4.検証の旅

ハンデワ地滑り
(タプレジュン)
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<目次>

4.1 ふたたびシーカ谷へ

4.2 タプレジュン地域の地滑りをしらべる

4.3 ネパール国王一家殺害事件の衝撃

4.3 インドの旅

 


2002年7月17日発行

 

 4.1 ふたたびシーカ谷へ

 これまでにみてきたように、ヒマラヤ山脈とは重力移動の巨大な場であり、したがってヒマラヤの国・ネパールには大きな自然災害がしばしば発生している。そして、このヒマラヤはひとつの世界であって、それは「人間社会-文化-自然環境系」という体系としてとらえることができ、それを私は「大自然」とよんだ。この大自然は、近年、近代化や人口爆発により人間社会と自然環境との調和がくずれ、伝統的な文化だけではやっていけなくなり、自然災害も非常に発生しやすくなってきている。これがいわゆる「環境問題」の本質である。ヒマラヤの崩壊は急速にすすんでいるのであり、その保全・再生が急務になっている。

 そこで私は次に、この仮説を検証するするために、今まであるいてきた地域の中から特定の地域をえらんで、そこをくわしく調査しデータをさらにあつめ、問題を解決するための今後の構想をさぐっていくことにする。ネパール各地をあるいた今までの調査がヒマラヤやネパールを全体的に理解することを課題としていたのに対し、今度は、仮説を検証することを目的にして、特定の地域を徹底的にしらべようとおもう。そのための地域として、私は、ネパール西部アンナプルナ山群山麓のシーカ谷とネパール極東部のタプレジュン地域をえらび、まずシーカ谷へむかうことにする。

 2001年3月27日、私は、シーカ谷の再調査に先立ち、私が所属する特定非営利法人・ヒマラヤ保全協会のポカラ事務所へいく。この事務所はこの協会のネパールにおける活動の拠点になっており、今日は、ネパール・ヒマラヤ保全協会の理事会が開催され、ネパール人スタッフらと今後の活動計画について話しあうことになっている。ネパール側からは、マハビール=プンさん(ネパール・ヒマラヤ保全協会会長)、ナル=バハドゥール=プンさん(常勤スタッフ), ウム=バハドゥール=プンさん(フィールド・スタッフ), ギャン=バハドゥール=プンさん(パウダル村校長), ツァムパさん(チベット医学医師), デウ=バハドゥール=プンさん(非常勤スタッフ)の6人が参加し、日本側からはヒマラヤ保全協会・事務局長の田中博さんと私が参加する。

 簡単な打合わせのあと、「ヒマラヤ保全協会の将来計画」というテーマに「KJ法」をつかってとりくむことになる。KJ法とは、この協会の会長でありネパール探検家・文化人類学者の川喜田二郎教授が開発した発想と問題解決の方法であり、創始者のイニシャルをとって「KJ法」と命名されている。これはそもそもは、ネパール探検によってえられた膨大なデータをまとめるために同教授がかんがえだした情報整理と発想のための方法であるが、現在は、問題解決の方法としてモデル化され、創造性開発技法としてもよくしられている。この方法は一言でいうならば、データをしてかたらしめる方法であり、その特徴はトップダウンではないボトムアップのプロセスをとるところにある。KJ法を実践したいというネパール人スタッフらのつよい希望が以前からあったので、今回、オリジナルなKJ法を私の指導で実施することになる。

 まず最初に「パルス討論」を実施する。「パルス討論」とはプレーン・ストーミングを応用した討論法であり、私が司会をしながらテーマに関してのべ約4時間にわたりつづけられる。最初のうちは、ネパール語と英語の両者をつかいながらすすめられたが、最後の方ではネパール語だけがつかわれるようになる。だされた情報や意見はすべてラベルにネパール語で記載し、約150枚のラベルがあつまる。そこから、「多段ピックアップ」という方法をつかて、25枚の重要なラベルをピックアップする。今日の作業はここまでである。

 翌28日午前8時、「KJ法1ラウンド」→「衆目評価法」を実施する。「KJ法1ラウンド」とは、えれらたラベル(情報や意見)をくみたてて模造紙上に図解として表現し、課題をめぐる全体状況を把握する方法であり、「衆目評価法」とは、その図解の中で課題をめぐって重要なポイントを参加者全員によりランクづけ(評価)して合意を形成する方法である。これらの作業はすべてネパール語でおこなう。

 その結果、「私たちのおもな活動地域であるシーカ谷の村々において、村人たちとともに村づくりの計画をつくるために、私たちから村人たちにアドバイスができるようにしていかなければならない。それには、ネパールと日本との協力が今後とも必要であり、現場に根ざした参画型のプロジェクトを強力にすすめていくことがもとめられる。」という結論と合意がみちびきださた。

 ネパール人スタッフらによると、「KJ法の簡略化手法は以前やったことはあったのですが、オリジナルな本格的なKJ法は今回がはじめてで、合意形成や計画立案のために大変有効な方法であることがわかりました。今後ともKJ法を是非活用していきたいです。」とのことである。また、今回の実践により、KJ法の英文ガイドが必要とわかったので、シーカ谷の再調査からポカラにもどったときに私が作成することを約束する。

 さて3月29日、今日から私はヒマラヤ保全協会がおこなうスタディ・ツアーに同行して、ネパール西部のシーカ谷へいき、現地の様子をくわしくしらべることにする。シーカ谷一帯はヒマラヤ保全協会が国際協力を長年つづけている地域であり、環境保全・地域の活性化などが大きな問題になっている。ヒマラヤ保全協会はスタディ・ツアーを毎年おこなっており、今回は春の短期のツアーであり、参加者は3人、シーカ谷の北部にあるパウダル村までいき、そこに滞在しながら地域の実態をしらべ、村の活性化についてかんがえることを目的にしている。

 私は、そのツアー参加者3人と、ヒマラヤ保全協会ネパール人スタッフのウム=バハドゥール=プンさん、事務局長の田中さんらとポカラからタクシーにて西方のナヤプールまで移動、そこからパウダル村をめざしてトレッキングを開始する。国際協力事業団からの情報により、4月4〜5日には反政府組織による「チャッカジャム」(交通阻止)と「バンダ」(交通・営業妨害をふくむ強制ストライキ)があり移動ができないので、当初の予定を変更して、はやめにパウダル村へ行き4月3日にポカラにもどってくる予定である。最近、ネパールの社会情勢は非常に不安定になり、バンダとチャッカジャムは頻繁におこなわれているので十分注意しなければならない。私たちはビレタンティで昼食ととったのち、川ぞいにすすんでいく。ティケドゥンガをすぎると急斜面ののぼりがはじまる。今日は、その急斜面の途中のウレリに宿泊することにする。そこで私は、偶然、ネパール人のLBさんと約1年ぶりに再会する。

 3月30日、早朝ウレリを出発、今日も斜面をのぼっていく。ゴレパニ峠にちかづいてくると、そこにはピンク〜赤色のラリグラス(シャクナゲ)が満開である。ラリグラスはネパールの国花である。そして、斜面をのぼりきり標高2880mのゴレパニ峠をこえていく。にわかに雨がふりはじめ、この付近ではラリグラスのしっとりしたうつくしさが斜面一面にひろがっていく。私たちはシーカ谷地域に入っていき、今日はチトレ村に宿泊することにする。

 チトレでは、ヒマラヤ保全協会の協力により運営されている苗畑を見学する。この森林保全プロジェクトは、村人による苗畑委員会を設立し、苗畑の運営管理をおこない、苗の育成・植林・果樹栽培などにとりくんでおり、ヒマラヤ保全協会が植林作業を直接おこなうのではなく、現地の人々の活動を支援する形態になっており、森林保全・森林再生のための地道な努力がつづけられている。急速に森林破壊がすすむシーカ谷において、山岳環境の保全のために非常に重要な事業になっている。

