2.ネパール・ヒマラヤの世界をみる

ムクティナートをのぞむ

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<目次>

(1)現地訓練

(2)トリブバン大学地質学科に赴任する

(3)ネパールになじむ

(4)ヒマラヤ山脈を調査する

ヒマラヤの全体像をみる
ネパール極東部・タプレジュン地域へいく
カトマンドゥ盆地はヒマラヤのヘソである
マレク地域で学生野外実習をおこなう
タンセン地域で学生野外実習をおこなう
カリガンダキ川上流をいく
シーカ谷をあるく

(5)トリブバン大学地質学科内で活動をすすめる


2002年7月17日発行

 

 

(1)現地訓練

 カトマンドゥ

 高い山々にかこまれた広大な盆地が眼下にひろがってくる。その中に、赤茶色のレンガづくりの家々がならんでいる。近代的な高層ビルなどはまったくなく、田園風景の中にふるめかしい町並みがつづいている。

 2000年4月10日。わたしたちの飛行機は、カトマンドゥ・トリブバン国際空港にすべるように着陸する。ここは、ネパール王国の首都。日差しは強くけっこう暑い。空港では、すでに活動をつづけているネパール青年海外協力隊員たちがでむかえてくれ、何やらおもしろいダンスをみせてくれたのち、みんなで乾杯である。市内へでると、自動車の排気ガスで空気がわるいためか、うっすらとモヤがかかったようだ。当面の宿泊先は青年海外協力隊のドミトリー(連絡所)である。

 翌日から現地訓練がはじまる。この現地訓練は、ホームステイ・語学訓練・自己学習などとつづいていく。今日はオリエンテーションであり、ネパールの社会情勢などについて説明がある。「現在、マオイストとよばれる反政府ゲリラ組織の活動が活発になってきていますので、事件などにまきこまれないよう細心の注意をはらってください。」この組織は、労働者階層・下級階層を人民戦争を通じて解放し、労働者のための新制社会を構築することを目的にしている組織であり、マルクス・レーニン主義に毛沢東思想をとりいれたかんがえ方をしているとのことである。最近、警察官や政治家が襲撃をうけ殺される事件が続発しており、1998年には協力隊員の事務所が、さる3月14日には国際協力事業団のプロジェクト事務所が襲撃をうけ、書類が焼失されるなどの被害もでた。ネパールの私の同期隊員のうちの2人は、この影響で、配属先を変更するために派遣が1ヶ月延期されている。

 4月14日、今日からの2泊3日は、ここカトマンドゥでネパール人の家にホームステイをしながら、ネパール語とネパールの文化をまなぶことになっている。私は、ダルバール広場ちかくの、アナンダ=マン=プラダンさんのお宅にお世話になる。

 ダルバールとはネパール語で「宮廷」を意味し、ここは、15世紀から18世紀にかけて、カトマンドゥにマッラ王朝が君臨していた時代に王宮前に発達した広場であり、当時のカトマンドゥ王国の中心部であった。私は、プラダンさんに案内されてその広場の東口から中へ入っていく。右手には旧王宮がつづき、左手には処女神クマリがすむクマリの館のがみえてくる。その右手には広場がひろがり、ナラヤン寺院が、さらにすすむと1本の大木からたてられたといわれるカスタマンダプ寺院があり、これはネパール最古の建築物といわれている。ほかにも、みごとな装飾がほどこされた宮殿や寺院がたくさんたちならんでいる。

>> 写真:ダルバール広場

 そこを左にまがった集合住宅の一角にプラダンさんのお宅がある。あたりには一軒家はまったくなく、集合住宅や様々な商店がひしめいている。どこも、赤茶色のレンガづくりの建物に木枠の窓という独特の建築様式であり、カトマンドゥのふるい面影がよくのこされていて、中世の街並みといった感じである。

 中に入り、プラダンさんは家族を紹介してくれる。「私の母、私の家内です。息子のウズワル、ビソムヴァルです。これは孫のスメートマンです。この写真は次男のヴィカスで、彼は、日本人女生と結婚し、日本に今すんでいます。」彼には3人の子がいる。プラダンさん一家はネワール族でここに昔からすんでおり、ネワール族とは、カトマンドゥ盆地にふるくからくらしている民族である。夜は、プラダン家のネワール風のダルバートをごちそうになる。ダルバートとは、ネパールならどこでもでてくるネパールの日常食(定食)であり、ダルは豆のスープ、バートは炊いた飯(ごはん)、それに、タルカリ(野菜のおかず・野菜カレー)、アツァール(つけもの)がつき、これに時々、マス(肉のカレー)がつくこともある。

 翌4月15日、早朝4時ごろからあたりはさわがしくなり、人々の生活がはじまる。今日は、プラダンさんが、カトマンドゥの南に位置する古都パタンにつれていってくれる。サファー・テンプーとよばれる、電気でうごく小型の乗り合い自動車にのって南の方へいき、カトマンドゥ盆地の中をながれるバグマティ川をこえ、しばらくいくとパタンのダルバール広場につく。

 「この街にくらすのはほとんどがネワール族で、彼らは、大昔からカトマンドゥ盆地にすんでいて、とくにパタンの人々は彫刻や絵画などの芸術にひいでているんですよ。」とプラダンさんは説明してくれる。パタンは、別名ラリトプールともよばれ、それはサンスクリット語で美の都という意味である。ここも、15世紀から18世紀にかけてのマッラ王朝の時代にカトマンドゥ盆地内に3つの王国があったとき、その都の一つとしてさかえた。カトマンドゥのダルバール広場にまさるともおとらないみごとな建築物がならんでいる。広場の中をすすんでいくと、右手には旧王宮の建物がつづいている。左手には石づくりのクリシュナ寺院がひときわ目をひく。その2階にはクリシュナ、3階にはシヴァ、4階にはブッダ(シャカ)がまつられており、寺院の前にはクリシュナの化身であるヴィシュヌ神の乗り物・鳥人ガルーダの像がたっている。まるで街全体が美術館・博物館のようであり、ネワール族がきずいた建築物のすばらしさに感心する。

 ダルバール広場をあとにして、ゴールデン・テンプルへいく。正面入り口の門をくぐりぬけると金色にかがやく本堂がある。12世紀の建造とされるが、現在の建物は19世紀に完成したものである。寺院の中には靴をぬいで入らなければならない。次に、クンベシュワール寺院に案内される。正面にはナンディー像(シヴァ神がのる聖牛)がひれふし、中には五重塔がある。そして、マホボーダ寺院へ。ここには高さ30mの塔があり、これは仏像をやきこんだ無数の粘土板でおおわれている。寺院の周辺には、仏像をつくる工房がたくさんあり、作業の様子をみることができる。またこのあたりの各所に、ドゥンゲ・ダーラ(石の水道)があって水がこんこんとながれだしており、そこには人々がたくさんあつまってきて、水をくみ、洗濯をし、体をあらっている。その後、紀元前3世紀にアショーカ王がたてたとされる大きなストゥーパ(仏塔)のわきをとおって私たちは帰路につく。かつてネワール族は、このカトマンドゥ盆地にすばらしい都市国家をきずきあげたことがよくわかる。このホームステイ期間中は、私のネパール語は片言ではあったが、それでもなんとかすごすことができた。

 さて、4月17日、今日からのべ14日間、断続的にネパール語の語学学校にかよい、ネパール語の現地訓練をうける。語学学校の先生は、ネパール先生とプレム先生のふたりである。語学学校では、ネパールの地理・歴史・社会などについてネパール語で解説されたり、また、リーディング・作文・リスニング・書き取りの訓練が順次おこなわれる。現地での生活をしながらの訓練であるので、切実感があり体験的にネパール語を習得できる。

 

 バンディプール

 4月24日、今日から1週間は、地方でホームステイをしながらネパール語やネパールについてまなんでいく。私のいき先は、首都カトマンドゥからバスで数時間の所にあるバンディプールという標高約1000mの町である。私のホームステイ先を手配してくれた協力隊員で、このあたりで農業の指導をしている轟英明さんは、「バンディプールは、カトマンドゥ盆地のバクタプールから移住してきたネワール族の人々がつくった町なんです。昔は、川ぞいの低地にはマラリアがあったため、人々はマラリアのない、このような高地にのみすむことができたんです。」と説明してくれる。なるほど。だからネパールでは、日本とは逆に山の上の方に町や村が多いのである。

>> 写真:バンディプール

 私は、ネワール族のビシュヌ=クマール=シュレスタさんの家にお世話になる。こでは、孫のスマンとその弟のスーザンが一緒にくらしている。シュレスタさんは商売であちこちをとびまわっている。スマンはトウモロコシなどの粉をひく小さな工場ではたらいている。スーザンは学校にかよっていて、勉強のかたわらみんなの食事を毎日つくっている。

 バンディプールは、世界の屋根・ヒマラヤ山脈が一望できる大変景色のよい所で、正面にはマナスル山群が天にむかってそびえており、その東側には、ガネッシュ山群とランタン山群が、西側にはアンナプルナ山群がひろがっている。せまい尾根となだらかな斜面に土地利用・空間利用が大変よくなされており、周囲の山々との調和がよく景観がすばらしい。人口は約5000人、タナフ郡の郡庁が昔おかれていたところである。また、石板の産地としてもしられており、周囲の山から良質な粘板岩がたくさんとれ、屋根石や石畳としてつかわれている。ここの中心地のバザールにすむネワール族の人々はおもに商売をやっていて、彼らはプライドが高いという。周辺にはグルン族の人々がすんでいて農業をいとなんでいる。

 またここには、ノートルダム・スクールというたいへん立派な私立学校がある。そこで教師をしている日本人、シスター・ミリアムに写真をみせていただきながらお話をうかがうことができた。「この学校は、1983年に、生徒52〜53人の幼稚園からスタートしたんです。最初は民家の1階をつかっていて、その後、校舎を1つその中に部屋を3つつくりました。生徒が、学年を一つあがるごとにあたらしい家をかりていきました。町はずれの平地のトゥリケルで運動会もおこないました。かつてのトゥリケルには建物と木はなく、180度まわりの景色をみわたすことができました。その後、印刷機をいれるなどして学校を整備していき、1990年には新校舎が完成、1993年にはステージをつくり発表会ができるようにしたんです。1994年には10年生が卒業し、その後、11年生・12年生のクラスをつくりました。今は、生徒が600〜650人いるこんなに大きな学校になりました。」実に17年間にわたってすこしずつ学校をつくりあげてきたわけであって、その地道な努力に大変おどろかされるとともに、この町の活性化にとってこの学校のはたしている役割はとても大きいと感じた。

 

 語学訓練がつづく

 4月29日、私はバンディプールをあとにしてカトマンドゥにもどる。バンディプールでのホームステイはとてもたのしい思い出になった。バンディプールからかえってきてネパール語での生活に急に自信がついた感じがする。たとえていうならば、自動車教習で高速教習からかえってきた時のような体験である。何事もうまくなるときは急にうまくなるようだ。したがって、その時まで努力する必要があるのだろう。

 さて、語学訓練はつづく。そして5月6〜10日は自己学習期間であり、学習内容を自由にきめることができる。私は、カトマンドゥにある私立大学を見学したあと、ネパール西部の都市・ポカラへいく。そこでは、トリブバン大学ポカラ・キャンパスへいき、キャンパス・チーフにあいさつをしたのち地理学科をみせてもらう。ここの地理学科では、コンピュータを利用した地図づくりをさかんにおこなっている。その後、ネパール人の友人であるスニール=セラチャンさんをたずねる。彼は、十数年前に彼が日本の大学に留学していたときからの私の友人であり、今回は約2年ぶりの再会である。彼は、私が所属するNGO・ヒマラヤ保全協会のネパール側の会長をながい間つとめていた。ヒマラヤ保全協会は、ネパールにおいて1974年以来国際協力活動をつづけてきており、環境や文化といった地域特性を生かしながら地域の活性化の仕事にとりくんでいる。私は、トリブバン大学地質学科で地質学の教育と研究を今後2年間すすめることを彼に説明し、その後、ヒマラヤ保全協会の課題などについて彼と話しあう。調査のためにまたくることをつげ、私はポカラをあとにする。

 カトマンドゥでの語学訓練は、専門分野(職種)ごとにわかれて個別授業がおこなわれる。私は大学の地質学科に勤務することになっているので、ネパールの教育システムや自然科学の用語について勉強する。そして、5月15日、現地訓練のしめくくりとして最終プレゼンテーションがあり、私は、ネパールの教育システムと今後の抱負についてネパール語で話す。

 

 


 

 (2)トリブバン大学地質学科に赴任する

 2000年5月19日。私は、配属先であるトリブバン大学地質学科に講師として赴任する。トリブバンとは今の国王の祖父の名前であり、トリブバン大学はネパール唯一の国立大学、それは全国各地に61のキャンパスをもついわばタコアシ大学で、ネパール唯一の学位(学士・修士・博士)授与機関である。私は、カトマンドゥにあるトリ=チャンドラ・キャンパスの地質学科に配属される。ここには28年前から今までにのべ6人の青年海外協力隊員が断続的に配属されてきており、私は第7代目の隊員になる。

 キャンパスのシンボルである大きな時計台の下をくぐって地質学科の中へ入り、地質学科長のビシュヌ=ナト=ウプレティ教授に面会し挨拶をする。さっそく、ウプレティ教授から話がある。「このキャンパスは、トリブバン大学ができる前は、トリ=チャンドラ・カレッジとよばれていて、ネパール最古のカレッジだったっんですが、今は、総合大学であるトリブバン大学の元に統合されています。トリ=チャンドラ・キャンパスには理科系学科と文科系学科があり、理科系学科には、数学科・物理学科・化学科・植物学科・動物学科・地質学科などひととおりの学科がそろっています。これらの理科系学科には理学学士課程の教育コースが設置されていて、1年次から3年次までの3年間の教育をおこなっています。これから2年間、学生の教育とヒマラヤ山脈の研究に是非協力してください。」

>> 写真:トリ=チャンドラ・キャンパス

 トリ=チャンドラ・カレッジは、1918年に、ネパール最初のカレッジ(高等教育機関)として創立され、その後このカレッジの中からトリブバン大学は誕生した。トリブバン大学創立後、このカレッジはトリ=チャンドラ・キャンパスとして、トリブバン大学の中のひとつのキャンパスになった。地質学科は、トリブバン大学のこのキャンパスの中に1967年に創設され、最初は学士課程のみがあり、その後、カトマンドゥ郊外にできたキルティプール・キャンパスに修士課程が開設された。トリ=チャンドラ・キャンパスの地質学科には教官は現在15人いる。

 ここでいう学士課程とは、日本の大学でいう学部課程に相当するが、諸外国の学士課程は4年間コースであるのに対し、ここでは3年間の教育しかおこなわれていない。建物の内部には、教官の研究室と専用の机があり、ほかに講義室・実習室がある。ただし建物はかなり老朽化しており、窓も少なくくらい感じである。トリブバン大学は、新学期は秋からはじまる制度になっていて、今は今年度の講義と実習は一通りおわっており、一部の教官が補習をおこなっている。しばらくすると期末試験がはじまることになっている。

 ウプレティ教授は、ネパール語についても話をすすめる。「ネパール語の音の数はほかのどの言語の数よりも多く、その音と表記は完全にシステム化されていてとても合理的でわかりやく、ネパール語の音を習得すればほかの言葉の発音も非常によくなるはずです。」教授は、その後数回にわたりネパール語の発音に関するレッスンを私にしてくれる。私ははじめて、息のだし方・舌の位置・音の長さなど音声に関する指導をうけた。音の数が少ない日本語をはなしている日本人にとって、外国語の発音は非常にむずかしいものである。しかし逆に、ネパール人が日本語を勉強する場合は、発音は非常にやさしいということになる。ただし、日本人にとってはネパール語には表意文字がないぶん楽であるが、日本語をまなぶ外国人にとっては、日本語の表意文字(漢字)はきわめてむずかしいものだとおもう。それぞれの言語の音と文字に関する特性のちがいについておもいがめぐる。

 ウプレティ教授がネパール語についてかたったのは、私が、日本で事前にネパール語を勉強してきたからである。過去にこの地質学科に配属された協力隊員たちは、トリブバン大学での教育は英語でおこなわれているという理由から、ネパール語ではなく英語の訓練を事前にしていた。しかし、トリブバン大学では、教育を普及するために数年前に学制改革があり学生の数が急に2倍にふえ、その時から英語ではなくネパール語をつかって教育をする機会が多くなったとのことである。今おこなわれている補習も、専門用語以外はネパール語をつかっていることが多く、教官・学生の会話はもちろんすべてネパール語である。このような状況にあって、やはりネパール語ができないとネパール人の中に入りこむことはできないだろう。こうした背景があって、ネパール語の訓練をしてきた隊員が今回はじめてきたということで、ウプレティ教授から特別にこのような話があったのである。

 さて私は、しばらくの間は、この地質学科の人々と専門分野にとらわれずにできるだけ話をして、現状をまずつかかみ、ここの課題・問題は何であるか発見しようとおもう。また、あいている時間には、ネパール・ヒマラヤの研究を今後すすめるために、今までに発表されている著作・文献をよもうとおもう。

 6月に入ると、学士課程3年次学生の期末試験がはじまる。そして7月には2年次学生の、8月には1年次学生の試験が順次おこなわれていく。その試験では、理論に関する筆記試験、実習に関する筆記試験、口頭試問とつづいていく。その他に、室内実習と野外実習の報告書を提出させる。日本の大学とはちがい、試験は非常に厳密できびしく徹底的に時間をかける。トリ=チャンドラ・キャンパスの理学学士課程の入学志願者は約3000人、合格者(入学者)数は約1500人であるが、2年次学生は約1000人、卒業できるのは約800人であり、人数はしだいにへっていくそうである。しかし、試験だけで約3ヶ月もついやしてしまい、厳重すぎる試験をやっても学生のためにはならないとおもう。それよりも卒業課題研究をやらせ卒業論文を提出させた方がよいだろう。

