インドの旅
インド母なる寺院
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<目次>

カトマンドゥからデリーへ

サルナートとヴァラナシ

ヒンドゥー教は生命力信仰である

 


2003年6月7日 発行 / 7月9日更新


  解説

 2001年8月5日から8月15日にかけて、私はインドを旅行した。当時私は、ネパール王国の首都・カトマンドゥに居住しており、そこからの旅であった。

 今日インドは、ネパールともっとも関係のふかい国である。社会〜文化のあらゆる面で、ネパールはインドから大きな影響をこうむっている。

 今回の旅行では、北インドの、デリー、サルナート、ヴァラナシをおとずれ、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教の遺跡や寺院、それらをとりまく環境をみた。中でもヴァラナシは、ヒンドゥー教の聖地の中の聖地であり、いろいろな発見があった。ヒンドゥー教は、ネパールの国教でもあり、ネパールを研究する者にとって非常に重要なテーマの一つである。また、行きの飛行機の中からは、ヒマラヤ山脈が一望でき非常に幸運であった。

 インドには、古代インダス文明の発祥、ヒンドゥー文明の成立、イスラム帝国の支配、イギリスの植民地化、イギリスからの独立というながい歴史がある。ヒンドゥー文明は、先住民族の地にアーリア人が侵入してつくられたもので、現在インドに存在する身分社会構造はこのときに生じたものである。そしてその後、イスラム帝国の侵略があり、それにより、ヒンドゥーとイスラムとのあらそいがおこって、その図式は今日までもつづいて大問題になっている。

 また、インドで発展した文明は、周辺諸国、ユーラシア大陸の東にまで大きな影響をあたえ、今日みられるヒンドゥー文明圏、仏教文明圏をうみだした。

 ところで、ネパール語と、インドの公用語であるヒンディー語とは、非常に似ているが、通じるようでほとんど通じない。ネパール語とヒンディー語とは、フランス語とスペイン語とのちがいぐらいの距離がある。両言語ともサンスクリット語をルーツとするが、ある段階から別の道をあゆんだ。現在のネパール王国の主流派になっている、ネパール語を母語とする山岳のヒンドゥー教徒達は、ネパール山岳地帯に移住してきた後、長い間、かなり隔離された世界にすんでいたと推定される。

 それにしても、ヒンドゥー教のエネルギーは巨大である。人間をもふくむ大自然の本源的な生命力を開花させようとしているかのようだ。結局、インド人たちは生命力を信じているのであり、ヒンドゥー教とは生命力信仰なのだとおもった。



カトマンドゥからデリーへ

 2001年8月5日(日)、私は、カトマンドゥ・トリブバン国際空港からインド・デリーへむけてとびたつ。インド航空機が近年ハイジャックされた経緯もあり、セキュリティ・チェックは非常にきびしい。

 飛行機は、右まわりに旋回しながら次第に高度をあげていく。眼下には、四方を山地にかこまれた広大な大地がひろがっている。そのカトマンドゥ盆地をぬけ、ヒマラヤ山脈の南西へとすすんでいく。雲の中をぬけると右手には、ガネッシュ・ヒマール、マナスル・ヒマール、アンナプルナ・ヒマール、ダウラギリ・ヒマールの山群が次々にひろがっていく。それらは文字通り「世界の屋根」そのものであり、天空をつらぬいている。さらに西進、右下にはブトワールの町並みが手にとるようにみえる。そこ、パハール(亜ヒマラヤ)のふもと、タライ平原との境界部の川ぞいには見事な扇状地が形成されている。そしてパハールのはるかむこうには、アンナプルナ・ヒマールとダウラギリ・ヒマールが堂々とかまえている。ここは、大陸移動と造山運動がおりなす悠久の自然史の現場であり、大自然の偉大さを感じさせてくれる。ブトワール西部のタライでは大規模な洪水が発生しており大地が茶色くにごっている。タライからパハール・ヒマールへとはるかにつづく大山脈地帯、これらを一望したのは今回がはじめてでありとても感慨ぶかい。この風景をみることができただけでも今回の旅行は非常に意味のあるものになった。

