縄文人は日本列島の基層集団です。弥生時代〜古墳時代に、現代に通じる本土日本人集団が基本的に形成されました。平安時代以降、重層文化が発展しました。
特別展「古代 DNA ー日本人のきた道ー」が国立科学博物館で開催されています(注)。近年、遺跡から発掘された古代の人々の骨にのこる DNA の研究が急激にすすんでいます。人類学の最新のこの成果をふまえ、考古学的な資料や高精細の古人頭骨CG映像などもみながら日本人のきた道をあきらかにし、その集団の歴史がかたる未来へのメッセージをうけとります。
ステレオ写真は平行法で立体視ができます。立体視のやり方はこちらです。

白保竿根田原洞穴(しらほさおねたばるどうけつ)遺跡4号人骨
(年代:旧石器時代、出士地:沖縄県白保竿根田原洞穴遺跡)

船泊遺跡23号人骨
(時代:縄文後期、出土地:北海道礼文町船泊遺跡)
(性別:女性、身長:146cm、年齢:40歳以上)

船泊遺跡23号人骨の復顔
(DNA分析の結果をもとに製作)

(弥生後期(2世紀)、鳥取県青谷上寺地遺跡から出土)
(DNA分析により、遺伝的特徴は縄文人とはことなり、現代日本人にちかいことがわかった)

(DNA分析の結果をもとに製作)

(年代:古墳前期(4世紀)、出土地:広島県山ノ神1号墳)