 ウプレティ教授によると、「トリブバン大学は、昔は、インドの大学の一部として機能していて、インドの教育制度にしたがっていましたが、その後、インドの大学からは独立し今日にいたっています。私たちの理学学士課程は、数年前に2年間コースから3年間コースに拡充しましたが、諸外国のように4年次の教育がないので卒業論文はありません。当時、2年間から3年間に拡充するだけでも大変な労力がかかって、たまたま改革の年にあたった学生には大きなプレッシャーがかかりました。4年制に拡充したい希望はあるのですが当面は無理だろおうとおもっています。」とのことである。

 試験は、トリブバン大学本部の試験センターがすべてを管理コントロールしていて、共通日程・共通問題の統一試験を全国のキャンパスで実施しており、試験の合格者はラジオや新聞で公表される。このようにするのは、学生の急増による教育水準の低下をふせぐためであり、この統一試験があるために、ネパールの大学生は大学に入学してもあそんではいられない。評価は厳格で、留年・落第はあたりまえになっており、また成績は履歴書に一生ついてまわる。しかし、このきびしい試験があるために、学生の勉強は暗記を中心にした試験勉強におちいってしまっている。

 トリブバン大学地質学科を卒業した学生たちは、その多くが地質学科の修士課程に進学する。しかし、その後の就職難が大きな問題になっている。就職難はトリブバン大学全体の問題でもあるが、特に地質学科では大きな問題になっている。それは、国内にある普通の学校では、理科の中の地学分野は物理学の先生がおしえてしまっており、地質学科の卒業生は学校の先生になる機会が非常にすくないということも大きく影響している。

 一方、大学の研究水準の面はどうであろうか。同僚のサンタ=マン=ライ先生はいう。「私たちには研究設備がないので、ヒマラヤの研究では、先進国の研究者たちが研究成果をあげてしまうんです。」ライ先生は、フランスの大学に留学した経験をもつ博士である。日本のある研究者はこの状況を「学問的植民地」といった。私がみても大学の研究設備は大変わるく、実験や分析をおこなう装置もほとんどない。トリ=チャンドラ・キャンパスの化学科の中をみせてもらったこともあるが、その実験室は日本の高等学校程度のものであり、それにくわえて化学科には教官専用の研究室もないのである。

 近年、トリブバン大学の教官の中には、先進国の大学院に留学して博士の学位を取得してきた人もふえてきており、昔にくらべれば水準はあがってきていることはまちがいないが、まだまだであろう。ヒマラヤは地質学をふくむ野外科学研究のメッカであり、世界でもっともよく研究されている地域の一つである。地元ネパールでヒマラヤ研究の成果があがり、ここから情報発信ができるようにするためにはどうすればよいだろうか。機器をあまりつかわなくてもできる研究方法の開拓はできないものだろうか。ネパール人科学者が研究面でもっと貢献できる基盤をつくりださなければならない。

 世界の屋根・ヒマラヤ山脈をもつネパールにおいて、山岳研究の本流である地質学がはたすべき役割は非常に大きい。地質学は、ヒマラヤ山脈の基礎的な研究にとどまらず、ヒマラヤがもつポテンシャルを開発するとともに、山岳環境の保全といった分野でも貢献していかなければならず、同時にそれはネパール社会のニーズでもある。そのためには、地質学科における教育と研究を今後とも充実させ、ネパール人の中に人材を育成していくことが非常に大きな課題になってくる。

 

 


 

 (3)ネパールになじむ

 ところで私は、5月21日からは、ネパール人のウペンドラ=ジョーシーさんの家にホームステイをしながらトリブバン大学にかよっている。ジョーシー家には、ご主人のほかに、奥さん、イサ(長女、15才)、イマ(次女、13才)、イベス(長男、11才)の3人の子供がいる。奥さんがつくる料理はとてもおいしく、食事は特別なたのしみである。食事は毎日ネパールの日常食・ダルバートであるが、おなじメニューがでることはほとんどなく、食事であきることはない。ネパールでは特に野菜は種類・量ともに豊富であり、また、つけものも約20種類ぐらいある。朝と夜、食事の時に1日約2時間 家族のみんなと会話することにより、ネパール語の方も確実に上達し、それとともに、ネパール人の生活にもふれることができ、また、ネパールの社会や文化などについても数多くのことをおそわることができる。毎日が発見の連続で充実した日々がつづいていく。

>> 写真:ジョーシーさん一家

 ジョーシー家にきてから1ヶ月後の6月22日、私は大学の夏休みを利用して、ブッダの生誕地であり仏教の4大聖地の一つであるルンビニまででかけることにする。朝6時、ジョーシー家のみんなにみおくられて家をでて、7時、カトマンドゥのニュー・バスパークを出発、約4時間後、バスはそれまでの山岳地帯をぬけて高木の森林地帯の中に入る。あたりの風景は一変してむし暑くなり低地帯へでてくる。しばらくいくと、ヒマラヤ山脈からながれてくる大きな川があり、その川の水の中をバスはすすんでいく。雨季で水かさがましていて非常に危険である。その約2時間後、丘陵の峠にさしかかったとき、はてしなくひろがく平原、はるかかなたにつづく地平線がみえてくる。インド亜大陸にひろがるガンジス平原であり、ヒマラヤ山脈とのコントラストがとても印象的だ。夕方すこし前にルンビニに到着する。標高は95m、気温は39度Cもある。

>> 写真:ガンジス平原

 翌23日、私は、ネパール寺とチベット寺へいく。ルンビニには各国の仏教寺院がたくさんある。そのあと、マヤ堂(マヤ・デヴィ寺院)へいきブッダ生誕像をみる。これは、王妃マヤと中央にたつ王子ブッダの石像であり6世紀につくられたものだ。しかし、イスラム教徒によってその顔はけずりとられている。そのそばにはアショーカ王の石柱がある。これは、ブッダ生誕210年後の紀元前249年にこの地に巡礼したアショーカ王がたてたもので、この地はブッダ生誕の地であることがきざまれている。石柱の南にはプシュカーリ池があり、王妃マヤが出産前に沐浴したといわれている。マヤ堂は、考古学の発掘調査・修復事業が日本の協力によりすすめられていて、1995年には、アショーカ王がブッダの生誕地であることをしるすためにおいた石・マークストーンが発見され、考古学上の世界的な発見として注目された。その後、マヤ堂をあとにしてミャンマー寺へいく。みる角度により表情がかわる三次元のおもしろい仏像がある。夕方、どこまでもつづくタライ平原の地平線の中に太陽がしずかにしずんでいく。夕焼けがうつくしい。かつてこのあたりは密な森林におおわれていて、仏典にでてくる植物や動物は、いずれもこの地方の森林にみられたものであるという。しかし、文明はその森をきりひらいてしまった。

>> 写真:ブッダ誕生の地

 6月24日、今日はまず中華寺へ。この寺は先日建立したばかりでありルンビニ最大の寺である。ネパール・チベット・ミャンマーなどほかの国の寺とは様式があきらにちがい、いうまでもなく中国様式の寺であり、同時にそれは日本の寺の様式にもなっている。日本には中国仏教がつたわってきたということが寺の姿からもよくわかる。その後、博物館へいくと発掘物が多数展示されている。この博物館は日本の援助により建設されたものである。ちかくには法華ホテルというホテルがあり、そこには岩風呂や和室もああり、日本人観光客が毎年たくさんくるという。そこでは昼食だけをとって、そばの日本寺へいってみと、大きな仏塔を今つくっているところである。ほかにも、フランス・ドイツ・ベトナム・スリランカ・タイのそれぞれの国が寺を今つくっているところである。

 6月25日、今日は図書館にいく。これも日本の援助によってつくられたもので、中には、遺跡の発掘現場の写真も展示されている。このあたりでは、ストゥーパ(仏塔)は石柱とがセットにしてたてられてきた。仏教は北インドから、南方へはスリランカ・ビルマ・タイへ、北方へはチベット・中国・コーリア・日本へとつたわったこともよく理解できた。図書室の中には各国の仏教書が多数保管されている。

 かつてこの地には、数多くのストゥーパ(仏塔)や僧院があり、僧侶たちが修行にはげんでいたが、15世紀末にはイスラム教徒が進入し、ここの仏教建築を破壊した。この地では仏教はほろんでしまったが、そのおしえは世界にひろがっていった。現在、ルンビニを聖地公園として再生整備しようという計画がすすんでいて、ユネスコの世界遺産にも指定されている。それで、仏教各国の寺院の建立がすすんでいるのである。ルンビニは、ブッダ生誕の地・仏教の聖地として、ネパールにおいてあるいは世界において、今後どのような役割をはたしていくのだろうか。

 さて、私は、7月22日、とても名残惜しかったが、ジョーシー家をあとにして職場ちかくのアパートへひっこすことになる。ジョーシー家から職場まで徒歩とバスで約1時間、通勤に非常に不便であったためである。今度は自炊生活をしなければならないと大学の研究室で話をしていたところ、同僚のクムッド=ラズ=カフレさんが、「ダルバートならつくり方をおしえげてあげますよ。炊事道具をかうなら一緒にいきましょう。」といってくれる。彼は、かつて一人ぐらしをしていたことがあるそうで、いろいろ協力してくれることになった。

 7月29日朝、彼は私を野菜市場へつれていってくれ、たくさんの野菜をかったのち、彼の家へ案内してくれる。そして、ダルバートのつくり方をていねにおしえてくる。ダルバートは、ダルとごはん、タルカリ、アツァールの4点セットからなり、これにマス(肉のカレー)をつけてもよい。彼は、その後も何度も家へよんでくれ、そのたびにダルバートのつくりかたをおしえてくれる。またその一方で、ほかの同僚が私を家に招待してくれたときには、奥さんにたのんで、ダルバートのつくりかたを可能なかぎりおそわるようにする。

>> 写真:トマトをかうカフレさん

 ダルバートのおかずをつくるときにはタマネギ・トマト・ショウガ・ニンニクが必要になる。場合によってはこれらのうちどれかがかけてもかまわない。これらに野菜あるいは肉をくわえ、マサラ(香辛料)と塩で味付けをする。マサラには非常にたくさんの種類があるので様々な味をだすことができ、また、食材とマサラのくみあわせは無数にありえるのでバラエティに富んだ料理をつくりだすことができる。タマネギ・ショウガ・ニンニク・トマトをベースにしてそれにどんな食材をくわえてもよい。これがダルバートのつくり方の基本であり、その原理は非常に単純である。そして、ネパール人は、プレートの上で、ごはんにダルをかけ、タルカリやアツァールを自由にまぜて、実にたくみに手でたべる。また、ダルバートは、野菜をたくさんたべることができるので、合理的な健康食であるともいえる。つくり方やたべ方はどこの家庭にいっても基本的にはおなじであり、ひとつの食の様式(パターン)あるいは食文化が確立していることをしることができる。私は食べ物の種類でこまることはないので、毎日ダルバートだけでも平気である。

>> 写真:ダルバート

 私は、このようなことを通してネパール人の生活について理解をふかめることができた。料理あるいは食事には、その国の生活様式あるいは文化が圧縮されているわけで、その背景には、料理の材料や食事の形態をうみだすその国独自の風土があるはずである。風土とは、その国あるいは地域の社会・文化・自然環境の全体を包括するものであり、したがって、その国を理解するために食文化を軽視することはできないだろう。

 ところで、一方で私は、ほかの協力隊員とともにネパール・ダンスの練習もつづけていた。今年は、ネパール青年海外協力隊の派遣30周年であり、それを記念して、ダンス・フェスティバルを開催することになっている。練習は、ネパール・サンギートに親しむ会の岡本有子先生の指導によって、協力隊員のみならずネパール在住の日本人が一緒になって毎日のようにつづけられている。サンギートとは、ネパール語で、演奏・歌・おどりを意味し、今回のもよおしは、ネパールの伝統文化ばなれに一石を投じ、ネパールの芸能を保護し、ネパールと日本との文化交流をふかめることを目的にしている。9月11日、カトマンドゥのロイヤル・ネパール・アカデミー・ホールで、「ジャパン・イン・ネパール」としてそのダンス・フェスティバルが開催され、多数の観衆の前で日本人がネパールのダンスを披露する。トリブバン大学の私の同僚たちもみにきてくれる。私は、グルン族とタマン族のダンスをおどる。ネパールはダンスの宝庫でもあり、ネパールのダンスには実にたくさんの形態があり、ネパールの民族の多様性がダンスの種類の多さにも反映している。ネパールは多民族国家であり各民族が独自の文化をもっていて、したがって、ダンスにも各民族ごとに実に様々なものがあるのである。

 さて、10月に入ると、ネパールは、どんよりした天空を一気にきるように雨季があけ、トリブバン大学はダサイン休暇に入る。ダサインとは、ネパール王国をあげての大祭であり、ヒンドゥー教の中でもっとも広範囲におこなわれる儀礼である。それは、神々の力を結集して誕生したドゥルガー女神が、魔軍とたたかい勝利をえるというヒンドゥー教の聖典の物語にもとづいている。

 10月7日、私は、地方ホームステイで滞在したバンディプールをふたたびおとずれ、ゴバルダン=バッタライさんのお宅に今回はお世話になる。ちかくにあるヒンドゥー教の寺院にいってみると、ヤギのいけにえを女神にささげる儀礼がおこなわれ、ヤギの首が寺院の支柱の元にそなえられる。翌8日、今日は祭りの10日目のもっとも重要な日であり、祝福の紅粉の印(ティカ)と大麦を家長であるバッタライさんからもらい、豆・野菜・パン・つけもの・キュウリなどがふるまわれる。その後、近所の家々をもまわりそれぞれの家の家長にティカをつけてもらう。これは、ヒンドゥー教のドゥルガー女神の勝利をいわい、あらたな生命力をあたえられることを意味する。あらゆる生命力の源泉はドゥルガー女神の力であると人々はかんがえていて、それと同時に、あれくるう雨季がおわって乾季が到来することにより、世界秩序が回復し生命力の更新がおこることをも意味するという。この祝祭の日々がいかにたのしく、よろこびにみちたものであるかは人々の顔がはっきりと物語っている。このダサインは日本でいえば正月のようなものであろう。

>> 写真:ダサインの儀式

 

 


 

(4)ヒマラヤ山脈を調査する

 (4.1) ヒマラヤの全体像をみる

 タライ・パハール・ヒマールとカトマンドゥ盆地

 さて、私は、トリブバン大学地質学科に勤務しながら、教育と同時にヒマラヤの研究もおこなうことになっている。世界最大の山脈・ヒマラヤ山脈の大構造はどのようになっているのだろうか。まず私は、その全体像をつかむために、人工衛星が撮影した画像をみことからはじめる。地質学科の学科長室には人工衛星が撮影した大きな画像が壁にかけてあり、それをみるとヒマラヤ山脈の大地形が大変よくわかる。

>> 写真:ヒマラヤの衛生画像

 ヒマラヤ山脈は、インド亜大陸の北側で東西方向に帯状にのびており、その標高は、南から北へむかって階段状に高くなっている。それは、南から北へ、標高約1000m以下の「亜ヒマラヤ」、1000〜3000mの「低ヒマラヤ」、3000〜8000mの「高ヒマラヤ」にはっきりと区分することができる。亜ヒマラヤは「シワリーク丘陵」ともよばれ、その南側には、ガンジス平原(ヒンドスタン平原)がひろがっている。一方、高ヒマラヤは文字通り「世界の屋根」であり、その北側にはチベット高原がひろがっており、高ヒマラヤはチベット高原の南の縁を画する急な崖のようになっている。ネパールでは、シワリーク丘陵の南側にひろがる低地のことを「タライ」、低ヒマラヤのことを「パハール」、高ヒマラヤののことを「ヒマール」とよんでいる。

 また、衛星画像では、ヒマラヤ山脈の中央部、低ヒマラヤすなわちパハールの中に一つの広大な盆地をみることができる。まるでヒマラヤ山脈のヘソのようであり、これがカトマンドゥ盆地である。周囲を山々にかこまれたこのような広大な平地が、ヒマラヤ山脈の中にどのようにして形成され、そして、そこにどのような文化がはぐくまれていったのか大変興味ぶかい。

 そのカトマンドゥ盆地の西方には、高ヒマラヤのダウラギリ山群とアンナプルナ山群との間に、大河カリガンダキ川が北から南にむかってながれていて、ヒマラヤ山脈を南北にきる非常に大きな谷が形成されている。そのカリガンダキ川は、中流域にくると山脈によりさえぎられて東西にのびる谷を形成している。

 

 シワリーク・低ヒマラヤ・高ヒマラヤ

 ヒマラヤ山脈の大地形を理解して、次に、その地質図をみることにする。地質図によると、ヒマラヤの地質構造も、東西にのびるみごとな帯状構造によりなりたっており、南から北へむかって、「シワリーク」、「低ヒマラヤ」、「高ヒマラヤ」と区分され、地質構造区分と地形区分とはみごとに一致している。「シワリーク」は「亜ヒマラヤ」に対応する。

 それぞれの地質区分の境界は衝上断層(しょうじょうだんそう)によって区切られており、衝上断層とは、ゆるやかに傾斜した断層面において、下位の地層に対して、上位の地層がななめ上方にずれた断層のことであり、押しかぶせ断層ともよばれる。ヒマラヤ山脈には、3本の大きな衝上断層が確認されており、ヒマラヤ山脈の南側のガンジス平原(タライ)とシワリークとの境界には「ヒマラヤ前縁衝上断層」が、シワリークと低ヒマラヤとの境界には「主境界衝上断層」が、低ヒマラヤと高ヒマラヤとの境界には「主中央衝上断層」がそれぞれ存在する。

 このような地形と地質は、この地域の大規模な地殻変動によって形成されたものであるが、それがどのようなものであるのか大きな研究課題になっている。

 

