指定避難場所の悲劇 - 証言記録 東日本大震災「宮城県気仙沼・杉ノ下高台の戒め」(NHK DVD)-

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たくさんの避難者が津波でながされました。防災マップ(想定)がかえって被害をおおきくしました。自然には飛躍があることを前提にして行動しなければなりません。

NHK DVD「証言記録 東日本大震災『宮城県気仙沼 〜杉ノ下高台の戒め〜』」(2014年8月31日にNHKで放送)は宮城県気仙沼・杉ノ下高台における津波被害について報告しています(注)。


杉ノ下高台の位置

宮城県気仙沼市階上(はしかみ)地区は三方を海でかこまれ、明治時代の津波でも集落が全滅する被害をうけました。住民は、おそろしい津波をかたりつぎ、高台への避難訓練をくりかえし、行政も、避難場所の整備にとくに力をそそいでいました。

しかし2011年3月11日、津波は、避難場所に指定されていた杉ノ下高台(標高13mの丘)におそいかかり、およそ60人が犠牲になりました。行政は、慎重に検討をかさねたうえで避難場所を指定したつもりでしたが、どんな盲点があったのでしょうか?

あの日。

揺れがおさまってから、これまでの避難訓練どおり杉ノ下高台に住民たちは避難します。それからおよそ20分後、午後3時20分、大津波がせまります。

あっちの方から何だか、帯状のようなシルバーでもないそんな色のが最初フワッとなったと思ったけど、家が、ごろごろひっくり返って来るし、ばりばりばりばりっていってこのへん来たんです。見ていてあらららって、そしてここにいた人も、
「ああ、ばあちゃん、家ながされる」
「明治の津波ってこんなんだったんだべかな」
あらららって、ここで見ていたんです。(津波が)あっちの方さ行くやって。それで終わりだと思っていたわけなの。

そうしているうちに、家の中さ入って、奥の部屋から出てきて、玄関のところ見たら、そこから波が上がってきたの。あれれれ、ザバザバと上がってきたから、はだしのまま、裏から逃げたんです。こっちだのこっちだのから波がいっぱい来たの。何だべ、何だべだと思っているうちに勢いに巻かれて、いろいろな がれきの下敷きになったんだね。死ぬんじゃないかなって。死ぬってこんなのかと。そしてもがきながら出てきたんです。

ツバキの木にすがって女の人2人 泣いてんの。
「お父さんもお母さんも妹も流された」
あたりを見たっけ何もないんだもの、この辺り、全部ひっくり返って。ここにあった小屋から蔵から何もないの。流されてしまって。あんなにあったのにどこさ流されたと思って。とにかく驚いてしまって。

寒くて、寒くて。まさか、まさかっていう感じ。こんなところまでくるとは、誰もが思っていると思います。本当に。

ここ(杉ノ下高台)なら大丈夫だと思って連れてきたのね。それは私一番よく知ってんの。ここなら大丈夫だって、何でそんなに思ったんだか不思議で分かんないんですけど。明治の津波でも大丈夫だったていうのが一番悪かったって。そうでなければみんな逃げたのかな。どうなんだろうね。時間はあったんですよね。20分から30分くらいは。逃げようと思えば逃げられたはずなのに。私も、逃げようと思わないし。(杉ノ下の住人・三浦祝子さんの証言)

避難場所に指定されていた杉ノ下高台をおそった津波は13mを楽々こえる高さです。午後3時28分に高台は完全に水没、高台に避難した人々のおおくが引き波で沖合にながされます。杉ノ下高台にのこったのはツバキの木と電波塔だけです。集落全体の犠牲者数は人口のおよそ3割、93人にのぼります。

杉ノ下高台に、おおくの人々が避難したのは、行政(気仙沼市)が指定した避難場所だったからです。行政がつくった防災マップには、津波におそわれる危険があるエリアと安全とされる避難先がしめされていました。

私たちがやってきたのは、防災の中でも初動段階のですね、とにかく避難する、逃げる、命を守るっていうのを9割方 力をいれてやってきました。住民の方と一緒にですね、防災とは何だろうっていうのを、(当時、2004年より前に)もう一度、考え直さなければならないのではないか、というふうに思いました。住民の人と一緒の考え方(防災マップ)を作っていく必要があるなと。(気仙沼市危機管理課長(当時)佐藤健一さんの証言)

老人とかね、そういった不自由な方は、なおさら海の近くにいる方なんかはね、とにかく近くの人は声がけして、一緒に避難できたらいいんじゃないかということは話していたんですけどね。