出産文土器(複製)
(年代:縄文中期(5000年前)、出土地:山梨見津金御所前遺跡)
大形の壺
(弥生前期(紀元前7〜前5世紀)、福岡県比恵遺跡出土)
茶山2号墳馬形埴輪
(古墳中期(5世紀)、大阪府茶山2号墳)
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古人骨の DNA 研究は、1980年代からはじまりましたが、古代のサンプルにのこる DNA はきわめて微量だったため、母系に遺伝するミトコンドリア DNA の解析にとどまっていました。しかし2006年、画期的な DNA 解析機器が開発され、膨大な情報をもつ核ゲノムの解析が可能になり、現在では、現代人とおなじレベルで DNA 解析ができるようになりました。
わたしたちの体には、膨大な種類のタンパク質が存在します。遺伝子とは、それらのタンパク質をつくる設計図にあたり、その設計図をかいている文字にあたるのが DNA です。具体的には、アデニン(A)・グアニン(G)・シトシン(C)・チミン(T)という4種類の塩基とよばれる化学物質のつながりで DNA はできていて、それが、タンパク質を構成しているアミノ酸のならび順を指定し、この設計図にしたがってアミノ酸がならび、タンパク質が構成されます。
ある生物がもっている DNA 全体をゲノムとよび、ヒトゲノムとはひとりの人間がもつ DNA の全体 のことです。あるいはゲノムは、全部の遺伝子をまとめたものということもでき、ヒトは、2万種類以上の遺伝子をもっています。
ヒトの設計図を1冊の本にたとえると、文字にあたるのが DNA、文章に相当するのが遺伝子、本に相当するのがゲノムということになります。
第1展示室「最初の日本人」(旧石器時代)
ホモ・サピエンスが日本列島に最初に到達したのは4万年前の後期旧石器時代頃だと考古学の証拠からかんがえられています。
沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴(しらほさおねたばるどうけつ)遺跡からこの時代の人骨が発見され、ゲノム解析に成功した結果、彼らとおなじゲノムをもつ集団は現在ではどこにも存在しないことがわかりました。しかしそのゲノムの一部は、東南アジアから東アジア、とりわけ、日本人のなかにつたえられていることがあきらかになり、その分布から、彼らの祖先は琉球列島に南方から到達したことが示唆されています。
第2展示室「日本の基層集団」(縄文時代)
日本列島に土器が出現したおよそ1万6000年前から、東北地方北部に水田稲作技術が到達した2400年前までを縄文時代とよび、縄文時代にいきていた人々を縄文人とよびます。ただし九州地方北部では、2900年前から水田稲作が開始され弥生時代がはじまるため、縄文時代の終わりについては議論があります。
縄文人の DNA 分析をおこない、現代日本人と縄文人のゲノムを比較したところ、本土(本州)の日本人のゲノムでは10~20%を、琉球列島の集団のゲノムでは30%を、北海道のアイヌ集団のゲノムでは70%を、縄文人からうけついでいることがわかりました。ゲノムのちがいは顔立ちにも反映しています。
第3展示室「日本人の源流」(弥生時代)
弥生時代は、今から2900年前に、水田稲作をおもな生業とするあたらしい文化がはじまったときから、3世紀中頃までの1100年あまりつづきました。日本列島における水田稲作は、朝鮮半島から渡来した人々によってはじめられたとされ、その開始時期は、従来は、紀元前5〜前4世紀だとかんがえられていましたが、あらたな炭素14年代測定の結果、紀元前10〜前9世紀頃だったことがあきらかになりました。つまり従来説よりも500年も はやくはじまっていたことになります。
弥生時代にいきた人々を弥生人といい、彼らのゲノム解析もすすめられ、現代の本土(本州)の日本人のゲノムとくらべた結果、現代の本土日本人のゲノムは、縄文人由来が10~20% であり、渡来系弥生人由来が80~90%をしめることがわかりました。本土の日本人は、縄文系と渡来系弥生人の2つの集団の混合によって形成されたといえますが、その比率は渡来系弥生人のほうがかなり高かったわけです。したがって2つの集団の混合というよりも、渡来系弥生人が縄文系の人々を吸収したとかんがえたほうがよいかもしれません。
ただし朝鮮半島でも、日本の古墳時代に相当する時代まで縄文系の遺伝子をもつ古人骨が出土しており、朝鮮半島から日本列島に渡来した集団が縄文系の遺伝子をもともともっていた可能性が十分にあります。もしそうだとすると、日本列島内での混合の効果はかなり小さかったといえます。
なお弥生時代に日本列島にやってきた人々(渡来人)のゲノムをもつ集団を中国大陸でさがしたところ、中国東北部の5000年程前の雑穀農耕民にたどりつきました。このことから、彼らのすむ西遼河(せいりょうが)の流域が渡来系弥生人の原郷だと推定されます。
第4展示室「国家形成期の日本」(古墳時代)
3世紀中頃、奈良盆地東南部に大王墓となる巨大前方後円墳が築造され、古墳時代がここからはじまります。日本列島のひろい範囲で首長層が中小規模の前方後円墳や前方後方墳を築造し、最終的には、東北南部から九州南端まで前方後円墳を築造するようになります。
『日本書紀』と『古事記』には、おおくの渡来人がこの時代に日本列島にやってきてさまざまな文物をつたえたことがしるされており、遺跡からの出土資料もそのことをしめしています。彼らがつたえた文化は多岐にわたり、製鉄技術、金工技術、須恵器生産や鉄器生産、馬の導入と飼育などの文物や技術にとどまらず、生活様式や思想などもつたえました。
全国から出土する古墳時代にいきていた人々の人骨についてもゲノム解析がすすめられ、彼らのゲノムは、現代日本人の変異の範疇におおくはふくまれますが、縄文系の影響のつよいものもあり、本土全体でみると、在来集団と渡来集団の混合は古墳時代になっても完成していなかったことがわかりました。
混合は、縄文系の遺伝子をのこした人々を渡来系の人々が吸収するかたちですすんでいったとすると、現代日本人の遺伝的特徴は現在よりも縄文系にもっとかたよったはずですが、実際にはそうはなってはおらず、これは、大陸からの渡来が古墳時代にもつづいていたことをしめします。古墳時代になっても渡来人集団が日本列島に継続的にたくさんやってきていました。
第5展示室「南の島々の人々」(琉球列島集団)