>> 写真:苗畑

 3月31日、朝チトレを出発、このあたりまでおりてくるとラリグラスはまばらになってくる。シーカで午前のダルバートをたべたのち、急斜面を谷底まで一気にくだっていく。そして、谷底をながれるガーラ川にかかる小さな木橋をわたり、今度は、急斜面を一気にのぼりパウダル村をめざす。谷の反対側の斜面には、前回の調査でおとずれたシーカ村〜ガーラ村がよくみえる。そのゆるやかな斜面には多くの集落が発達し人口も多いが、そこは流れ盤斜面であり、特に上シーカ村はややもりあがった地層の上に発達しており、地滑り発生の危険性が非常に高いことが地形からもうかがえる。シーカには、下シーカ村と上シーカ村の2つの村があり、元々は下シーカ村しかなかった。村人たちは、下シーカ地域は比較的安定しているが、ややもりあがった現在の上シーカ地域は不安定であることを経験的に知っていて、下シーカに初め村をつくったのであるが、その後人口が急増してしまったため、不安定な上シーカにも村を拡大せざるをえなくなったという。

 前回の地質調査の結果から、シーカ谷一帯は、川の南側は流れ盤斜面で山崩れがおこりやすく、川の北側は「受け盤斜面」で山崩れがおこりにくいとかんがえれれ、今回のツアーの目的地であるパウダル村は、シーカ谷の北側斜面に位置しているので、そこは「受け盤斜面」になっていて、急斜面であるにもかかわらず地盤は比較的安定していることが予想できる。

 昼ごろ私たちはパウダル村に到着する。学校の事務所にて村人たちから歓迎をうけ、その後、学校の校庭のわきで建設中のチーズ工場をみせてもらう。ネパールの山村と同様にここパウダル村でも現金収入が非常に少ないことが大きな問題になっていて、学校の運営資金にも事を欠いているそうである。村の近くには、トレッキングで欧米や日本からたくさんの観光客がおとずれているので、牛乳でチーズをつくって、観光客に売って現金収入をえれば、学校運営の補助になるという村人のアイディアを、ヒマラヤ保全協会で検討し、マイクロ・ファイナンス(小規模融資)による「チーズづくりプロジェクト」が今年からはじっまった。スタディ・ツアー参加者には、パウダル村にホームステイしてチーズづくりを見学をしながら、国際協力や村づくりについてまなんでもらうことにする。

 チーズ工場は9割方完成しており、チーズづくりの技術者・サーキラム=ジレルさんが村人にチーズのつくり方を指導している。彼は、ネパール東部、エヴェレスト街道の入り口としてしられるジリからまねかれているチーズづくりの専門家で、今日まで27年間チーズづくりにたずさわってきている。パウダル村に2〜3ヶ月滞在してチーズ工場を建設し、牛のチーズのつくりかたを指導している。

 ヒマラヤ保全協会スタッフでこの村の出身でもあるウム=バハドゥール=プンさんはいう。「パウダル村のチーズのブランド名はカヤル・バラヒといい、これはパウダルの女神の名前なんです。チーズづくりに必要な道具はサーキラム=ジレルさんが指導してつくらせているほか、私がジリでみてきて村の職人につくらています。牛は、たくさんの牛乳をだすジャージ牛を、パルパ郡やクスマ郡から数頭買ってきて飼育しています。将来、トレッキング・ルートぞいのロッジにチーズが販売できれば、現金収入がえられて学校の先生の給料や学校の整備・その他の村づくりのためにつかうことができるとおもっています。」

 チーズ工場をみたあと、村の中をあるきまわって各地を見学する。学校のとなりでは9〜10人が宿泊できるホステルを建設中で、とおくにすむ子供たちも勉強ができるようにする計画がすすんでいる。

 この村は、ダーラ・アンタラ・プツァールという3ヶ所から構成されていて、かなりの急斜面につくられた村であり、平地といえば学校の校庭ぐらいしかない。あたりの地質をみてみると、やはり「受け盤」である。一帯には、珪岩層の上位にかさなる千枚岩層がひろく分布していて、当初の想像通りに地層の傾斜と地形斜面の傾斜が斜交する受け盤斜面になっていて、パウダル村は非常に急な斜面に発達したにもかかわらず、比較的安定した土地になっており、地滑り等も比較的おこりにくいことが確認できる。村人たちにきいてみても、地滑りがおこっているという話はまったくでてこない。これで、シーカ谷地域では、谷をながれる川をはさんで、南側は不安定な「流れ盤斜面」、北側は安定した「受け盤斜面」であることがはっきりとたしかめられた。

>> 写真:南側(左)は流れ盤斜面、北側(右)は受け盤斜面

 一帯に分布する千枚岩は非常によい土壌を生産しており、階段耕地がよく発達している。階段耕地は段々畑であって、水田はまったく存在しない。シーカ谷地域には、標高約1800m以上の所にはマガール族がすんでおり、それより下の地域にはチェトリ族がすんでいる。この1800mは水田稲作の上限になっておりマガール族は水田稲作をおこなわなわず畑作と牧畜を中心にした生業をもち、農牧の密接な結合がみられる。また、この民族は表面的にはヒンドゥー教徒となっているが土着信仰や儀礼がのこっており、わずかの職人がいるだけでカースト社会はない。村を中心に畑・森林を主とする放牧場が同心円状にならび、夏は森や高山帯の草地で放牧をおこなっている。しかし5年前とくらべてみてもたしかに森林は減少したという。また、1975年に撮影されたこの村の全景写真と現在の村とをくらべてみると、家の数はおよそ倍にふえている。したがって、人口が急増し森林が後退していることはあきらかであり、そのために森林再生事業もおこなわれている。

 その後、私たち日本人5人はばらばらになり各自のホームステイ先の家に行く。私は、ビンバハドゥール=ティルザさんの家にお世話になる。彼の家は、パウダル村の中でも比較的大きな家である。家やトイレの中まで水道がひかれており、下水は、比較的太いパイプで下へスムーズにながれるようになっている。家の内外はどこもきれいで、ゴミひとつおちていない。ビンバラドゥルさんの家では、ホルスタイン牛を飼育しており、毎日その牛乳(生乳)をご馳走になる。

 彼は話す。「昔にくらべて、ヒマラヤ保全協会のプログラムは大変よくなりました。最初におこなったロープライン・プロジェクトは、しばらくはよかったのですがロープライン基地のちかくの木ばかりをきりたおしてしまい、また、事故で一人が亡くなりました。次の簡易水道もしばらくはよかったのですがこわれてしまいました。それに対して、最近のプログラムは、教育・人材養成が柱になっているので、村にとって長期的にとても有効なんです。学校の先生や看護婦の養成に役立ち、村のためになっています。」

 4月1日、午前7時に起床。チヤ(ミルクティー)と卵焼きをご馳走になってから学校へ行き、牛や牛乳に関する、村人を対象にしたトレーニングコースを見学する。講師は、タクール=プラサド=バルワウさんであり、家畜サービスセンターからきていて、シーカ谷一帯で家畜に関する指導をつづけている。彼は、ガーラ村にサンギータ・ロッジ&レストランも経営している。話しているネパール語は専門的でむずかしく、あまり理解できなかったが、今日は、牛のお産に関する講義をしていた。また、彼によれば、今までのローカルな村の牛は、1日に1リットルの牛乳しかださないが、ジャージー牛は、1日に5〜6リットルの牛乳を生産することができるそうである。

 その後、ツアー参加者が、日本からもってきたチーズをつかってチーズ・オニオン・ポテトをつくり、村人に試食してもらう。いたって好評の様であったが、何分、チーズははじめてたべたという人がほとんどであり、おいしくないと言う人もいる。

 試食会の後、私は、ホームステイ先ビンバハドゥール=ティルザさんの家へもどり、夕食をご馳走になる。わるいことに、食後に飲んだ牛乳でひどい下痢になる。「沸かした牛乳をください」と念をおしておいたのであるが、沸騰していなかったようだ。牛乳も沸騰させたものだけを飲むようにしなければならない。しかし家の人々はみな平気である。何分、家の中にはくらい電球が1個あるだけで、あたりはくらくてよくみえず、沸騰しているのかいないのかわからない。また、部屋の中で薪で炊事をするのに、部屋には小さい窓しかないため、煙が部屋中に蔓延している。パウダル村などでは、目がわるくなる人が多いと前からきいていたが、くらい家の中に煙が蔓延しているからである。

 4月2日、午前7時〜9時、我々ヒマラヤ保全協会とパウダル村基金委員会との会議である。お金の貸しつけ条件などについて話し合い決定する。マイクロファイナンスもきちんとルールを作って貸しているようで何よりである。その後、マイクロファイナンスで購入した、牛乳の品質をチェックする機器、牛乳からバターを分離する機器の実演をみる。牛乳1リットルから、1キログラムのチーズと300グラムのバターがとれるそうである。

