3.ヒマラヤは崩壊している

カトマンドゥ盆地

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<目次>

3.1 現地語をまなぶことは文化をまなぶこと
3.2 大自然としてのヒマラヤ
   3.2.2 ヒマラヤ山脈とモンスーン気候
   3.2.3 パハールとカトマンドゥ
3.3 重力場と重力移動
  3.3.1 プレート運動と山脈崩壊
  3.3.2 山崩れ
  3.3.3 激変こそ変化の本質
3.4 ヒマラヤの環境破壊がすすむ
  3.4.1 人口爆発と食糧不足
  3.4.2 森林破壊とパハールの崩壊
3.5 人間社会と自然環境との不調和


2002年7月17日発行

 

 3.1 現地語をまなぶことは文化をまなぶこと

 さて以上の通り、私はネパールにきてから、現地訓練をへて、トリブバン大学地質学科へ赴任し、野外調査や学生実習をおもにおこなってきた。

 ネパール語の訓練の方は、駒ヶ根青年海外協力隊訓練所での語学講座をふまえて、カトマンドゥのネパール語学校やホームステイ先、そして勤務先のトリブバン大学でつづけられた。この過程では、駒ヶ根訓練所での発音・単語・構文の三者の基本訓練を基礎として、会話・読み・書きの実践がネパールでの生活や仕事の中でつみかさねられたことになる。したがって、外国語習得の第一段階では、発音・単語・構文のそれぞれについて、個別に一定の時間をさいて、基本訓練あるいは定型訓練をおこなうのがよく、そして、これら三者の学習を循環的にくりかえしていくことが有効で、この段階では、必要最小限に基本をおぼえて、それを最大限につかうあるいはくみたてるといった努力が重要であり、このかんがえ方は、オグデンが提唱した「ベーシック・イングリッシュ」にも通じるものである。そして、混乱したときにはいつでもかえることができる原点を自分の中にしっかりつくっておくのがよく、たえず発展と回帰ができるシステムの構築が必要であり、そしてそのような基礎があれば現場での実践もみのり多いものになるとかんがえられる。

 また、ネパール語習得の過程でも感じたことは、上達しない時期がしばらくつづいていても、ある時パッとうまくなる瞬間があるということだ。徐々に徐々に坂をのぼっていくという感じではなく、ステップをのぼっていくように段階的に上達していく。これは、音楽やダンス・スポーツ・車の運転の練習などでも経験したことである。したがって上達しない時期があってもそれを悲観する必要はない。

 また今回ネパール語を勉強したことが、日本語や日本人をみなおすよい機会にもなった。日本語は音の数がすくなく発音が簡単である一方、漢字というむずかしい表意文字があるという特性をもっている。日本人は小さいときから漢字をおぼえる勉強をするために、デスク型の勉強が中心になってしまい、それが英語を中心とする外国語やその他の勉強の仕方にもけっこう影響している。私がかよっていた日本の学校の英語教育では、読むことが中心で書く訓練がすこしあり会話はなかった。英語も今回のような方法で教育をうけることができたらとてもよかったとおもう。

 ところで、海外でのコミュニケーション手段としては、国際語として英語が一般的にかんがえられているが、英語は通じる範囲が意外にせまいことを発展途上国経験者は特にしっている。国際語としては国際人造語エスペラントもあるが、これは理想としては非常にすぐれているにもかかわらず、ほとんど普及していないのが現実である。したがって、その国の人々とコミュニケーションをするためには、その国の言葉・現地語をつかうことがもっとも有効であることはあきらかであり、そこでもし現地語を非常に短期間で学習できるとすれば、あるいは短時間で習得できるノウハウがあれば、これほどすばらしいことはなく、グローバル化の今日、時代のニーズであるともいえるだろう。国際共通語をおいもとめるのではなく、現地語をすばやく習得することの方がよいとおもう。その意味でも青年海外協力隊のやり方は大いに参考になる。

 国際協力にとりくむ場合、既存の学問や技術の応用ではなく、課題をめぐる問題解決の実践を現地の人々と共にしなければならず、現地調査においては現地住民からの聞き取り調査もおこなわなければならない。これらのためにはどうしても現地語が必要になってくる。その国に奉仕してやろうとか英語でおしきろうという安直な精神では現地語も上達せず、地域に根ざした問題解決もむずかしいだろう。

 現地に入りこんで具体的な仕事をしながら、現地人から言葉を直接修得するというやり方はきわめて効果的な学習法であり、その外国語をつかわざるをえないように、自分自身を窮地においこんでいくことになる。この段階では、第一段階としての基本訓練・定型訓練をふまえつつも、それをおわりにして、生活や仕事の中で実践をつんでいかなければならない。「型から入り型をでよ」ということである。第一段階では自発性が重視されるが、この第二段階ではつよい切実性が生じてくる。実践の中で、たえず何かを発見をしながら言葉を習得していくことには大きな意味があり、生活をしながら仕事をしながら、毎日何かをみつけだし毎日あたらしい事をおぼえていく、これがどんなにたのしいことか。これは学校の試験勉強とはちがうのである。