 気候と民族の多様性

 そして、このような大地の上にヒマラヤの国・ネパール王国が成立しており、その国土も、ヒマラヤ山脈にそって東西方向に帯状にのびている。ひろさは約14万7000平方kmで日本の39%(北海道の約2倍の面積)であり、タライの最低標高59mから、世界最高峰エベレストの8848mまでのきわめて大きな高度差をもっている。国の北側、標高5000m以上の高ヒマラヤ(ヒマール)は雪と氷河におおわれており、そもそもヒマラヤとは、サンスクリット語で「雪のすみか」という意味である。

 このネパール王国には、東南アジアの国々と同様にはっきりとした乾季と雨季(モンスーン)があり、雨季は、5月下旬から9月おわりまでつづき、ネパールの山々に多量の雨をふらせている。モンスーンとは、元来、アラビア語の「季節」を意味する言葉に由来し、インド洋から南アジア・東南アジアにかけての地域で、季節によって風向きが逆になる季節風のことであるが、本来の風の名前というよりも雨季をしめす言葉としてのイメージが今ではつよくなっている。

 ユーラシア大陸の地上気温の季節変化は、大陸をとりかこむ海洋上の気温の季節変化よりも大きいので、夏季と冬季に、陸上と海上で気温変化の差が生じ、それが原因になって広範囲で季節風・モンスーンが発生する。夏季には、南西からのモンスーンがインド半島方向にふきつけ、この風はインド洋からしめった空気を内陸部にはこび、それがヒマラヤ山脈にぶつかって、その全面にはげしい雨をふらせることになる。冬季になると、モンスーンの風向きは反対方向(北東風)にかわり、乾季をもたらす。

 このような、ネパールの国土の非常に大きな高度差(高低)に、このモンスーンによる乾燥・湿潤の変化がかさなって、タライからパハール・ヒマールへと南から北へむかって、亜熱帯・温帯・高山帯・氷雪帯という非常に多様な気候帯がこの地域に生じている。気温は、標高が1000mますごとに5〜6度C低下していく。

 この多様な気候の中で、ネパールでは実に多様な民族がすみわけている。ネパール南部低地のタライには、北インド系住民がすんでいる。パハール(低ヒマラヤ)の中の比較的低部には、パルバテ・ヒンドゥー(山地のヒンドゥー教徒)とよばれる民族がいる。彼らは、ネパール語(インド・ヨーロッパ語系)を自分たちの言葉としてきた人たちで、インドから移住してきてネパールの西部に最初入り、今では、ネパール全土にひろがっている。ネパールの人口の約半分をしめる多数派であり、バウン族やチェットリ族がふくまれる。パハール(低ヒマラヤ)の比較的高部には、チベット・ビルマ語系を母語とする山地民が居住し、タマン族・ライ族・リンブー族・グルン族・マガール族・タカリー族などの民族がこれにふくまれる。標高約3000m以上のネパール北部の高地には、チベット系高地民がすみシェルパ族はこれにふくまれる。

 また、カトマンドゥ盆地にふるくからすんでいる民族はネワール族とよばれ、彼らは、カトマンドゥに都市国家文明をきずいた人たちで、チベット・ビルマ語系のネワール語を自分たちの言葉としている。ネワール語は、チベット・ビルマ語系のヒマラヤ諸語の中で唯一文字をもつ言語である。カトマンドゥ盆地にすんでいた色々な人たちが、長い間にネワールとしてまとめてよばれるようになったとかんがえられている。

 このようにネパールでは、階段状に高くなる地形・地質と、亜熱帯から氷雪帯までの気候とによって、非常に多様な自然環境がつくりだされており、その中において、実に様々な民族がすみわけているとみることができる。またネパールでは、高度差や乾湿の地域差が非常に大きいため、このような民族多様性にくわえ、農業の様式にも大きな多様性・地域性がみられるという。

 タライ・パハール・ヒマールという東西にのびる帯状構造の世界は、このような自然環境と民族の多様性によって成立しているもので、これがこの地域の基本構造であり、それは、地殻変動とモンスーン変動がおりなす悠久の自然史と、そこにくらす人々によってつくりだされたものである。その歴史はどのようなものであったのか、大きな研究課題になっている。

 

 


 

 (4.2) ネパール極東部・タプレジュン地域へいく

 ダランからタプレジュンへ

 トリブバン大学地質学科は、乾季になると本格的なフィールドワークを開始する。地質学の教育と研究ではフィールドワークが必須であり、私は、最初の本格的な調査地域としてネパール極東部のタプレジュン地域をえらぶ。そこは、現在はインド領になっているシッキムにちかい山岳地域であり、トリブバン大学地質学科として、今後、調査・研究を重点的におこなっていこうとしているフィールドで、同時に、大学院修士課程の学生の教育もおこなうことになっている。かねてから、是非協力してほしいとの要請をうけていたのでこのたび協力することにした。この地域は、地質構造や鉱物の出現状況などに関して不明な点が数多くのこされており、また、地滑り・山地崩壊などの災害も頻発していて、防災・環境保全も大きな課題になっている。

>> 地図

 2000年10月12日、まず私は、ネパール東部の中都市・ダランにいき、そこで、トリブバン大学地質学科教官のサンタ=マン=ライ先生とおちあう。ライ先生の奥さんの実家がここにあるため、ライ先生は先にきて滞在していた。

 私は、ライ先生に案内されてダランの街を散策する。ライ先生はさっそく地質の説明をはじめる。「ここダランは、タライ低地の最北に位置して、その北側で、地質構造区分でいうシワリークと低ヒマラヤとが接しており、東西にのびる主境界衝上断層がその境界に走っているんです。この断層にそって12年前に、マグニチュード6.6の大地震がおこってとても大きな被害がでました。この地震はネパール東部地震とよばれたくさんの家がこわれ、ひろい範囲で地滑りが発生して、インドまでふくめると亡くなった人は1000人以上だといわれているんです。」これは、この断層が現在でも活動的な活断層であり、地殻変動がこの地域で今でもおこっていることをしめしている。

 またここは、ヒマラヤ山脈からタライ平原へ川がでてくる谷の出口であり、ここでは、川の傾斜がゆるくなり川幅もひろくなって川の流速がおちるため、はこばれてきた礫やあらい砂が堆積して、南へむかってゆるやかに傾斜した扇状地を形成している。その扇状地の上に大きな街が発達していて、その一角には、B.P.コイララ病院という非常に立派な病院がある。ライ先生は、「これはイギリス軍の軍用地跡地を利用して7年前にできました。かつてこの軍用地には、グルカ兵とよばれる兵士がたくさんいたんです。グルカ兵とはイギリス軍に入って、その兵士としてはたらくネパール人のことで、グルン族・マガール族・ライ族・リンブー族の人々のみがなれるんです。昔は7500人もいましたが今は2500人ぐらいにへりました。」と説明してくれる。

 同日午後、私は先生とともに、ダランからバスで扇状地のゆるい坂を南にくだり、インド国境にちかいネパール第2の都市・ビラトナガールにむかう。途中、森林地帯をとおりぬける。ここタライ低地の森林は高木の森林であり、パハールの山地との植生のちがいがはっきりとわかる。

 しばらくいきビラトナガールにつく。とても暑く、日本の真夏のようである。あたりには水田地帯がかぎりなくひろがり、わらぶき屋根の農家が点在している。マンゴの木もありここは亜熱帯である。一方で、いくつかの工場がありここは工業都市でもある。人々はほとんどインド系の人たちであり、バザールは活気にみちあふれ、リキシャ(人力車)がたくさんはしっている。

 翌13日、私たちは、今回の調査地域であるタプレジュンに飛行機でむかう。飛行機の中からは、タライ、パハール、ヒマールという、3段になったネパールの大地形がくっきりとみえる。それらの境界はきわめて明瞭であり、また、パハールにはたくさんの地滑りがみえる。

 無事、タプレジュン空港に着陸する。滑走路は舗装されておらずただの土の平地である。飛行機をおりるとかなり寒い。しかしさわやかである。標高は2419m、タライの低地から、パハールの山地へと一気にとんできた。

>> 写真:タプレジュン空港

 タプレジュンには比較的大きくきれいなバザールがあり、家々はカラフルにペンキがぬられ、ベランダには花がかざってある。こんな山奥にこんな独自な世界がつくられている。このあたりには、ライ族とリンブー族が多いが、グルン族やチェットリ族もいるときいた。彼らの顔は、インド系の人々とはちがい、日本人とほとんどかわらない。

>> 写真:タプレジュンのバザール

 

 低ヒマラヤ地帯から高ヒマラヤ地帯へ

 10月14日、朝6時、とおくに白いヒマールの山並みがみえる。今日から、本格的な地質調査を開始する。今回の調査班は、サンタ=マン=ライ先生、私、大学院の学生5人、ポーター兼コック3人の合計10人で編制されている。ただし、学生のうち2人は後から合流することになっている。

 サンタ=マン=ライ先生はヒマラヤ山脈の研究を長年つづけている地質学者であり、学生のうち、テズ=プラサド=ゴートム君とデスラズ=シムヨク君は、地滑りを中心にした応用地質学的な研究を、ディビャラズ=コイララ君はカコウ岩の岩石学的な研究を中心におこない、それぞれ修士論文を作成しようとしている。今回のフィールドワークは、タプレジュン地域の調査・研究をおこなうと同時に、彼ら大学院修士課程の2年次学生の指導もかねている。またこの地域にはロッジなどの宿泊施設はないので、キャンプ(野営)をしながらの調査になる。

>> 写真:ライ先生(右)と学生たち

 私たちは、タプレジュンから北にむかって尾根づたいにあるきはじめる。この周辺の地層は、ヒマラヤ山脈の地質区分でいうシワリーク・低ヒマラヤ・高ヒマラヤのうちの低ヒマラヤの地層からなり、それはおもに千枚岩(せんまいがん)から構成されて、地質図によると先カンブリア紀(約6億年以上前)に対比されている。千枚岩とは、比較的低温で形成された変成岩(へんせいがん)の一種で、黒色〜灰緑色、絹糸光沢をもち、うすい葉片状にはげやすい微粒の岩石である。変成岩とは、地下にある既存の岩石が、温度・圧力条件の変化にともなって、大部分固体のままで別の岩石に変化した岩石のことであり、この変成岩をつくる作用のことを変成作用という。

 しばらくいくと、片麻岩(へんまがん)があらわれる。片麻岩も変成岩の一種であり、中粒〜粗粒で縞状の組織をもつ岩石である。ここの片麻岩には、眼(レンズ)のような形をした鉱物あるいは鉱物集合体が存在し、その眼のまわりを縞状組織が流線型にとりまいていて、このような片麻岩は眼球片麻岩(がんきゅうへんまがん)とよばれる。そしてさらにあるくと、片岩(へんがん)が出現する。片岩も変成岩の一種であり、中粒〜粗粒で、板状・柱状の鉱物が平行にならび、うすくさけやすい性質をもつ岩石である。そして、ヒマラヤ山脈の地質区分でいう高ヒマラヤの片麻岩がでてくる。

 観察されたこれらの岩石はすべて変成岩であり、このルートでの岩石の種類のうつりかわりは、低ヒマラヤ地帯から高ヒマラヤ地帯にむかって、変成作用の温度がしだいに上昇していることをしめしている。まるで岩石学の教科書をみているようである。

 ヒマラヤ山脈では、その地質区分のそれぞれの境界には衝上断層がはしっている。したがって、ここでの低ヒマラヤの片岩と高ヒマラヤの片麻岩との間には、主中央衝上断層が存在するはずである。私たちは、その露頭(地表に露出した部分)は発見できなかったが、その位置を推定することができた。今回の調査は、低ヒマラヤ地帯から高ヒマラヤ地帯へむかって、主中央衝上断層をクロスするルートでおこなっている。

 午後7時ごろ、今日のキャンプ地のフェディにつく。日はすでにくれている。ポーター兼コックの、ラルバードルさん、バハドゥールさん、クマールさんらはテントの設営をし、夕食をつくってくれる。夕食はダルバートであり、とてもおいしい。

 10月15日、6時起床、一日は一杯のチヤ(ミルクティー)からはじまる。標高があがったためとてもさむい。朝食のロッティー(ネパール・パン)をたべて、さらに北へむかって出発する。ラリグラース(シャクナゲ)のジャングルをとおりぬける。

 すると下の方に、この辺で最大の地滑り「ハンデワ地滑り」がみえる。非常に大きな地滑りであり、数Kmにわたって千枚岩の地層が下方にすべっている。将来的には、タプレジュン空港にまで影響をあたえ可能性がある。このあたりは地滑りが非常に発生しやすい地域である。学生のうち、テズ=プラサド=ゴートム君とデスラズ=シムヨク君の2人はこの地域の地滑りについて特に研究しようとしている。

 ルートぞいの岩石は、ランショウ石とよばれる鉱物をふくむ高ヒマラヤ地帯の片麻岩である。地層の走向はほぼ東西、地層の傾斜は約40度北落ちである。地層の走向とは、地層がつづいている方向のことであり、地層面と水平面とがまじわってつくる直線ののびる方向のことである。

 10時、標高3795mのパティバラ山の山頂につく。北の方には、カンチェンジュンガ山群の一大山塊がひろがっている。カンチェンジュンガ山群は世界第3位のカンチェンジュンガ(8586m)を主峰にし、ネパールの最東端、インド・シッキム州との境界につらなっている。カンチェンジュンガとはチベット語で「偉大な雪の5つの宝庫」であり、シッキムの原住民レプチャ族は「高い雪のカーテン」とよぶ。主峰・西峰・中央峰・南峰をつらねる山群で、主峰以外の頂も8000mをこすという巨大な山塊である。

 ここパティバラ山の山頂には、パティバラ・マンディールというヒンドゥー教の寺院があり、今はネパール最大の祭りであるダサインの時期であるため、たくさんの人々がニワトリやハトをもってお参りにやってきている。

 その後、私たちはきた道を一旦ひきかえし、今度は、南東方向に斜面をくだっていく。高ヒマラヤ地帯の片麻岩の急な崖がせまってくる。周囲の山々は、ふかく開析がすすんでいて、尾根から谷底までの距離は1500mぐらいあるだろうか。地形のスケールの大きさにおどろかされる。ラリグラースのジャングルをとおりぬけ、途中、桜の木がピンク色の花をさかせている。山地の中には、所々に平たんな場所があり、そこには、ゴートとよばれる牛小屋がある。今日は、段々畑の一角にテントをはってキャンプする。

>> 写真:ヒマラヤをあるく

 

 低ヒマラヤ地帯をあるく

>> 写真:日の出

 10月16日、私たちは南へむかって高ヒマラヤ地帯からくだっていく。ふたたび、低ヒマラヤの領域に入り、片岩そしてまた眼球片麻岩が出現する。ここの眼球片麻岩には、脈や部分的に溶融した様な所もあるが、顕著な変形の跡はない。それがどのようにしてつくられたのか不明な点が数多くのこされている。さらにいくと、おとといみたのとおなじ千枚岩の地層があらわれてくる。

 周辺の山々の斜面一面には階段状の耕作地がひろがっている。しばらくいくと農家が一件ある。父親は、黒牛2頭をつかって畑をたがやす。母親は沢で水くみ、昼食をつくる。子供は3人いる。ほかに白黒の牛が1頭、豚もいる。サンタ=マン=ライ先生は、「このあたりは、ライ族・リンブー族・ビスタ族の人々がくらしていて、彼らの家々があちこちに点在しているんです。」と話す。高度がさがり次第にあたたかくなり、あつくもなくさむくもなく、大変気持ちがよい。ここでは、標高はすなわち気温であり、環境の要素として地形と気温がもっとも重要である。

 さらにすすみ、ある農家で玉子をかい、ヨーグルトをもらって昼食をとる。イスクースクとよばれるトゲがはえた緑色の野菜が大量にそだっていて、ボイルしてたべるととてもおいしい。食料はすべて現地調達である。

 所々見晴らしがよい所に、石をつみかさねてつくったチョーターラとよばれる休み場があり、荷物をおいてやすむことができる。その中央には菩提樹がうえてあり日陰をつくっている。そばには、チハヌとよばれる土葬の墓がある。ライ先生は、「バウン族は火葬をするんですが、ライ族・リンブー族は土葬をするんです。」と話す。人々は、故人の記念としてチョーターラをつくって、名前と月と太陽の形をほりこんだ石板をその中央部にはめこむ。これは、あの世の死者とこの世の遺族の功徳をつむものと信じられている。このあたりには土着の信仰がのこっているという。

 しばらくいくと、小学校と高校があり、3人の少女が教科書をもって学校からかえっていく。イギリスの寄付でつくられたつり橋をわたり、日暮れとともにヒンツヘブンにつく。今日はここでキャンプをする。

 10月17日、今日も南下をつづける。低ヒマラヤ地帯の千枚岩の地層がつづく。すこしいくと、所々に千枚岩-砂岩の互層がみられ、千枚岩には、石英脈やこまかい変形の跡が、砂岩には、砂が堆積したときの堆積構造がみられる。地層の傾斜はそれまでとかわらず北落ちである。

>> 写真:千枚岩の地層を調査するライ先生とコイララ君

 地質は、地形にはっきりと反映されており、山の斜面が地層面と平行な場合はゆるやかな斜面になり、それとは反対に地層面と垂直な場合は急な崖になっている。地層は北落ちなので、北にむいておちている斜面はゆるやかに、南側におちている斜面は急な崖になっていて、このことは地形図にもはっきりあらわれている。山の斜面と地層面が平行になっている所は「流れ盤」とよばれ、斜面の方向と地質の弱い方向とが一致しており、したがって、そこには地滑りが発生しやすい。ほとんどの耕作地や家屋はゆるやかな斜面上にある。それは、耕作がやりやすくすみやすいからであるが、同時に、地滑りの危険も同居しているのである。

 沢・崖・斜面の大地形が連続していく。斜面には、同一の標高で移動するための道が非常によく発達していて、谷をくだり、谷をのぼる移動にくらべて、横への移動は大変楽である。けわしい山岳地域ではあるが、物資と情報は横方向に意外に簡単にどんどん移動していく。このような山岳地域の生活空間について、実際に体験してみてはじめてしることができた。

