南方熊楠 エコロジーの先駆者

- 生誕150周年記念企画展「南方熊楠 —100年早かった智の人—」(レポート) -

 解説
 2017年12月19日、生誕 150 年記念企画展「南方熊楠 -100年早かった智の人-」が国立科学博物館ではじまりました。2017年12月24日から2018年1月5日にかけて、ブログ「発想法 -情報処理と問題解決-」に見学記をアップしました。本サイトは、これらの記事を編集して作成したものです。

会場:国立科学博物館 日本館1階 企画展示室
会期:2017年12月19日~2018年3月4日
サイト:南方熊楠生誕150周年記念企画展「南方熊楠 -100年早かった智の人-」

国立科学博物館 アクセス・利用案内

目 次

  1. 総合的方法を実践する
  2. データベースのうえにたって探究をすすめる
  3. フィールドワークを実践する
  4. ファイルをつくる
  5. エコロジー運動をすすめる
  6. ファイルを構造化する
  7. 南方熊楠の情報処理
  8. フィールドワークからフィールドサイエンスへ
  9. まとめ:問題解決を実践する

ポイント

★ 本サイトに掲載したステレオ写真はいずれも平行法で立体視ができます。立体視のやりかたはこちらのサイトをご覧ください。

1. 総合的方法を実践する

写真00
会場入口
(平行法で立体視ができます。立体視のやりかたはこちらです。)

 生誕 150 年記念企画展「南方熊楠 -100年早かった智の人-」が国立科学博物館ではじまりました。南方熊楠(1867-1941)は博物学者であり、菌類の研究でとくに知られていました。展示の概要はつぎのとおりです。

  • 「熊楠の智の生涯」:熊楠は、おさないころから天才的な記憶力を発揮していました。
  • 「一切智を求めて」:和歌山県の那智や田辺でフィールドワークをおこないました。
  • 「智の広がり」:“隠花植物”(コケやシダ、菌類など花の咲かない植物を総じてさしてもちいられた昔の言葉)を収集し、研究しました。
  • 「智の集積」:「菌類図譜」を作成しました。
  • 「智の展開」:神社合祀反対運動を通じた自然保護運動をおこないました。
  • 「智の構造を探る」:多様で膨大な情報をまとめていく思考力をもっていました。

 熊楠は、人並みではない驚異的な記憶力をつかって博物学にとりくみました。またフィールドワークをおこなって菌類などの研究をすすめました。さらに自然の体系を重視して自然保護運動もおこないました。今日の用語でいえば、エコロジーに日本で最初にとりくんだ学者だったといってよいでしょう。生態系(エコシステム)という概念があるので、今日のわたしたちにとっては熊楠の仕事は理解しやすいです。

 しかし熊楠がいきた時代は、博物学が自然科学に発展していく時代でした。自然を記載し分類していた博物学の時代がおわり、それぞれの学者がそれぞれに専門分野をもち、徹底的に対象をしぼりこんでこまかくくわしくしらべていく研究スタイルにかわりました。これは分析的方法であり、こうして物理学・化学・動物学・植物学・地質学などの分科がすすみ、その分科もさらにこまかく枝分かれしていきました。

 このような時代的背景のなかで熊楠の仕事が理解されるはずがありません。かなりの変人とみられました。

 自然科学の分析的方法に対して、熊楠あるいはエコロジーは総合的方法をもちいます。データ収集の方法としてフィールドワークをおこない、自然の体系を重視します。そしてえられた知見をふまえて自然環境保全活動をおこないます。ここには、分析的で “タコツボ” 化しすぎた科学への反動と反省があります。今日では、生態系にとどまらず地球を体系(システム)的に理解しようという動きが本格化しています。地球科学科や地球システム学科・環境科学科などが大学に創設されるようになったのはこのことのあらわれです。時代はかわってきました。

 したがって今日、熊楠の業績と方法をとらえなおすことにはとても大きな意義があります。

 ただし注意しなければならない点もあります。それは、熊楠が異常に強力な記憶力の持ち主だったということです。熊楠は、「難しい書物を、知人宅で読んで暗記し、家に帰ってそれを書き写すことを繰り返していました」。百科事典のような知識(データベース)をふまえて、フィールドワークをおこない、自然の体系を理解し、環境保全をおこなっていたのです。

 このような事実を知ると、記憶力がつよくないと総合的方法は実践できないのではないかということになります。そこで登場したのが、コンピューターとインターネットです。今日のわたしたちには、熊楠のような異常な記憶力は必要としません。情報技術を道具としてつかっていけばよいのです。