説明会の時に、こういうの(防災マップ)を渡されましたね。私たちの地区は、一応、ここ(杉ノ下高台)しか高台がないもので、一応、向こうも高台にはなっているんですけどね、結構とおいんですよね。(杉ノ下の住人・佐藤信行さんの証言)

防災マップをつくるとき研究者(専門家)からアドバイスをもらいました。記録がのこっているかぎりでは明治29年の三陸津波が最大規模でした。これとおなじ場合の津波のシミュレーション(模擬実験)でも杉ノ下高台は水没しないという結果でした。

我々、過去の地震津波、明治・昭和・チリだけではなくて今後想定される、考えられる想定宮城県沖、連動タイプとかもさまざま検討させていただいていたのですけども、そこ(杉ノ下高台)を超えるような津波規模というのはなかったんですね。あの高台(杉ノ下高台)なんですけれども、あそこに行くまでは民宿とか家がたくさんあってですね、結構きつい坂を上がっていって、標高10m以上だったと思うんですけど、かなり周辺から見ても高い場所であったと。あの地域というのは、杉ノ下(高台)は安全な場所であったということになります。(東北大学災害科学国際研究所 所長・今村文彦さんの証言)

この高台は、やっぱり残りますよっていうか、高台として機能しますよ。

本来の避難所だったりっていうのは非常に遠いんですね。あそこの高台(杉ノ下高台)は明治三陸(津波)においても被害がなかった高台です。シミュレーション(模擬実験)されたものでも、もちろん安全な高台にはなっております。最終的に一時避難高台というような形でですね、市の私たちの方が指定して、過去においても安全だということをやっていった。(気仙沼市危機管理課長(当時)佐藤健一さんの証言)

こうして2004年、防災マップが完成し、想定される津波の高さは8mであり、標高13mの杉ノ下高台には到達しない(杉ノ下高台は安全であるという)予測になりました。

震災前の浸水想定(橙色〜黄色のエリア)
(NHK スペシャル「MEGAQUAKE」)

しかし、3月11日。

実際の浸水域(青色のエリア)
(NHK スペシャル「MEGAQUAKE」)

あそこはですね津波高8mという形(想定)。何とか、あそこは低い津波が来ていてくれないだろうか。間に合って逃げていてくれないだろうかという思いでしたですね。

あの地域全体としては、3分の1くらいに近い人たちが、地区人口として亡くなっているわけですね、30%。3%から5%という市内から見ますと非常に高い数字です。地区別で見ていくと、おそらく杉の下地区、あの地域が一番、被災率が高いです。

一番、意識も高かった。しかしながら、あそこで一番被害が大きかったというのはですね、示していた数字が、逆に作用してしまったかもしれないっていう思いでしたですね。例えば(津波高)8mという数字がですね、それ以上の津波は来ないのだという思いにつながってしまったのではないだろうかと。逆に、安心情報になってしまった可能性がありますよね。それを作ってしまったという思いはありますね。(気仙沼市危機管理課長(当時)佐藤健一さんの証言)

あまりにもね、犠牲になった方の数が多いしね、本当に、津波が来るまで結構 時間があったのに、ここ(杉ノ下高台)で津波を待ってしまったって言うかね、そういった悔しさを、無念を、何とか少しでも供養できたらいいかなと思って。

この命をですね、93名の命を、むだにしてほしくないなと私は思っています。(杉ノ下の住人・佐藤信行さんの証言)

震災直後は、本当に大変申し訳ない反省の念ばかりで、自分として何が出来るのかなと思っておりましたが、住民の方何人かから、やはり、当時のことは無駄ではなかったと、足りなかったんだというようなお言葉をいただいて、その中でまた我々も、足りないところで出来ることはたくさんあるだろうと、それをぜひやりたいというのが今の気持ちになります。(東北大学災害科学国際研究所 所長・今村文彦さんの証言)

戒め。

結果として、多くの人が亡くなってしまったという結果がありますから、現実的にですね、そういう意味では、どうだったのかという疑問は私も分からない部分があります。やったことはやった。お互いに、いろいろなことは進めたし行ったと思います。住民の方も一生懸命やりました。私たちも一生懸命やったつもりです。それがただし、結果としては現れていないわけですね。多くの人が亡くなってしまった。それは何なのか。やっぱり、それはきちっと、これからの防災という意味合いではですね、知る必要があるのかなと思います。

防災もですね、科学的なものが必要だというふうに私は思っていました。しかしながら、よく考えると、心のどこかにはあったんですけども、たかだか100年くらいのいろんなデータをもってですね、人間が少し分かったつもりになっていたということ自体がですね、ちょっと違うんだろうと。もう少し謙虚になって、自然というものはよく分からないと、分からない中で分かっている範囲はここなんだということでですね、どうしたらいいんだっていうことをもう一度考え直す、そういうような姿勢が一つ必要なんじゃないかと思いますね。(気仙沼市危機管理課長(当時)佐藤健一さんの証言)

