思索の旅 第24号
上石神井児童公園
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24-01 日誌はデータベースとして機能する

 何らかのテーマにもとづいて文章を書く場合、それ以前の段階で、情報(データ)をあつめ集積しておく必要がある。
 あつまった情報は、何らかの形で保存しておかなければならず、そのために役立つのが日誌の形式である。役にたちそうな情報を、日にちごとにキーワード(あるいはキーフレーズ)にして記載しておく。あくまでも日にちで区切ることが基本である。情報は、とりあえず、時間軸にそって記載しておくのがよく、分類などしない方がよい。このような日誌は、毎日の記録以上に、データベースとして有効に機能する。
 文章化はデータベースをつかってあとでおこなうようにする。最初から文章を書こうとするとウンウンとうなることになる。

24-02 議論や集会は、活動をすすめている現場でおこなうのがよい

 議論や集会は、現地(現場)でおこなった方が効果が大きいことが経験からはっきりと言える。たとえばプロジェクトをすすめる場合、プロジェクトを実際にすすめている現場に行って、そこで議論した方が有益な討論ができる。メンバーがあつまりやすいという理由で、どこか別の場所に出てきておこなうといまひとつである。
 これは、現場にいた方があつまる情報量が圧倒的に多いことと、関係者の意識が高まり、意識の場が形成されやすいからである。私たちは、視覚や聴覚だけで情報をとらえているわけではない。情報は言葉だけではなく、議論をしながら関係者全員は五感を総動員してさまざまな情報をキャッチしている。関係者は、あらゆる感覚器官を駆使して情報処理をおこなう。現地にいると五感を通して、様々な情報が多量に関係者の心の中に入ってきやすいのである。

24-03 アイコンは視覚的な情報検索の用をなす

 パソコンの書類はフォルダにファイルされる。このフォルダは、自分のすきなアイコンに変えることもできる。様々なアイコンはウェブサイトでも手にはいるし、自分でつくることもできる。アイコンを工夫して、アイコンを見ただけでファイルの中身がすぐにおもいだせるようになっていればとても便利である。アイコンは視覚的な情報検索の便利な道具となっている。
 アイコンは、自分で撮影した写真にしてもよい。写真をみて、その下にある情報がおもいだせるようになっていれば、写真は情報検索の用をなす。私のウェブサイトの各ページには、私が撮影した写真をつけてある。これらの写真はアイコンの用をなし、情報検索をやりやすくする機能をもっている。

24-04 身近な場所をつかって空間記憶法を実践する

 空間記憶法では、著作などからえた知識を場所とむすびつけることにより記憶する。その場所は身近なところでよい。どこかに出かけたついでに場所をえらんでもよい。公園など適当な場所を見つけたら、そこで本を読み、重要なページを視覚的に記憶する。
 このような記憶法をおこなっていると、あとで、その場所をおもいだすことで、そういえばあそこであの本を読んだというように、そのときの読書体験を想起することができる。場所と本がむすびついているので、地図を本や知識のインデックスにすることもできる。その場合、地図をみればさまざまな知識がおもいだせるようになる。
 この方法は、自分にとって重要な本については、ぜひ実行してみるべきたのしい方法である。

24-05 屋久島では、せまい範囲で多様な自然を見ることができる

 屋久島は亜熱帯に属するが、高度差が大きいため、日本の南から北までの気候帯が存在し、山頂付近は雪がふるという(NHK・BS「世界自然遺産を行く・屋久島」)。
 屋久島の大部分には照葉樹林が分布するが、氷河時代からの生き残りである貴重な高山植物も生息する。
 せまい範囲で多様な自然を観察できるという点で、屋久島は貴重なフィールドである。

24-06 自己を世界にみたす -モネ-

「モネは光をとらえ、その印象を表現しつづけた。『貴婦人』は人物が風景の一部になっている」(NHK・迷宮美術館)。
 モネは、実際に目に見えたようにえがいたのではなく、表面意識の下にある自己の心の中、潜在意識をえがいたという。
 モネの晩年の作品では、自己や人物が消失してしまう。自己や人物は、場のなかへひろがって消えていった。自己の心を世界いっぱいにみたすとき、自己はなくなり、世界と一体になれる。