 技術革新・高度情報化のおかげで総合的方法が十分に実践できる時代になりました。ようやく今日、時代が熊楠においついたといってもよいでしょう。熊楠はまさに「100年 早かった」のです。

(2017年12月24日)

2. データベースのうえにたって探究をすすめる

 熊楠は、1867(慶応3)年、和歌山の商家にうまれました。おさないころから、さまざまな和漢の百科事典や本草書などの筆写に精をだしました。中学に進学してからは博物学をまなびました。

写真01
『本草綱目』(上)、本草綱目抜書(下)

『本草綱目』は、16世紀末に中国で刊行された本草書であり、薬物(動植物や鉱物など)を体系的にまとめて紹介した解説書です。熊楠は、興味のある事項を『本草綱目』から筆写しました。この筆写ノートづくりは、のちの「ロンドン抜書」や「田辺抜書」などに発展します。

 中学卒業後の1884年、熊楠(17歳)は、東京帝国大学予備門に進学しますが、ドロップアウト、郷里にかえります。

 その後1886年、「商売の勉強のため」と父親を説得し、アメリカにわたります。当初は、サンフランシスコのビジネススクールに入学しますが退学、ランシングのミシガン州立農学校に入学します。しかしここも退学し、学園都市アナーバーにうつり、学校にはかよわずに標本採集などをおこないます。

写真02
アメリカ時代に書かれた植物のメモ帳
写真03
熊楠採集菌類標本帳

熊楠自身が採集したり、人からもらったりした標本をはりつけて整理したものです。

 1892年、熊楠(25歳)は、英国ロンドンにわたります。大英博物館図書室などで書籍をよみあさります。書籍からノートに抜き書きした「ロンドン抜書」は 52 冊、1万ページ以上になりました。また雑誌『ネイチャー』などに論文を発表しました。

写真04
ロンドン抜書

大英博物館、ロンドン自然史博物館、ヴィクトリア&アルバート博物館などが所蔵するさまざまな本から抜き書きをしたノート。

 しかし1892年に父が死去、1899年からは仕送りがとまったこともあり、1900年に帰国します。

 帰国後しばらくして、紀伊半島南部の那智にすんで採集にあけくれます。論文も執筆・投稿しましたがつぎつぎに不採択となりました。

 1904年、紀伊田辺にうつります。隠花植物の採集をし、とくにキノコの標本をたくさんあつめました。『変形菌目録』(1908年)を出版、時の摂政宮(後の昭和天皇)に円形菌類の標本を献上しました。1929(昭和4)年には昭和天皇に御進講をしました。

写真05
変形菌類の進献標本

1926年、熊楠が選定した90点の標本を昭和天皇(当時は摂政宮)に献上しました。

 また神社合祀に反対し、鎮守の森をまもる運動もおこないました。1935(昭和10)年には、神島が、文部省より天然記念物に指定されました。

 1941(昭和16)年12月29日、永眠、74歳でした。デスマスクがつくられ、また本人の希望によって大阪大学医学部に脳が保存されました。その後、MRI(磁気共鳴診断装置)の検査によって右側頭葉の海馬に萎縮があることがわかり、「側頭葉てんかん」の患者であったと推測されました。海馬は、学習や記憶とかかわりがふかい場所です。実際、はげしい頭痛やてんかんの発作になやまされていたという記録があり、心身の異常もあったのではないかとかんがえられています。

 熊楠は、本一冊をおもいおこしてまるごと書きだすことができました。尋常ではない驚異的な記憶力をうまれつきもっていたようです。しかし一方で数学は不得意であり、東京帝国大学予備門も代数で落第、ドロップアウトしました。熊楠は奇人変人とみなされましたが、あたらしい時代をきりひらく天才はみな奇人変人であることを理解しなければなりません。古今東西をとわず天才とは普通の人ではありません。

 熊楠は、博覧強記であるとともに異常な語学力ももっていました。19ヵ国語もの言語をつかいこなすことができました。

 こうして熊楠は、当時の普通の人々がもちえない巨大な “データベース” を構築したといってよいでしょう。このデータベースのうえにたって菌類の研究もすすめることができました。

 今日では、コンピューターとインターネットをつかったデータベースがあります。データベースを利用して探究をすすめることができます。熊楠の方法は、データベースのうえにたって探究をすすめる最初の事例として参考にすることができます。

(2017年12月29日)