 仕事以外でも、ホームステイをしながらあるいはネパール料理やネパール・ダンスをおぼえながら、またネパールのお祭りにも入れてもらったりして、ネパール人の中に入りこみ、ネパール語を通してネパールの文化に私は接することができた。毎日生活しているその国には、中心となる社会があって、それを自然環境がとりまいており、その両者の相互作用によってその国独自の生活様式がうまれている。その生活様式のことを「文化」とよびかえてもよいだろう。その文化をはなれて言語を習得することには意味はなく、その国独自の文化の中に入りこんで言語をまなんでいかなければならない。結局、言語をまなぶということはその国の文化をまなぶことになってくる。

 

 

 3.2 大自然としてのヒマラヤ

 3.2.1 ヒマラヤ山脈とモンスーン気候

 さて私は、ネパール極東部のタプレジュン地域からはじまり、マレク地域、タンセン地域、カリガンダキ川上流域、シーカ谷と、トリブバン大学の学生たちとともにヒマラヤ山脈のフィールドワーク(現地調査)をつみかさねてきた。トリブバン大学の学生たちはきびしい試験があるために暗記中心の勉強におちいっていってしまっているので、このような現地調査は彼らにとって非常に貴重なものであり大きな意味がある。一方、大学の教官の研究面では、トリブバン大学の不十分な研究設備の中でも研究がすすめられる基盤をつくることが課題になっている。これらのことに対処するためには、フィールドワークを基軸にした教育と研究をすすめるのがよく、またその方法やプログラムをもっと開発していくことが必要だとおもう。

 私たちの今までの地質調査でみたきたように、ヒマラヤは約5000万年前から上昇をはじめ、今日みられる8000m級の世界最大の山脈へと隆起した。そして、ヒマラヤ山脈が対流圏上部にまで上昇した結果、それが大気のながれの巨大な障害物になりモンスーン気候が発生した。ヒマラヤ山脈の南側はモンスーン地帯であり雨季には多量の降雨がある一方、山脈北側のチベットはまったくの乾燥地帯になっている。ヒマラヤ山脈とインド洋の堆積物の研究から、モンスーンがはじまったのは1000〜750万年前であると推定されている。

 陸地と海洋とでは熱的特性に大きな差があり、陸地の方が海洋よりも加熱・冷却が容易であため、夏季には、ヒマラヤ山脈〜チベット高原は容易にあたためられて大きな熱源としてはたらく。この熱であたためられた大気は上昇流となり、そこに発生した低圧帯にむかって海洋から陸地へむかう大気の大きなながれが発生する。これが南西モンスーンであり、このモンスーンは海洋から蒸発した大量の水分をふくんでいて、ヒマラヤ山脈の地形的障壁にぶつかり、上昇して山脈の南側斜面に大量の降水をもたらすことになる。大陸で大気の上昇流が生じ、そこにむかってインド洋からしめった空気がながれこむというわけである。一方冬季には、大陸よりもあたたかいインド洋にむかって大陸から大気がながれていく。気圧配置が逆転して北東モンスーンがふくことになる。つまり南アジアでは、寒暖のちがいによって巨大な規模で海風と山風がふいて大きな季節変動がおきているのである。

 このように、地殻が隆起し山脈が形成されたことによってモンスーン気候が発生し、このモンスーン気候があるからこそヒマラヤが今日の姿をつくったということができ、この岩石圏と気圏・水圏との相互作用によってヒマラヤの自然環境が成立したのである。岩石圏・気圏・水圏の変動は地形や地質にきざみこまれていくので、問題意識があれば地形・地質からそれをよみとることができる。特に地形は、岩石圏と気圏・水圏との境界にあって様々な情報を秘めていて、自然の諸現象とその意味までをもよみとれる場合が多い。

 そして、このモンスーン気候を特徴づけるものはいうまでもなくゆたかな水であり、人々は、このゆたかな水をつかって農業を開発し、大昔からこの地域に生活しながら独自の風土をつくりだしてきた。モンスーン気候地域には、ゆたかな水にささえられた高い農業生産性が元々あって、この高い農業生産性がたくさんの人々に食料を供給してきたということができ、モンスーンのゆたかな水がこのこの地域の大きな人口をやしないえたのである。

 このようなゆたかな自然環境の中において、人間は社会をつくり、自然とのやりとりのなかで独自な文化を発達させてきたのだろう。自然環境は人間社会に影響や恩恵をあたえ、人間は自然環境を改変しながらそれを有効に利用する。このような大きな自然の場においては、人間社会と文化と自然環境との間にはわかちがたい一体性があるので、このような世界は一つの体系とみなすことができ、その体系は「人間社会-文化-自然環境系」としてとらえることが可能である。人間と自然とをきりはなすのではなく、このような大きな自然の場の中に、人間の社会・文化までをふくめた体系を私は「大自然」とよぶことにする。

 

 3.2.2 パハールとカトマンドゥ

 フィールドワークを通して、このヒマラヤの大自然の中で私はさまざまな民族にであうことができた。ヒマラヤあるいはネパールには非常に多様な民族がくらしており、そして彼らは実に見事にすみわけている。独自な自然環境とそこにくらす人々ががつくりだすこの多様な世界こそヒマラヤあるいはネパールの魅力であり、それを理解するためには複雑にからみあった糸をときほぐす作業をしていかなけらばならない。