杉ノ下高台
津波襲来後
(撮影:アジア航測)

この悲劇を繰り返すな
大地が揺れたらすぐ逃げろ
より遠くへ・・・より高台へ・・・
(杉ノ下地区・慰霊碑)

以上のようにして杉ノ下高台の悲劇はおこりました。

気仙沼市は、住民とともに防災に関する意識をたかめ、防災のなかでもとくに初動段階の避難、とにかくにげて命をまもることに力をいれ、住民と一緒になって防災マップを作製しました。

その過程で、津波工学の専門家の指導もあおぎました。専門家は、明治・昭和・チリ地震などの過去の地震津波だけでなく今後想定されるあらゆる地震津波を検討し、コンピューターをつかったシミュレーション(模擬実験)をおこない、おこりえる津波は最高8mであり、杉ノ下高台(標高13m)をこえることはないと想定しました。記録がのこっているかぎりでの最大規模の津波(明治29年の三陸津波)と同規模の津波でも杉ノ下高台は水没しないという結果をしめしました。

こうして気仙沼市は、津波浸水エリアと避難場所をしめした防災マップを作製し、避難場所として杉ノ下高台を指定しました。そして住民とともに避難訓練をくりかえしました。

ところが、東日本大震災の津波は杉ノ下高台を楽々とのりこえてしまいました。ほとんどすべての「避難者」がながされました。

住民たちは、「ここなら大丈夫だ」とおもっていました。津波がくるまでに時間が結構あったのに津波がくるのを杉ノ下高台でまってしまいました。「もっと遠くに逃げる時間はあったのに」、という悔しさ・無念を誰もが感じています。

NHK DVD『証言記録 東日本大震災:宮城県気仙沼・杉ノ下高台の戒め』は、気仙沼市の担当者、津波工学の専門家、気仙沼市階上地区の住民の三者の証言を現地の映像とともに記録しており、貴重な教訓を後世へのこしています。

気仙沼市は、防災の初動段階の重要性に はやくから気づき、住民と一緒になって防災マップをつくり、防災計画を立案しました。住民の命をまもるために第一に何をすればよいか、真剣にかんがえ、とりくみました。住民の意識もたかまりました。しかし津波の高さの想定についてはまちがいました。結果として、避難場所の選択・指定をあやまりました。

津波の高さの想定は、専門家の計算結果をうのみにしたのだとおもわれますし、当時としてはそうせざるをえなかったとかんがえられます。大震災前は、専門家は、自治体と住民を指導する立場にあり、専門家がしめした想定を自治体と住民は信じざるをえませんでした。

しかし津波工学の専門家は、地質学のデータをまったくつかえていませんでした。堆積物にのこされている津波の痕跡を調査し、津波の浸水域や高さを理解することはしていませんでした。そもそもフィールドワークができていませんでした。フィールドワークをやっていないという点では、「地震予知ができる」とホラをふいていた地震学者にも似ています(注2)。フィールドワークをやらず、計算だけをしている人には要注意です。足腰がよわく、フィールドをしりません。これからは、専門家の話を信じる必要はまったくなく、へりくだる必要もありません。もし、専門家の話をきくなら、フィールドワークをしている人の話をきいたほうがよいでしょう。

住民たちは、防災マップ(想定)にしたがって指定された避難場所に避難し、「ここなら大丈夫だ」とおもい、時間があったにもかかわらず、より遠くへ、より高台へは避難しませんでした。しかし3月11日の津波浸水域の地図をみれば、杉ノ下高台にとどまらずに北西にあと1.5kmにげていたら たすかっていたことがわかります(たすかった人が実際にいます)。

防災マップをみた人は、「あっちはアウト」「ここはセーフ」などと地域を区分し、災害の上限をイメージしてしまい、それ以上のことに対処できなくなります。被災が想定される区域に はいっていなければ安心してしまい、当然のことながら避難しません。防災マップは「安心情報」を住民にあたえます。

杉ノ下高台のこのような悲劇の事実をしり、防災マップつまり想定を前提とすると、専門家と自治体による事前情報がかえって犠牲者をふやしてしまったのではないかという仮説がたてられます。

  • 事実:悲劇の事実。
  • 前提:想定。
  • 仮説:専門家と自治体による事前情報がかえって犠牲者をふやしてしまったのではないか。

自治体も住民も一生懸命やっていましたが、そもそも前提がまちがっていました。たかだか過去100年ぐらいのデータでわかったつもりになっていました。もっと謙虚になって、自然というものはよくわからないと認識し、人間の想像を絶する自然現象、人知をこえた現象がおこりえることをしらなければなりません。つまり、自然には飛躍があるということを前提にして思考し、対策をたて訓練をする必要があります。