3. フィールドワークを実践する

写真06
野冊

採集した植物を押し葉標本に現地でするための道具です。

写真07
微細藻類プレパラート入れ

水田・池・川などに生息する藻類を多数あつめてプレパラート標本をつくりました。

写真08
携帯顕微鏡

 日本へもどった熊楠は、フィールドワークに没頭していくことになります。膨大な書籍をよみあさったことは、フィールドワークのためにあったといってもよいでしょう。帰国直後には、「変形菌 10、キノコ 450、地衣類 250、藻類 200、車軸藻類 5、苔類 50、蘚類 100」という採集目標をたてましたが、たった9ヵ月でこの目標をこえてしまいました。

 フィールドワークは植物採集にとどまらず、説話や民俗などの調査にもおよび、非常に広範囲な知識を収集、知の財産を蓄積していきました。

 フィールドワークとは現地調査あるいは現場観察といってもよく、大げさなことをかんがえなくても、旅行をするということでよいでしょう。書籍などをよんだら、現地・現場に行って実際に見ることがとても大事です。

 ただし情報処理の観点からは、現地でメモをとったり、帰宅後に旅行記を書いたりすることがもとめられます。また行き先とともに、見るべきおもな分野をきめる、課題をしぼりこんでおくことも大事です。

(2017年12月30日)

4. ファイルをつくる

 熊楠は、「隠花植物」にとくに興味をもちました。隠花植物とは、花のさかない植物のことであり、現在はつかわない用語です。今日的には、藻類・地衣類・菌類などをさします。

大型藻類
熊楠は、海藻ばかりでなく、淡水産の藻類も収集・記載しました。肉眼で確認できる大型藻類は緑藻・紅藻・褐藻におもに分類されます。現在では、世界に約1万 1000 種、日本では約 1600 種が知られ、藻類は、さまざまな系統のよせあつめであることがわかっています。

微細藻類
微細藻類は顕微鏡サイズの藻類の総称です。熊楠は、シアノバクテリア(藍藻類)・車軸藻類・緑藻類・紅藻類・珪藻類・渦鞭毛藻類など、ほとんどのグループについて収集し、『ネイチャー』誌に1903年に論文を発表しました。

地衣類
地衣類は、藻類と共生してなりたっている菌類の総称です。熊楠は、在米時代に地衣類の新種を発見しました。日本でも、700 点以上の地衣類標本を収集しましたが、大部分は未同定です。

変形菌類
変形菌類は、アメーバ状の変形体ときのこ状の子実体のあいだをいききする奇妙なライフサイクルをもっており、熊楠の時代には、動物と植物の中間的な原始生物とかんがえられていましたが、現在では、アメーボゾアという生物群であることがわかっています。熊楠は、収集とともに、日本産のリストをまとめて発表しました。

菌類
菌類は、カビ・キノコ・酵母のことです。熊楠は、大型のキノコから微細な菌類までを収集し、「菌類図譜」にまとめました。

写真09
熊楠が採集した菌類標本

 熊楠は、多数の菌類をあつめ、描写・記載し、数千枚におよぶ「菌類図譜」を作成しました。あらたに発見されたものが「菌類図譜・第二集」として今回の企画展ではじめて公開されました。

写真10
「菌類図譜」の例
左:Boletus rimoso-scabrosus Minamata (F.17869)
右:Phaeoporus captious Minamata et Tanoue (F.4208)

 菌類図譜とは、水彩画で実物大に菌類を描写するとともに、スライスするなどして実物をはりつけ、余白には、採集地・採集年月日・採集者・形態・色・匂いなどの情報を記載したものです。1枚1項目主義のカード形式になっているのが特徴であり、国立科学博物館は、菌類図譜をすべてスキャンしてデータベースとして公開しています。

 このように熊楠はただの博覧強記だったのではなく、フィールドワークをおこなって専門的な研究にもとりくみました。

 そしてフィールドワークの結果をカード形式でまとめていきました。カードをつかう方法は、梅棹忠夫の「知的財産の技術」や川喜田二郎の「KJ法」に代表されるように、1970年代〜80年代に大流行して一般的につかわれるようになりました。熊楠はカード法の先駆者でもあったのです。

 カード法では、情報のひとまとまりを1枚のカードに記載します。1枚1項目に情報を単位化するといってもよいです。見出し(タイトル、要約、名称など)や場所・年月日なども記入します。このような情報のひとまとまりは情報用語でいうと「ファイル」ということです。カードとはファイルのことです。