 ネパールの国土は南部低地から北部高地にむかってタライ・パハール・ヒマールと三区分され、タライは国土面積の17パーセント、ヒマールは国土面積の15パーセントのみをしめるのに対し、中間山岳地帯であるパハールは国土面積の68パーセントをもしめており、ネパールの国土の中軸部になっている。

 ネパールの国土の中で、ネパールの南部地帯にはヒンドゥー文明(インド文明)圏の人々がくらし、中部〜東部ネパールではヒンドゥー文明圏はタライから標高約1800mまであがってきている。一方、ネパールの北部地帯はチベット文明圏であり、中部〜東部ネパールではそれは北の高地から3000〜2500mまでさがってきている。このヒンドゥー文明圏とチベット文明圏の中間地帯にくらしているのが、チベット・ビルマ語派系のモンゴロイド型の顔と体つきをもつ日本人によく似た人々であり、東から、ライ族・リンブー族・マガール族・グルン族・タカリー族などが分布している。ヒマラヤ山脈のたがやして天にいたる段々畑がよくみられるのもこのあたりであり、人々がくらす村々は、山々の中腹斜面や低い山地の頂上に多くみられ、新しいバザールをのぞき谷底には存在しない。

 これらに対してカトマンドゥ盆地は異色の大地である。そこは標高が約1300m、マラリアのあった亜熱帯とはことなり温帯に属し大変すごしやすく、肥沃な耕地にめぐまれ集約農業がふるくからおこなわれてきた。南のヒンドゥー文明圏と北のチベット文明圏との中間に位置し、両者をむすぶ中継貿易の拠点としてさかえ、文化的にはヒンドゥー教とチベット仏教との共存・融合がみられる。カトマンドゥはこのようなすぐれた立地条件にめぐまれていたため、ヒマラヤの中心地として大昔から機能していたとかんがえられる。

 このカトマンドゥには5世紀なかばにリッチャヴィ王朝が成立、彼らは元々北インドの王族の一つであり、4世紀初頭にカトマンドゥに入ってきたといわれている。9世紀後半にはそのリッチャヴィ王朝は衰退し、その後しばらく歴史資料がとだえてしまい「歴史の闇の時代」とよばれる期間がつづく。そして13世紀初めになるとマッラ王朝が台頭してくる。その王族はインド・ヨーロッパ語系に属する人々であったとされるが、カトマンドゥ盆地のふるくからの住民であるネワール族の文化を積極的に保護し、15世紀末には、このマッラ王朝はカトマンドゥ・パタン・バクタプールの3つの都市にわかれて、ネワールの都市国家文明が大きく花をひらいた。王宮を中心に、広場・レンガの街並み・道路・共同水道が整備され、多くの寺院が建立されて守護神がまつられ、金銀細工・木彫・貨幣鋳造・占星術・医学・芸能が発達し、複雑な儀礼やはなやかな祭が生みだされていったという。このような都市国家では道路は人間的スケールでせまく、小広場がたくさんあり、人々が自由に交流できるのでコミュニティーが形成されていく。今でも当時の面影に出会うことができ、この町の中でくらす人々の人間関係は日本人などが想像するよりもずっと親密である。今日、この都市国家の文化遺産はネパールの一大観光資源にもなっている。

 したがって、カトマンドゥは「ヒマラヤのヘソ」としてその文明的な中心としてふるくから機能してきたにちがいなく、この文明的な中心と、「ヒマラヤの中軸」である素朴なパハールとの間でさまざまな交流がおこなわれ、生産物や知識・技術などの文化のやりとりがあったのであり、カトマンドゥとパハールとがおりなすこの歴史や文化があったからこそ、一つの世界としてのヒマラヤがふるくから成立しえたとかんがえられる。

 

 

 3.3 重力場と重力移動

 3.3.1 プレート運動と山脈崩壊

 さて、ネパール各地の地質調査を通して私たちはヒマラヤ山脈をめぐる地殻変動の歴史を理解した。南半球に元々あったインド亜大陸はゴンドワナ大陸から分裂、大陸移動によって、その前縁にテチス堆積物を堆積させながら北上をつづけ、約5000万年前に北半球のユーラシア大陸に衝突、その衝撃によって大規模な造山運動がおこりヒマラヤ山脈が形成された。現場でみた、河岸段丘などの地形、衝上断層やナップなどの地質構造、変成作用によって形成された変成岩などは造山運動がここでおこったことをしめしている。カリガンダキ川上流域でみた海底に堆積したテチス堆積物はこの上昇により1万メートルちかくももちあげられたことになり、ヒマラヤ山脈の形成は地球の歴史における最大の造山運動であって、それはいまでもつづいている。

 地球科学者は、大陸移動や造山運動などの地殻変動をプレート・テクトニクスによって説明する。地球の固体部分の表層は、厚さ約100mのかたいリソスフェア(岩石圏)によって構成されており、それはいくつかの部分にわかれていて、そのおのおのを「プレート」(剛体板)といい、テクトニクスとは変動学といった意味である。プレートはほとんど変形せずに高温で比較的軟質なアセノスフェア(岩流圏)の上を移動し、大陸はプレートの一部でありプレートとともに移動する。