 約1時間半後、飛行機はデリー上空にさしかかる。どこまでもつづく町並み、遠くには巨大な高層ビル群がみえる。デリーは大都会である。空港で200ドル(T/C)をインド・ルピーに両替する。1ドル=46ルピーである。ニュー・デリー駅前へいき、メイン・バザールに宿をとる。スター・ビュー・ホテル、1泊300ルピー。とにかく暑い、37度Cある。インドの公用語であるヒンディー語はネパール語と文字はおなじであるが、ネパール語はほとんど通じない。

 翌8月6日、デリー北部、オールド・デリーにある「ラール・キラー」をおとずれる。赤色砂岩できづかれた「赤い要塞」であり、イスラム・ムガル朝のシャー=ジャハーン帝が1648年に完成させたものである。残念ながら休館中で中には入れない。そして、同じくシャー=ジャハーン帝が1658年に完成させたインド最大のモスク「ジャマーマスジッド」にいく。大理石(結晶質石灰岩)と赤色砂岩がふんだんにつかわれている。モスクの中に入るのははじめてであり、イスラム教は偶像崇拝を禁止しているので、内部は非常にシンプルである。夕方はすごい大雨がふる。

 8月7日、今日はニューデリーにある「国立博物館」をみる。この国立博物館は1960年に建設され、インダス文明発祥以来の南アジア5000年の歴史の足跡をたどることができる。ハラッパンギャラリー、ヒンドゥー教の神々の銅像など見事である。古代文明は、インダス文明とメソポタミア文明がまずおこり、ややおくれて中国文明・エジプト文明が発生する。ユーラシア大陸の中央部から次第に大陸の両側にひろがっていく文明の歴史におもいをはせることができる。インダス文明地域には、後に、黒海の東部・コーカサス地方からアーリア人が侵入し、ヒンドゥー文明をきずいた。その後、イスラム帝国の侵略があり、現在は、ヒンドゥー文明とイスラム文明とが拮抗している。

 博物館の建物は、3階建、ドーナツ型構造をしており、みたいところへ自由に移動でき、重点的な見学が可能なしくみになっている。しかし、解説があまりにも簡略である。入館者にもっと親切な解説を用意すべきであろう。また、特別企画展を開催するスペースが中心にあった方がよい。常設展示だけでは、博物館は死んでしまう。

 ここニューデリー地区はイギリス統治時代に建設された地域であり、オールドデリーにくれべて格段に整備され広々としていて気持ちがよい。

 8月8日、インド独立の父・マハトマ=ガンディが火葬された「ラージガート」と「ガンディ国立博物館」をみる。非暴力主義をつらぬき、民衆と苦労をわかちあったガンディの生涯はインド独立の歴史そのものであり、また、イギリス支配からのインド独立は、ガンディの生涯を通して非常によく理解することができる。

 博物館を後にして、チベット仏教の小さい集落「ラダック・ブッダ・ヴィハール」へいく。仏教の寺の脇に、小さなバザールが発達している。チベット人らしいモンゴロイドの人々がみられる。 チベット動乱によって避難してきた人々だろうか。そばには大河ヤムナー川が悠々とながれている。

 8月9日、初代イスラム帝国のシンボル「クトゥブ・ミラール・コンプレックス」をおとずれる。インドでもっとも高い塔「クトゥブ・ミラール」は、1199年に、北インドを征服したクトゥブディーン=アイバクが、戦勝を記念して建設させた塔で、デリーがはじめてイスラムの覇権下におかれたことを象徴する建造物である。以後、奴隷王朝にはじまるイスラムのデリー支配がつづくことになる。塔のそばには、インド最古のモスク「ククッワト・ウル・イスラム・モスク」がある。このモスクは、それまであったヒンドゥー教とジャイナ教の寺院をとりこわして、それらの石材をつかってつくられているため、ふるい寺院の残骸がたくさんのこっている。柱にきざまれていたヒンドゥーの神々は、そのすべてが顔をはじめ表面をけずられている。イスラムはヒンドゥーを破壊し、その両者は融合することはない。ここ南アジアは、ユーラシア大陸の東西の文明がぶつかるところ。ここでも、その片鱗をうかがいみることができる。