 午後5時半、オウシハトにつき、そばのネワール族のシュレスタさんの家の軒先にとめてもらう。このあたりでは、ネワール族の人は大変めずらしい。

 10月18日、今日も南下、低ヒマラヤ地帯の中をあるきつづける。千枚岩の地層中に、カコウ岩の小さい岩脈が貫入している。千枚岩とカコウ岩の互層状の部分もみえてくる。カコウ岩とは、地下のふかい所でマグマがかたまってできた粗粒の火成岩である。「これは、千枚岩の地層の中に地下からマグマが上昇してきたことをしめす証拠だよ。」私は、このあたりでカコウ岩の研究をしようとしているディビャラズ=コイララ君にいう。千枚岩との接触部は細粒であるが、芯部へいくほど粗粒になる。葉状の組織が発達しており、変形作用をうけたこともわかる。しばらくあるいていくと、カコウ岩の非常に大きな岩体の上にでる。カコウ岩の山はなだらかな斜面をつくり、やわらかい地形になっている。ここでも、地質は地形に反映している。なだらかな斜面は、当然のことながら土地利用がすすんでおり、そこにはうつくしい風景がひろがっている。

 10月19日、私たちは、カコウ岩地帯をとおりぬけ、今度は東へむかってすすんでいく。タプレジュンのバザールへ通じる道路がある。ライ先生はいう。「この道路は約15年前につくられました。ここでは、7年前に大きな地滑りが発生して、10人ぐらいの人々が亡くなったんです。」ちかくでは、リンブー族の子供たちがあそんでいる。人・動物・植物が一体になっていてまるで楽園のようである。地元の人々は、ネパール東部地方をキラートとよび、キラートとは、大昔のライ族・リンブー族の王の名前である。そして、どこまでも低ヒマラヤの千枚岩を主体とする地層がつづいていく。しかし地層の走向は、東西から南東-北西方向へと、地層の傾斜は北東落ちへとかわってくる。

 夕刻、今日の宿泊地であるゴペタールにつく。夕焼けがうつくしい。ここの南側は、浸食がすすみ大きな斜面が形成され、一段と大スケールの地形を呈している。ここは中規模のバザールであり、人のにおいがつよくなる。ソーラー発電を利用している店もあり、電気がついている。このようなクリーンな太陽エネルギーの利用は環境保全のために非常に有効である。ここで、トリブバン大学大学院・地質学科修士課程の2年次学生、スベス=ギミレ君とツァンドラ=プラカス=ポーデル君らと合流する。スベス=ギミレ君は、この地域の変成岩岩石学を中心に、ツァンドラ=プラカス=ポーデル君は応用地質学を中心に調査・研究をすすめ、それぞれ修士論文を作成する予定である。

 10月20日、天気ははじめてくもり、ややさむい。今日も、単調な千枚岩の地質がどこまでもつづいていく。しかし走向は、ほぼ南北方向に、地層の傾斜は、30〜60度東落ちにかわる。このあたりの地層は、アーチのように上にむかってまがった大規模な褶曲(しゅうきょく)構造をしており、ドーム構造になっていることが想像できる。

 しばらくいくと、ストゥーパ(仏塔)があり、チベット語でかかれた石碑もあり、そばでチベット系民族がくらしている。さらにいくと、グンバ(チベット仏教の寺)があり、新旧二つのストゥーパ、仏像を安置した本堂・宿泊所・住居などがある。標高は約2500mである。さらにすすむと、谷間にひっそりと孤立したシェルパ族の家があり、彼らは斜面のきびしい環境の中でくらしている。これらチベット系の人々は、他の民族よりもかなり高い所に居住していることがここでたしかめられた。ところでシェルパのことを案内人やポーターのことと誤解している人が多いが、シェルパとは民族名の一つであって、16世紀にチベットから移住してきたチベット系の一分派をさすのであり、外国人登山客がしだいにふえてきたので、外国人を相手に仕事をするシェルパ族の人が多くなったというだけのことである。

 今日は、ペルンゲ村の学校の校庭にキャンプする。虹がでている。階段状の水田(棚田)が、天にとどかんとばかりに大斜面にひろがっている。

 

 ふたたび高ヒマラヤ地帯へ

 10月21日、私たちはさらに東にむかってあるいていく。すると、岩石は千枚岩から、片岩にかわり、片岩はしだいに粗粒になり片麻岩にちかい組織をしめすようになってくる。そして、眼球片麻岩がふたたび出現する。ここの眼球片麻岩には変形構造があり、再結晶とともに変形がおこったことがうかがえる。走向はほぼ南北、傾斜は37〜45度東落ちである。岩石には、リョクデイ石にくわえて、ザクロ石が出現してくる。そして、さらに東にすすむと、高ヒマラヤの片麻岩地帯に入りランショウ石が出現する。それは、ひし形・粗粒(最大のもので長径1cm)・淡灰緑色の鉱物である。低ヒマラヤ地帯の眼球片麻岩と、ランショウ石をふくむ片麻岩地帯との間には、主中央衝上断層がはしっていると推定される。そして、さらに東へすすむと、片麻岩中にケイセン石とよばれる鉱物が出現する。白色針状の結晶であり、やや放射状をしめす束もある。

 「この、低ヒマラヤ地帯から高ヒマラヤ地帯への岩石のうつりかわりは、この前の14〜15日に、タプレジュンのバザールから北へむかうルートで観察できたものとまったく同じで、この岩石のうつりかわりと、リョクデイ石→ザクロ石→ランショウ石→ケイセン石という鉱物の出現状況の変化は、低ヒマラヤ地帯から高ヒマラヤ地帯にむかって、変成作用の温度がしだいに上昇していることをしめしている。」と私は学生たちとはなしながらすすんでいく。

 しばらくいくと、サカルカンデにでる。そこは小山の上にできた村で、小さなバザール・学校・郵便局がある。耕作地の上限は標高約2500mまでであり、それより高地は森林地帯になっている。村の北側は谷になっているが、山地の開析により水路がかわり、今は水はながれておらず、耕作地になっている。東側は、山地の浸食・開析が非常にすすみ、一部には地滑りがおこっており、村に危険がせまっていて土地保全や防災計画が必要である。かつて、ネパールにおける地質学研究の背景には、鉱山開発や山地開発などの要請があったが、時代はかわり、今は、山岳環境の保全が大きな課題になっている。さらに東にすすみ、グルンタールにくる。タールとは平地という意味であり、そこはグルン族の平地(村)であり、かやぶき屋根の家がある。今日も夕日がうつくしい。

>> 写真:左側の斜面に地滑りが生じている

 10月22日、さらに東へむかってあるいていく。ケイセン石を含む片麻岩の地層がつづく。地層の走向はほぼ南北、東落ちである。しばらくいくと、片麻岩には、岩石が部分的にとけたような組織がみられるようになる。「高温下で、岩石の部分溶融がおこったのかもしれない。このあたりには、今までみてきた岩石よりもさらに高い温度条件がかつて存在したのだろう。」私たちは議論をすすめる。

 ネパールとインドとの国境はもうすぐそこである。「インドと言っても、そこは元シッキム王国で、ライ族やリンブー族の人々が今でも沢山くらしており、彼らはネパール語をはなしているんです。」とライ先生は説明する。私たちは、国境ちかくまでいったのち、今度は、南西にむかってあるきはじめる。

 午後3時、今回の調査ではじめての本格的な雨になる。雨の中、大きな谷をくだり、川をわたり、斜面をのぼり、午後6時、標高約1600mのシィディン村につく。ながくきびしい行程である。山の下の谷底は別世界、そこはまるで海底のようであり、海底から斜面をのぼり島に上陸したような気分である。パハールの村々は、まるで海にうかぶ島々のようであり、海と島のイメージがひろがってくる。日本とはちがい、村はすべて、山の下にあるのではなく、山の斜面の上の方にある。

 谷をくだり斜面をのぼる移動にくらべて、一つの山を同一標高で横方向にあるくのはとても楽である。したがって、村と村とのつながりは、谷むこうとはうすいが、同一標高をはしる道でむすばれた所同士ではつよくなり、そこに一つのの地域単位が形成されている。あたらしい情報も、この道を通してクチコミでおどろくほどはやくつたわるという。今日は、警察官の人の家の2階にとめてもらう。

 10月23日、午前7時30分、さらに西にむかって出発する。ランショウ石をふくむ片麻岩の転石をみる。そして、千枚岩が出現する。ふたたび低ヒマラヤ地帯に入った。地層の走向はほぼ南北、傾斜は30度東おちである。ルートぞいには、リンブー族の家々がつづき、おなじスタイルの家々がならんでいる。それは2階建てで、石造り、草ぶき屋根、外壁は赤と白でぬられており、2階には、木でつくったバルコニーがめぐらされている。しばらくいくと山と山とがやせ尾根でむすばれていて、その尾根は、まるで島と島とをつなぐ橋のようである。それをわたりパターレにくる。ここでは茶を栽培していて、つみとった茶の葉を日干しにしている。最初、緑色でやわらかい葉は、緑〜黄〜茶色に、そして、黒色の葉に乾燥してくる。そばには、乳製品をつくるファクトリーもある。パハールの自然環境とリンブー族の人達がつくる社会とが、この地域独自の生活空間・風土をうみだしている。

 向こう側の山には、珪岩(けいがん)からなる大斜面がみえる。珪岩とは、主として石英からなる堆積岩またはそれが変成された変成岩である。層厚は約1km、地層のかさなりがはっきりとみえる。今日は、リンブー族の人の家の軒先にとめてもらう。

 10月24日、さらに西にむかってすすんでいく。低ヒマラヤの千枚岩の単調な地層がふたたびつづいていく。10時半、標高約1700m、ゾルポカリに到着する。学校と比較的大きなバザールがある。ここには、バウン族・チェットリ族・ネワール族などよそからきた人々がおおく、彼らは商売がうまいという。このあたりの先住民族であるライ族とリンブー族は、農業をやるか軍隊に入る。午後3時、先日の19日に滞在したゴペタールにもどる。今回のフィールドワークは今日で終了である。この地方の地酒・トゥンバをのみながら、みんなで祝杯をあげる。

 

 地殻変動の歴史をよむ

 さて、今回の地質調査によって、私たちは、タプレジュン地域の地質の基本構造をつかむことができた。この地域は、低ヒマラヤの地層と高ヒマラヤの地層により構成され、それらの境界には、主中央衝上断層がはしっている。地層の走向と傾斜の変化から、低ヒマラヤ地帯には、大規模な褶曲構造があり、地層はアーチのように上にむかってまがっており、大規模なドーム構造が形成されていることが明確になった。地質平面図でみると、低ヒマラヤの地層は、高ヒマラヤにその周囲をとりかこまれて分布しており、高ヒマラヤ地帯の中にある窓のようになっているので、「タプレジュンの窓」とよばれることもある。

 地層を構成する岩石は、低ヒマラヤの千枚岩、片岩から、高ヒマラヤの片麻岩へと変化し、鉱物の出現状況は、リョクデイ石→ザクロ石→ランショウ石→ケイセン石と変化する。これらの岩石と鉱物のうつりかわりは、変成作用の温度が低ヒマラヤ地帯から高ヒマラヤ地帯へむかってしだいに上昇していることをしめしている。この変成作用の温度の上昇は、地層のかさなり(層序)の下位から上位にむかっており、これは、地殻変動にともなう主中央衝上断層の運動によって、高ヒマラヤの高温の片麻岩の地層が、低ヒマラヤの低温の岩石の地層の上におしかぶさったということを物語っている。

 そして、そのような変成作用ののち地殻の上昇がおこり、本地域のドーム構造が形成された。その後、地層の浸食作用がすすみ、低ヒマラヤの地層がひろく露出するようになり、現在みられる「タプレジュンの窓」の構造が形成されたと推定される。地層の浸食作用や山崩れは現在でもすすんでおり、地滑りや土石流が発生し山村に危険をもたらしている。地滑りは、ハンデワ地滑りにみられるように、特に、低ヒマラヤの千枚岩地帯において顕著である。いずれにしても、このような地殻変動によって、ヒマラヤ山脈のパハールの大地が形成されているのである。

 今回の調査によって、タプレジュン地域の概要をつかむことができたので、これをふまえて、次回は、地滑り・斜面崩壊に的をしぼった調査を本地域においておこなうことにしたい。

 

 ティハールのお祭り

 さて、調査がおわって、私は、サンタ=マン=ライ先生の実家にまねかれる。先生の実家は、タプレジュンから南にくだったイラム郡のケラワリという所にある。イラム郡は、茶・牛乳・ジャガイモ・ショウガなどの販売で現金収入が多く、パハールではもっともゆたかな土地の一つである。降水量もネパール西部にくらべて格段に多く、農業生産性が高い。ただ最近、耕作地が非常にひろがったため、ここでも地滑りが多数発生している。ちかくには、広大なお茶畑があり、山の一面がお茶の木のじゅうたんである。はるかかなたには、低地の平原・タライがみえる。パハールとタライの境界は非常に明確であり、段差がはっきりとみえる。パハールからみたタライはまるで海のようであり、そこは別世界である。

 10月26日、きのうからティハールのお祭りがはじまっている。ティハールは収穫祭であり、ヒンドゥー教の女神・ラクシュミーを家にむかえ、富と繁栄をいのる。夜になると、家の窓や戸口をたくさんの花輪や灯明でかざり、女神を家によびいれるようにする。

 27日、今日は祭りの3日目、女神の象徴である牝牛にごちそうをたべさせ、花輪をかざって礼拝する。夜、ダンスがはじまる。若い人達が家の前でダンスをしながら、村の家々を次々にまわっていく。ネパール・ダンスから、ヒンディー・ダンス、モダン・ダンスまで様々である。深夜3時ごろまでつづいている。

 29日、今日は祭りの最終日、女性の守護力を男性にあたえる「バイ・ティカ」という儀式をおこなう。ライ先生の妹たちが、私にも花輪と水をかけてくれ服をくれる。これは、姉が弟を、死の王ヤマ(エンマ大王)からすくいだすという物語にもとづいているという。ライ族の人達は自然崇拝の宗教をもち、土着の神々を信仰しているときいていたが、一方で、ヒンドゥー教もうけいれている。土着の宗教とヒンドゥー教とはここでは融合しているのだろう。

>> 写真:ティハールの儀式

 

 


 

 (4.3) カトマンドゥ盆地はヒマラヤのヘソである

 2000年10月31日、私はバスで、極東部からカトマンドゥへかえる。カトマンドゥにちかづいてくると、前面には大きな山の斜面が、左ななめうしろには白いヒマールがひろがり、バスは一気に高度をあげていく。そして巨大な斜面をのぼりきると、そこには広大な平地が忽然とひろがってくる。カトマンドゥ盆地である。それは、標高約1300m、ヒマラヤ山脈の中にできたゆたかな大地である。ながいフィールドワークのあとにカトマンドゥ盆地をのぞめば、山並みのつらなる中にひらけた沃土と、温和な気候にめぐまれたひろい盆地の世界を実感することができる。

 ここには旧石器が発見されているので、すくなくとも数万年前から、人々がくらしていたとかんがえられている。そして、すくなくとも5世紀から小国家が成立している。ヒマラヤ山脈の中にかもしだされたこの独自な世界。ここに、ネワール族が文化を蓄積して都市国家をきずきあげてきたのである。ネワール族は、ネパールの歴史と文化の重要なにない手である。

>> 写真:広大なカトマンドゥ盆地

 さてその後、私は、ランタン山群へのヘリコプターのマウンテン・フライトに同乗する機会をもつ。調査のために日本からこちらにきていた淡水生物研究所という組織のメンバーが、ヘリコプターでランタンまでいくというので同乗させてもらうことになった。かんがい事業のためにネパールに滞在している国際協力事業団専門家の新保義剛さんのご厚意によるものである。ただし、ヘリコプターが小型であったため重量オーバーになってしまい、新保さんは同乗できなかった。

 12月5日、朝8時、私をふくむ4人は、カトマンドゥ・トリブバン空港を出発する。ヘリコプターは次第に高度をあげていき、眼下には広大なカトマンドゥ盆地がひろがっていく。私たちのヘリコプターは飛行機とはちがいまた小型であるので、前面〜左右〜下方が手にとるようによくみえる。そして真北へむかって、カトマンドゥ盆地の北縁を区切る2500m級の山地をこえていく。目の前には、ヒマラヤの峰々がつくりだす「世界の屋根」がひろがってくる。はてしなくひろがる青い空。どこまでもつづく純白のヒマール。左手にはガネッシュ山群が、右手にはランタン山群が堂々とかまえている。

 そして眼下には、低ヒマラヤ地帯がひろがっていて、東西にのびる帯状の地形がはっきりとみえる。ヘリコプターは、標高1960m地点にあるドゥンツェ上空にさしかかと、そこから方角を北東方向へとかえ、そして、ふかいランタン谷の中へととんでいく。「世界でもっともうつくしい谷」とランタン谷を絶賛したのは、イギリスの登山家・ティルマンである。彼は、「ローインパクトの法則」(自分がそこに足をふみいれてしまったことにより、その土地へ悪影響をあたえない)を実践した先駆者であった。あかるくひらけたU字谷の中をとんでいくと、谷はしだいにひろがってくる。ここは、氷河でけずられてできた谷である。そして、ランタン山群の主峰ランタン=リルン(7245m)の巨大な山塊がしだいにこちらにせまってくる。森林がなくなり、もうここは高ヒマラヤの世界である。

 8時半、ランタン最奥の村、キャンジン・ゴンパにつく。標高3850m。おもったほどさむくはない。あたりをあるきまわと、目前には、主峰ランタン・リルンがそびえていて、そこからは巨大な氷河がながれだしている。このあたりの地質は高ヒマラヤ地帯の片麻岩の地層からなる。集落のかたわらには大きな岩があり、そこはチベット仏教の寺になっている。道でであったチベット系のおばあさんにはネパール語は通じない。ここには、シェルパ族などのチベット系民族の人々がくらしているといい、彼らはともにヒマラヤの高地民である。そして1時間半後、私たちはカトマンドゥへむかってとびたつ。