 そして、当日午後1時半、村人たちにわかれをつげ、パウダル村を後にする。ポカラ・バガールへと急斜面をくだっていく。対岸の地形がよくみえる。谷はしだいにせばまりカリガンダキ川合流地点に到達する。この前ここへきたときは、カリガンダキ川をベニからあがってきたが、今度はベニへむかってくだっていく。少しあるいて夕方にはポカラ・バガールにつく。翌4月3日、午前7時半ポカラ・バガールを出発、午後5時ベニに到着する。そこからはタクシーにのりポカラへ。2時間45分間かかり、ポカラのダムサイト、アショカ・ゲストハウスへ無事もどる。当初心配していたチャッカジャムは中止されていた。

 4月4日、私たちは国際山岳博物館の建設現場を見学する。この博物館は現在約5割が完成しており、予想をはるかにこえた巨大な建物であり、日本山岳会が援助をしているとのことである。あまりにも巨大なことにおどろくとともに、完成しても維持・管理にかなりの予算がかかり、運営に困難が生じることが懸念される。はたしてネパール人がどこまで参画できるのだろうか。巨大な箱物主義におちいらなければよいなともおもいつつ、ヒマラヤをめざした人々の足跡をきざみこむ拠点としての発展を期待したい。

 次に、ポカラ地域博物館へいく。ここでは、ネパールのそれぞれの民族について簡潔に紹介されていて、民族の多様性がよく理解できる。ネパール西部地域にすんでいる、チェットリ族・グルン族・マガール族・タカリー族・チベット系民族が日常的につかっている道具や衣服が展示されており、それぞれの民族のくらしぶりが想像できる。入場料は5ルピーと安く、小じんまりとしているが、それだけに民族の多様性について短時間で理解できる。

 その後、レークサイドへ行きチベット料理をたべた後、オールドバザールのスニール=セラチャンさん宅にお邪魔する。スニールさんは現在、日本の大学で留学生の世話をする仕事をしながら修士課程でマネージメントを勉強しているので不在であるが、奥さんとお子さん・お母さんらにお会いしお話しをうかがうことができる。奥さんは、今度日本にいくので日本語を毎日勉強しているそうである。

 4月5日、私は、ヒマラヤ保全協会事務所へいき、トレッキングの前に約束してあったKJ法の英文ガイド「KJ法の基本技術」を作成する。その内容は、(1)パルス討論、(2)KJ法1ラウンド、(3)衆目評価法、(4)フィールドワーク、(5)6ラウンド累積KJ法、というものであり、スタッフのナル=バハドゥールさんに今回はこれらのうち1〜4までを解説する。一緒にまたKJ法を実践することを約束して事務所を後にする。

 その後、トリブバン大学プリティビ・ナラヤン・キャンパス内にある自然史博物館を見学する。中でもヒマラヤにおけるチョウのすみわけの図は見事である。カリガンダキ川ぞいの例を図で示しながら写真も展示されていて、標高があがるにしたがってチョウの分布による分帯がきれいになされていることがよくわかる。また、動物の棲みわけ図も示されており、チョウほどは明瞭には分帯はできないが気候によるすみわけがみられる。標高差によるすみわけ・分帯成層構造はヒマラヤの特徴であり、それを理解するためには、まず、ある標準地域(モデル地域)をえらんで徹底してローカルに見ていくのがよい。また、ヒマラヤの断面を切って断面図をかいてみるとそれについの理解のたすけになる。ただし、博物館は、ただ展示をしているだけではだめであり、アクション・プランがないと死んでしまうと感じた。

 


 

 

 4.2 タプレジュン地域の地滑りをしらべる

 

 さて、私は、シーカ谷の再調査にひきつづいて、ネパール極東部・タプレジュン地域の再調査をおこなうことにする。タプレジュン地域については、前回の調査によって地質の概要はあきらかになっているので、今回の2回目の調査ではこの地域にある巨大な地滑りに目標をさだめ、それをくわしく調査・検証することにする。概査をふまえ精査をするという方針である。

 2001年5月18日、私は、前回この地域を一緒に調査したトリブバン大学地質学科修士課程の大学院生・テズ=プラサド=ゴートム君とともにカトマンドゥをバスで出発する。今回の調査は彼の指導もかねておこなわれ、彼は、前回と今回の調査結果にもとづいて修士論文を作成することになっている。

 カトマンドゥからバスにゆられて約3時間、私たちはムグリンにさしかかる。すると、道路がふさがれすべての自動車が先へすすめないでいる。何がおこったのかとおもって外にでて様子をみてみると、「トラックが道路から谷底に転落して11人が死亡する事故がさっきおこったんだ。」そばにいるネパール人が話している。事故処理のため道路が封鎖され、私たちはムグリンで立ち往生し、約5時間後ようやく発車することができる。ネパールの山岳道路は山地をうねるように走っていて、カーブが多く道幅もせまいため大変危険であり、道路からの自動車の転落事故がしばしがおこっている。

 翌19日、ネパール極東部のイラムに到着、ここで1泊したのち、5月20日朝6時タプレジュンにバスでむかう。タプレジュンにちかづくほど道路は悪くなり、下には大きな崖がひろがっていて非常に危険である。午後7時、宿泊先のMNPTロッジに到着、あたりはすでにくらくなっている。

 5月21日ロッジにて、カトマンドゥからもってきた調査地域の空中写真(航空写真)をみて調査地域に分布する地滑りの全体像をつかみ、調査計画をたてる。空中写真は1992年に撮影されネパール測量局が発行したものであり、今回は、ヒベラとハンデワに分布する2つの大きな地滑りの調査をおもにおこなうことにする。この地滑りのうちハンデワ地滑りは、幅約2.5 km、長さ約4.5Kmというヒマラヤにおける最大規模の巨大地滑り地域を形成している。

 空中写真をつかって地形や地質の状況をよみとる作業を写真判読といい、つかう写真は白黒でもカラーでもかまわないが、立体視(実体視)して写真を観察しなければならない。60パーセントのオーバーラップでとった2枚の空中写真をならべて重複部分を立体視すると、肉眼よりも2.5倍ほど垂直方向が誇張されてみえるため、小さな起伏や比高も明確に把握できる。空中写真判読では、ありのままの地形を立体像としてみることができるので、地表面の微地形・植生・地質などの情報から、地形図よりもはるかに正確に地滑りの分布を把握でき、地表のうごきもとらえることもできる。したがって、地滑り調査の第一段階では空中写真判読がおこなうのが一番よい。

 私たちは、まず空中写真をみて地滑りのある場所やその状況の見当をつけておき、そのあとで現場にいって精密な調査をすることにする。しらみつぶしにあるく調査とはちがい、ポイントをきめてそこに直行し徹底的に調査するという方法である。学生のテズ君には裸眼で三次元の実体視ができるように毎日練習をさせた。彼はしだいに実体視ができるようになり、川・谷・崖・崩壊地・地滑り・耕作地・町など様々なものがみえ、またいろいろなことに気づくようになってきた。一定期間訓練をつめば実体鏡をつかわなくても裸眼で実体視ができるようになる。

 このような調査では、地形を単に地表面の形としてとらえるだけではなく、災害予測やその対策のための必要な情報にその形をよみかえていくことが必要がある。それには、地形を漠然とみるのではなく、地形の新旧や連続性・ひろがり、現在の形になるまでの歴史、その地形をつくるためにはたらいた力など、いろいろな方面から観察することが大切である。

 5月22日、今日から現地踏査をはじめる。私たちはタプレジュンのバザールを北へむかってとおりぬけていく。前回きたときにも感じたことであるが、このバザールは山奥にあるにしては大きなバザールである。タプレジュンには軍隊を退役した人が多く、退役軍人がたくさんあつまってきたことによりタプレジュン・バザールは大きくなったとう。いま泊まっているロッジのオーナーもイギリス軍の兵士であった。

 バザールをあとにしてウティスの木や竹の森をとおりぬける。足元にはシダがたくさん生えている。すこしいくと水田があり何本もの平行な割れ目が土地に発生している。これは地滑りがおこっている証拠である。本格的な雨季がちかづいているため大粒の雨がふってくる。しばらくいくと眼下に巨大な地滑り地域がひろがってくる。あたりは千枚岩の地層がつづいているが、北へとあるいていくと千枚岩から眼球片麻岩へと岩相がかわり山腹が急な斜面になる。地質のちがいが地形のちがいにはっきりとあらわれている。千枚岩と眼球片麻岩との境界部はヘン岩になっていて千枚岩から眼球片麻岩へと岩石の粒度が次第に大きくなっている。眼球片麻岩の急斜面下の千枚岩の緩斜面は、耕作地としてひろく利用されており、そこには稲以外に小麦もみられる。