 そして今日では、紙のカードはつかわなくなり、コンピューターとインターネットをつかってファイルをつくり、ファイルしていく様式にかわりました。様式はかわりましたが、カードのかんがえ方はいまでもいきています。外見・形態にとらわれるのではなく、その本質を理解することが大事です。

 現在は、ブログという便利なツールがあります。ブログの1本の記事はひとつのファイルであり、昔でいう1枚のカードに相当します。人間主体の情報処理の観点からみると、ブログは、ファイルづくりとアウトプット訓練が同時にできて有用です。そしてブログをつづけていけば、他者も利用できる自分のデータベースが構築されていきます。カテゴリやタグ、キーワード検索の機能もついているので、ファイルの活用も容易です。

 わたしたちも熊楠のまねをして、フィールドワーク(旅行)などにいったら、その結果をブログにアップするようにしたいものです。技術が進歩して、このようなことが当時よりもはるかにやりやすくなりました。

(2017年12月31日)

5. エコロジー運動をすすめる

 熊楠の博覧強記とフィールドワークは、やがてエコロジーへと結実していきます。

 明治政府は1906年、神社合祀に関する2つの勅令を発布します。このままでは、貴重な生物をはぐくんだ鎮守の森がきえてしまう。熊楠は、各界の有識者に支援をもとめ、反対運動をすすめていきます。

 雑誌『日本及び日本人』においてつぎのようなかんがえをしめしました。

  1. 神社合祀で敬神の思想が高まったというのは事実ではない。
  2. 合祀は村民の融和を妨げる。
  3. 合祀は地方衰退の原因である。
  4. 合祀は村民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する。
  5. 合祀は郷土愛、愛国心を損ねる。
  6. 合祀は土地の治安と利益に大きな害になる。
  7. 合祀によって、史跡・古伝が滅却されてしまう。
  8. 合祀は、天然風景や天然記念物を滅亡させてしまう。
写真11
『日本及び日本人』

 なかでも生物の絶滅については、「植物の全滅は狭い範囲から一斉に起こり、どんなに後でも回復しないことを自分は見てきたのだ」と現場での経験をしめしています。

 明治政府による神社合祀は、町村合併にともなって複数の神社を一町村で一つに統合し、廃止された神社の土地を民間にはらいさげるというものでした。実は、はらいさげられた土地の森林資源を売却し、日露戦争(1904〜1905年)の戦費の借金を返納するという経済的な目的がありました。

 1911年8月、熊楠は、民俗学者の柳田國男に2通の手紙をたくし、東京帝国大学教授の松村任三への仲介を依頼、環境をまもることの大切さをうったえました。柳田は、松村の許可をえてこの2通を 50 部印刷し、「南方二書」として各界の有識者に配布、熊楠の反対運動を支援しました。

 田辺湾にうかぶ神島(かしま)はちいさな島ですが照葉樹の原生林が保存されており、樹木分布図をここで熊楠はつくりました。そしてこの自然をのこす運動をおこし、その結果、1935年に、国の天然記念物に指定されました。

神島の位置

 熊楠は、博物学的な豊富な知識と緻密なフィールドワークによってえられた知見を、日本で最初の環境保全活動に発展させました。熊楠はエコロジーの先駆者でした。

(2018年1月1日)

6. ファイルを構造化する

 展示会場の第6コーナー「知の構造を探る」では「熊楠の情報処理」を解説しています。いよいよ、情報処理がきたかといった感じです。

 書籍をよんで、フィールドワーク(旅行)をして、ブログ記事(ファイル:情報のひとまとまり)を作成して、そのあとはどうすればよいのか? そのあとは、ファイルの構造化(ネットワーク化)です。

 まず、課題に関連する記事をブログからピックアップします。ブログには、カテゴリやタグ、キーワード検索の機能があるのでピックアップが容易にできます。そして記事のタイトルをポストイット(付箋)に記入します。それらを、ノートや用紙のうえに空間配置します。チームワークでおこなうときには模造紙やホワイトボード上に配置します。もっともすわりのよいポストイットの配置をみつけて、それぞれのあいだに関係線を記入すれば構造化ができます。

 こうして、読書、フィールドワーク(旅行)、ファイル、構造化という一連の流れができあがります。

 あとは、構造にもとづいて文章化なりプレゼンテーション(口頭発表)をおこないます。

 熊楠は、キーワードの構造化(ネットワーク化)おこない、図解をのこしています。構造化することにより、ファイルをつくっていたときよりも情報処理は高次元化します。

写真12
図1 熊楠の構造図(ネットワーク図)