>> 写真:ランタンを間近にみる

>> 写真:チベット系民族の人

 今度は、ランタン山群から南にむかってとんでいく。すると目の前には、こちら側からむこう側に、まるで巨大な舌がはりだしたように広大な大地がひろがってくる。カトマンドゥ盆地である。ランタン山群がある高ヒマラヤの方から南の方へむかって大地がおしだされているようである。起伏のはげしいヒマラヤ山脈の中にあって、この大地はきわめて特異な感じをかもしだしている。

 地質学者はこの大構造を「ナップ」として説明している。ナップとは、フランス語で「おおい」の意味であり、地質学では移動岩塊ともよばれ、地殻変動により衝上断層の上をすべって、前方にのびていった地層の大きなかたまりのことをいう。衝上断層の上で、地層のかたまりが北から南側上方へとすべりあがると、その地層自体の重さ(自重)によって、その地層のかたまりは南方にすべるように流動前進し、下の地層の上におおいかぶさっていく。地層のかたまりがおしだされていくのである。この地域では、高ヒマラヤ地帯の地層が、主中央衝上断層の上をすべって北側から南方に張りだし、低ヒマラヤの地層の上におおいかぶさって、このカトマンドゥ・ナップをつくったとかんがえられ、これによってカトマンドゥ盆地が形成された。ナップが前進するとき、その前の方は盆地状になる傾向があることがしられている。このようにして世界最大の山脈の中に、広大な大地・カトマンドゥ盆地ができあがっていったのである。

 そしてここに、ネワール族によって都市国家文明がきずかれた。その昔、ネパールといえばカトマンドゥ盆地のことをさしたのであった。したがって、この盆地はネパールそのものであったのであり、この土地を中核にしてヒマラヤの国・ネパールが発展したのである。このように、カトマンドゥ盆地は、地質学的・地形学的な意味合いだけではなく、その歴史的・社会的な意味においても、ヒマラヤのヘソであり中核になっている。カトマンドゥ盆地は偉大である。私たちはトリブバン空港に無事着陸する。

 

 


 

 (4.4) マレク地域で学生野外実習をおこなう

 地質調査の方法をおしえる

 トリブバン大学地質学科では、学生の教育の一環として地質調査の野外実習をおこなっている。地質調査とは、岩石や地層が露出している場所を観察して、地層のかさなりの順序や他の岩石との関係、地層のつづき方、地層の分布などをしらべる作業である。これは、岩石や地層に記録された過去のできごとをよみとる作業の第一歩であり、大学キャンパス内における講義よりもはるかに重要な教育である。地質に関する仕事をすすめる場合、いくら知識があっても現場で調査ができなければまったく意味がない。現場をあるいて、現場をみて、現実のデータをあつめるところからすべての仕事がはじまる。

 地質学科学士課程の2年次学生(日本の大学でいう学部の2年生に相当)に対しては、カトマンドゥから約70km西に位置するマレク地域において、2週間にわたる地質調査の実習をおこなっている。ここに地質学科は建物をもっており、実習のためのベース・キャンプとして毎年つかっている。実習では、簡易測量の方法、地質調査の方法、地質図の作成法などを順次指導する。観察したことをノートやルートマップに記入し、岩石や地層の分布、地質構造をあきらかにし、それを地形図の上にあらわして地質図をつくることが学生の課題になっている。最終的には、調査結果の口頭発表をおこない、報告書を提出しなければならない。

 2000年12月25日午前10時半、私たちは、カトマンドゥのトリ=チャンドラ・キャンパスをバスで出発、午後1時、マレクに到着する。マレクは、ランタン山群からながれくだってくるトリスリ川ぞいに発達した町であり、カトマンドゥからムグリンやポカラへむかう幹線道路・プリディビ自動車道路の中継地点の一つになっている。私たちのキャンプ地は、バザールから約10分あるいたところにある、普段は地域の学校の校舎としてつかわれている建物である。学生は約80人(うち女子学生15人)、引率の教官は、サンタ=マン=ライ先生をチーフに私をいれて6人、コック3人の総勢約90人であり、今日からその大キャンプ生活がはじまる。同日夜、今回の野外実習の概要を学生に説明する。ここマレク地域は、東から西にむかってながれるトリスリ川に、南からマレク川が、北からトパル川がそれぞれそそぎこむ場所に位置しており、今回の実習は、マレク川-トパル川にそう南北ルートでおもにおこなわれる。

 翌26日、6時起床、学生が野菜のかいだしにいく。8時半朝食をとる。食事はもちろんダルバートである。9時半キャンプを出発、今日は、マレク川ぞいに南にくだり、まず、地形図のよみかたをおしえ、次にコンパスをつかった簡易測量の実習をおこなう。グループごとにわかれて、現在地を、コンパスをつかって地図上にプロットする。午後は、クリノメーターとよばれる地質調査のための測定機器をつかって、地層の走向と傾斜を測定する方法を指導する。クリノメーターは長方形の板に磁石と水準器とをはめこんだ機器である。学生たちは川ぞいの珪岩の露頭で実習する。走行は東西、傾斜は85度南落ちである。今日も夜はキャンプにて講義をおこない、今日の復習と明日のガイダンスをする。講義は毎夜づづけられる。

 12月27日午前、私たちはマレク川を一気に南下する。そして、その川ぞいを南から北へむかってあるきながら、層序的には上位から下位へと地層をみて、岩石と地層を観察しながら、それらの識別の仕方をおしえていく。最初は、千枚岩と砂岩の互層である。次に、眼球片麻岩、珪岩があらわれる。眼球片麻岩にはよわい葉状組織が発達している。次は、千枚岩と珪岩の互層である。そして、大理石、珪岩、片岩とつづく。片岩にはザクロ石がふくまれる。ここまでの地層は、かつてこの地域を詳細に調査した地質学者・J.ストックリンにより、カトマンドゥ複合体と命名されている。カトマンドゥ複合体の下位は、衝上断層できられていることが観察できる。これは、マハバーラト衝上断層とよばれる大きな断層である。南落ちの断層で東西方向にながくのびている。学生たちは観察したことをノートに記載していく。

 12月28日、今日は、キャンプ地の北側のトパル川ぞいのマレク-ダディン道路を一気に北上し、きた道をもどりながら岩石と地層を観察する。層序的には下位から上位へと地層を観察していくことになる。はじめは、微褶曲をくりかえす灰緑色の千枚岩層であり、クンツァ層と命名されていて、タプレジュン地域の低ヒマラヤ地帯でみた千枚岩の地層とほぼ同時代のものである。地層の傾斜は南落ちである。次に、その上位の珪岩をみる。これにはみごとな漣痕(れんこん、リップルマーク)が発達している。漣痕とは、地層面にみられる波状のでこぼこ(模様)であり、浅海で砂が水にながされて堆積したときに、海底面にできたこまかな凹凸が地層中に保存されたものである。波の跡でありいわば「さざ波の化石」である。「このような地層の内部構造から、地層の堆積した環境や、粒子がはこばれてきた方向がをしることができるのです。」と学生たちに説明する。次は、また千枚岩であり、一部に泥岩と砂岩をはさんでいる。そして、ドロマイト、粘板岩、石灰岩とつづく。粘板岩と石灰岩の境界部には両者の互層が存在する。石灰岩とは、炭酸カルシウムからなる生物の殻や骨格などが海底につもって形成された堆積岩の一種であり、ドロマイトとは、石灰岩にマグネシウムがくわわった岩石のことである。これらの岩石はこの地層が海底で形成されたことをしめしている。学生たちには、岩石を識別しながら、それが形成された環境がどのようなものであったのかをかんがえさせるようにする。今日みてきた地層はストックリンによりナワコット複合体と命名されている。

>> 写真:地層を観察する学生たち

>>写真:さざ波の化石

 12月29日、学生たちは、いくつかのグループにわかれルートマップをつくる実習をおこなう。きのうあるいたマレク-ダディング道路で測量をしながら、2000分の1のルートマップをつくり、観察によってえられた道ぞいのデータをそこに記入していく。教官は、分担して学生を指導する。かなり時間のかかる作業である。

 12月30日、今日は、アグラ・カコウ岩とよばれるカコウ岩を観察しにいく。いってかえってくるだけで一日の行程である。このカコウ岩は、カトマンドゥ複合体の比較的上部に貫入している粗粒の火成岩であり、学生たちにはここでカコウ岩をおぼえてもらう。

 12月31日、おとといにひきつづき、マレク-ダディング道路でルートマップづくりのつづきをおこなう。

 2001年1月1日、新年、今日は21世紀がはじまる記念すべき日である。しかし西洋暦では新年であるが、ネパールは独自のネパール暦でうごいていて新年ではないため、行事などは何もなく、学生たちはごく普通にすごしている。何でも欧米にあわせる日本とはちがい、自国の伝統をまもりつづけるネパールのつよい姿勢を感じる。今日は終日、野外にはでず、キャンプにてルートマップを完成させる。

 

 地質現象の解明と地質学の役割

 1月2日、学生たちは地質図をつくるために、グループにわかれてすこし範囲をひろげて地質調査をおこなう。ルートマップにはルートぞいのデータしか記載されていないので、すこし広範囲にあるいて、地層の分布や地質構造をあきらかにしなければならい。教官は担当のグループをみてまわる。

 私のグループは、キャンプ地の南にあるマハバーラト衝上断層付近をくわしく調査する。その断層は東北東方向にのびており、傾斜は60度南落ちである。断層付近には、珪岩と片岩の互層がみられ、断層帯を形成している。マレク川は、断層に接する珪岩にぶつかって蛇行している。

 このマハバーラト衝上断層を境界にして、下位のナワコット複合体の上に、カトマンドゥ複合体がおおいかぶさっている。ナワコット複合体は低ヒマラヤの地層であり、ふるい大陸の基盤を構成する地層であるとかんがえられている。一方、カトマンドゥ複合体は、カトマンドゥ盆地に分布する海底で堆積した地層であり、カトマンドゥ・ナップを構成する地層である。地殻変動にともなって、カトマンドゥ複合体は衝上断層の上ですべり、ナワコット複合体(低ヒマラヤ)の上におおいかぶさったとかんがえられる。つまり、カトマンドゥ複合体が北側から南側へ移動し、低ヒマラヤの地層の上におおいかぶさるというナップの運動があった。その後、本地域の北部では浸食作用がすすみ、上位の地層はけずりとられ、現在のように低ヒマラヤの地層が露出したと推定される。カトマンドゥ盆地を形成したカトマンドゥ・ナップの運動がここで確認できた。

 ところで、このマハバーラト衝上断層の下流にいくと、西半分がなくなっているこわれた橋がのこっている。今回の実習に同行している、応用地質学が専門のヴィシュヌ=ダンゴール先生にきいてみると、「この橋はここ16年間で2回にわたってこわれたんです。最初は1984年の集中豪雨の時、土石流で破壊されました。その後、あたらしく橋をつくりなおしましたが、1993年の集中豪雨の時にまた土石流が発生して、西半分がおしながされてしまったんです。」と説明してくれる。1993年には、雨季の7月に、ネパール中央部〜東部を記録的な集中豪雨がおそい、土砂災害が多数発生し非常に大きな被害が各地ででた。この時にここマレク川でも、川底に堆積していた土砂と礫が水と一体となって高速でながれくだる土石流が発生し、そのすさまじい衝撃が鉄筋コンクリート製の橋をもこわしてしまった。ネパール最大の大動脈であるプリディビ自動車道路は不通になり、インドからカトマンドゥへの物資の供給はとだえ、カトマンドゥは陸の孤島と化した。

 こわれた橋は、つくりやすさを優先して、川幅がもっともせまくなる川の屈曲部につくられていたため、当時ここで水位が高くなり、土石流の破壊力がましたとかんがえられる。その後1996年に、ここよりも下流につけられた現在のあたらしいマレク橋は、川幅はひろいが屈曲部でないところで、地盤もしっかりした所にかけられている。橋の建設などの土木工事をおこなう場合、地質調査を事前にかならずおこなって、おこりえる災害を予測してから計画をたてなければならない。

 ネパールでは5月下旬から9月までが雨季であり、年間降水量の80パーセントが、この約4ヶ月間に集中している。このため、雨季には集中豪雨が毎年おそってきて、地滑りや斜面崩壊・土石流・洪水などを発生させ、国土に大きな被害をもたらす。ネパールは山岳地帯で地盤が不安定なことにくわえ、このような集中豪雨に毎年みまわれるため、世界最大の自然災害多発地域のひとつになっている。ヒマラヤ山脈には、そのうつくしい景観とともに自然災害の大きな危険が同居しているのである。したがって、このような自然災害を予知・防止し国土を保全していくことは、ネパールのもっとも重要な課題になっており、地質学は、地盤の基礎的な調査・研究をふまえつつ、このような大きな課題に対して貢献していかなければならず、特にこの国においてはその役割がとても大きくなっている。

>> 写真:実習に参加した学生たち

 


 

 (4.5) タンセン地域で学生野外実習をおこなう

 ゴンドワナ大陸の地層をみる

 トリブバン大学地質学科では、学士課程3年次学生に対しても地質調査の野外実習を義務づけている。3年次学生は、ネパール中央部、カトマンドゥから自動車道路にそって西へ約280kmの所に位置するタンセン地域において、3週間にわたる実習に参加しなければならない。地質学科はここにも建物をもっており、地質学のフィールドワークのベース・キャンプとして毎年つかっている。この建物は地域の学校の校舎として普段はつかわれている。3年次の学生は、地質調査の基本的な方法はすでに習得しているので、この野外実習を通して、ヒマラヤの地殻変動についてよりふかく理解していくことが課題になっている。私たち教官は、地質調査法と地質図の作成、口頭発表のやり方、報告書の作成などについて学生に順次指導していく。

 2001年1月3日、私は、タンセンの南にある中規模都市・ブトワールにいく。そこは、タライ(ガンジス平原)の最北、亜ヒマラヤ(シワリーク)のすぐ南側にできた街である。地形的には、私が以前おとずれたネパール東部のダランと同様な場所に位置しており、街の雰囲気もどこかダランに似ていて、さしずめ、ヒマラヤ山脈への玄関口といったところである。そこで私は、トリブバン大学地質学科のアナンタ=プラサッド=ガジュラル先生、クムッド=ラズ=カフレ先生らとおちあう。ブトワールで食料のかいだしをしたのち、私たちは、今回のキャンプ地であるドゥムレにバスでむかう。

 途中、ヒマラヤの地質区分でいうシワリークと低ヒマラヤとの境界に走る、主境界衝上断層を見学する。これは大断層であり、黒色の堆積岩の地層の下にはっきりと走っていて、その下にはシワリークの砂岩層がみえる。主境界衝上断層は、私が、タプレジュン地域に調査にいく前に滞在したダランにもあった。なんとその大断層はヒマラヤ山脈を東西にはしり、ここまでつづいてきているのである。ダランでは断層の露頭を観察することはできなかったが、ここでははっきりとみることができる。この主境界衝上断層は、逆断層の一種で圧縮の応力場で形成され、現在でも活動的な活断層であり、将来の地殻変動によってふたたび活動する可能性が高い断層である。断層は「地震の化石」であり、くりかえしおこる地殻変動のたびにそれがうごいて地震をひきおこし、その変動の記録を大地にのこしていく。ヒマラヤでは、数年おきにどこかで地震が発生していて、この断層と地震は地殻変動が現在でもおこっていることを物語っている。

>> 写真:大断層帯

 この断層の下にあるシワリークは、タライ(ガンジス平原)のすぐ北側に隆起した標高1000m程度の丘陵地帯であり、1600万年前以降にヒマラヤ山脈から河川ではこばれてきた堆積物で構成されている。このシワリークに、衝上断層の運動によっておおいかぶさっているのが低ヒマラヤある。低ヒマラヤは、タプレジュン地域やマレク地域でも観察された地層であり、これからいくタンセン地域も低ヒマラヤの地層から構成されている。

 その後、今回の実習のキャンプ地であるドゥムレに到着する。今回の実習のチーフであるプラカス=ダス=ウラーク先生らがすでにここに滞在している。実習は、すでに1週間が経過しており、私は1週間おくれての参加であり、実習はあと約2週間つづく。今回の実習は、教官は私をふくむ5人、学生約50人(うち女子学生5人)、コック3人、バス運転手2人の総勢約60人で編制されていて、教官にはほかにプレム=バハドゥル=タパ先生がいる。

 翌4日、今日から3日間、学生たちは、キャンプの前をながれるティナウ川にそって地質を調査し、ルートマップを作成する。1チームあたり3〜4人のグループにわかれて、メジャーとコンパスをつかってルートマップをつくり、そこに、岩石の種類・地層の境界・地質構造などの観察事項を記入していく。教官は、それぞれのチームをみてまわり、質問をうけつける。こまかいことはあまり説明せず、なるべく学生に自力でやらせるようにする。

 私たち教官は、現・九州大学の酒井治孝教授が作成した資料「地質巡検ガイド - パルパ・グルミ地域のタンセン層群とカリガンダキ累層群 -」(シンポジウム「ネパール・ヒマラヤのジオダイナミックス」1988年)にもとづいて指導をすすめていく。酒井治孝教授は、青年海外協力隊の一員としてかつてトリブバン大学地質学科に、私とおなじように講師として勤務していた。地質学科に配属された協力隊員としては3代目の隊員であり、トリブバン大学在職中にこの地域の詳細な研究をおこなって、ネパールの低ヒマラヤの標準層序を確立した。そのガイドによれば、本地域では、タンセン層群とカリガンダキ累層群という2つの地層群を観察することができ、これらは、ヒマラヤの地質区分でいう低ヒマラヤに属し、おもに陸上に堆積した堆積物から構成されている。