>> 写真:巨大な地滑りがおこっている

 私たちは、地滑り地帯の上の方をあるいて自分たちの目で実際に現場をみてたしかめ、地滑りの全体的な状況をつかむようにする。ノートに地滑り発生のモデル図を記載しながらテズ君と議論をすすめる。「地層の傾斜は北落ちで、ハンデワ地滑りの分布域にながれているハンデワ川は千枚岩と眼球片麻岩との境界部に元々発達し、そこで河川浸食ががすすみ地滑りが発達したのだろう。」

 5月23日朝ロッジにて、2つの巨大な地滑りであるヒベラ地滑りとハンデワ地滑りの写真判読をおこなう。その後、ロッジを北へむかって出発、ソーラー・バッテリー・システムをそなえた家の前をとおる。こんな山奥にまでそソーラーがある。文明は着実に奥地へ前進している。そして、ヒベラ地滑り地域の内部をとおりぬけてハンデワ地滑り地域に到達、その上部には多数の割れ目や段差が生じている。そばの住民にきいたところ、「毎年、この土地は下へむかってうごいているんだ。」私は、「危険ですから、よその土地へうつった方がよいですよ。」というと、「なぜ、うつる土地はありません。」とこたえる。また別の住民にきくと、「毎年、20〜30cmの速度で私たちがすんでいる土地が下へうごいているんです。様子をみながらやっていこう!」とのことである。地滑りの調査では住民からの聞き取り調査も重要である。

>> 写真:割れ目や段差が生じている

 5月24日、今日は、ハンデハ地滑りの南西にあるもうひとつの巨大地滑りであるヒレバ地滑りの上部をみる。ここにある学校の教師にきいてみると、「この学校は元々はもっと下にあったんですが、地滑りのために18年前にこの地にうつってきました。そこの森林地も下の方へ移動しているんです。約25年前から地滑りが活発化して、10軒の家がよそへ移動しました。」付近にはクラックや段差地形・小規模な崩壊地がたくさんある。

 ヒレバ地滑りの崩壊地域の内部へくだっていくと、おどろいたことに、沢と沢の間のとてもせまい土地に4軒の家があり、住民たちがトウモロコシなどの耕作をおこなっている。周囲はすでに崩壊しており非常に危険な土地である。雨季につよい雨がふったら一気にすべるかもしれない。ここが危険であることを住民につげると、「うつる土地はありません。そこの崩壊してしまっている所には元は耕作地で何軒かの家があったんですが、地滑りがすすんで土地がうごきはじめたことがわかったとき、人々はいそいでよそへでていきました。」

 5月25日、毎日あけ方につよい雨がふるが、日中は比較的晴れている。学生のデズ君によると、「本格的な雨季はまだはじまっていません。約1ヶ月後に本格的な雨季がはじまります。今は準雨季です。」とのことである。今日は、ハンデワ地滑りの上部をよくしらべる。この一帯にも割れ目がたくさん発達している。住民にきくと、「11年前まではこの先300mまで耕作地だったんですが、今は崩壊地になってしまいました。1年間に20mぐらいは下へすべっているようです。」ハンデワ地滑り地域の上部に行くと崩壊地がひろがっており、前日の大雨により土砂がはこばれ、黄土色ににごった水が大量に川にながれている。地滑り地域をふくむこの一帯の岩石もすべて千枚岩である。

>> 写真:ハンデワ地滑り

 5月26日、朝1〜2時間空中写真をみて、その後現場で調査、夕方にロッジにもどり地質図をつくるという生活がつづく。ハンデハ地滑りの上部にあるドゥパウレ村には地割れがひろり、地滑り地域が拡大していることがわかる。村人にきくと、「2年前から土地がうごいているんです。」という。沢の上流には崩壊地があり、沢の水はにごっている。

 5月27日、ハンデハ地滑りの北東部のブンクルン村〜シスネ村にいき調査をする。村人は、「土地にわれめができて、14年間から、この学校があるところの土地は下へうごいているんです。」という。ロッジにかえって、岩相・走向傾斜・地滑り範囲・崩壊地・耕作地・森林などを地形図に記載しながら地質・地滑り分布図をつくっていく。地形図は5万分の1の非常に正確なものがネパール測量局から発行されていて、誰でも買うことができる。ネパール全国をカバーしているわけではないが、タプレジュン地域のものはそろっている。

 5月28日、 ロッジから北へむかいドゥベ村にいく。写真判読では地滑り地形があるようにみえたので、ここの住民にきいてみると「ドゥベには地滑りはありませんよ。」という。そして、ハンデハ地滑りの下部をとおりぬけ、ふかく浸食されたハンデワ川の谷をわたる。対岸のミトゥルンにくると片麻岩がまたでてくる。その北西にながれるタマル川の川岸には千枚岩の大露頭があり、石英の脈やレンズが非常に多数みられる。標高が低い川の周辺は気温が34度Cもあり非常に暑い。タプレジュン・バザールからの標高で約1000mもおりてきたので、今度は1000mをのぼらなければならない。のぼりは大変きつく、水もきれてしまい大変くるしい。

 5月29日、今日はバザールから南へバス道路をあるく。千枚岩層は微褶曲をくりかえし、石英の脈やレンズが多数存在し、また所々に砂岩を挟在する。とおくにはカコウ岩のなだらかな地形の山がみえる。しばらくいくと、タプレジュン地域の斜面がよくみえる。一面、耕作地である。バザールのむこう側とおくにはヒベラ地滑りもみえる。急斜面・崖と、2400m以上の土地以外の所はほとんどすべて耕作地になっていて、森林は存在しないため、沢や川ぞいには地滑りが発生しやすい。道路わきの斜面には、地滑り防止・斜面安定のために竹がうえられている。空中写真と現地調査の結果を比較してみると、耕作地は、空中写真が撮影された1992年当時ですでに目一杯拡大しつくされており、耕作ができる土地はすべて耕作地化されてしまっていて、その後の拡大はなく、またもはやこれ以上開拓する土地はない。

 5月30日、今日もバザール南部の道路ぞいを調査する。川をはさんだ対岸に別の地滑りがおこっている。住民にきいてみると、「今の地滑りを中心に、大きな地滑りが50年前からあるんです。」しばらくいくと、カコウ岩との境界部の千枚岩の転石には、接触変成作用がみとめられ、カコウ岩は千枚岩層に貫入している。

 5月31日、今日は現地観察とききとり調査の最終日として、ハンデワ村へむかう。途中、ヒレバ地滑りの内部へ入ると、そばの村人たちが総出でバザールへむかうあたらしい歩道をつくっている。雨季には地滑りや斜面崩壊によって歩道は破壊されるので歩道の整備は大変である。しばらくあるいてハンデワ村につく。この村はハンデワ地滑りに接しているやや大きな村であり、ハンデワ村付近には段差地形がはっきりとみとめられる。沢ぞいでの急斜面で耕作ができない所にのみ森林がのこっていて、ほかはすべて開拓しつくされている。ハンデワ村の住民は、「3〜4年前から地滑りがあるんです。」という。現地観察と聞き取り調査の結果にもつづいて地滑りの拡大域を把握しながら防災対策をかんがえていく。ハンデハ村の西にあるカンキ村にいってみると、そこには割れ目は発達していない。カンキ村から下方地域には空中写真判では地滑り地形がみとめられるが、現地調査では確認できない。

 6月1日、今日は現地観察はおこなわず、宿で地質図を完成させ調査結果のまとめをおこなう。地形図に、地滑りの範囲・崖・運動方向・割れ目などを記載していく。地滑り地形は、地滑り土塊と土塊背後の崖(滑落崖)とに大きくわけられる。地滑りが活動をはじめると、移動土塊の表面には亀裂(地割れ)・陥没・隆起などの微地形が形成され、これらは、地滑り土塊が移動する際の前兆現象としてもあらわれるので、予知の手がかりになる。この地域の地滑りも、シーカ谷と同様に流れ盤斜面の重力移動であることが確認できた。ただし、シーカ谷は、千枚岩と珪岩との境界面がすべっているが、ここには珪岩は存在せず千枚岩層の内部に滑り面が生じている。