 図1の右図は熊楠がつくった図解です(ただし赤色の数字と線は、わかりやすくするために今回の企画展の主催者が記入したものです)。用紙のうえにキーワードを空間配置しています。キーワードどうしを線でむすんだり、グループ化するなどして、連続した話題と、“島” のように独立した話題とがあらわされています。図1の左図は、熊楠の図をさらにわかりやすくするために今回の企画展の主催者が作成した図解です。

 今日では、ポストイットがあるので、図1の左図のような図解(構造図)が誰でもつくれます。

 このような図解では、ポストイット1枚は点的な情報「点情報」になります。ファイル(ブログの1記事)は構造のなかでは点情報として機能します。この点情報がしっかりしていれば構造やネットワークもいいものができます。しかし点情報のできがそもそもわるかったら、いくら構造をつくってもうまくいきません。ファイルをつくる日々の努力が大切です。

図2
図2 点情報と構造のモデル

 点情報と構造をモデル的にあらわすと図2のようになります。点情報は白丸でしめされ、それぞれの点情報は関係線でむすばれています。この構造は自律分散システムになっていて、今日のインターネットがまさにこのようなシステムになっています。インターネットは情報の超巨大構造です。

 今日、情報化社会になり、情報処理の観点から熊楠の仕事をとらえなおすことができるようになりました。これが、今回の企画展の最大の特色といってもよいでしょう。熊楠がもし今日いきていたら、ブログやインターネットの大きな有用性にすぐに気がつき、これらを縦横無尽につかいこなしたにちがいありません。

 熊楠は、自然だけでなく、民話や民俗・歴史など人文系の情報もとりあつかい、博物学的な情報処理をおこないました。情報処理の観点にたつと、理科系と文科系といったふるい分類法は意味をなしません。熊楠は、多様で膨大な情報を処理できる情報処理の実践者でした。

図3
図3 「南方マンダラ」

 図3は、この世でおこる現象の関係をえがいた「南方マンダラ」とよばれる図です。今回の会場の入り口すぐのところに展示してあります。熊楠は、このような図解をいくつかのこしています。普通にみると平面にしかみえがませんが、実際には、縦・横のほかに奥行きもある立体のものと見るようにと熊楠は説明しています。会場では、ホログラムをつかってこの図を立体モデルとして見えるようにしてあります(本サイトでは平行法で立体視ができます)。

 わたしがつくった図2はステレオグラムになっていて、平行法でも交差法でも立体視ができます。平面(2次元)では、関係線が交差してごちゃごちゃしていますが、立体視をすると関係線は交差せず、全体の構造がすっきりとわかります。

 熊楠は、平面(2次元)で複雑な情報を表現するのには限界があることに気づいていました。多様性にあふれる世界をとらえるためには立体(3次元)で見るあるいはイメージすることが必要です。構造化することによって2次元そして3次元へと、情報処理は文字どおり次元が高くなります。

(2018年1月2日)

7. 南方熊楠の情報処理

 熊楠は、多様にして膨大な情報を処理できる、非常に高度な情報処理(インプット→プロセシング→アウトプット)能力をもっていました。熊楠の情報処理について念のために整理しておきます。

 熊楠が、百科事典などの多数の書籍を読んだり、フィールドワークで自然を見たり、関係者から話を聞いたりしたことなどは、感覚器官をとおして外界(環境)から内面に情報をインプットしたということです。

 そして熊楠は、人並みではない驚異的な記憶力をもっていました。たとえばまるごと一冊 本を暗記して書きだすことができました。記憶とは、インプットされた情報を記銘し、保持し、想起することです。これは内面でのプロセシングです。また「南方マンダラ」や図解などのイメージをえがくことができました。直観力もありました。これらもプロセシングです。

 このようなプロセシングの結果を、ノートに書きだしたり、カード形式で記録したり、絵や図解をえがいたり、文章(原稿)を書いたりしたのはアウトプットです。

 情報処理という用語は熊楠の時代にはなかったでしょうが、今日のわたしたちからみると、熊楠は、非常にすぐれた情報処理の実践者だったということができます(図4)。

図4
図4 熊楠の情報処理

 熊楠の情報処理は、人間主体の情報処理の実例としてとても参考になります。

(2018年1月4日)