 ネパール・ヒマラヤの南に位置するインド亜大陸はインド-オーストラリア・プレートの一部であり、それは北へむかって移動している。プレートとプレートの境界には、ひろがる境界・ずれる境界・近づく境界の3つの種類があり、そこは地殻変動がおこる変動帯になっている。ヒマラヤ山脈は近づく境界に位置し、ここではインド-オーストラリア・プレートが、ユーラシア大陸をふくむユーラシア・プレートの下に南側から北側へむかって沈み込んでいる。このプレート運動の結果、インド亜大陸がユーラシア大陸に衝突し、ヒマラヤ山脈をつくる造山運動がおこったのである。

 プレートは中央海嶺で生成され、近づく境界でほかのプレートの下に沈み込んでいく。沈み込むプレートは冷却し密度が増しているので、それ自体の重みで地球内部に沈降する。プレートは自重で沈み込んでいくのであり、その結果、その背後にあるまだ沈み込んでいないプレートにはひきの力がはたらき、ひっぱられて移動するとかんがえられている。

 巨大エネルギーをもつ大地震が特にヒマラヤ山脈南縁にそって今でもときどき発生するのは、プレート運動が現在でもおこっている証拠である。したがって地震観測は地震災害を軽減するためだけでなく、山脈の地下構造や地殻変動を研究するためにも非常に重要な手段となっている。ネパールでは大地震により過去に大きな被害が何度もでており、特に1833年の大地震や1934年のビハール・ネパール大地震のときは、レンガづくりの建物が多い首都カトマンドゥは大きな打撃をうけた。

 そして、このヒマラヤ山脈は、世界でもっとも高い山脈へと上昇をつづける一方、高くなりすぎたために自重による構造的な崩壊をつづけている。1980年とその翌年、中国とフランスのチベット共同学術調査隊はチベット〜ヒマラヤ山脈の地質調査をおこない、高ヒマラヤ変成岩類(とそれに貫入したカコウ岩類)はテチス堆積物と正断層で接していることをあきらかにし、高ヒマラヤの上にかさなっていたテチス堆積物は北方へ重力的にすべりおちたとかんがえた。また1998年5月、日中共同チョモランマ峰(エベレスト)科学調査隊(隊長:九州大学・酒井治孝教授)は、エベレストの頂上直下に大きなすべり面をなす断層を確認し、ヒマラヤ山脈上部に分布するテチス堆積物の重力によるすべりおち(重力滑動)を裏付けた。このように、ヒマラヤ山脈の頂上から北部に分布する地層は自重で北方へすべりおちたのであり、これは2200〜1800万年前におこったと推定されていて、カリガンダキ川上流域などでみられる横臥褶曲群はこのときに形成された。

 また、ヒマラヤ山脈は、東西に走る低角度断層と南北に走る高角度断層によって切りきざまれて陥没が生じており、これによっても構造的に崩壊・削剥がおこっている。このように、ヒマラヤ山脈は高くなりすぎたためにみずからをささえきれなくなり、その上部の地層がすべりおちたり、陥没が発生したりして自重で崩壊をつづけているのである。ここで働いている基本的な力は重力であり、造山運動をひきおこすプレートの沈み込み運動も、ヒマラヤ山脈の崩壊もともに重力の作用であって、これらはすべて重力場における自然現象として理解することができる。

 

 3.3.2 山崩れ

 ところで、今までの現地調査でもみたように、ネパールでは、土石流・斜面崩壊・地滑りなどがしばしばおこり大きな被害が毎年発生している。このような山崩れはどのようにしておこるのだろうか。

 その最初の段階として風化あるいは変質という現象がある。風化とは、地表または地表ちかくの岩石が雨・熱・風なとにさらされてしだいにくずれて土になっていく現象をいい、変質とは、岩石が地表水や地下水などと反応して構成鉱物の分解とあたらしい鉱物の生成がおこる現象である。風化や変質は岩石や地層の力学的強度に直接関与し、一般的に風化・変質は岩石を軟弱化する。

 したがって、災害をもたらす山崩れの対策をかんがえる上で、風化・変質過程の解明はかかすことができず、特に粘土鉱物は地滑りの発生と密接な関係をもっている。鉱物には風化・変質に対する抵抗力にちがいがあり、石英は抵抗がもっともつよいが、リョクデイ石や粘土鉱物は非常によわい。したがって、おもに石英からなる珪岩は風化・変質につよく、リョクデイ石や粘土鉱物からなる千枚岩は風化・変質によわく、これらの岩石の強度がそれぞれの土地に実際にあらわれている。

 そして、このような風化や変質がすすんだ所では浸食や山崩れがおこりやすい。山地の浸食や崩壊は、山の斜面全体ですこしずつおこっているのではなく、大雨のときに山崩れという形で特定の場所で起こる。山の斜面には風化でできた土壌がつもっており、その下の岩石ももろくなっているので、集中豪雨などでこれらに大量の水がふくまれると、風化した部分が水とともにくずれおちる。いちど山崩れがおこると、次の大雨でくずれる場所はそのとなりにうつる。山の斜面とは、こうして次々とくずれた跡がつらなってできたものなのである。