クトゥブ・ミラール
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ヒンドゥーの神々
> ヒンドゥーの神々

 次に、16世紀、ムガール帝国2代皇帝が居城として使用した「プラーナ・キラー」へいく。巨大な城壁の中に、モスク、図書館の跡などがのこっている。

サルナートとヴァラナシ

 8月10日、私は、デリーから、飛行機で南東へ約1時間、ヴァラナシへ移動する。そしてヴァラナシから、オート・リキシャで約40分、仏教の聖地・サルナートへいく。そこには、仏教の史跡があつまる遺跡公園があり、ブッダがはじめて説法した場所にたてられた「ダメーク・ストゥーパ」(仏塔)や、大仏教寺院の跡などがある。ストゥーパは5〜6世紀につくられ、後に改修され現在のように巨大なものになったと推定されている。ここには、大寺院にむかってながい参道がのびていて、その左手に巨大なストゥーパがある。大寺院へむかって、あるいていって参拝する形式ができあがっている。

 8月11日、「考古学博物館」をみる。サルナートで発掘された仏像など、紀元前3世紀から紀元後12世紀の出土品が展示されている。 入り口には、マウリア王朝の3代目・アショカ王(紀元前272-232)が、紀元前250年頃につくった「ライオン柱頭」があり、これは、この時代、仏教によって国家を統治することをしめしたシンボルである。博物館には、5世紀および11世紀の出土品が私がみたかぎり多く、このデータがただしいとすれば、これらの時代に仏像がたくさんつくられ、このことは、その時代に仏教が非常に繁栄していたことをしめすとかんがえられる。私の専門である地質学と同様に考古学でも、年代決定の作業は非常にむずかしく、「時間分解」の研究をきわめて正確におこなわなければならない。ことなる時代に、ことなる環境で形成された作品を現在同時にみているので、それらを歴史の中に位置づけてみなおしていくことが必要である。

 博物館をでてから、ジャイナ教の「ジャイナ寺院」、スリランカが1931年に建立した仏教寺院「ムルガンダ・クティ」へいく。スリランカの寺の内部には、「ここサルナートは、ブッダの教え『仏教』誕生の地である」と記載されている。現在ネパール領内にあるルンビニがブッダ生誕の地であるのに対し、サルナートは、ブッダが最初に説法をおこなった地である。ともに、仏教の聖地と言われているが、現在は、仏教そのものはインドではおとろえてしまっている。両地ともに、スリランカ・ビルマ・タイ・チベット・中国・日本などの仏教国が、あたらしい寺を建立している。仏教の聖地として今後どのように発展していくのであろうか。

 8月12日、サルナートから、ヒンドゥー教の聖地の中の聖地・ヴァラナシに移動する。18世紀に建立されたドゥルガ寺院をみた後、ガンジス河へいく。本来、南東へむかってながれているガンジス河が、ここでは北上し、さらに、大きく孤をえがいて東にまがる正にその頂点の西岸に、ヴァラナシの町はひろがっている。川岸には、ガート(沐浴場)がどこまでもつづいており、ヒンドゥー教徒達があふれかえっている。彼らは、一生に一度はヴァラナシをおとずれ、ガンジス河で沐浴したいとねがう。雄大なガンジス河は、まるで「世界の底」をながれるかのように悠々とながれ、すべての物をのみこみ、すべての物をあらいながしていく。今日の夜は、 クリシュナ・フェスティバルである。5人の男達が、ガンジス河へむかって、いのりをささげつづける。