琉球列島では、第1展示室でみた白保竿根田原洞穴遺跡など、複数の遺跡から旧石器人骨が出土していますが、ゲノムの証拠からは、旧石器時代の集団と縄文人の直接の関係は今のところしめされていません。
琉球列島の現代人は、縄文系の遺伝子を30%ほど保持しており、 本土集団よりもこの割合はたかく、このことは、本土日本からの琉球列島への集団の移入はありましたが、その規模はそれほどおおきくなかったことをあらわしています。
また地理的にちかい台湾からの遺伝子の流入は今のところ確認されていません。したがって最初の琉球列島人は、南方から島づたいに到達しましたが、縄文時代以降は、本土日本と琉球列島の交流のなかで琉球列島集団が形成されたとかんがえられます。
第6展示室「北の大地の人々」(縄文人がアイヌになるまで)
北海道のアイヌ集団は、縄文人の遺伝子を70%ちかくも保持しており、現代の本土日本人が縄文人の遺伝子を10〜20%ほどしかうけついでいないことをかんがえるとこの割合は非常に高く、アイヌ集団は縄文人の子孫であるといってよいでしょう。
琉球列島集団とアイヌ集団は、本土日本人とはことなる道をあゆんで独自の文化をはぐくんできましたが、明治時代以後は 、日本の政権による周辺域の併合という形で日本国にとりこまれました。
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以上のように、日本列島には、約4万年前から人間(集団)がくらしはじめ、最初の日本列島人は南方からやってきた人々であるとかんがえられます。今では、彼らとおなじゲノムをもつ集団はどこにも存在しませんが、のちの縄文人のなかに彼らのゲノムの一部がうけつがれています。
その後、1万6000年前から、縄文土器で特徴づけられる縄文時代がはじまります。ゲノム解析により、縄文時代にいきた人々(縄文人)の起源集団は、旧石器時代〜縄文時代に、北方と南方の複数のルートをとおって日本列島に大陸から流入してきたのではないかとかんがえられています。
縄文人の遺伝子は、本土の日本人には10~20%が、琉球列島の集団には30%が、北海道のアイヌ集団には70%がうけつがれています。したがって縄文人は日本人の基層集団であるといってよいでしょう。
2900年前になると、中国北東部・西遼河の流域を原郷とする集団(の子孫)が水田稲作技術を途中で身につけ朝鮮半島を経由して九州北部にやってきました。稲作技術をもった集団があらたに渡来したため日本列島でも稲作がはじまりました。
弥生時代とそれにつづく古墳時代は、縄文人の子孫、大陸からのあらたな渡来人、両者の混合(混血)という3種類の集団が日本列島で共存しており、本土日本では、縄文系集団と渡来系集団の混合(渡来系集団による縄文系集団の吸収)がすすみましたが、縄文系と渡来系の混合の効果はこれまでかんがえられていたほど大きくはありませんでした。混合は、日本列島内だけでおこったのではなく、大陸(朝鮮半島)ですでにおこっていて、日本列島内でのその効果は小さかったのではないかとかんがえられます。あたらしい知見です。
古墳時代になって日本列島にはじめて馬が出現しますが、これは、日本列島ですでにくらしていた人々があらたに馬を輸入し飼育しはじめたということではなく、馬とともにくらす集団が日本列島に大陸から移住してきたことをしめします。古墳時代までは、日本列島にすでにいた人々が大陸の先進文化を輸入したというよりも、先進的な大陸文化を渡来人集団が直接はこんできていました。日本列島への渡来人の流入は、飛鳥・奈良時代以降はすくなくなりましたが鎌倉時代まではつづきました。
一方、琉球列島集団のゲノムは縄文系を約30%保持し、アイヌ集団は縄文系を約70%も保持しており、本土日本人とはかなりことなります。とくに、アイヌ集団は縄文人の子孫であるとかんがえてよいでしょう。
以上をまとめると、旧石器時代〜縄文時代にいきた人々は日本列島の基層集団であり、彼らの文化は日本の基層文化だといえます。弥生時代〜古墳時代は、縄文系・渡来系・両者の混合という3種の集団が共存しましたが渡来系の勢力が圧倒的につよく、本土日本では渡来系が縄文系を吸収し、現代に通じる本土日本人の基礎が形成されたとかんがえられます。
なおゲノム解析結果にもとづいて日本史をとらえなおすとき、本土日本と琉球列島と北海道をわけてかんがえなければならないことに注意してください。
本土日本についてのべるならば、弥生時代〜古墳時代に、大陸からの渡来人集団が大陸の先進文化を日本列島にもちこみ、稲作を開始し、国家を形成したということがとくに重要です。
弥生時代になってからつくられた弥生土器は縄文土器とは誰がみてもあきらかにちがいます。縄文土器は、縄文があるだけでなくさまざまな装飾がほどこされていますが、弥生土器は実用一辺倒です。これは、文化が変化しただけでなく、そもそもそれをつくった人々がちがったのであり、弥生時代になって渡来人が “主流派” になったということをしめします。
外から、集団や文化が日本列島に流入し、歴史におおきな影響をあたえたことを「外来インパクト」とよぶならば、弥生時代〜古墳時代は外来インパクトがきわめておおきな時代だったといえます。古墳時代の馬の出現や古墳の築造なども外来インパクトで説明できます。外来インパクトによって日本国の基礎もできました。
大局的にみると、弥生時代〜古墳時代は外来インパクトが非常につよく、外来文化によって本土日本の文化が成長したといってよいでしょう。
鎌倉時代までつづいた渡来人集団の流入は、飛鳥・奈良時代以降はすくなくなっていったとかんがえられますが、飛鳥・奈良時代までは外来文化がつよかったといえます。飛鳥・奈良時代以降は、大陸から文物を輸入したり、指導者をまねいたり、留学生を大陸に派遣したりして先進文化をとりいれました。これは、明治時代になってから、先進文化を欧米からとりいれたこととよく似ています。欧米から、指導者などはまねきましたが、欧米人集団が大量に日本に移住してきたという事実はありません。外来集団がいなくても先進文化をとりいれることはできます。
しかし平安時代以降になると外来インパクトはしだいによわまっていき、基層文化に外来文化をかさねあわせ、両者を混合あるいは融合させるこころみがさかんになり、重層文化が成長します。神仏習合はその典型例です。その文化は、江戸時代には、「日本文明」といってもよいレベルまで高度化しました。
このような仮説をまとめると図1のようになります。