 そして、くずれた土砂の運ばれ方には土砂にふくまれる水の量やながれくだる速さにによってさまざまなタイプがあり、中でも土石流と地滑りが代表的なものとしてしられている。

 岩塊や土砂が大量の水とともに斜面をすべりおちると、細粒の部分は泥水となり、大きい岩塊は泥水の表面や前面にあつまって、谷にそって高速でながれくだる。これが土石流である。土石流の構造は、先端部に破壊力の大きい巨大な礫が集中し後部へいくほど粒がこまかくなり、最後は泥水になっている。土石流のもととなる土砂は山の斜面で大小様々な粒子がまざりあった状態でつくられたものであり、これが水と一緒になってながれくだると、ながれている間じゅう粒子同士ははげしく衝突し、この衝突による衝撃力が大きい粒子を上にもちあげる。土石流内部では上部ほどながれが速く、巨大な礫はその最上部にうくようにして先端へ移動してくる。マレク地域でもみたように、土石流は大きな岩塊の衝撃によって流路ぞいの建造物や樹木にいちじるしい被害をあたえ、短時間でながれくだるためににげる時間がないのも被害を大きくする原因となっている。ネパールでは、集中豪雨・洪水・氷河湖の決壊のときに土石流が発生し、特に谷の出口付近で大きな被害をもたらすことが多い。

 一方、地滑りとは、ながれくだる速度が非常に小さく、もとの地表の状態がある程度はたもたれたまま移動するものをいう。地下ふかくまで水がしみやすく斜面の地下に水を通しにくい層があると、しみこんだ水はその層の上にあつまり、上側の土地がゆっくりとすべりくだる。地滑りは、一般に移動速度がおそく活動が断続的であり、一度すべった塊が期間をおいてまた活動する。それには円弧にそって回転移動する場合と平面にそってすべる並行移動する場合とがあり、かたい岩石とよわい岩石の岩質のちがう地層の境界ですべりが発生する場合が多い。

 また、下方へながれくだる速度が、地滑りよりは速いが土石流ほどは速くない中間的性格ものを斜面崩壊とよぶことにすると、下る速度によって、地滑り・斜面崩壊・土石流の三者に分類することができる。斜面崩壊とは斜面が急激にくずれる現象であり、地滑りが発生前に亀裂や陥没・隆起などをともなうのに対し、崩壊は発生前の兆候が少なく突発的に発生しやすい。それには崩落・転倒・滑動・流動などの形態がある。ただし、地滑りと崩壊との中間的な現象や、地滑りから崩壊へ、さらに土石流に移行する場合もよくある。

 このような土石流・斜面崩壊・地滑りは、いずれも土砂や岩体・地層などの地質体が下方へむかって移動する現象であり、それをひきおこす原動力は重力であので、これらをまとめて「重力移動」とよぶことができ、これも重力場における自然現象である。重力移動には、発生域・移動域・堆積域があり、そは地質体の破断・開裂・分離ではじまり、重力と地質体内部や周囲との摩擦が均衡したところで停止(堆積)する。そしてこの平衡状態がやぶれるとふたたび移動する。移動の形式や速度は、地面の勾配・地質構造・地下水・地質岩石の強度・地表部の植生などの条件によってきまる。移動のひきがねは、集中豪雨による水や地震などであり、しばしば大きな災害をもたらすことがしられている。

 これらの条件の中でも地質構造は重力移動のおこりやすさを大きく左右する。シーカ谷などでもみたように、地層の傾斜方向と斜面の傾斜方向とが一致するところでは重力移動がおこりやすく、このような地層の傾斜方向と斜面の傾斜方向とが一致する斜面を「流れ盤斜面」という。他方、地層の傾斜方向と斜面の傾斜方向とが反対の斜面を「受け盤斜面」という。シーカ谷では、谷の南側斜面は流れ盤斜面であるが、谷の北側斜面は受け盤斜面である。これらの地域では地層がもつ走向と傾斜は地形にはっきりとあらわれており、斜面災害がおこりやすいのは流れ盤斜面であり、それは傾斜した面がすべり台のような役目をなしているので重力移動がおこりやすいためである。それに対して受け盤斜面は比較的安定しており重力移動はおこりにくい。

 ところで、タライと亜ヒマラヤ(シワリーク丘陵)との境界に位置するダランやブトワールには大きな扇状地が発達していた。そこは、ヒマラヤ山脈からガンジス平原に川がながれでるところであり、その川の出口を頂点として平原にむかってひらいた扇状の傾斜地になっており、これは雨季に洪水がここでしばしば発生したことを物語っている。川の出口では勾配が急にゆるくなるため大量の砂礫が堆積し、また河川は洪水のたびに流路をしばしば変え、扇状地は左右にひろがりしだいに大きくなる。このような堆積作用は普段の河川のながれの中で少しずつすすんでいるのではなく、洪水のときに一気にすすむものである。