 学生たちは、そのタンセン層群を下位から上位にむかって順に観察し、データを記載し、ルートマップをつくっていく。河川敷での作業は、時には水の中に入らねばならず、時には斜面の上までのぼらなければならず、かなり大変な作業である。学生たちは、方向をはかる人、距離をはかる人、データを記載する人など、役割分担をきめて各グループで共同作業をすすめていく。

 タンセン層群は、下位から、シスネ層・タルトゥン層・アミレ層・バインスカティ層・ドゥムリ層に区分されている。シスネ層は、砂岩・礫岩・スレート(粘板岩)などの堆積岩から構成される。タルトゥン層は、礫岩・砂岩などの河川の堆積物から構成されている。アミレ層は、砂岩・泥岩からなる陸成層である。これらの地層は、ゴンドワナ大陸という、大昔に存在した大陸の上の盆地に堆積した堆積物からなっており、それらはまとめてゴンドワナ堆積物とよばれている。

 今から3億6000万年前〜1億5000万年前(古生代の中ごろ〜中生代の中ごろ)は、地球上の大陸はひとかたまりになっていて、一つの超大陸が形成されていたことが地球科学的な研究によりあきらかになっている。その超大陸のことをパンゲアとよび、その南半分(南半球)をゴンドワナ大陸とよんでいる。かつてこのあたりは、南半球にあったこのゴンドワナ大陸の一部であり、ここには、この大陸の地溝状のくぼ地に堆積した堆積物がひろく分布しているのである。

 1月7日、今日は休日である。学生たちとともにちかくのタンセンのバザールへいく。ここタンセンはネワール族がつくった、ふるい中世の面影をのこすうつくしい町であり、現在は、このあたりの商都として山の斜面に大きなバザールがひろがっている。独自の言葉をもち商業にもたけたネワール族は、カトマンドゥからとおくはなれたこの地に衛星都市をきずくほど繁栄をほこったのである。石畳の道の両側にはきれいな街並みがひろがり、町のあちこちにはヒンドゥー教の寺院が散在し、丘の上には旧王宮がある。斜面をのぼりきった山頂からは、マナスル山群とアンナプルナ山群の広大なヒマールを展望することもできる。私たちは、バザールの一角で名物のアヒルの肉料理をたべたのち、キャンプにもどってくる。

>> 写真:地質学科の3年生たち

 さて、1月8日朝9時、教官・学生全員がバスにのりこむ。今日は、タンセン地域のもう一つの重要な地層であるカリガンダキ累層群を、カリガンダキ川中流域まで観察しにいく。約2時間後バスはカリガンダキ川中流域に到着する。カリガンダキ川は、ここ中流域では人工衛星が撮影した画像でみたとおり西から東にむかってながれていて、大きな谷を形成している。ゴンドワナ大陸の表層が浸食・削剥されて、その土砂や礫が大陸内部のくぼ地にたまったのが、今までおもにみてきたゴンドワナ堆積物である。では、この下にあるゴンドワナ大陸そのものは、どのような地層によって構成されているのだろうか。バスをおりて、さっそく岩石と地層の観察をはじめる。学生たちは道路沿いにくだっていき、スレート、珪岩、石灰岩、ドロマイトなどを順次観察し記載していく。

 きわめつけは、ストロマトライト構造をしめすドロマイトであり、それは、直径約10cm〜1mの球状からドーム状の形態をしめしている。ストロマトライトとは藍藻類(らんそうるい)の化石であり、かつて生息していた藻類が分泌した石灰質のうすい膜が何層にもかさなってできたものである。現在でも、ストロマトライトは水深5mまでのごくあさいあたたかい海にみられる。カリガンダキ累層群は、連続的にゆっくりと沈降していたひろい陸棚上に堆積した地層であるとかんがえられている。このカリガンダキ累層群は、2年次学生の実習フィールドであるマレク地域で観察したヌワッコット複合体に相当する地層であり、低ヒマラヤの地層は、西の方向にここまで連続してきているのである。

>> 写真:ストロマトライトの化石

 

 大陸の移動と衝突をよみとる

 1月9日、今日から3日間は、地質図を作成するためにやや広域的な地質調査を各グループにわかれておこなう。学生は、今までのルート調査の結果を基準にして、キャンプ地周辺を広範囲にあるきまわり、各地層の分布をあきらかにして、地質平面図をまず作成し、次に地質断面図を、そして地質柱状図を作成し、この地域の地殻変動の歴史を考察していかなければならない。地層の平面的な分布をあきらかにし、それを地形図上にあらわしたものが地質平面図である。そして、地形図の等高線と、地層や断層の走向と傾斜にもとづいて、地質断面図を作成する。これにより、地層の平面的な分布だけでなく、立体的な地質構造が理解できるようになる。そして最後に、それぞれの地層が形成された年代や環境をあきらかにして、それらを地質柱状図として表現する。これにより、立体空間に時間軸をいれることができ、地質構造だけではなく地殻変動の歴史も理解できるようになる。これが地質学の基本的な方法である。この作業の過程では、地質断面図をうまくつくることができるかどうかが大きなポイントになってくる。

 私がうけもったグループは、まずオーリス村にあるオーリス火山岩類を調査しにいく。キャンプ地から、この火山岩類が分布するオーリス村まで、いってかえってくるだけで1日を要する行程である。昼すぎオーリス村につく。そこは標高約1500mの山頂付近にひろがる小さな村である。ここで火山岩類が噴出したことをしめす露頭を観察する。オーリス火山岩類は、タンセン層群のタルトゥン層の下部にはさまれる火山岩類であり、岩石は、淡灰緑色を呈し変質しているが、この火山岩類は溶岩流であり、本来はひろい溶岩台地を形成していたと推定される。中生代の中ごろ(約1億5000万年前)に、ゴンドワナ大陸には大きな割れ目ができ、そこにこの溶岩が噴出したとかんがえられている。

 そして中生代の中ごろ以後、南半球にあったゴンドワナ大陸のこの大きな割れ目から、インド亜大陸が分裂し、大陸移動によってインド亜大陸は北へ移動していったことが地球科学的研究からあきらかになっている。ゴンドワナ大陸をふくむ超大陸パンゲアが分裂し、その結果生じた諸大陸が移動して、現在の大陸分布が形成されたという学説(大陸移動説)は、ドイツの科学者・アルフレッド=ウェゲナーによって1912年に発表されたものである。

 さて、この日、女子学生2人をふくむ4人からなる1グループが、夕方になってもキャンプにもどってこない。しだいに日がくれて夜になってしまった。何かあったにちがいない。キャンプは一時騒然とする。昨年の春、トリブバン大学大学院・地質学科修士課程の野外実習中に、一人の学生が川に転落、おぼれて亡くなるというかなしい事故があったばかりである。ネパールの山は非常にけわしく危険である。慎重に行動し、絶対に事故はおこしてはならない。急きょ、今回の実習のチーフであるP.D.ウラーク先生をリーダーとする捜索隊が結成される。そのグループは、キャンプ地の南側の地域に調査にでかけていった。捜索隊は、彼らのルートにそってすすんでいく。そしてしばらくして、午後7時すぎ、彼らはこちらにむかって山をおりてきた。4人とも無事である。沢をあるいていたところ、予想よりも時間がかかってしまい、もどるのがおくれてしまったとのことである。何はともあれ、一同、ほっとする。

 1月10〜11日、私のグループは、キャンプ地の東〜北東地域をあるき、地質構造と地殻変動について考察をすすめていく。この地域の地層はアーチをさかさまにしたように下にむかってまがっており、大規模な褶曲構造を形成している。それは、傾斜した地層がたがいにむきあっているので向斜(こうしゃ)構造とよばれる。そして、ゴンドワナ大陸の基盤であるカリガンダキ累層群、その上位のゴンドワナ堆積物を確認するとともに、その上に堆積したバインスカティ層とドゥムリ層もくわしく検討する。バインスカティ層は、頁岩(けつがん)・赤鉄鉱層などからなる。頁岩とは、顕著な層状組織をもつ泥岩のことである。その上位のドゥムリ層は、泥岩や砂岩・礫岩の河川の堆積物からなる。

 酒井教授の資料によれば、この泥や砂・礫などは河川により北から供給されたものであり、これは、本地域の北側の地域が上昇した結果であると推定されている。つまり、本地域の北側で、ヒマラヤ山脈の上昇がはじまり、ヒマラヤ山脈からこの地域にむかって、すなわち北から南へむかって河川がながれるようになり、その河川がはこんできた砕屑物が堆積してこのドゥムリ層が形成されたというわけである。

 古生代の中ごろにゴンドワナ大陸から分裂し、大陸移動によって北へ移動してきたインド亜大陸は、約5000万年前に、ユーラシア大陸に衝突し、その結果ヒマラヤ山脈の上昇がはじまったとかんがえられている。

 1月12日、今日は野外調査はおこなわず、今までにえられたデータをまとめて、学生たちは、キャンプでグループごとに地質平面図・地質断面図・地質柱状図を作成していく。教官はある程度の助言はするが、できるだけ自力でつくらせるようにする。

 1月13日、地質調査結果の全体発表会である。各グループごとに、作成したルートマップ・地質平面図・地質断面図・地質柱状図を前に張りだし調査結果を発表していく。今回調査したタンセン地域にはカリガンダキ累層群とタンセン層群が分布し、それらは大規模な褶曲構造(向斜構造)を形成している。カリガンダキ累層群は、かつて南半球に存在したゴンドワナ大陸の基盤をつくる地層であり、タンセン層群のうちのゴンドワナ堆積物は、そのゴンドワナ大陸のくぼ地に堆積した堆積物である。そのゴンドワナ堆積物にはさまれるオーリス火山岩類は、南半球にあったゴンドワナ大陸に大きな割れ目が生じ、そこからインド亜大陸が分裂しはじめたことを物語っている。そして、ゴンドワナ堆積物の上位にかさなるドゥムリ層は、大陸移動によって北半球へ移動してきたインド亜大陸が、約5000万年前にユーラシア大陸に衝突、その結果としてヒマラヤ山脈が上昇しはじめたことをしめしている。

 今回の実習によって、多くの学生たちは、地質調査から地殻変動の歴史をよみとるという地質学の基本的な方法を理解できたようだ。しかし、中には、既存の資料に記載されていたことをすべて暗記してしゃべっている学生もいた。そのようなことをしてもまったく意味がない。観察の結果・現実のデータにもとづいて話をすすめなければならない。教科書からではなく、現場からまなぶということが重要でる。あくまでも現場のデータが基本であり、それが地質学をふくむ野外科学の本質である。

 午後、発表会はおわり、打ち上げがはじまる。実習期間中は禁酒であったが今日はそのかぎりではない。学生たちとともに祝杯をあげる。学生たちはダンスをおどり、歌をうたう。夕食後もにぎやかな宴会はつづき、学生たちは深夜までさわぎつづける。

 

 


 

 (4.6) カリガンダキ川上流をいく

 ヒマラヤ山脈上昇の現場をみる

 2001年1月14日、私は、次の調査地域、カリガンダキ川上流域〜アンナプルナ山群山麓シーカ谷へむかうため、まず、ネパール西部の都市・ポカラに入る。ここは標高約900mの亜熱帯の楽園、カトマンドゥにつぐ大きな観光都市である。街の北方には8000m級のアンナプルナ山群がひろがり、その中央にはポカラのシンボルともいえるマチャプチャレ(6993m)が天高くそびえ、街の南西にはフェア湖がひろがり、そのレークサイドは一大リゾート地になっている。湖と山群がつくりだすこのポカラの風景は、世界でもっとも雄大でうつくしいものである。ポカラの開発は、1950年代にマラリアが撲滅されたのち、人々がこの地で生活ができるようになってからであり、比較的あたらしく急速である。ポカラは現在、観光地として注目され、急激かつ無計画な開発にともない環境の保全が大きな問題になってきている。

 さて翌15日、私の宿泊先ホテルにプラモッド=ネパール君がやってくる。彼は、トリブバン大学大学院・地質学科修士課程の1年次学生であり、これからいく地域において応用地質学的な研究をおこない、修士論文を作成しようとしている。プラモッド君は、「私は、学士課程2年次にネパールの地質に関する講義をうけ勉強しましたが、このルートをあるくのははじめてで、特に高ヒマラヤとその北部の地質については実際にみたことがないので、とてもたのしみにしています。」という。今回のフィールドワークは彼の指導もかねてすすめられる。

 私たちはホテルで、今回の調査の打ち合わせをおこなう。「カリガンダキ川は、ヒマラヤ山脈をきるように、ネパール西部のアンナプルナ山群とダウラギリ山群との間を北から南へむかってながれていて、そこには南北にのびる大きな谷が形成されている。これは南北にのびる大地溝帯であり、人工衛星が撮影した画像にもはっきりとあらわれていた。これから、ヒマラヤ山脈を南北にきるこのルートをあるいてヒマラヤ山脈の断面を観察し、その構造と変動の歴史を一緒にかんがえていこう。」ヒマラヤは東西にのびる帯状構造をしているので、東西方向ではなく、南北にきるルートをあるけば、その構造をよくみることができるにちがいない。今まで私は、低ヒマラヤ地帯を中心にヒマラヤ山脈の南部をおもにあるいてきたので、今度はもっと北上してその北部をみようとしているのであり、カリガンダキ川ルートは、ヒマラヤの南北断面をみるためのもっともすぐれたルートである。なお、このルートはネパール有数のトレッキング・ルートでもあり、十分な数のロッジがあるためテントは必要としない。

 1月16日、私たち二人はホテルを出発し、ポカラ在住の友人・スニール=セラチャンさんの家に不要な荷物をあずける。今回の調査計画を彼に話すと、タカリー族の彼は、「ガサまでがマガール族の領域で、そこから先がタカリー族ですね。ジョムソンから先はチベット系民族の世界になります。」とおしえてくれる。

 午前11時、私たちは、ポカラのバスパークからカリガンダキ川上流域へむけて出発し、山岳道路を西にむかってすすみ、午後4時半、今回の調査ルートの入り口・出発点であるベニに到着する。標高は830m、自動車はここまでしか入れない。たくさんのキャラバン(隊商)がここから北へむかってすすんでいく。馬とロバを交配させたラバが沢山いて、それは地元ではカッチャルとよばれ、カリガンダキ川の上流地域まで荷物をはこぶためにつかわれている。このルートはふるくからネパールとチベットとをむすぶもっとも重要な通商路であった。

 1月17日朝7時半、私たちはベニを出発する。このあたりは、今までの調査地域でもみてきた低ヒマラヤの地層がつづいており、それは、微褶曲をくりかえす千枚岩を主体とし、砂岩や珪岩を所々にはさんでいる。あるきはじめた最初のころは不規則な構造をしめしていたが、北へいくにしたがって、地層の傾斜が北落ちになり、その角度はしだいに大きくなってくる。ネパール極東部・タプレジュン地域でもみたように、低ヒマラヤの上限は主中央衝上断層できられているはずであり、そこにちかずいてきていることを予感させてくれる。さらにしばらくあるいていくと、右手には、カリガンダキ川に南東方向からそそぎこんでくる川がみえてくる。比較的大きな川であり、そこには、北西〜南東方向へのびるかなり大きな谷・シーカ谷が形成されていて、この一帯には珪岩の厚い地層が露出している。

>> 写真:カリガンダキ川はヒマラヤを南北にきりこむ

 午後5時、タトパニに到着する。タトパニとは、ネパール語で「熱い水」すなわちお湯のことであり、実際、ここには河原に温泉がわきだしていて露天風呂があり、ここは観光地でもあるので何人もの外国人がその風呂につかっている。お湯はかなりあついので水でうめてぬるくしてある。なぜ、火山がまったくないヒマラヤに温泉がでるのだろうか。実は、ネパールにはタトパニとよばれる土地がほかにもあり、それを地図上でむすんでいくと一本の線になる。そして、この線のちかくに低ヒマラヤ地帯と高ヒマラヤ地帯との境界である、主中央衝上断層がはしっていることがしられている。この断層は非常に大きな断層であり、地下のかなりふかい所であたためられた地下水が、この断層にそってわきだしてきているというわけである。これは地殻変動が現在でも活発である証拠の一つである。したがって、主中央衝上断層はこのちかくにあるはずであり、私たちは明日それをさがすことにする。

>> 写真:温泉がわきだしている

 1月18日朝7時半、タトパニを出発する。すこしあるくと、川の両側に巨大な階段状の地形があらわれてくる。「河岸段丘だ。」私はプラモッド君にいう。河岸段丘とは、いくつもの平坦面と急斜面とによって何段もの段丘が川岸に発達しているもので、いちばん上の段丘面は現在の河床から数百メートルも高い所にある。段丘は、土砂や礫などの河川の厚い堆積層から構成されていて、段丘面は昔の河原・河床であり、急斜面は河川の浸食作用によって形成された。段丘面すなわち昔の河原・河床が上の方にあるということは、カリガンダキ川による地層の浸食がすすむと同時に、地殻変動によって地盤が隆起したことを物語っている。つまり、造山運動によりヒマラヤ山脈が隆起・上昇した過程をここでみることができる。段丘が何段もあるということは、徐々に徐々に連続的に地殻の隆起がおこってきたのではなく、段階的・断続的に時間をおいて、何回かの大きな地殻の隆起・上昇がおこったことをしめしている。かくして自然には飛躍があるのである。

 さて私たちは、河岸段丘を右手にみながら地質調査をつづけていく。千枚岩を主体とする低ヒマラヤの地層がつづく。しばらくいくと、その千枚岩の粒子の大きさがしだいに大きくなってきて、そして、千枚岩と片岩の互層のようになってくる。朝から約2時間あるいたダナ付近にくると、千枚岩よりも粗粒な片岩の地層にかわってきて、岩石中には、リョクデイ石にくわえて粗粒のザクロ石がみえてくる。このような岩石と鉱物の変化は、タプレジュン地域で、低ヒマラヤ地帯から高ヒマラヤ地帯へあるいたときに観察したものと同様である。