図1 本土日本における外来インパクトと文化成長
これで、本土日本における、外来インパクトと文化成長の過程・仕組みがあきらかになりました。図1において、外来集団①と外来集団②と外来集団③は基本的に別の系統であり、外来集団①は外来集団②に吸収され、外来集団②は外来集団③に吸収されました。そして外来インパクトがよわまるにつれて重層文化が成長し、〈基層文化→外来文化→重層文化〉により日本の文化が高度化しました。歴史における統合作用がよみとれるとともに、創造の方法として重層文化をとらえなおすことができます。
なお北海道と琉球列島は、本土日本にくらべ外来インパクトがよわかったという別の歴史をたどりました。アイヌ集団は縄文人の子孫であり、縄文文化を色濃くつたえています。琉球列島集団も縄文系の遺伝子をかなりうけついでいます。そして本土日本もこまかくみると、東北地方(とくに青森県)・鹿児島県・島根県の人々には縄文系の遺伝子がややおおくうけつがれていることがあきらかになっています。
したがって日本の基層文化を探究しようとおもったら、遺跡・遺物の調査・研究とともに、第1に、アイヌの文化について、第2に、琉球列島の文化について、第3に、東北地方(とくに青森)・鹿児島・島根の文化についてしらべるのがよいということになります。日本の基層文化は、日本人の潜在意識に横たわっていて、現代日本人の一見不思議な言動にも関係しているとかんがえられます。
今後、ゲノム解析の結果をふまえて関連地域のフィールドワークをおこない図1の仮説(モデル)を検証すれば、日本の深層についての理解がさらにすすみ、日本史と日本国に関する認識ももっとふかまるでしょう。
▼ 注
東京会場:国立科学博物館 地球館
会期:2025年3月15日~6月15日
特設サイト:特別展「古代DNAー日本人のきた道ー」
名古屋会場:名古屋市科学館 理工館地下2階 イベントホール
会期:2025年7月19日~9月23日
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神と仏の融合 − 東洋の精神文化 −(記事リンク集)
▼ 参考文献
篠田謙一・藤尾慎一郎(総合監修)『特別展 古代 DNA −日本人のきた道−』(図録)、2025年、NHK・NHKプロモーション、東京新聞、中日新聞社
▼ 関連書籍
篠田謙一(著)『新版 日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』(NHKブックス)2019年、NHK出版
斎藤成也(著・監修)・山田康弘・太田博樹・内藤健・神澤秀明・菅裕(著)『ゲノムでたどる 古代の日本列島』、2023年、東京書籍
篠田謙一(著)『人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』(中公新書)2022年、中央公論新社
篠田謙一(監修)『図解版 人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』(ビジネス教養・超速アップデート)、2024年、中央公論新社
篠田謙一・藤野リョウ(著)『マンガでわかる! 人類はどこから来たのか ようこそ、人類700万年の旅へ! 君は、「人間」ってなんだと思う?』、2025年、KADOKAWA
川喜田二郎(著)『アジア文明論』(川喜田二郎著作集 12)1996年、中央公論社
▼ 専門書
斎藤成也(編)『ヤポネシアの現代人ゲノム』(ヤポネシア人の起源と成立 1)、2025年、朝倉書店