8. フィールドワークからフィールドサイエンスへ

 展示会場では、熊楠のフィールドワークを展示・解説するとともに、現在のフィールドワークについても紹介しています。

写真16
現在のフィールドワークの道具

 現在のフィールドワークでも現場(野外)を詳細に観察し、標本(サンプル)の採集をおこなうことにはかわりはありません。

 ただし現在では、化学分析・X線分析・物性計測・年代測定・DNA 分析など、採集された標本の分析をおこなうのが普通になっています。したがって標本を良好な状態にたもち、将来の利用も可能なように適切に保存することが熊楠の時代よりも必要になっています。採集場所も GPS をつかって正確に記録します。

 そして、いつ・どこで・だれが採集したかなどをふくむあらゆる情報はコンピューターをつかってデータベース化されます。

 またフィールドワークは、踏査によって野外を調査することでしたが、現在では、気象観測・海洋観測・地震観測・人工衛星をつかった地球観測など、物理・化学的方法をつかった大規模な観測もおこなわれるようになりました。

 熊楠の時代は、フィールドワークは、分析的方法をつかう物理学・化学とは別の分野でしたが、現在では、フィールドワークと分析的方法がむすびつき、物理学・化学の方法が野外の調査・観測に導入され、“フィールドサイエンス” が大発展しています。

 今日の生態学・人類学・環境科学・地球科学といった分野はフィールドサイエンスであり、環境保全活動をすすめるための基盤として重要な役割をになっています。

(2018年1月3日)

9. まとめ:問題解決を実践する

 南方熊楠は、百科事典その他の膨大な書物をよみあさり、博物学をなまびました。熊楠は博覧強記であり、身につけた知識はデータベースになりました。

 一方で、フィールドワークをおこない、菌類の研究でとくに成果をあげ、調査結果はカード形式でまとめられました。情報は、ひとまとまりごとにファイルにしていくことが重要です。さらに、ファイルを構造化(ネットワーク化)すれば全体像がみえてきます。

 そして えられた知見をエコロジー運動に結実させました。熊楠は、エコロジーの先駆者として特筆されます。

 このように熊楠は、 情報処理(インプット→プロセシング→アウトプット)を無数にくりかえしながら、博物学・フィールドワーク・エコロジーにとりくみました(図5)。

図5
図5 熊楠の実践

 このような3段階は今日でも有効です。というか今日でこそ実践できます。

 まず、世界を地球を広く大きく全体的に見て、幅広くとらえます。つぎに課題を決めて、現地・現場にいって、詳細な観察・観測をおこないます。そしてえられた情報を総合して環境保全活動をすすめます。こうして図5から、大観・観察・総合という本質がうかびあがってきます(図6)。

図6
図6 3段階モデル

 調査・研究をすすめるだけでなく、環境問題の解決という問題解決にあらゆる成果をいかしていく、多様な情報を実践のなかに統合していくこのようはやりかたは「問題解決学」といってもよいでしょう。あたらしいタイプの実学です。熊楠は、問題解決学の先駆者でもあったのであり、現在の地球社会は問題解決学を必要としています。

 熊楠は博覧強記でしたが、今日のわたしたちには、コンピューターとインターネットがあります。これらをつかった博物学的な巨大なデータベースが日々成長しています。個人であっても、ブログなどのツールをつかえばデータベースの構築が容易です。

 また熊楠の時代とはちがい、現在のフィールドワークでは採集標本の分析をしたり、広域的な野外観測をおこなったりします。さらに人工衛星をつかった地球観測もおこなわれています。フィールドワークが、物理・化学的な方法とむすびつき、フィールドサイエンスが大発展しつつあります。

 熊楠が生きたころと技術革新がすすんだ現在とはあきらかに時代はことなりますが、熊楠がのこしたメッセージからまなべることはたくさんあります。今回の企画展をとおして熊楠の仕事をあらためてとらえなおし、情報処理と問題解決にもとづく環境保全の意義を確信し、たいへん勇気づけられました。

(2018年1月5日)

写真19
展示会場

参考文献

栗田昌裕著『絶対忘れない! 記憶力超速アップ術』日本文芸社、2010年5月30日
※ 14〜15ページには、南方熊楠に関するたいへん興味ぶかい解説があります。記憶法の基本を知るためにも必読の書です。情報化がすすんだ今日、情報処理の一環として記憶法を実践することが大切です。

川喜田二郎著『発想法』(中公新書)中央公論新社
※ ファイルを構造化するモデル(見本)として参考になります。3次元構造をつくるあるいはイメージするためにはファイルのグループ編成(グループ化)が必要です。

関連サイト

南方熊楠記念館
南方熊楠顕彰館
南方熊楠顕彰会
発想法 -情報処理と問題解決-(ブログ)