前提は、防災計画や避難場所の選択、避難訓練のやり方など、あらゆる仕事・行動の枠組みをきめます。物事をすすめるときにはかならず前提が存在し、その前提の枠組みのなかで物事はすすみ、一方で、その枠組みをこえたところ(枠組みの外)には思考がおよびません。

杉ノ下では、専門家の想定(津波高の最高は8m)を前提とし、そして地理的・地形的条件から杉ノ下高台(標高13m)が避難場所として適切であるという仮説をたて、ここに住民が避難すればたすかるだろうと予想していました。

  • 前提:想定。
  • 仮説:避難場所として杉ノ下高台が適切である。
  • 予想:住民はたすかるだろう。

実際の現象が予想どおりになれば(事実として確認されれば)、「避難場所として杉ノ下高台が適切である」という仮説はただしかったことになり、予想どおりにならなければ(事実として確認できなければ)、仮説はまちがっていたことになり、今回の場合は、仮説はまちがっていたことがあきらかになりました(仮説は反証されました)。

どうしてまちがったのか? そもそも前提がまちがっていました。専門家の想定を前提にしたことがあやまりでした(注3)。今回の悲劇からまなべることは、想定ではなく、自然には飛躍があるということを前提にして物事をすすめなければならないということです。

専門家も、失敗したのですから、これまでのやり方をつづけるのではなく路線を変更し、フィールドワークを徹底的に実践し、自然には飛躍があることを前提にして仮説をたてなおさなければなりません。「足りなかった」のではなく、前提と論理がそもそもまちがっていたのであり、基本的なかんがえ方をあらためねばなりません。計算をしているだけでは失敗をくりかえします。東北大学の災害科学国際研究所と地震・噴火予知研究観測センターも減災実践所に改組したほうがよいでしょう。

このような観点からは、「津波てんでんこ」と「避難三原則」がとても参考になります(注4)。地震と津波のときは、想定にとらわれず、ひとりひとりがみずから主体的にてんでんばらばらに率先避難者になります。家族の誰もがにげていると信じ、家にはもどりません。最善をつくし、より遠くへ、より高台へにげます。

絶対に安全ということはありません。自然に対して謙虚になり、自然には飛躍があるという前提のもとで行動します。

より遠くへ、より高台へ。

▼ 注1
DVD「証言記録 東日本大震災 第32回『宮城県気仙沼 〜杉ノ下高台の戒め〜』」NHK エンタープライズ発行・発売、2015年

▼ 注2:地震予知はできない
どこにいても大地震にそなえる -「幻の地震“予知” 日本を揺るがした大論争」(NHK「フランケンシュタインの誘惑」)-

▼ 注3:指定避難場所で被害・犠牲者がでた例
東日本大震災において指定避難場所で被害・犠牲者がでた例は、岩手県陸前高田市(38ヵ所の避難所)、宮城県南三陸町(34ヵ所の避難所・避難場所)、宮城県東松島市(野蒜小学校体育館)など、ほかにもいくつもあり、とくに陸前高田市では、「市が指定した一次避難所 67 か所のうち 38 か所が被災し、一次避難所で犠牲になった人が推計 303 人から 411 人 おり、特に市民会館や市民体育館に避難した市民や市職員の多くが犠牲」になりました(陸前高田市『陸前高田市東日本大震災検証報告書』平成26年7月)。いずれも、前提(すなわち津波高・浸水域の想定)がまちがっていたために避難場所の選択・指定をあやまりました。「安全とされていた一次避難所でこのように多数の犠牲者が生じたことは、痛恨の極みである」(陸前高田市・同報告書)。

▼ 注4:「津波てんでんこ」と「避難三原則」
想定やマニュアルにとられず、より安全な場所にすぐに避難する -『釜石の奇跡 どんな防災教育が子どもの“いのち”を救えるのか?』(1)-
「津波てんでんこ」と 避難三原則を実践する -『釜石の奇跡 どんな防災教育が子どもの“いのち”を救えるのか?』(2)-
東日本大震災の教訓をいかして自分の命は自分でまもる -『釜石の奇跡 どんな防災教育が子どもの“いのち”を救えるのか?』(3)-
危ないと感じたら自分の判断ですぐに逃げる - 山村武彦著『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている』-
津波の危険を感じたら「率先避難者」にみずからなる -『3.11が教えてくれた防災の本(2) 津波』-
主体性が必要な時代への転換がはじまった -「釜石の奇跡」と「大川の悲劇」をふまえて –

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