をさぐらなければならない。
5.4 大自然の学校 今までみてきたように、ネパールは、パハール(低ヒマラヤ)を中軸とする「帯状構造」の世界と、ヒマラヤの「ヘソ」として機能しつづけるカトマンドゥ盆地とによってなりたっている。ネパールを理解するポイントは、この「帯状構造」と「ヘソ」であり、これが領土国家としてのネパール王国を成立させている。 この「帯状構造」と「ヘソ」に着目して、「人間社会-文化-自然環境系」の観点にたってネパールをみると、この国について容易に理解できるようになり、それに歴史的な見方もくわえていくとさらによくみえてくる。そしてこの歴史的見方の中に、人間社会と自然環境との調和をめざすヒントもふくまれている。 ネパールほど多様性にみちあふれた地域は希有であり、せまい国土にこれほど多様な教材をそなえた「勉強場」はほかにない。ここは、民族と文化と自然環境、それらの相互関係と一体性など「大自然」についてまなぶことができる世界でもっともすぐれた場所であり、「大自然の学校」として世界の人々が活用していくべき重要なフィールドである。今後、ネパールの国立公園などもよくしらべ、エコツーリズムのガイドブックを作成することなどを検討していくことが必要だろう。 またヒマラヤには、多様性に富む自然環境のみならず悠久の自然史があり、地殻変動によって形成されたヒマラヤ山脈は、アジアにモンスーン気候地帯を生みだしている。ネパールは、アジア・モンスーン気候地帯の最も重要な一角を占め、このアジア・モンスーン気候地帯全域へ研究や活動を展開していくための起点・拠点にすることができる。地質学というせまい枠組みにとらわれず、モンスーン・アジアの一角としてのヒマラヤの研究をすすめるという、地球科学の大きな構想をもつことも重要である。 さらに地球温暖化の影響が、ヒマラヤ山脈内の氷河湖の決壊としてもあらわれてきており、ヒマラヤには、地殻変動とモンスーン変動・地球温暖化がおりなす、岩石圏から水圏・気圏にまでおよぶ地球最大の変動帯が成立している。したがって地球環境の変動を研究する上でも、ネパールは最もすぐれたフィールドの一つであり、ここを「地球変動帯研究」のモデル地域にすることもできる。 一方、ヒマラヤのヘソ・カトマンドゥ盆地はどうしたらよいだろうか。カトマンドゥ盆地にはふるくにネワールの都市国家が成立した。都市国家とは、現代の領土国家に移行する前の人類の歴史的段階をしめすものであり、人類史の観点からいっても大変重要な興味ぶかいシステムで、ここの都市国家は人類史的遺産であり、事実 世界遺産に登録されている。したがって、カトマンドゥ盆地の中核である都市国家についてさらによく研究し、この遺産を保全していくことは人類の使命である。この点で、車道と人々の生活の場をわけ、自動車と人間とが猥雑に混在しないようにするなどの対策をとっているバクタプールのやり方は大変すぐれている。
5.5 フィールドワーク 今まで私たちは、衛星画像や空中写真をつかってあるいは文献をよんで、課題をめぐる全体像をまずとらえてから、個々の地域に入りフィールドワークをおこなうという方法をとってきた。全体をみて部分に入るというやり方である。現代では、全体をみるためにインターネットも活用できる。 この方法は、教育や研究の方法として一般化できるものであり、ネパールにおいては特に有効である。トリブバン大学では、暗記中心の勉強で創造性がない、研究設備が不十分などといわれているが、このようなことを解決するために、教育でも研究でもこのような方法をもっと重視し活用する必要がある。 全体をみて部分に入る。部分をみると今まで以上に全体がみえてくる。この部分に入ることこそが「フィールドワーク」であり、フィールドとは特定の地域のことである。ここぞとおもうフィールドを選定して、実際にそこをあるき、課題にとりくんでいくことがどんなにたのしく意味のある仕事であるか経験すればわかることである。フィールドワークの方法・技術を今後とも開拓していかなければならない。 先進国とはちがいネパールは、教育や研究のための設備が不十分であるため、予算をあつめたり物を整備することに多大な労力をかけつづけていくことになるが、結局は先進国のようになることはできず、むなしい結果がまっている。ここで発想を転換し、物をあつめるのではなく、手に入る道具、必要最小限の道具を最大限に活用する工夫をし、物があまりなくてもできる方法を開拓するのがよい。そして、その工夫をすることこそに仕事の意味をみいだしていく。そのような意味でも、多くの道具を必要としないフィールドワークの方法を開拓することは、ネパールにおいては特に有効である。
5.6 危機管理 現在ネパール社会は、反政府武装組織の活動により非常に混乱してきており、私がいる職場のスタッフたちもかなり動揺してきている。いったいこれからどうなるのだろうか。不安定な社会状況のもとでは何がおこるかわからない。このような予断をゆるさない情勢のもとでは、ものごとは計画通りにすすむものではなく、最悪の場合は、外国人の国外退避もありうる。 したがって危機管理をしっかりし、ネパールが危機的状況であることをよくわきまえて活動をすすめ、いつでも避難できる態勢で生活をする。様々なケースを想定するシミュレーション(思考実験)もしておく。青年海外協力隊では最長1年までの任期延長がありうるが、このような状況下であるので任期の延長はせず、期限をはっきりと区切り、のこりの期間でできること意味があることのみを実施すべきである。
5.7 目標 以上、様々な構想がしめされたが、これらの中からより重要なことやできることから実施していくことになる。特に現在ネパールの情勢が悪化してきているので、何をやるかをよくかんがえ選択し目標を明確にしなければならない。 きびしい情勢の中で何ができるか、何をやったらよいだろうか。私はあくまでも、人材育成と現地人の参画という基本方針のもとですすんでいこうとおもう。結局、最後にのこるのは人である。そして問題を外からながめるのではなく、問題の中に人々の中に入り込んで、同時に、フロンティアを開拓する精神をもちながらとりくんでいきたい。 実施にあたっては活動の場をえらぶことが重要である。トリブバン大学地質学科では、今まで通り学生に対する教育はすすめ、なるべく学生を野外につれだしフィールドワークを実践させる。一方、環境保全・地域活性化のためのフィールドとしてはシーカ谷地域をえらぶ。シーカ谷地域では地質図・地滑り等分布図なども作成する。シーカ谷地域はすでに2回フィールドワークをおこなっており、私が所属するNPO法人・ヒマラヤ保全協会が技術協力をしている地域でもあるので仕事がやりやすい。 その他の計画として、国土保全の観点からはネパール極西部の地質・山崩れを検証し、大自然の学校の観点からはチトワン国立公園の調査する。また、国際協力事業団の自然災害軽減事業とも連絡をとり、応用地質学(土木地質学)を専門とする同僚と共同で仕事すすめる。 自然史博物館の建設は重要な課題ではあるが、現在ネパール社会は不安定であり、観光客も激減している情勢下であるので今はそのタイミングではないだろう。 目標設定ができたので、あとはそれにむかって行動をおこしていく。
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