24-07 情報は、混沌のままで、まるごとインプットする

 そもそも、世の中に存在する情報は、系統的にではなく分散・散乱した状態で雑然と存在している。むずかしい言葉でいえば混沌とした状態で存在する。
 情報を心のなかにインプットするときには、その分散した情報を、そのままの状態でまるごと心の中にいれることが重要である。混沌は混沌のままで、まず、うけいれる。インプットの場面では、色眼鏡をつかったり、情報をこじつけて結合したり、先入観で脈絡をつけたりしない方がよい。情報の並列や統合を、インプットの場面で先取りしておこなうと、情報をただしく見ることができなくなってしまう。
 しかし、情報を処理する場面にうつったら、情報を並列させて整理する。そしてアウトプットの場面では情報を統合する。

24-08 特定の場所で速読をし、意識の場をたくさんつくりだす

 先日、上石神井児童公園で、高沢明良著『南方熊楠物語』(評伝社、1991年)を速読した。そして、自宅にかえってから、書誌(著者・書名・発行所・発行年・目次・要点・コメント)をパソコンに記録した。そのとき、上石神井児童公園を意識するようにした。意識の場は上石神井児童公園にある。意識の場とは情報処理の場にほかならない。これで、上石神井児童公園と南方熊楠がむすびつき、この公園を見たり思い出したりするたびに、南方熊楠を想起することができる。
 速読を野外の特定の場所でおこない、その書籍とその場所をむすびつけておけば、その場所をおもいだすことにより、その書籍を思い出すことになる。その場所とともにそのときの読書体験を想起できるという仕組みである。
 さらに、このような野外の特定の場所での速読をつみかさねていけば、あちこちの場所に、本あるいはその知識が配置され、地図をおりにふれて見直すことにより、本の情報を想起できるようになる。地図は情報インデックスとして機能する。想起とは情報の検索にほかならない。
 このように、どこかへ出かけたついでに速読をどんどんおこない、このような場所つまり情報処理の場をふやしていくのがよい。
 速読だけでは不十分な場合には、自宅などにかえってきてから情報のとらえなおしをおこなう。そのときも、あくまでも速読を実際におこなった場所を意識しながらおこなう。その場所の情景をおもいうかべながら作業をおこなうと記憶はたしかなものになる。

24-09 本のリストをもっていき、旅先で意識の場をつくりだす

 何かを学習するとき、たとえば歴史を勉強するとき、その歴史がつくられた場所を実際に旅行しながら、そこの歴史の解説書を読んだ方がよく頭の中に入る。しかし、たくさんの書籍をもって出かけるのは不可能である。実際には、ガイドブックや地図など2〜3冊をもっていくのが限度だろう。
 そこで旅行に行く前に、なるべくたくさん関連書を速読し、本のリストをつくっておく。そのリストを旅行にもって行って、それぞれの場所でリストを見ながら本の内容をおもいだす。すると、それぞれの本は「場所を得る」ことになり、「意識の場」が形成される。その後、情報処理は自動的にすすんでいく。
 これも一種の空間記憶法である。重要な情報については、帰宅してからとらえなおしをおこなえばよい。

24-10 俳優も空間記憶法を実践している -仲代達也氏-

 俳優の仲代達也氏は言う。
「シェイクスピアの台詞をおぼえたとき、台詞を紙にかきだし、家の中のあちこちにはりつけたんです。玄関・寝室・居間・・・。その後、芝居がはじまって、舞台を見ていた家族が『あの台詞はトイレに貼ってあった』と言いました」(NHK教育テレビ)
 これは、まさに空間記憶法である。俳優も空間記憶法を実践しているのである。言葉を空間(特定の場所)にむすびつけて記憶している。ある特定の空間の中に言葉をうめこんでいる。
 仲代達也氏は、空間を処理する回路を利用して言葉を処理している。空間を認知し、空間の情報を処理する脳の回路は太く、一度に大量の情報を処理できる。空間を利用すれば、情報をあちこちに分散させておいておくこともでき、分散した情報が相互に補強しあう効果も生まれる。
 それ以上に重要なことは、特定の空間に「意識の場」が形成されることである。意識の場は情報処理の場にほかならない。たくさんの「意識の場」が各地に存在するようになれば、情報の並列処理が可能になる。