 そして、ダナから10分ほど北へいったところで大断層を発見する。「これだ。」主中央衝上断層である。その断層を境にして、低ヒマラヤの片岩の上に、高ヒマラヤの片麻岩がかさなっている。断層面の走向は西北西-東南東の方向、傾斜は55度北落ちである。ただし、片岩と片麻岩は互層状になっているので1枚の断層というよりも断層帯としてとらえた方がよいだろう。地殻変動にともなう衝上断層の運動によって低ヒマラヤの地層の上に、高ヒマラヤの地層がのしあがったことがよくわかる。低ヒマラヤは高ヒマラヤの土台になっている。この地殻変動はタプレジュン地域でみたものとまったくおなじであり、先にみた河岸段丘とともに、ヒマラヤ山脈が上昇したことを物語っている。

>> 写真:ヒマラヤの上昇をしめす大断層

 断層の写真をとり私たちはさらに北へとすすんでいく。ここから先は地形が急峻になっていて、地形は、地質が硬質な岩石に急に変化したことをはっきりとしめしており、かたい片麻岩の地層がつづいていく。もうここは高ヒマラヤ地帯である。私たちはヒマラヤ山脈の断面をみながらあるいている。しばらくいき、今日は標高2010mのガサに宿泊する。

 1月19日、ガサは、なんともおもしろい村である。村の中間に立派な門があり、この門を境にして下ガサと上ガサとに村がはっきりと二分されている。この門よりも下流側、すなわち下ガサまではマガール族がくらす領域である。一方、この門から上流側はタカリー族がくらす領域である。下流からあるいてきた私たちにとって、この門はタカリー族の世界への入り口になっている。スニール=セラチャンさんがポカラでおしえてくれたとおり、民族は、実に見事にすみわけている。

>> 写真:ガサの門

 さて、私たちは今日も北上をつづける。高ヒマラヤの片麻岩の地層がつづいていく。そして昼前、峡谷をぬけカロパニをすぎた時、突然地形がひらけ、急に川幅がひろくなる。河川敷には上流からはこばれてきた土砂や礫が厚く堆積しており、川の流れはひろい河原の中をうねっている。「この地形の変化は、地質の変化をあらわしているにちがいない。このあたりには大きな断層があるのではないだろうか。」私はプラモッド君に話し、調査をしながらゆっくりとあるいていく。

 しばらくいくと石灰岩の露頭にぶつかる。やはり地質は変化した。その石灰岩は変成作用をうけて粗粒になり結晶質になっている。高ヒマラヤ地帯の片麻岩の分布はカロパニ付近までである。片麻岩と石灰岩との境界がこのあたりにあるはずであるが、それは発見できなかった。かえり道で再度くわしく調査することにして、先へとすすんでいく。午後4時ラルジュンにつく。今日はここに宿泊する。

 1月20日朝8時、ラルジュンを出発、左手にダウラギリ山群(主峰8167m)、右手にニルギリ山群(主峰7061m)をみながら幅広い河川敷をすすむ。ダウラギリとは「白い山」、ニルギリとは「青い山」の意味である。河床から山頂までみごとなまでに地層が露出しており、まさにヒマラヤ山脈の断面、その雄大な光景に圧倒される。

 ルートぞいには石灰岩の地層がつづき、一部には砂質の石灰岩も存在し、地層はゆるく大きく褶曲している。石灰岩とは、マレク地域でもみたように、炭酸カルシウムからなる生物の殻や骨格などが海底につもって形成された堆積岩である。したがってここは昔は海底であったのである。地質図によればこのあたりの地層は、テチス堆積物とよばれる。かつて存在したゴンドワナ大陸の北側には、テチス海という海洋がひろがっていて、テチス堆積物とはその海の海底に堆積した堆積物のことをいう。タンセン地域でみたゴンドワナ堆積物がゴンドワナ大陸の陸上のくぼ地に堆積した堆積物であるのに対し、このテチス堆積物は、ゴンドワナ大陸およびそこから分裂したインド亜大陸北縁の陸棚の浅海底におもに堆積した堆積物で、それは約6億年前〜5000万年前の期間に堆積したとかんがえられている。南半球にあったゴンドワナ大陸から分裂したインド亜大陸は、大陸移動によって、その前縁にテチス堆積物を堆積させながら北上をつづけ、約5000万年前に北半球のユーラシア大陸に衝突、その結果、大規模な造山運動がおこってヒマラヤ山脈が上昇した。この海底堆積物はそのときもちあげられ、ヒマラヤ山脈の頂上部とその北側斜面に分布するようになったのである。ヒマラヤ山脈形成までの悠久の自然史に私たちはおどろかされる。

 しばらくすすみ、昼前にトクチェにつく。トクチェとは「塩の交易地」を意味するチベット語に由来しており、ここはタカリー族の本拠地であり、かつて彼らは、チベットとインドとをむすぶ交易の中継業の一手をにぎって繁栄した。ここで午前中の食事をとる。食事は、ネパール式で1日2食のダルバートであり、評判どおりタカリー族のダルバートはとてもおいしい。そしてトクチェをでると風がつよくなってくる。すこしいくと、地層が大きくまがった褶曲構造をもつ石灰岩の崖がまたみえてくる。

 午後2時マルファにつく。白くぬられた家々がならび、町並みがとてもうつくしい。あたりを散策すると、このあたりには砂岩や頁岩の地層が分布し、すこし高まったところにはチベット仏教寺院がある。またここにきてはじめてヤクをみる。ヤクとはヒマラヤに生息するヒマラヤ牛のことで、長毛におおわれた大型の動物であり、そのオスをヤク、メスをナクとよんでいる。高地における荷物運搬のためになくてはならない動物で、それのみならず、農耕・毛皮・肉・乳と様々につかわれるという。ヤクの乳でチーズやバターもよくつくられている。今日の晩はヤクのほし肉をたべる。

 1月21日、マルファをたつ。ジョムソン行きの飛行機が谷の中をすべるように上空からおりてくる。11時ジョムソンにつく。標高2720m、ここには、ポカラから飛行機で直接やってくる旅行者が多く、たくさんのロッジがならんでいてツーリストの町といった感じである。このあたりにも硬質な石灰岩の地層が分布し大きな崖をつくっている。

 ここには、ムスタン・エコミュージアムという博物館がある。これは、私が所属するNGO・ヒマラヤ保全協会が現地の人々と協力してつくた博物館である。この博物館は、環境や文化といった地域特性を生かして地域の活性化にとりくむという観点から、カリガンダキ川上流域の民族・文化・自然環境をまもり、人々にそれ紹介するためにつくられた。現在は、アンナプルナ保全地域プロジェクトにより運営されている。

 中に入るとタカリー族の生活が紹介されている。このあたりのカリガンダキ川は地元ではタコーラとよばれており、コーラとは川の意味であり、彼らは昔からこのタコーラの流域にすんでいるのでタカリーとよばれるようになった。ふるくからチベットとネパール・インドの間を行き来し、交易をおこなってきた商人である。一方、ここジョムソンから北の上流域には、チベット系民族がくらしており、彼らは高地民である。チベットには独自の伝統医学がつたわっていて、ヤクの血は薬として服用されている。

 また、このあたりから産出するアンモナイトの化石も展示してある。この辺の中生代の泥岩層からはアンモナイトとよばれる化石が産出し、アンモナイトとはアンモン貝あるいは菊石ともよばれ、中生代(約2億5000万年前〜6500万年前)の海中に生息していた軟体動物の化石であり、殻の構造はオウムガイに似ている。この化石も、この地域がかつては海底であったということをしめしている。

 そのほかに、約100年前にこのあたりをおとずれた日本人僧侶・河口慧海(かわぐちえかい)のことも紹介してある。彼は、トクチェやマルファに滞在しチベット仏教をまなんだ。彼があらわした『チベット旅行記』は『チベットの3年間』として英訳され外国にも紹介されており、彼が滞在した家は今でもみることができる。ミュージアムの2階はチベット仏教の寺院になっている。

 1月22日、私たちはジョムソンをたつ。きのうの夕方からすごい強風がふきあれていていて、砂ぼこりがたちあがり、視界がさえぎられる。カリガンダキ川は黒くにごっている。これはつめたい南風で、地元の人たちは「インド風」とよんでおり、私たちはこの強風を背中にあびながらあるいていく。

 ここから先は、樹木がまったくない荒涼としたチベットの世界がひろがってくる。ここは乾燥地帯であり、雨季のモンスーンはヒマラヤ山脈をこえることはできず、ここには雨はふらない。ヒマラヤ山脈は壁となってモンスーンをさえぎっているのであり、私たちは、ヒマラヤ山脈の北側つまり裏側に入ってきたのである。

 しばらくいくとヤクとカッチャルがいる。ヤクは日陰でやすみ、カッチャルは日なたでやすむ。ヤクは寒い高所適応の動物である。このあたりも石灰岩の地層であり、所々に砂岩・頁岩がはさまれている。さらにあるいていくと、石灰岩層の巨大な崖に横だおしになったような巨大な押しかぶせ褶曲(横臥(おうが)褶曲)がみられる。このあたりの地層は、元々は海底でほぼ水平に堆積してできたものであるから、地質時代のながい時間にわたってしだいに地層がまがっていったということがよくわかる。かたい岩石も非常にながい時間にわたってはたらく力によって流動・変形するのである。

>> 写真:ヤク

 夕方、カクベニにつく。標高は2800m、ここはチベット系民族がくらす世界である。北へは、はるかかなたローマンタン王国へと道がつづいている。ここには大きな砂岩層の崖がある。

>> 写真:カリガンダキ川はヒマラヤの奥深くへとつづく

 1月23日朝8時、チベットのバター茶をのんでから、私たちは東へむかって出発、尾根をこえると目の前に巨大な谷がひろがってくる。それは神秘性のある独特な空間であり、その奥まった所に今回の目的地・ムクティナートがある。道ぞいには黒色の泥岩あるいは頁岩の地層が露出している。あるいていると小雪がちらついてくる。

>> 写真:奥のムクティナートへむかう

 途中のキンガール村で休憩しダルバートをたべる。ちかくにいた子供たちが、「きのう、犬の赤ちゃんがうまれたから、みにきて!」とさけぶので、私はよばれるままにそこにいってみると、その犬の母親が急におそってきた。「あぶない!」私はあわててにげる。あやうくかまれるところであった。かまれたら大変である。ネパールには狂犬病がごく普通にあるので、調査どころではなくなり、すぐに病院にいかなければならない。犬のそばでは慎重な行動が必要だ。「やれやれ」難をのがれて私たちはすすんでいく。

>> 写真:チベット系の子供たち

 午後1時半、ムクティナートの手前のラニポーアに到着しここに宿をとる。−2度C。私たちは宿に荷物をおいて、すこし上の標高3760m・ムクティナートまでいってみる。ここはヒンドゥー教とチベット仏教の、天にもっともちかい一大聖地であり、とおくカトマンドゥからあるいはインドからも巡礼の人たちがおとずれるという。ヒンドゥー教の寺院には108の蛇口があり、裏山からわきでる豊富な水がながれでている。本殿には、ムクティナラヤン(ヴィシュヌ神)がまつられており、特別に内部みせてもらうことができる。一方の仏教寺には、本尊の観音菩薩の真下で青白い炎がもえており、あたかも仏の胎内から炎がでているような効果になっている。これは、地下にある断層にそって天然ガスが噴出しているためである。

>> 写真:ヒンドゥー寺院

>> 写真:チベット仏教寺院の内部

 1月24日朝7時半、気温−5度C。外にでてみると、どこまでもすみきった青空にヒマールがそびえている。太陽光線が空中をはしりダウラギリ山群にぶつかっており、その山群の下部にはムクティナート山群の陰がくっきりとうつっている。私たちは上流にむかって今日もあるいていく。あたりには黒色頁岩の地層がひろがっている。標高約4500m、雪がつもっていてこれ以上はあるけない。

 

 ヒマラヤ山脈は崩壊している

 1月25日、私たちはカリガンダキ川をひきかえす。トゥクチェまでもどってきたので、ここで河口慧海が滞在した部屋をみることにする。その部屋がある家は約200年前につくられたタカリー族の人の家であり、2階が寺になっていて、河口慧海の写真もかざってある。オーナーのセラチャンさんが説明してくれる。「これは私たちの個人の寺で、約100年前、河口慧海はここに滞在してラマ(僧侶)と話をしたんです。」河口慧海がつかった机などものこされている。また、この家はアップル・ブランデーの工場ももっていて、このあたりはリンゴの栽培がさかんであり、日本の技術協力もおこなわれているそうである。リンゴは、日本の高級リンゴとくらべてもそん色はなくとてもおいしい。プラモッド君はおみやげ用にアップル・ブランデーを3本も買う。

>> 写真:2階の寺の内部

 その後、私たちはトゥクチェをあとにし、夕刻カロパニに到着する。高ヒマラヤの片麻岩とその北に分布するテチス堆積物との境界はこのあたりにあるはずである。

 1月26日、今日は、先日の19日に発見できなかったその境界をさがすことにする。帰路は検証の旅である。私たちがとまったカロパニのロッジのあたりには片麻岩が分布している。したがって、その境界はここよりも北にあるはずであり、私たちは、カリガンダキ川の右岸を北へむかってあるきはじめる。片麻岩がつづいていて、地層の走向は、北北西-南南東の方向、傾斜は40度東北東落ちである。しばらくいき、西北西方向からながれこんでくる川をわたって、斜面をのぼった所で石灰岩の地層があらわれる。それは砂質の石灰岩をもはさむ。そこは、ソクンという小さな村の下あたりであり、北東方向からながれてくるカリガンダキ川が、南方へと大きくながれをかえる屈曲点である。「境界はこの沢のあたりをはしっているにちがいない。」この川の上方の地層をみると、川の北側では南側に、川の南では北側に落ちており、地層の傾斜は川の両側でことなっている。私たちはつり橋をわたって、今度はカリガンダキ川の左岸をよくしらべる。やや南下した、コケタンティ付近までは石灰岩の地層である。その下流側では、河川の堆積物におおわれてしまっていて露頭は発見できないが、今度は片麻岩の巨大な礫がゴロゴロしてくる。「コケタンティのやや下側に境界があるにちがいない。」境界の露頭は発見できなかったが、その位置を推定することができた。

 この境界を境にして、高ヒマラヤの硬質な片麻岩の上位に、テチス堆積物の石灰岩の地層がかさなっている。カリガンダキ川のながれる方向は、高ヒマラヤのかたい片麻岩の地層にぶつかって、南西から南東方向へと大きく変化している。片麻岩の走向にそって川はながれをかえているのである。上流から運ばれてきた堆積物は、片麻岩の地層にぶつかって、その上に堆積し厚い堆積層をつくっており、片麻岩の地層は堆積物をせきとめる巨大なダムの役割をはたしている。この地点から上流側で、堆積物が多量に堆積し河川敷がひろくなっているのはそのためであり、ここでも地質は地形にあらわれている。テチス堆積物の地層は、はるか高く8000mのダウラギリまでつづいていて、ダウラギリ山群の主峰はテチス堆積物で構成されていることがみえる。

 ヒマラヤ山脈の最近の地質学的研究によると、この境界は正断層であるとかんがえられており、正断層とは、傾斜した地層面において、下側の地層の上で上側の地層が下方へすべりおちてできた断層であり、その境界の断層面はすべり面である。したがってここでは、高ヒマラヤの片麻岩の地層の上を、テチス堆積物の地層が北側下方にむかってすべりおちたということになる。この地点よりも上流でみてきたテチス堆積物の巨大な押しかぶせ褶曲も、そのようなすべり運動がおこったことを物語っている。高く上昇したヒマラヤ山脈の頂上付近は、それ自体の重み(自重)により北側へむかってすべりおちたというわけである。

 さらに、いま私たちがいる、このカリガンダキ川にそって南北にのびる大地溝帯も、ヒマラヤ山脈が高くなりすぎて、みずからの重みをささえきれなくなり、自重で崩壊をはじめ、地盤の大きな陥没がおこったため形成されたとかんがえられている。ヒマラヤ山脈にはこのような地溝帯がほかにもいくつか確認されている。

 このようにヒマラヤ山脈は、世界でもっとも高い山脈へと上昇をつづけながら、同時に、高くなりすぎたために自重でみずからをささえきれなくなり、その上部の地層がすべりおちたり、陥没が発生したりして崩壊をつづけているのである。ここで働いている基本的な力は重力であり、その作用の重要性を現場をみながら再認識する。私たちはこのような議論をしながらさらに南下をつづけていく。

 しばらくあるきガサまでもどってくる。いきにとおった大きな門をくぐりぬけるとまたマガール族の領域に入り、緑が急に目にみえて多くなり、菜の花もさいている。「うるおいがある世界だ。」マガール族は農耕民族である。マガール族の家の屋根は三角屋根であり、その屋根には、このあたりの片麻岩をうすくわった石板がつかわれいる。雨水を効率よく下へながすためであろう。チベット系民族やタカリー族の家はすべて平屋根であった。この屋根の形は、ここは乾燥地域ではなくモンスーンによる雨季があり、雨がたくさんふることをしめしている。

 午後6時ダンにつく。宿をとったロッジのオーナーと話をしていたら、彼らはタカリー族であった。「まわりはみんなマガールなんですが、街道ぞいで外国人旅行者相手にロッジを経営しているのは、ほとんどタカリーなんですよ。」とオーナーはいう。彼らは伝統的に商才にたけていて、街道沿いにおりてきて商売をやっている。そういえば、ほかの場所でもタカリー族の人が経営する店やロッジはよくみかけることがある。セラチャン・ゴーチャン・バッタチャン・トラチャンなど、彼らの名字には最後にチャンがつくのですぐにわかるのである。

 さて、私たち二人は、今回のカリガンダキ川上流の調査を通して、ヒマラヤ山脈の上昇と崩壊の現場をみることができた。地層が連続して露出しているので岩石や構造が手にとるようにみえ、まるで地質学の教科書をみているようであった。ヒマラヤは、このような自然の変動の歴史を研究する上で世界でもっともすぐれたフィールドであるといえる。