 ダランのすぐ西側にはサプタ・コシ(コシは川の意味)という大河がヒマラヤ山脈からガンジス平原へながれだしており、この川は破壊的な洪水をしばしばひきおこし、大洪水のたびに流路をかえてきたことがしられていて、現在では東西100km以上の広大な扇状地をつくっている。このように扇状地は洪水が何度もくりかえしてできた地形である。

 ネパールでは、集中豪雨のときにしばしば洪水が発生し大きな被害がでる。1993年7月の集中豪雨は「パチャースサールの豪雨」とよばれ、死者1460人、行方不明700人以上、被災者総数約50万人、全半壊家屋39000軒、被害総額約110億円という大災害となった。死者の約半数は洪水による死者であり、ついで多いのは斜面崩壊と土石流による死者である。公共土木施設いわゆるインフラにあたえた被害も大きく、年間国家予算の約18パーセントにも達する大きな損害がでた。このような自然災害多発国のネパールにおいては、集中豪雨により毎年打撃をうける道路などの維持・管理は大変な困難をともなっているのが実情である。

 

 3.3.3 激変こそ変化の本質

 以上のように、ヒマラヤ山脈は、ユーラシア・プレートとインド-オーストラリア・プレートとのプレート境界の大きな変動帯に位置し、インド-オーストラリア・プレートは、その北部にあるユーラシア・プレートの下に自重で沈み込こんでおり、この自然現象は重力によってひきおこされるもので、ネパールではこのプレート運動によって、造山運動がひきおこされるとともに大地震がしばしば発生している。一方、造山運動によりヒマラヤ山脈は高くなりすぎたためにみずからをささえきれなくなり、頂上部の地層がすべりおちたり、大地溝帯が形成されたりして自重で構造的崩壊をつづけており、これも重力によってひきおこされる自然現象である。さらにネパールでは、土石流・斜面崩壊・地滑り・洪水などが発生し大きな被害が毎年でており、これらも重力場の中で物質が下方へ移動する重力移動としてとらえることができる。

 したがって、プレートの沈み込み運動から、山脈の構造的崩壊、土石流・斜面崩壊・地滑りなどの山崩れ、さらに洪水にいたるまでのすべての現象を物質が下方へ移動する重力移動としてとらえることができ、これらの自然現象をひきおこす本源的な力は重力であり、長大なスケールの現象からローカルなスケールの現象までを、この「重力移動モデル」によって統一的に理解することが可能である。

 そもそも地球は一つの重力場であり、重力エネルギーは定常的に働いているのであるから、地表や地表付近の状態のちがいによって、さまざまなタイプの重力移動や災害がひきおこされることになる。

 このような重力場における重力移動は徐々に徐々に進行していくのではなく、あるとき一気におこる。それが、地震であり、山崩れであり、洪水であり、これによってネパールにはしばしば大災害がでるのである。これは定常的な重力場における急激な変化であり、くずれるときには一気にくずれる、変わるときには一気に変わるとった現象である。したがって激変こそ、このような自然の変化の本質であり、かくして自然には飛躍があるのである。

 ヒマラヤ山脈は世界でもっとも高い山岳地帯であるがゆえに、当然のことながら平地よりもはるかに重力エネルギーの影響をうけやすい。物質のながれもはやく、地表変化の速度は平地よりも圧倒的に大きく、重力的に非常に不安定な地域となっている。このような不安定な地域にあって、重力移動とは、重力的不安定な状態を解消して重力的に安定化しようとする作用とみることもできる。

 したがって、重力移動すなわちヒマラヤ山脈の崩壊は山脈がかなり低くなるまでどこまでもつづくのであり、このような地域に位置するネパールは、ヒマラヤ山脈のうつくしい景観とともにいつまでもつづく崩壊の危険が同居しているのであって、この自然災害の危険からのがれられないという宿命をかかえている。このような自然環境の中にあって、ネパールの国土保全は大変な困難をともなう事業であることはあきらかである。

 

 

 3.4 ヒマラヤの環境破壊がすすむ

 3.4.1 人口爆発と食糧不足

 ところで、世界の人口は毎年9000万人のペースで増大しており、人口爆発と食糧不足のために地球はいま重大局面をむかえている。西暦2030年には地球上の人口は100億人をこえるといわれており、第三世界でおこっている人口爆発と環境破壊は地球の運命に大きな影響をあたえるとかんがえられている。

 ネパールでも人口急増と食糧不足は大問題になり、それを解決するためにタライの開拓がおこなわれてきた。

 ネパールといえば、雪と氷のさむい世界と何となくおもいこんでいる外国人が多いが、ネパールは日本の沖縄とおなじぐらいの緯度にあり、タライはマンゴやバナナがしげる亜熱帯である。モンスーンによりそこは雨季にはたくさん雨がふって湿潤になるため、かつてはマラリアの悪疫が流行していた。それをさけるために、人々は標高1000m以上のパハールにすんでいたのであり、このためにタライは開拓がすすまずながいあいだ森林がのこっていた。

 しかし、1950年代後半から、国連が協力してマラリア根絶作戦をおこないマラリアはほとんどなくなり、タライへの住民の移住が開始される。人口が急増したパハールと北インドからの入植によりタライはみるみる開拓されていき、今日みられるようなみわたすかぎりの水田地帯と点在する集落と化した。そこはインド経済圏に接していることもあり、インド国境ぞいにはいくつかの大都市も形成され、幹線道路の建設もすすみ、今やタライの方がパハールよりも経済的に重要になっている。