 なお、学生のテズ君は今回のフィールドワークによって応用地質学的な方法を習得することができ、また一通りのデータがそろったので、あとはカトマンドゥにもどって修士論文の作成に専念することになる。

 


 

 4.3 ネパール国王一家殺害事件の衝撃

 4.3.1 衝撃が走る

 2001年6月2日(土)午前5時。

 私たちは、ネパール極東部タプレジュン地域におけるフィールドワークをおえ、帰路のバスの中にいる。ネパールでは雨季がすでにはじまっており、おりからの大雨で帰路の道路が崩壊し、途中トラックが2台立ち往生して道をふさいでしまい、私たちのバスは出発できないでいる。

 学生のテズ=プラサド=ゴートム君は、帰宅の連絡をするためカトマンドゥの自宅に電話をかけにいき、そして、おちつかない表情でもどってきた。

 「カトマンドゥで大変な事件がおこりました。王宮内で、国王一家をふくむ11人が殺害されました。ディベンドラ皇太子が結婚問題で国王と意見が一致せず、泥酔状態で発砲、みずからは自殺をはかったという話です。」すぐにラジオの大きな音がする。バスの乗客たちに衝撃がはしる。誰もが信じられない様子である。

 立ち往生したトラックを移動するのに約10時間を要したため、私たちは、今日の目的地であったイラムへは到達することができず、途中のシンガポールに宿泊することになる。そこには電話・テレビ等はないので、事件の情報源はラジオだけである。報道によると、カトマンドゥで暴動が発生、警察ではコントロールしきれず、軍隊が出動し統治にあたったとのことである。

 翌3日(日)午前6時、シンガポールを出発。午後3時半、第一の目的地イラムに到着する。私はすぐに、イラム在住の青年海外協力隊員・池上聖君に電話をする。彼は早口で言う。「JICA(国際協力事業団)ネパール・オフィスからの指令で、日本人は全員自宅待機になっています。カトマンドゥは危険な状態だそうです。すぐに、JICAオフィスに電話してください。『田野倉さんに連絡がつかない』と協力隊調整員の安部さんから電話がありました。」

 すぐに国際協力事業団のオフィスに電話をすると、「2日間、移動せず待機してください。『外出禁止令』が政府から発令されました。6日までは喪中であり、政府関係機関はその間閉鎖されます。」「了解しました。2日間イラムにとまり、しあさっての6日水曜日にバスでカトマンドゥにむかうことにします。」

 6月4日(月)。イラムでの情報源はテレビとラジオであり、テレビは、ネパール放送とインド放送が受信できる。ディベンドラ皇太子は病院にはこばれたが、危篤で話ができない状態である。しかし、故ビレンドラ国王の後を継承し、新国王に即位している。

 イラム・バザールの店はすべて閉まっている。バス・飛行機など国内の交通機関も完全にストップしている。多くの男性が髪をそっている。

 同日午後、危篤であったディベンドラ新国王の逝去が報道される。そしてその後、故ビレンドラ国王の弟、ギャネンドラ殿下の新国王・即位式の模様が、ネパール放送のテレビにより延々と放送されている。ディベンドラ前国王の逝去により喪中は6月8日まで延長される。

 故ビレンドラ国王は3人兄弟の長男であり、上の弟がギャネンドラ現国王、下の弟はディレンドラ殿下である。故ビレンドラ国王には、ディベンドラ(長男・前皇太子→前国王)、ニラジャン(次男)、スルティ(長女)の3人の子があった。国王・王妃・3人の子供の一家全員が逝去されたわけで、まことに痛ましく悲しい事件である。

 そして、このころから、ネパール人達がささやきはじめる。「ディベンドラ皇太子が泥酔状態で発砲したという報道は、はたして本当だろうか?」

 6月5日(火)。カトマンドゥの国際協力事業団オフィスから電話がはいる。「カトマンドゥで暴動がまた発生し、警察と衝突、市民7人が死亡しました。『外出禁止令』がふたたび発令されました。危険な状態がつづいていますので、9日まで、そこから移動しないでください。」

 同日午後、イラム・バザールでは、ネパール人約100人によるデモ行進がある。人々はさけぶ、「我々の王を殺したのは誰だ!」また、故ビレンドラ国王の逝去を追悼する、女性約50人による行進もある。

 イラムちかくのビラトモドでは、約2000人の民衆がデモ行進し、警察と衝突、おさえきれず軍隊が出動、催涙弾がはげしくとびかったそうである。

 ネパール・テレビにより、故ディベンドラ国王(皇太子)の葬儀の模様が放送される。遺体はたくさんの花でつつまれ、カトマンドゥ市内を車ではこばれ、ヒンドゥー教の聖地・パシュパティナート寺院で荼毘にふされていく。

 そしてさらに、おどろいたことに、皇太后(故ビレンドラ国王の母親)、さらに国王の下の弟・ディデンドラ殿下も逝去したとの報道がある。結局、ギャネンドラ現国王一家をのぞく王族全員が逝去したことになる。おどろくべき大事件である。

 6月6日(水)。バスの運行がわずかに始まる。大学院生のテズ=プラサド=ゴートム君はバスで出発することにする。カトマンドゥが危険でもどれない場合は、実家があるネパールガンジにむかうことにする。

 同日午後、ネパール・テレビにおいて、ギャネンドラ現国王が声明を発表する。「今回の事件について、真相を調査し、3日以内にその結果を発表します。」

 6月7日(木)。今日から、ネパール放送局の放送が一切停止される。何も放送されていない。しかし、インド放送は、連日、「ネパールの危機」として今回の事件その後の様子を報道している。

 テズ=プラサド=ゴートム君から電話が入る。「カトマンドゥは危険と判断し、実家があるネパールガンジにかえりました。」また日本でも、今回の事件について大々的に報道があったとのことである。

 6月8日(金)。イラム在住のカナダ人ヴォランティア宅を訪問し、UK(イギリス)のニュースのホームページの記載をみる。ここでは、ディベンドラ前皇太子が泥酔して発砲したという当初の報道のままである。

 6月9日(土)。現国王が3日以内に発表するといった調査結果は発表されていない。国際協力事業団ネパール事務所に電話したところ、火曜日に発表との情報があるとのことであり、事務所から移動許可がでる。ただし、調査結果の発表後に、抗議行動が再度おこる可能性があるので十分な注意が必要である。また、長距離バスは危険をともなうので飛行機で移動するようにとの指令がでる。

 6月10日(日)。私はカトマンドゥに帰るため、とりあえずイラムからバスで5時間半のところにあるダランまで移動する。国際協力事業団ネパール事務所から連絡があり、調査結果の発表は15日(金)になる見込みとのことである。なお、ダランでも大規模なデモ行進があったそうである。

 6月11日(月)。明日の航空券の手配がすむ。ダランの町は平静をたもっている。

 6月12日(火)午後、私は、ダランから南へ1時間、ビラトナガル空港にむかう。そして飛行機にてカトマンドゥに無事もどる。カトマンドゥでも髪をそった男性がたくさんみかけられる。街中はくらい雰囲気である。

 国際協力事業団ネパール事務所からは14日までは外出してもよいが、外出は極力ひかえるようにとの指令がだされている。今後何がおこるかわからない。

 ネパールにおいて、逝去されたビレンドラ国王の人気は絶大であり、ネパール国民から真にしたわれていただけに、誠に悲しむべき残念な事態になった。ネパールは、社会の混乱がここ数年増加する状況下にあっても、ビレンドラ国王が国の中心にしっかりとすわっていたことにより国が維持できていたということは、私たち外国人にもはっきりとよみとることができていた。逝去された王族の方々にふかく哀悼の意をあらわすとともに、ネパールの平和と安定を心から祈りたい。

 

 4.3.2 ネパールはどこへいくのか

 ネパールでは18世紀後半に、カトマンドゥとポカラの間にあるゴルカからゴルカ王がたちあがり、それまでのマッラ王朝をたおしてカトマンドゥ盆地を征服しゴルカ王朝を成立させる。しかし、宮廷政治の腐敗と内紛になやまされつづけ、1846年、軍部の実力をにぎっていたジャング=バハドゥール=ラナが貴族の大虐殺を宮廷でおこない、国王を軟禁状態において権力を掌握、それ以後約100年間ラナ家の独裁専制政治(将軍政治)がつづく。彼らの基本政策は鎖国であり、結局、圧政と独善がおこなわれ、文化的停滞・権力の腐敗・経済破綻などがもたらされる。