 

 


 

 (4.7) シーカ谷をあるく

 斜面崩壊がすすむ

 2001年1月27日、私とプラモッド=ネパール君の二人はダナを出発、途中タトパニを通過する。そのすぐ南側は、大小の岩塊がガラガラした斜面になっている。大規模な土砂崩れにより、土砂や礫などが大量に堆積してガレ場ができていているのである。タトパニの南側斜面には、千枚岩の地層の中に珪岩の厚い地層が分布しているので、岩質のちがう地層の境界面にそって斜面が崩壊したのだと推定される。

 その後、カリガンダキ川にわかれをつげ、今度は南東方向に、アンナプルナ山群の山麓であるシーカ谷に入っていく。このシーカ谷は、私が所属するヒマラヤ保全協会が技術協力を長年おこなっている地域であり、かねてから斜面崩壊や地滑りが問題になっているので、今回はこれを中心に地質調査をすすめることにする。

 ここに足をふみいれると、一見して、谷底をながれるガーラ川の北東側は急な斜面になっているが、反対側の南西側はゆるやかな斜面になっているということがわかる。シーカ谷は北西から南東方向にのびていて、この地域を構成する地層の走向は北西-南東であり、谷がのびる方向と地層がのびる方向とはほぼ一致しており、地層の傾斜は30〜40度北東おちである。川の北東側斜面は、地層の傾斜面に対して垂直かそれにちかい傾斜をもつ一方、川の南西側の斜面は地層の傾斜面とおなじかそれにちかい傾斜をもつ。この地域をつくっている地層の傾斜が、そのまま地形になってあらわれていて、独特な景観がつくりだされているのである。ここでも、地質が地形に反映しているみごとな実例をみることができる。

 この谷に入ってから約1時間、ビラウタ村の手前には珪岩の岩場があり、地形的な高まり(でっぱり)になっており、そこは絶好の見晴台となっていてロッジが1軒たっている。この地域の地層は低ヒマラヤの地層であり、それは千枚岩を主体としその上位に珪岩がかさなっている。私たちはさらにすすみ、ガーラ村をへてシーカ村へ到着、今日はここにとまることにする。

>> 写真:シーカ谷

 シーカ村の手前には巨大な斜面崩壊地が存在する。翌28日、この崩壊地をしらべると、この崩壊地は南西から北東方向に発達しており、これは地層面の傾斜の方向と一致している。山の上方からは沢がながれていて水が供給されている。ここの岩石はおもに千枚岩であり、珪岩の岩体の転石があちこちに存在する。千枚岩は青灰色を呈し、劈開(へきかい)とよばれる間隔のこまかな平行面群にそってさけやすい性質がよく発達し、リョクデイ石などの変質鉱物が多数生じて、いちじるしく変質し軟質である。それとは対照的に珪岩は、白色を呈し塊状で緻密、非常に硬質である。崩壊地の最上部とさらにその上の山腹斜面には、千枚岩層の上に硬質な珪岩の地層が分布している。したがって、この崩壊では、軟質な千枚岩の地層の上を、硬質な珪岩の地層がすべりおちたということがよくわかる。

>> 写真:岩盤がすべりおちてきている

 対岸のガーラ川の北東側斜面は比較的急な斜面〜崖になっているので、一見するとこの急な斜面が非常によわく、斜面崩壊や地滑りがおこりやすいのではないかと誤解されやすい。しかし実際には、山腹斜面と地層面の傾斜とが一致す、このガーラ川の南西側のいま私たちがいるゆるやかな斜面の方が斜面崩壊や地滑りがおこりやすいのである。シーカ村からとおく北西方向の山腹を遠望すると、北東方向に傾斜した地層が何枚もかさなっている様子が地形にはっきりとあらわれている。比較的厚い地層が下にすべったような地形をしめす部分もあり、その地層の境界部には木がうえられている。地滑り防止のために意識的に植林したのかもしれない。

 同日の午後、私たちはシーカ村をあとにしてファラテへむかう。途中、別の崩壊地を発見する。ここでも沢ぞいに崩壊が発生しているので、その直接の誘発原因は水の作用であろう。ここでも、シーカ同様、千枚岩の上を珪岩の岩体がずりおちてきている。この上の方の山腹へいってみると、沢の周囲に河岸段丘が形成されている。地質時代を通して、堆積と浸食、地殻の隆起がくりかえされていることがここでもわかる。

 そしてさらにすすみファラテ村のすぐ手前までくると、このあたりで最大の崩壊地がみえてくる。これはあした調査することにし、今日はチトレまで概査をおこなう。チトレでとまったロッジ「ダウラギリ」のオーナーのプンさんは、小さいときからヒマラヤ保全協会の会長である川喜田二郎教授のことをよくしっているとのことである。「私がとても小さいときから、ジロー・カワキタのチームは何度もこの辺にやってきて、学校をたすけてくれたり、ロープラインや簡易水道をつくったり、いろいろ協力をしてくれました。」と話してくれる。彼女はマガール族の女性であり、このあたりはマガール族の領域である。

 1月29日、ファラテの大きな崩壊地をみる。ここにも、地層は灰緑色をしていて、いちじるしく変質した千枚岩がひろく分布している。崩壊地の内部には、上方からすべってきて途中でとまっている千枚岩や珪岩の岩体も存在する。千枚岩の中には、メタベイサイト(変成塩基性岩)とよばれる火成岩を起源とする変成岩をはさんでいるものもある。ここでも地形は地質構造を反映して、ゆるやかな斜面と急な崖が形成されている。ここは現在、崩壊堆積物で一面がおおわれ、その上に木がかなりはえてきている。崩壊地の上の沢には、砂防ダムが数ヶ所にわたって設置されていて、斜面崩壊は今はとまっているようである。

 ひととおりの調査をおえて、私たちはさらに東へむかってすすむと、ルート付近の地層もおもに千枚岩からなり、所々に珪岩が存在する。夕方、峠の村・ゴレパニにつく。

 翌1月30日、早朝5時におき暗い中プーンヒルにむかう。標高3193mの山頂・プーンヒルにつくと、ダウラギリ山群〜アンナプルナ山群〜マナスル山群の一大パノラマと朝焼け、そして日の出に遭遇する。ヒマールと太陽、この自然界の空間と時間がおりなす偉大なシンクロナイズは大変神秘的ですばらしい。ここからは、今まであるいてきたシーカ谷も一望することができる。しばらくのあいだこの眺望をたのしんで、私たちは、地質をみながら山をおりていく。そしてその後、ティケドゥンガに1泊、ナヤプールをへて、今回の調査の出発点であったポカラへ無事たどりつく。プラモッド君も満足した様子で「今回の調査で、ヒマラヤ山脈について理解がとてもふかまりました。調査のためにまたきます。」と話している。

>> 写真:夜明け

 

 マクロとミクロの視点から

 さてこのように、シーカ谷では、谷がのびる方向と地層がのびる方向とが一致しており、千枚岩の地層の上位に珪岩の地層がかさなっている。地層の傾斜は30〜40度北東おちで、地質構造が地形にあらわれていて、ガーラ川の北側は急な斜面に、南側はゆるい斜面になっている。今回観察した崩壊はすべて、地質構造を反映してガーラ川の南側のゆるい山腹斜面において、軟質な千枚岩層の上を硬質な珪岩層がすべりおちるという、同一のパターンにより発生している。千枚岩層とその上位の珪岩層との境界面がすべり面であり、そこがすべるのである。

 千枚岩は変成岩の一種であり、うすい紙を無数につみかさねた様な構造をもち、この構造のために日本名では「千枚」岩とよばれる。当然、このうすい紙をつみかせねたものは、うすくはがれやすく、それにいちじるしい変質作用もくわわって、いっそうよわい岩石となっている。劈開がおこる面と地層の傾斜面とは平行であり、それはこの地域の地質のもっともよわい面になっている。それに対して、珪岩とはケイ素を主成分とする変成岩で、鉱物としては石英を主とする。この岩石は、海底にたまった砂が続成作用(岩石化作用)・変成作用をうけて形成されたもので、塊状・緻密・非常に硬質であり、千枚岩とは対照的である。

 したがって、軟質な千枚岩の上にのる硬質な珪岩は、何らかの原因、たとえば地層の境界面に水が入りこむことにより、滑り台を滑りおちるように簡単に滑りおちてしまうのである。これと同様なパターンは、私が以前調査したタプレジュン地域にも存在した。今、この地域には珪岩が山腹にのこっている場所と、すでに谷底に滑りおちてしまい存在しない場所とがあり、珪岩が今のこっている山腹で次の斜面崩壊・地滑りが発生する可能性が高いということになる。

 このように、斜面崩壊や地滑りは本源的には地質を反映したものであり、地層・岩石の運動であるが、これらはこの地域ではすべて沢ぞいに発達しており、その発生にとって水の役割は非常に大きく、直接の誘発原因は水の作用であるとかんがえられる。そして、このあたりの森林減少は近年急速にすすんでいるので、人間の活動による斜面開発・森林破壊が斜面崩壊や地滑りをおこしやすくしている可能性が非常に大きい。この人為的引き金があって、大規模な崩壊や地滑りがおこりやすくなっているのではないだろうか。小規模ですむはずだった災害も今日ではより大規模になってしまう。さらに、河川を通じて下流流域にも大きな影響をあたえる。このようなことが現在進行している。

 カリガンダキ川でみてきたように、ヒマラヤ山脈は、高くなりすぎて長大なスケールにおいても崩壊をつづけているが、その一方で、ここシーカ谷のようにやや小さいスケールでも崩壊をつづけているのである。長大な地質時代においては、浸食作用や斜面崩壊・地滑りはごく普通におこっているといってよい。この長大な時間スケールと現在の人為的環境破壊の効果とを総合して、あるいは、地殻変動によって形成されたヒマラヤ山脈の広大な山岳地質と、本地域のようなローカルな地域地質とむすびつけて考察をすすめなければならない。シーカ谷などの環境破壊が下流域までもふくめたひろい地域にあたえている影響についてもよく調査をする必要がある。今後、マクロなスケールとミクロなスケールとの2つの視点をもって総合的に調査し、対策を立案していくことが必要である。今回の概査をふまえ、この地域で再度調査をおこなう予定にしている。

 

 


 

 (5)トリブバン大学地質学科内で活動をすすめる

 ところで、私は、2000年11月から、カトマンドゥのトリブバン大学地質学科内において「岩石学実習」という室内実習も担当している。トリブバン大学では、11月から新学期の講義・実習がはじまっており、私は、サン=タマン=ライ先生とアナンタ=プラサッド=ガジュラル先生と一緒に、学士課程の2年次学生に対して岩石種の決定の仕方などについてこの実習を通して指導をしている。トリブバン大学地質学科では、学士課程3年間のコースにおいて地質学の基本から応用までを教育しており、科目としては、一般地質学・層序学・構造地質学・鉱物学・岩石学・古生物学・地史学・応用地質学・環境地質学・ネパールの地質などが開講されていて、それぞれについて講義とともに室内実習もおこなっている。この中で岩石学は、層序学・構造地質学・古生物学などとならんで地質学のもっとも基本的な分野の一つになっている。

 トリブバン大学の理学学士課程の制度は日本の大学とはちがい、入学時には、開設されている理科系学科の中から3つの学科を選択するすることになっていて、たとえば、物理学・化学・地質学とか、数学・物理学・地質学、動物学・植物学・地質学などを選択する。そして、3年次に進級するときに、その3つの学科の中から1つの学科を選択する。したがって、2年次の学生の全員が3年次で地質学科を選択するわけではなく、他の学科へ進級する者もいる。地質学を将来専門にしない学生もいるので、実習の内容はあまり専門的になりすぎないようにし、岩石の同定と記載の指導をおこないながら、岩石学の基本的な方法やかんが方、あるいは岩石学を通して地質学の方法やその役割についておしえるようにする。

 2年次学生の人数は非常に多いので、この実習では学生を3つのグループにわけて、週3回2時間ずつおなじ内容の実習をおこなう。初日は、イントロダクションとして岩石の3大分類法を解説する。地球上にでてくる岩石には火成岩・堆積岩・変成岩の3種類があり、火成岩とはマグマがかたまってできた岩石であり、堆積岩とは土砂や礫などの堆積物がかたくなってできた岩石、変成岩とは既存の岩石が地下のふかいところで大部分固体の状態で変化をうけてできた岩石のことをいう。

 このような説明をしたのち、岩石の標本を実際に観察させる。最初は、火成岩の標本をみせる。学生には標本を手にとってます観察させ、それぞれの岩石の特徴やちがいについてかんがえさせる。そして色・粒度・組織をノートに記載させ、質問をうけつける。標本には、玄武岩・安山岩・流紋岩の火山岩、ハンレイ岩・センリョク岩・カコウ岩の深成岩がある。火山岩も深成岩もともにマグマがかたまってできた岩石であるが、マグマが地表に噴出して急冷された場合、結晶は大きくは成長できず、細粒の鉱物とガラスのまじったものとなる。このような細粒の岩石を火山岩という。マグマが地表に噴出しないでひえていくと、ゆっくりと大きく成長した鉱物粒の集合となってかたまる。このような粗粒の岩石を深成岩という。

 その後、堆積岩、変成岩と標本観察の実習は順次すすんでいく。堆積岩では、主として陸上起源の粒子の集合体である泥岩・砂岩・礫岩、それにくわえて生物の遺骸が海底に集積してできた石灰岩などをみていく。変成岩では、千枚岩・片岩・片麻岩・大理石(結晶質石灰岩)を観察する。これらの岩石はどれもヒマラヤ山脈でごく普通にみられる岩石であり、野外調査をする上で重要な岩石である。

 2月に入ると、岩石学用顕微鏡をつかて岩石を観察する実習がはじまる。岩石学用顕微鏡とは、一定方向にだけ震動する光波(偏光)によって岩石の薄片を観察できる装置をそなえた偏光顕微鏡であり、これにより岩石の組織や岩石をつくっている鉱物が細部にいたるまで観察できる。岩石の薄片とは、顕微鏡観察のために、岩石をライドガラスにはりつけて厚さ0.02〜0.03mmくらいまでうすくけずったものであり、このくらいうすくすると、岩石または鉱物は光を通すようになる。

 顕微鏡観察も、火成岩、堆積岩、変成岩の順ですすめる。私たちは偏光顕微鏡のつかいかたをおしえながら、鉱物と組織について説明していく。岩石とは鉱物の集合体であり、肉眼でみた岩石が実際にはどのような鉱物で構成され、それらがどのようにあつまってその岩石特有の組織をつくっているかを記載させる。学生たちは、石英・長石・カンラン石・カクセン石・輝石・ザクロ石・雲母・粘土鉱物・ランショウ石・ケイセン石などの鉱物を順次おぼえていき、同時に、地球をつくる物質についての基本的な理解をすすめていく。顕微鏡観察をしたのち、岩石標本を肉眼で再度観察すると、おどろくほどその岩石がよくみえるようになり、岩石の同定ができるようになる。地質学では、知識だけをもっていても意味がなく、実物をみて同定ができるようにならなくてはならない。実習は3月下旬までつづく。

 さて、このような実習をすすめるかたわら、地質学科長のB.N.ウプレティ教授からは地質学科の整備・拡充について次のような相談がある。「地質学科には図書室がないので、是非つくりたいとおもっているんです。図書室がないために学生の教育と教官の研究に支障がでています。図書室用の部屋はすでにつくったので、そこに、コピー機やコンピューター・本棚・机・いすなどをおいて、各教官が個人的にもっている教科書やジャーナルのコピーをそれぞれ2部づつつくり、その一部は保管し、もう一部は学生・教官が自由に閲覧できるようにします。必要な資料はコピーして、講義や実習においていつでも学生にくばれるようにし、また、コンピュータでデータベースを構築して、文献の検索ができるようになればよいとおもっています。もし、このような図書室ができれば、外国の研究者も研究のために利用できるとおもいます。国際協力事業団としてこのようなことに協力していただくことは可能でしょうか。」ネパールの学生は一般的にいって教科書をもっていない場合が多く、また、教官が専門分野のジャーナルをみることができる機会も多くない。私としてもこれはよいアイディアだとおもい、私たちは、コピー機・コンピュータ・机・本棚・ファイリングケース・マップケースの価格の見積もりをショップまでとりにいく。

 青年海外協力隊には「現地支援費」という隊員活動を支援するための経費があり、必要に応じて、隊員の活動に直接必要な経費あるいは活動に必要な機材を購入する費用を、現地の事務所に申請できる制度が用意されている。これには現地業務費や携行機材費などの分類があり、配属先に対し自助努力を促しつつ交渉し、たりない分を事務所に申請するということになっている。私は、図書室建設のために、この現地支援費をつかうことができるかどうか、国際協力事業団ネパール事務所に見積書をもっていき相談する。

 その回答は「無理である」であった。現地支援費とは隊員の活動を支援するものであり、今回の図書室の計画はそれにはあたらないとのことである。それがないからといって、私の活動に支障がでるわけではないからである。また、今回の図書室で必要な機材はすべてごく一般的な事務機器であり、専門的な機器ではく、技術協力を必要とはしない。もし、隊員活動をすすめる上で、地質学の特別な機材が必要であるというのであれば話はちがってくるとのことである。青年海外協力隊や国際協力事業団は技術協力のためにきているのであって、予算をあたえるためにきているのではない。あくまでも技術協力できているという基本的なかんがえ方について、ネパール側にもよくわかってもらわなければならない。

 しかし、このような計画については、在ネパール日本大使館の「文化無償援助」がよいだろうとのアドバイスをうけることができる。また、具体的な計画を出す前に、トリブバン大学地質学科としてのこれからの構想をはっきりとうちだすことが必要であることも指摘された。私は、ウプレティ教授にこのことを話し、今度は日本大使館にあたってみることにする。

 

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