 また、人口増加のはけ口としては、「グルカ兵」として出かせぎにでる人々もパハールのまずしい地域には多いという。グルカ兵とはイギリス軍にやとわれたネパール人兵士のことであり、それになれるのは、ライ族・リンブー族・グルン族・マガール族といったモンゴロイド系の人々にかぎられている。

 ネパールでは18世紀後半に、カトマンドゥとポカラの間にあるゴルカからたちあがったゴルカ王朝が、それまでのマッラ王朝をたおしてカトマンドゥを征服、そのご領土を東西にしだいにひろげていった。このとき、都市国家の歴史的段階はおわり、領土国家としてのネパールの時代がはじまる。そして19世紀初めには、その領土国家ネパールと、インドで勢力を拡大してきたイギリスとの間で戦争が勃発、戦闘は長期化したのち両軍は平和条約をむすぶことになる。この戦争によってイギリス軍はネパール兵の勇猛さをしり、彼らの素朴で忠実な性格と強健な身体をみいだし、彼らを兵士としてやといイギリスの植民地経営につかうようになる。これがグルカ兵のはじまりであった。

 

 3.4.2 森林破壊とパハールの崩壊

 そして、人口の急増にともない、ネパールの中軸をなすパハールでは森林の伐採・破壊が深刻な問題になってきている。森林伐採は第一に燃料としてのマキの採取のためであり、森林が伐採されるとそこは耕作地や居住地にかわっていく。森林がのこされているのは、人がちかずけない急斜面や農耕に適さない北斜面などにかぎられており、パハールは現在、標高2400mぐらいまでの所には自然林は皆無といってもよいぐらいである。そこには、たがやして山稜にいたる無数の階段耕地と尾根筋や山腹にいくらかのこされた草地、点在する灌木などがあり、開拓しつくされたという印象をあたえるその斜面のあちこちに大小無数の集落が点在している。また、放牧地の収容量をこえて家畜を放牧すること(過放牧)により、家畜が樹葉や草をたべすぎてしまうことも大きな問題になっている。

 私たちの現地調査でもみてきたように、耕作地や集落はゆるやかな山腹斜面に一般発達している。ゆるやかな斜面は耕作がしやすく水の供給もよく、移動もしやすくすみやすい。それにくわえて、パハール(低ヒマラヤ)にひろく分布する千枚岩は非常に良質な土壌(肥沃土)をうみだすので、千枚岩地帯のゆるやかな斜面はふるくから開拓され耕作地となっていったとかんがえられる。土壌とは農業生産性をもった土のことであり、岩石が風化して細粒化して変質して生じた物質は一般に土とよばれ、これに動植物とくに微生物の働きがくわわって土壌は生成される。豊富な水とともに、このようなゆるやかな斜面がネパール山岳地域の農業を基本的にささえてきたのであり、そこには、斜面と人間とのたちがたい相互関係がふるくから存在していたにちがいなく、人々は、この斜面を階段状につくりかえ耕作することにより、土壌浸食をおさえながら農業をいとなんできたのである。

 しかし、地質調査からあきらかなように、ゆるやかな斜面は山の斜面と地層面の傾斜とが一致する流れ盤斜面になっていて、そこは山崩れがもっともおきやすい場所でもあるのである。

 植物の小さな根は、あみあげたネットのように土壌をむすびつけるので、土壌は多孔質でありながら、ながされることなく水を吸収することができ、雨や風の破壊効果はおさえられる。したがって森林があれば、雨による水の流出は調整され山崩れの発生はかなりふせげるのであるが、地表が植物によって保護されていないと、土壌は雨や流水にさらされてはげしく浸食され、土壌は下方へ運搬されていく。植物は、自然の収支においてきわめて重要な役割を演じているのである。

 森林を破壊することは、すなわち土壌の浸食をつよめ山崩れをおきやすくし、さらに、森林がなくなった地域の下流では、つよい降雨のあとには川にいつも泥水がながれることになる。森林を再生しないで放置しておくとあるとき突然山崩れがおこり、最終的には経済的にも大損害をこうむる結果となる。ネパールでは雨季に、山崩れによる災害で毎年200人以上の人々が亡くなっている。山崩れの発生は自然の諸条件に基本的には制約されるものであるが、人間による地形と植生の改変が山崩れの発生を促進していることはもはやあきらかであり、植生がうしなわれ一旦ハゲ山になると、はげしい浸食や地滑り・崩壊・土石流が発生することは日本でもよくしられている。

 このように、人口が急増してきたために村々は土地を乱開発せざるをえなくなり、その結果、またたく間に森林が乱伐され、草地ですら階段耕地にかえられて土地がむきだしになり、毎年おそってくる雨季の集中豪雨により山崩れが発生する。重力移動の大きな場であり自然災害が元々発生しやすいヒマラヤで、森林破壊がすすめば、災害はますます発生しやすくなる。このような環境破壊はそもそも住民がひきおこしたものであるが、その環境破壊が住民をくるしめるという悪循環が生じており、住民は大地を開拓し、大地は住民をうるおすという相互関係は、大地の過剰開発のためにバランスがくずれてしまい、今や悪循環の関係にかわってきてしまった。