 その結果1947年になると、インドの独立が大きい刺激になり反ラナ運動がもえさかり、1950年末、幽閉されていたトリブバン王がインドに脱出、1951年、トリブバン国王による王政復古・開国がインドの肝いりで成功する。

 その後、立憲君主制を目指して一旦は民主化をみとめ、1959年に総選挙がはじめておこなわれて議会と内閣が成立するが、1960年末に、次のマヘンドラ国王は突然それをひるがえし、クーデターによりその議会と内閣を解散し政党政治家などの政治勢力をすべて排除、国王による独裁体制をつくる。その政治体制は「パンチャート体制」とよばれ、「パンチャート」とはネパール語の「5」から派生した言葉であり、ふるい五人組的地方自治制度に由来するというが、実際には、政党は非合法となって活動は禁止され、国王と官僚主導の政治がおこなわれる。民族間の関係からみると、このパンチャート体制はネパールの主要民族であるパルバテ・ヒンドゥーの高カーストを中心とする体制といわれ、官僚や大臣の多くをそこから登用していく。さらに、彼らの母語であるネパール語を国語として強制し、また彼らの宗教であるヒンドゥー教を国教とし特別にあつかう。

 その後1989年になると、中国と武器購入密約をむすんだネパールに対して、インドは通商通過条約の更新を拒否し、インドからの物流はとだえネパール経済は混乱する。政府の無策に対する批判は長年の抑圧体制への不満とむすびつき、また、ネパール国民会議と統一左翼戦線との協力も成立して、民主化運動は一気に高揚・激化する。その結果1990年4月、ビレンドラ国王はパンチャート体制の廃止を明言し、同年11月には新憲法が制定され、国王の権力は制限されて立憲君主制と政党政治が実現する。この民主化闘争は、一方では、抑圧されてきた少数民族にとっては信教の自由や自分たちの言語や文化をまもる運動でもあった。

 しかし、ネパールの政党政治はその後11年たった今日でも安定せず、庶民の間に議会制民主主義への失望がひろがる一方、現体制を根底から否定しようとする反政府運動がますます活動を多様化させ、勢力を拡大してきている。政府は弱体化し、反政府武力闘争はますます激化しつつあり、多くの人々が、民主化してかえって社会が悪くなった、国王による統治の時代の方がよかった、とおもうようになったまさにこのときに、今回の大事件はおこったのである。

 事件後約1ヶ月が経過した現在、人民戦争を通して人民政府を樹立、立憲君主制をたおして共和制を実現しようとする反政府武装組織がネパール全国各地で一斉に蜂起し、多数の死傷者がでていることがつたえられている。

 こうした中で、外国人教師が協力している私立学校に対する反政府武装組織による脅迫もおこなわれるようになり、私学は植民地化教育・金もうけ主義と攻撃され、休校・閉鎖においこまれるケースが各地で続発しているという。去年私が現地訓練のために滞在したネパール西部のバンディプールにある私立学校も、反政府武装組織に金を要求されて、要求金額の3分の1を支払い、その後、学校を閉鎖しなければ学校を爆破するという手紙がとどいたため、やむなく閉鎖することになったそうである。バンディプールでは、生徒・先生・父兄によりおわかれの会がひらかれ、それは涙のわかれになる。多くの生徒たちは途方にくれたが、しかしある生徒はカトマンドゥにでて勉強をつづけようとしている。

 ネパールはこれまでアジアで一番治安がよい国とされてきたが、このような武装闘争にくわえ、カトマンズを中心とする都市部への地方からの人口流入、失業者の増加や物価の高騰による生活の困窮と貧富の差の拡大もすすみ、一般犯罪の発生も増加して、社会的混乱はますます増加してきている。

 王宮事件によって国の中心をうしなったネパール、この国はこれからいったいどこへむかうのであろうか。

 

 4.3.3 安全対策協議会が開催される

 さて、ネパールの治安悪化・社会的混乱をうけて、7月10日、カトマンドゥにおいて青年海外協力隊の安全対策協議会が開催される。

 国際協力事業団ネパール事務所の三苫所長から会の冒頭に話がある。所長はかつて協力隊員としてザンビアで活動をしていたそうである。「私がザンビアにいた時、となりの国で、同期の女性隊員がトラックにひかれて亡くなりました。その時のイメージが今でも鮮明にのこっています。安全管理を徹底して、くれぐれも事故などにあわないように十分注意してください。現在、ネパールは混迷をふかめている段階です。国王一家殺害事件以来、国としての求心力がうしなわれていますので、今後とも情勢を判断しながら、危機管理をしっかりして活動をすすめていく必要があります。」

 つづいて、国際協力事業団が遭遇した過去の事件の事例について説明がある。(A)キルギス:金属鉱業事業団の地質技師4人が誘拐される。解決までに、約4ヶ月という長期間を要した。(B)インドネシア:スハルト政権がたおれた時。JICA本部はクーデターを想定した。539人(うち協力隊員66人)の全員が日本にひきあげた。安全を確認し、約1ヶ月後に再入国する。最近の最大のオペレーションであった。(C)ソロモン諸島:三々五々全員脱出、オーストラリア海軍の援助をえる。(D)ジンバブエ:もともとゆたかな国であったが、独裁政権に反対する暴動が発生、南アフリカへ脱出する。(E)コートジボアール:選挙にともない暴動が発生、フランスに待避する。(F)ラオス:うごかない方がよい場合もある。1967〜8年、王制がたおれて社会主義政権に移行した時がそう。

 先般のネパール国王一家殺害事件のおりは、最悪の事態をシミュレーションした。それは、カトマンドゥおよびカトマンドゥ周辺の在住者は飛行機でタイ・バンコクへ脱出し、東部・西部の地方在住者はインドへ車などで脱出するというものであった。事件当時はかなり緊迫した状況であったが、3日後の6月5日頃には事態はかなり沈静化した。しかし、日本での報道はそのころはげしくなったため、ネパールと国際協力事業団・東京本部との間にいわゆる「温度差」が生じた。

 現在、ネパールという国の実情がよくわからない。国の求心力がうしなわれてしまい、国の中枢がわからなくなっってしまった。また、反政府武装組織はいったいどのような武器をもっているのか、また国民は、様々な事件に対してどのように反応するのか、治安維持法の今後の行方はどうなるのだろうか、不明な状態がつづいている。

 青年海外協力隊の活動は奥地前進がモットーであるので、当然のことながら、安全管理・連絡体制の整備が非常に大きな課題になる。今後とも、国外脱出はありえることを頭のかたすみに常におきながら活動をすすめていかなければならない。また、個人一人一人の安全管理の問題と、国際協力事業団の組織としての安全管理の問題との両者があるので、それら両者に注意をはらいながら行動し、ささいな事でも何かあったらただちに事務所へ連絡する。話だけではないとてもきびしい状況ではあるが、希望をもちつつ今後とも活動をつづけていく。

 緊急事態の発生にそなえ、携帯電話がつかえる範囲に居住している隊員に対しては携帯電話を貸与するようにとりはからい、インド退避にそなえ地方隊員にはインド長期ビザを発給してもらうように今後とりはからう。

 


 

 

 4.4 インドの旅

 4.4.1 北インドをいく

 青年海外協力隊には「任国外研修旅行」という制度があり、任期中の2年間に近隣諸国を1回だけ旅行することができる。それは、自分が活動している国をちがった観点から再認識または理解するとともに、えられた情報を自分の活動の参考にすることによって、より一層効果的な協力活動を展開させることを目的としている。

 私は旅行先として、ネパールと今日もっとも関係がふかいインドをえらぶ。インドはネパールのすぐ南に位置する南アジアの大国であり、社会〜文化のあらゆる面で非常に大きな影響をネパールにあたえていて、インドについての理解をふかめることはネパールで仕事をすすめる上でとても意味のあることである。今回の旅行では、北インドのデリー・サルナート・ヴァラナシをおとずれ、イスラム教や仏教・ヒンドゥー教の遺跡や寺院とそれらをとりまく環境をみることにし、中でもヴァラナシはヒンドゥー教の聖地の中の聖地であり是非ともおとずれたい場所である。ヒンドゥー教はネパールの国教でもあり、ネパールを研究する者にとって非常に重要なテーマのひとつになっている。