 8月13日、朝6時30分、ガンジス河のはかる向こう岸から、太陽がのぼりはじめる。御来光である。多くの人々が沐浴をしながらい のっている。

 今日は、ヴィシュワナート寺院、火葬場、ネパール寺院をおとずれる。ネパール寺院は、インドの寺院とはことなり、カトマンドゥのヒンドゥー寺院と同様のスタイルで、レンガづくりに木枠の窓というネワール様式である。200〜300年前にネパール国王により建立された。

 8月14日、アジアで最大規模をほこる「ヴァラナシ・ヒンドゥー大学」へいく。ヒンドゥー教関係の学問だけを教育・研究しているのではなく、半円形でよく整備された広大なキャンパスに、工学部・理学部・医学部・文学部・芸術学部・ミュージアムなどが設置され、総合大学になっている。全寮制であるため、学生のための立派なホステルがたくさんある。大学は、シティから近すぎず遠すぎず適当な距離のところに位置していて、勉学のために生活のために大変よい環境である。大学の中央部には大きなヒンドゥー寺院があり、それは正に大学の中心で大学のシンボルになっている。ヒンドゥー教がこの大学の思想的基盤になっており、安定感がある。それに対し日本の大学はいったい何を基本思想にしてやっているのだろうか。

 午後7時、ガンジス河の西側はうつくしい夕焼けである。一日がおわろうとしている。ここヴァラナシは、「世界の底」をながれる巨大なガンジス河が、大きく東へ曲がるポイントであり、そして、その真東の岸辺から太陽がのぼり、その太陽はガンジス河を大きくまたいで、西のはてにしずんでいく。河のながれの大きな変化と、太陽の運動、地と天のこのシンクロナイズに、人々は古代から偉大な生命力を感じていたにちがいない。

 8月15日、「バーラト・マート・マンディール」(インド母なる寺院)へいく。何とそこでは、インド亜大陸の立体模型が御神体になっている。これはいったい何を意味するのだろうか。寺院は、インド独立の父マハトマ=ガンディにより1932年につくられ、インド独立と国民の団結を目指した人々のねがいがこめられているという。御神体は大理石でつくられており非常に正確にできている。縦スケールが強調されていて、インド亜大陸とユーラシア大陸の境界部、ガンジス低地からタライ・パハール・ヒマールへとつづく地形がよく表現されている。飛行機からみたヒマラヤ大山脈地帯の様子もよくわかる。

 その後、私は、ネパールに帰国するため、ヴァナラシ空港からデリーにもどる。 機内にて機長が放送で言う。「今日はインド独立記念日です。」奇しくも今日はインド独立記念日、インドの巨大なエネルギーが解放された日であった。暑さと喧騒と混沌の国・インド、この巨大な国は今後どのように発展していくのだろうか。

 ロイヤル・ネパール航空機にて、無事、ネパール・カトマンドゥにもどる。せまい道路、レンガづくりの家々、でこぼこ道。やっぱりネパールだ。かえってきてほっとする自分を発見している。ネパールにはまだ素朴さがのこっている。

ヒンドゥー教は生命力信仰である

 さて、今回の旅でみてきたように、インドには、古代インダス文明の発祥にはじまり、アーリア人の侵入によるヒンドゥー文明の成立、イスラム帝国の侵略・支配、イギリスによる植民地化、イギリスからの独立という非常にながい歴史がある。

 ヒンドゥー教には「ヴァルナ」とよばれる身分制度があり、それは、司祭・王族・農工商人・奴隷の4階級からなる。このヴァルナとは本来「色」を意味する言葉で、先住土着民と、後から侵入してきたあたらしい支配者・アーリア人とを肌の色で区別したことに由来している。また、南アジアは、東のヒンドゥー文明と西のイスラム文明とがぶつかりあう地域である。このヒンドゥー教徒とイスラム教徒とのあらそいは、宗教上のあらそいのようにも一見みえるが、その本質は先住民と侵略者とのあらそいであろう。アーリア人の侵入、イスラム勢力による支配といった歴史事件が、身分社会構造や、東西の文明の対立といった、現代においてみられる空間的図式になってあらわれているとかんがえられる。本来歴史的なるものが、空間的構造的にあらわれていると言ってもよい。