 

 

 3.5 人間社会と自然環境との不調和

 以上のように、山地の崩壊はネパールの最大の災難に今日なっており、これは最近の人口急増におうところがとても大きく、この人口急増の背景には、近代化の波がネパールをおそってきたことによる、伝統的な生活様式あるいは伝統文化の崩壊・変化があるとかんがえられる。そしてこの問題がとても大きくなってきただけに、今までの文化や技術では今日必要としている環境保全にこたえきることはできず、あたらしい状況に即するようにそれを開発していかなければならなくなってきた。

 今までみてきたように、ヒマラヤにおいては、人間は自然環境に適応してそこから恩恵をうける一方、自然環境をつくりかえそれを利用してきた。そもそも地域とは、中心に人間社会がって、その周囲を自然環境がとりまいているというものであり、人間は自然環境の中でただ適応して生きてきたのではなく、ながい歴史の中で自然環境に働きかけをし、それを積極的に改変し利用してきたのである。それは、どちらかが他方を支配するといった図式ではなく、両者が相互にたえまなく作用する場であり、その相互作用を通して独自な技術や生活様式がつくられてきたのである。

 人間社会と自然環境とのその相互作用の中で発展してきた技術が、階段耕地という独自な様式をもつ農業であって、それは人間が自然環境に直接はたらきかけをしながら、自然環境が人間に産物をもたらす産業とみなすことができる。その様式は、その地域の人間社会と自然環境の状態と両者の相互作用によってきまったのであり、この様式あるいは技術が中核になってヒマラヤの人々の独自な生活様式が成立した。このような生活様式のことを「文化」とよびかえてもよく、したがって文化には、人間社会と自然環境とを媒介するという基本的な性格が存在する。

 このように私たちは、大自然の一体性の中に、人間社会と文化と自然環境のすべてをおりこんで理解していかなければならならず、ここでいう大自然とはいいかえれば「人間社会-文化-自然環境系」という体系のことであり、かつて近代化がなく人口が少なかったころはヒマラヤのこの体系は調和をたもっていたのである。

 しかし今日、ネパールも近代化・開発の道をあゆみはじめ、その進展とともに人口が急増して自然環境の破壊がすすみ、伝統的な風土はうしなわれつつあり、それは今まさに私の目の前でおどろくべき速度で進行し、開発と環境保全とをどう調和させればよいか大問題になってきている。人間社会と自然環境とのバランスはくずれてしまい、両者の不調和がはっきりとあらわれ、伝統的な文化だけではやっていけなくなってしまった。こうして、いわゆる環境問題が今日大々的にさけばれるようになってきたのであり、このような人間社会と自然環境との不調和、いいかえれば「人間社会-文化-自然環境系」の崩壊こそ、いわゆる「環境問題」の本質であるということができる。

 したがって、人間社会と自然環境との調和の再生こそネパール最大の課題であり、そのためには、それら両者を媒介する文化あるいは技術を長期的な観点にたって開拓していかなければならない。

 人間が生活し生産活動をするための土地の開発や利用も、このような観点のもとで真に有効な方向をめざすことがもとめられる。土地開発では、場合によっては自然条件よりも社会的条件の方が優先されることがあるが、土地の開発にあたっては「重力移動」を中心とする自然の諸現象をよくしらべ、地形はある程度はかえられても、そこの地質・気象・地震などの諸現象まではかえられないことに注意することが必要である。特に地形と地質には、ながい時間をかけていろいろな自然現象がはたらきかけているのであるから、その地形・地質を無視した開発をおこなえば土地や建造物の維持に多大な費用と労力を投入しつづけなければならなくなり、結局多くの損失をまねくことになって、子孫にまでとりかえしのつかない傷だらけの国土をのこすことにもなりかねない。

 また、ネパールにおける教育は、いわゆる先進国をモデルにした教育がおこなわれ、その内容は近代文明地域を標準としたものにかたよりすぎているが、自分たちの生活や地域に根ざした教育をおこない、地域の真の発展のために有効な学校教育のプログラムをつくることが実際には必要なのである。たとえば理科教育においては、数学や物理学は非常に重視されているにもかかわらず、地学が極度に軽視されていたり、おしえる内容が少ないという理由から高等学校までの地学分野は物理学の先生がおしえていたりするが、本当は、国土のしくみについてまなぶ地学をもっと重視し、トリブバン大学地質学科の卒業生がネパール各地の学校でもっとおしえられる体制が必要なのである。山岳研究の本流をいく地質学者たちも、以上のような観点にたって、ヒマラヤ山脈の基礎的な研究にとどまらず、ヒマラヤがもつポテンシャルを開発するとともに、ヒマラヤの保全・再生に貢献していかなければならず、それはネパールの大きなニーズである。これらのためには、トリブバン大学地質学科における教育と研究を充実させ、ネパール人の中に人材を育成していくことが今後とも非常に重要になってくる。

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