 2001年8月5日(日)、私は、カトマンドゥ・トリブバン国際空港からインド・デリーへむけてとびたつ。インド航空機が近年ハイジャックされた経緯もあり、セキュリティ・チェックは非常にきびしい。

 飛行機は、右まわりに旋回しながら次第に高度をあげていく。眼下には、四方を山地にかこまれた広大な大地がひろがっている。そのカトマンドゥ盆地をぬけ、ヒマラヤ山脈の南西へとすすんでいく。雲の中をぬけると右手には、ガネッシュ・ヒマール、マナスル・ヒマール、アンナプルナ・ヒマール、ダウラギリ・ヒマールの山群が次々にひろがっていく。それらは文字通り「世界の屋根」そのものであり、天空をつらぬいている。さらに西進、右下にはブトワールの町並みが手にとるようにみえる。そこ、パハール(亜ヒマラヤ)のふもと、タライ平原との境界部の川ぞいには見事な扇状地が形成されている。そしてパハールのはるかむこうには、アンナプルナ・ヒマールとダウラギリ・ヒマールが堂々とかまえている。ここは、大陸移動と造山運動がおりなす悠久の自然史の現場であり、大自然の偉大さを感じさせてくれる。ブトワール西部のタライでは大規模な洪水が発生しており大地が茶色くにごっている。タライからパハール・ヒマールへとはるかにつづく大山脈地帯、これらを一望したのは今回がはじめてでありとても感慨ぶかい。この風景をみることができただけでも今回の旅行は非常に意味のあるものになった。

 約1時間半後、飛行機はデリー上空にさしかかる。どこまでもつづく町並み、遠くには巨大な高層ビル群がみえる。デリーは大都会である。空港で200ドル(T/C)をインド・ルピーに両替する。1ドル=46ルピーである。ニュー・デリー駅前へいき、メイン・バザールに宿をとる。スター・ビュー・ホテル、1泊300ルピー。とにかく暑い、37度Cある。インドの公用語であるヒンディー語はネパール語と文字はおなじであるが、ネパール語はほとんど通じない。

 翌8月6日、デリー北部、オールド・デリーにある「ラール・キラー」をおとずれる。赤色砂岩できづかれた「赤い要塞」であり、イスラム・ムガル朝のシャー=ジャハーン帝が1648年に完成させたものである。残念ながら休館中で中には入れない。そして、同じくシャー=ジャハーン帝が1658年に完成させたインド最大のモスク「ジャマーマスジッド」にいく。大理石(結晶質石灰岩)と赤色砂岩がふんだんにつかわれている。モスクの中に入るのははじめてであり、イスラム教は偶像崇拝を禁止しているので、内部は非常にシンプルである。夕方はすごい大雨がふる。

 8月7日、今日はニューデリーにある国立博物館をみる。この国立博物館は1960年に建設され、インダス文明発祥以来の南アジア5000年の歴史の足跡をたどることができる。ハラッパンギャラリー、ヒンドゥー教の神々の銅像など見事である。古代文明は、インダス文明とメソポタミア文明がまずおこり、ややおくれて中国文明・エジプト文明が発生する。ユーラシア大陸の中央部から次第に大陸の両側にひろがっていく文明の歴史におもいをはせることができる。インダス文明地域には、後に、黒海の東部・コーカサス地方からアーリア人が侵入し、ヒンドゥー文明をきずいた。その後、イスラム帝国の侵略があり、現在は、ヒンドゥー文明とイスラム文明とが拮抗している。

 博物館の建物は、3階建、ドーナツ型構造をしており、みたいところへ自由に移動でき、重点的な見学が可能なしくみになっている。しかし、解説があまりにも簡略である。入館者にもっと親切な解説を用意すべきであろう。また、特別企画展を開催するスペースが中心にあった方がよい。常設展示だけでは、博物館は死んでしまう。

 ここニューデリー地区はイギリス統治時代に建設された地域であり、オールドデリーにくれべて格段に整備され広々としていて気持ちがよい。

 8月8日、インド独立の父・マハトマ=ガンディが火葬された「ラージガート」と「ガンディ国立博物館」をみる。非暴力主義をつらぬき、民衆と苦労をわかちあったガンディの生涯はインド独立の歴史そのものであり、また、イギリス支配からのインド独立は、ガンディの生涯を通して非常によく理解することができる。

 博物館を後にして、チベット仏教の小さい集落「ラダック・ブッダ・ヴィハール」へいく。仏教の寺の脇に、小さなバザールが発達している。チベット人らしいモンゴロイドの人々がみられる。 チベット動乱によって避難してきた人々だろうか。そばには大河ヤムナー川が悠々とながれている。

 8月9日、初代イスラム帝国のシンボル「クトゥブ・ミラール・コンプレックス」をおとずれる。インドでもっとも高い塔「クトゥブ・ミラール」は、1199年に、北インドを征服したクトゥブディーン=アイバクが、戦勝を記念して建設させた塔で、デリーがはじめてイスラムの覇権下におかれたことを象徴する建造物である。以後、奴隷王朝にはじまるイスラムのデリー支配がつづくことになる。塔のそばには、インド最古のモスク「ククッワト・ウル・イスラム・モスク」がある。このモスクは、それまであったヒンドゥー教とジャイナ教の寺院をとりこわして、それらの石材をつかってつくられているため、ふるい寺院の残骸がたくさんのこっている。柱にきざまれていたヒンドゥーの神々は、そのすべてが顔をはじめ表面をけずられている。イスラムはヒンドゥーを破壊し、その両者は融合することはない。ここ南アジアは、ユーラシア大陸の東西の文明がぶつかるところ。ここでも、その片鱗をうかがいみることができる。

 次に、16世紀、ムガール帝国2代皇帝が居城として使用した「プラーナ・キラー」へいく。巨大な城壁の中に、モスク、図書館の跡などがのこっている。

 8月10日、私は、デリーから、飛行機で南東へ約1時間、ヴァラナシへ移動する。そしてヴァラナシから、オート・リキシャで約40分、仏教の聖地・サルナートへいく。そこには、仏教の史跡があつまる遺跡公園があり、ブッダがはじめて説法した場所にたてられた「ダメーク・ストゥーパ」(仏塔)や、大仏教寺院の跡などがある。ストゥーパは5〜6世紀につくられ、後に改修され現在のように巨大なものになったと推定されている。ここには、大寺院にむかってながい参道がのびていて、その左手に巨大なストゥーパがある。大寺院へむかって、あるいていって参拝する形式ができあがっている。

 8月11日、考古学博物館をみる。サルナートで発掘された仏像など、紀元前3世紀から紀元後12世紀の出土品が展示されている。入り口には、マウリア王朝の3代目・アショカ王(紀元前272-232)が、紀元前250年頃につくった「ライオン柱頭」があり、これは、この時代、仏教によって国家を統治することをしめしたシンボルである。博物館には、5世紀および11世紀の出土品が私がみたかぎり多く、このデータがただしいとすれば、これらの時代に仏像がたくさんつくられ、このことは、その時代に仏教が非常に繁栄していたことをしめすとかんがえられる。私の専門である地質学と同様に考古学でも、年代決定の作業は非常にむずかしく、「時間分解」の研究をきわめて正確におこなわなければならない。ことなる時代に、ことなる環境で形成された作品を現在同時にみているので、それらを歴史の中に位置づけてみなおしていくことが必要である。

 博物館をでてから、ジャイナ教の「ジャイナ寺院」、スリランカが1931年に建立した仏教寺院「ムルガンダ・クティ」へいく。スリランカの寺の内部には、「ここサルナートは、ブッダの教え『仏教』誕生の地である」と記載されている。 現在ネパール領内にあるルンビニがブッダ生誕の地であるのに対し、サルナートは、ブッダが最初に説法をおこなった地である。ともに、仏教の聖地と言われているが、現在は、仏教そのものはインドではおとろえてしまっている。両地ともに、スリランカ・ビルマ・タイ・チベット・中国・日本などの仏教国が、あたらしい寺を建立している。仏教の聖地として今後どのように発展していくのであろうか。