 また、古代インド文明は周辺諸国に伝播し、さらに、仏教を通して、ユーラシア大陸極東部の日本にもわたってきている。たとえば、仏塔を意味する「ストゥーパ」という言葉はサンスクリット語であり、それは「卒塔婆」(ソトウバ、ソトバ)と漢語に音写され、後に日本にわたってきた。卒塔婆は、簡略化されて「塔婆」(トバ)、「塔」(トウ)とよもよばれている。また、ヒンドゥー教の神々は、仏教にもとりこまれ、日本にもわたってきている。帝釈天・大自在天・吉祥天・弁才天・閻魔大王などがそうである。

 私がすんでいる、インドのすぐ北側のネパールでは、南側半分はヒンドゥー教であるが、北側は仏教(チベット仏教)である。ヒンドゥー文明圏と仏教文明圏とがネパール領内で接しており、カトマンドゥ盆地内にかぎっていえば、その両者は融合している。 ネパールはいわゆる北伝仏教の通り道であった。

 ところで、インドではネパール語は通じそうで通じない。フランス語ができるネパール人の友人にきいてみたところ、ネパール語とヒンディー語(インドの公用語)とは、フランス語とスペイン語ぐらいのちがいがあるそうである。このことは何を意味するのだろうか。ネパール語を母語とする、ネパール山岳地帯にすむアーリア系住民は、イスラム帝国の侵略により、インドから移住してきた人々であると言われている。ネパール語とヒンディー語はともにサンスクリット語をルーツとするが、ある段階から別の道をあゆむことになった。つまり、インドのアーリア人と、山岳地帯に移住してきたネパール系アーリア人とは、交流がなかったということであろう。山岳地帯に移住してきたアーリア系の人々は、ながい間かなり隔離された世界にすんでいたのではないだろうか。これらの人々は「山岳のヒンドゥー教徒」ともよばれ、現代のネパール王国の主流派になっている。

 インド文明の中核をなすヒンドゥー教は、バラモン教、仏教の次に発展してきたという歴史をもち、それは、バラモン教を基礎としながらも、仏教や土着信仰をとりこんで発展したものである。古代のインドで繁栄した仏教は、その後に発展したヒンドゥー教の中にのみこまれてしまっている。インドではあたらしい宗教が発展し、ふるい仏教はインドよりも、その周辺からユーラシア大陸の辺境地にのこっているとみることがでる。文明の歴史的発展と中央から周辺へという伝播により、ユーラシア大陸にことなる「文明圏」がつくられている。

 それにしても、ヒンドゥー教の巨大なエネルギーとはいったい何であろうか。そのヒントは、やはり、今回おとずれたヴァラナシにあるとおもう。ガンジス河と太陽。それぞれが巨大なエネルギーであり、そして、それらのシンクロナイズ。大自然は、決して一様、のっぺらぼうではなく、エネルギーのつよい場所とそうでない場所とがある。そのエネルギーのことを「生命力」とよびかえてもよいだろう。結局、インド人達は生命力を信じているのではないだろうか。ヒンドゥー教は人間をもふくむ大自然の本源的な生命力を開花させようとしているかのようだ。ヒンドゥー教とは生命力信仰なのだ。そして、たくさんのヒンドゥーの神々は、その生命力の様々な側面をシンボル化したものであると私にはおもえる。奇しくも、インド独立記念日に、「バーラト・マート・マンディール」(インド母なる寺院)でみた御神体「インド」は、混沌の国・インドそのものが、巨大な生命力であるということをあらわしているように私には感じられた。

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