24-11 自然の風景を心の中にとりこんだ -マーラー-

 作曲家のマーラーは「『交響曲第3番』に、自然の風景をすべてとりこみました」と言った(放送大学「西洋音楽の諸問題」)。
 マーラーは夏場(7〜8月)に集中して作曲していたため、「夏の作曲家」と自称していた。歌劇場の音楽監督をしていたため、9月〜6月は歌劇場でオーケストラを指揮し、のこりの期間は作曲小屋で作曲をつづけていたのである。
 マーラーの『交響曲第3番』は、自然の風景をそのまま音楽にしたのではなく、自然を心の中にとりこみ、心の中で消化し、それを再編集して作曲したということである。つまりマーラーは、心の中で情報処理をおこない、その結果を楽譜にしてアウトプットした。
 そのおかげで、われわれは『交響曲第3番』をたのしみ、それを聴きながらうつくしい自然の風景を想像することができる。つまり、わたしたちの心の中に自然を再現することができる。

24-12 記憶は、情報処理のために必要な行為である

「明治時代の学校教育では記憶暗唱をひたすらくりかえしていました。日本の教育は今なお、学力向上とゆとり教育の間でゆれうごいています」(NHKスペシャル「明治 第1週 -ゆとりか学力かー」)。
 最近では、一般論として、暗唱あるいは暗記教育はよくない教育とされている。
 しかし、暗記(記憶)は、その人が頭(心)の中で情報処理をしていくために必要なことである。入力した情報を心の中で処理していくためには、テーマに関する情報をかなりの量 記憶しておかなければならない。
 記憶とは、情報の入力と処理とのかけ橋である。記憶した情報は内面世界で処理され、再構成される。情報処理とは、心の中に入ってきた情報にみずから反応し、情報を編集したり価値判断をしたりすることである。当然、処理結果は文章化などにより心の外へ出力されなければならない。
 このようなとりくみさえあれば「暗唱」も決して悪くない。まる暗記も悪くない。つめこみ教育も悪くない。
 しかし、明治の教育には情報処理の視点がなかった。その点が悪かったのである。記憶を情報処理の仕組みの中に位置づけて、その方法を開発することがなかった。
 最近まで、このような基本的なことがよくわかっていない人が多かったが、高度情報化の時代になり、情報処理の観点から記憶をとらえなおす時がすでにきている。

24-13 つかう人、見る人を触発する作品をつくる

「完璧につくると、かえって、つかう人の想像力がなくなります」と陶芸家の林邦佳氏は言う(NHK)。
 作品は、つかう人・見る人を触発することが大切である。完成度をもとめるだけが能ではない。人々の想像をふくらませることが重要である。想像はあたらしいアイデアにむすびつくことが多い。著作物でもおなじである。
 あまりにも完璧に体系化されすぎている書物は読む人を触発しない。不完全さや隙間があったほうが触発させる。万全を期してアウトプットをだすというのはかんがえものであり、70パーセントぐらいのできでアウトプットしてもよいのである。

24-14 仮説を現場で検証し、妄想をそだてないようにする

 問題解決の過程で仮説をたてることは重要である。しかし、仮説が単なる思い込みや妄想である場合もある。妄想をえがいて実施に移行してもうまくいくはずはない。
 妄想をふせぐためには、仮説をたてたら、すぐに実施にうつるのではなく、現場・現実でその確からしさをテストするようにする。そして、仮説がまちがっていたならば、その仮説はただちに修正しなければならない。
 フィールドワークはそのために役立つ。ディスカッションだけで仕事をすすめるのはよくない。仮説を現場で検証し、妄想を絶対にそだてないようにすることが必要である。

24-15 料理のコツは、空間をうまくつかい並列処理するところにある

 料理には、材料をあつめる場面、調理をする場面、料理を食卓にだす場面の3つの場面が存在する。
 料理と情報処理には類似性があり、材料をあつめる場面はインプットに、調理をする場面はプロセッシングに、食卓にだす場面はアウトプットに相当する。
 一般に材料は乱雑にあつまってくる。メニューごとに規則正しく分類して材料を買う人はいないだろう。しかし、調理の場面に入ると、材料は、調理ごとに分類し、空間的に配置しておいた方がつかいやすい。また、電気釜でご飯をたき、鍋でスープをつくり、フライパンでいためものをするというように、いくつかの調理を並列的におこなうのが普通である。空間をうまくつかえる人、並列的に調理ができる人は料理上手である。料理のコツは空間をうまくつかい、並列的に処理するところにある。これは情報処理のコツでもある。
 そして、最後に、料理を食卓にならべる。つまりアウトプットする。このときには時間的タイミングが重要になる。

(2005年4月)
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2005年8月31日発行
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