 8月12日、サルナートから、ヒンドゥー教の聖地の中の聖地・ヴァラナシに移動する。18世紀に建立されたドゥルガ寺院をみた後、ガンジス河へいく。本来、南東へむかってながれているガンジス河が、ここでは北上し、さらに、大きく孤をえがいて東にまがる正にその頂点の西岸に、ヴァラナシの町はひろがっている。川岸には、ガート(沐浴場)がどこまでもつづいており、ヒンドゥー教徒達があふれかえっている。彼らは、一生に一度はヴァラナシをおとずれ、ガンジス河で沐浴したいとねがう。雄大なガンジス河は、まるで「世界の底」をながれるかのように悠々とながれ、すべての物をのみこみ、すべての物をあらいながしていく。今日の夜は、 クリシュナ・フェスティバルである。5人の男達が、ガンジス河へむかって、いのりをささげつづける。

 8月13日、朝6時30分、ガンジス河のはかる向こう岸から、太陽がのぼりはじめる。御来光である。多くの人々が沐浴をしながらいのっている。

 今日は、ヴィシュワナート寺院、火葬場、ネパール寺院をおとずれる。ネパール寺院は、インドの寺院とはことなり、カトマンドゥのヒンドゥー寺院と同様のスタイルで、レンガづくりに木枠の窓というネワール様式である。200〜300年前にネパール国王により建立された。

 8月14日、アジアで最大規模をほこるヴァラナシ・ヒンドゥー大学へいく。ヒンドゥー教関係の学問だけを教育・研究しているのではなく、半円形でよく整備された広大なキャンパスに、工学部・理学部・医学部・文学部・芸術学部・ミュージアムなどが設置され、総合大学になっている。全寮制であるため、学生のための立派なホステルがたくさんある。大学は、シティから近すぎず遠すぎず適当な距離のところに位置していて、勉学のために生活のために大変よい環境である。大学の中央部には大きなヒンドゥー寺院があり、それは正に大学の中心で大学のシンボルになっている。ヒンドゥー教がこの大学の思想的基盤になっており、安定感がある。それに対し日本の大学はいったい何を基本思想にしてやっているのだろうか。

 午後7時、ガンジス河の西側はうつくしい夕焼けである。一日がおわろうとしている。ここヴァラナシは、「世界の底」をながれる巨大なガンジス河が、大きく東へ曲がるポイントであり、そして、その真東の岸辺から太陽がのぼり、その太陽はガンジス河を大きくまたいで、西のはてにしずんでいく。河のながれの大きな変化と、太陽の運動、地と天のこのシンクロナイズに、人々は古代から偉大な生命力を感じていたにちがいない。

 8月15日、「バーラト・マート・マンディール」(インド母なる寺院)へいく。何とそこでは、インド亜大陸の立体模型が御神体になっている。これはいったい何を意味するのだろうか。寺院は、インド独立の父マハトマ=ガンディにより1932年につくられ、インド独立と国民の団結を目指した人々のねがいがこめられているという。御神体は大理石でつくられており非常に正確にできている。縦スケールが強調されていて、インド亜大陸とユーラシア大陸の境界部、ガンジス低地からタライ・パハール・ヒマールへとつづく地形がよく表現されている。飛行機からみたヒマラヤ大山脈地帯の様子もよくわかる。

 その後、私は、ネパールに帰国するため、ヴァナラシ空港からデリーにもどる。機内にて機長が放送で言う。「今日はインド独立記念日です。」奇しくも今日はインド独立記念日、インドの巨大なエネルギーが解放された日であった。 暑さと喧騒と混沌の国・インド、この巨大な国は今後どのように発展していくのだろうか。

 ロイヤル・ネパール航空機にて、無事、ネパール・カトマンドゥにもどる。せまい道路、レンガづくりの家々、でこぼこ道。やっぱりネパールだ。かえってきてほっとする自分を発見している。ネパールにはまだ素朴さがのこっている。

 

 4.4.2 ヒンドゥー教は生命力信仰である

 さて、今回の旅でみてきたように、インドには、古代インダス文明の発祥にはじまり、アーリア人の侵入によるヒンドゥー文明の成立、イスラム帝国の侵略・支配、イギリスによる植民地化、イギリスからの独立という非常にながい歴史がある。

 ヒンドゥー教には「ヴァルナ」とよばれる身分制度があり、それは、司祭・王族・農工商人・奴隷の4階級からなる。このヴァルナとは本来「色」を意味する言葉で、先住土着民と、後から侵入してきたあたらしい支配者・アーリア人とを肌の色で区別したことに由来している。また、南アジアは、東のヒンドゥー文明と西のイスラム文明とがぶつかりあう地域である。このヒンドゥー教徒とイスラム教徒とのあらそいは、宗教上のあらそいのようにも一見みえるが、その本質は先住民と侵略者とのあらそいであろう。アーリア人の侵入、イスラム勢力による支配といった歴史事件が、身分社会構造や、東西の文明の対立といった、現代においてみられる空間的図式になってあらわれているとかんがえられる。本来歴史的なるものが、空間的構造的にあらわれていると言ってもよい。

 また、古代インド文明は周辺諸国に伝播し、さらに、仏教を通して、ユーラシア大陸極東部の日本にもわたってきている。たとえば、仏塔を意味する「ストゥーパ」という言葉はサンスクリット語であり、それは「卒塔婆」(ソトウバ、ソトバ)と漢語に音写され、後に日本にわたってきた。卒塔婆は、簡略化されて「塔婆」(トバ)、「塔」(トウ)とよもよばれている。また、ヒンドゥー教の神々は、仏教にもとりこまれ、日本にもわたってきている。帝釈天・大自在天・吉祥天・弁才天・閻魔大王などがそうである。

 私がすんでいる、インドのすぐ北側のネパールでは、南側半分はヒンドゥー教であるが、北側は仏教(チベット仏教)である。ヒンドゥー文明圏と仏教文明圏とがネパール領内で接しており、カトマンドゥ盆地内にかぎっていえば、その両者は融合している。 ネパールはいわゆる北伝仏教の通り道であった。

 ところで、インドではネパール語は通じそうで通じない。フランス語ができるネパール人の友人にきいてみたところ、ネパール語とヒンディー語(インドの公用語)とは、フランス語とスペイン語ぐらいのちがいがあるそうである。このことは何を意味するのだろうか。ネパール語を母語とする、ネパール山岳地帯にすむアーリア系住民は、イスラム帝国の侵略により、インドから移住してきた人々であると言われている。ネパール語とヒンディー語はともにサンスクリット語をルーツとするが、ある段階から別の道をあゆむことになった。つまり、インドのアーリア人と、山岳地帯に移住してきたネパール系アーリア人とは、交流がなかったということであろう。山岳地帯に移住してきたアーリア系の人々は、ながい間かなり隔離された世界にすんでいたのではないだろうか。これらの人々は山岳のヒンドゥー教徒ともよばれ、現代のネパール王国の主流派になっている。

 インド文明の中核をなすヒンドゥー教は、バラモン教、仏教の次に発展してきたという歴史をもち、それは、バラモン教を基礎としながらも、仏教や土着信仰をとりこんで発展したものである。古代のインドで繁栄した仏教は、その後に発展したヒンドゥー教の中にのみこまれてしまっている。インドではあたらしい宗教が発展し、ふるい仏教はインドよりも、その周辺からユーラシア大陸の辺境地にのこっているとみることがでる。文明の歴史的発展と中央から周辺へという伝播により、ユーラシア大陸にことなる文明圏がつくられている。

 それにしても、ヒンドゥー教の巨大なエネルギーとはいったい何であろうか。そのヒントは、やはり、今回おとずれたヴァラナシにあるとおもう。ガンジス河と太陽。それぞれが巨大なエネルギーであり、そして、それらのシンクロナイズ。大自然は、決して一様、のっぺらぼうではなく、エネルギーのつよい場所とそうでない場所とがある。そのエネルギーのことを「生命力」とよびかえてもよいだろう。結局、インド人達は生命力を信じているのではないだろうか。ヒンドゥー教は人間をもふくむ大自然の本源的な生命力を開花させようとしているかのようだ。ヒンドゥー教とは生命力信仰なのだ。そして、たくさんのヒンドゥーの神々は、その生命力の様々な側面をシンボル化したものであると私にはおもえる。奇しくも、インド独立記念日に、「バーラト・マート・マンディール」(インド母なる寺院)でみた御神体「インド」は、混沌の国・インドそのものが、巨大な生命力であるということをあらわしているように私には感じられた。

 

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