秘境 ブータン |
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ヒマラヤ山脈(遠望/空撮) |
<目次> 第1部 大乗仏教の国 2004年8月12日発行 |
はじめにビデオ「秘境ブータン(1)(2)」(注)は、1983年1月にNHK特集として放送された番組をそのまま収録したものである。 ブータンは、ネパールの東側にあるヒマラヤの王国であり、ヒマラヤを理解するうえでさけてはとおれない重要な国である。この国は、ふるくから秘境といわれその実像はあまりしられていないため、これらのビデオは、ブータンの様子をしるための貴重な映像資料となっている。これらをくりかえしみて、また言語的にも記録することにより、ブータンに関する理解をふかめることができる。 以下に、これらのビデオの概要をのべ、最後に考察をくわえる。 (注):ビデオ「秘境ブータン(1)王都の仮面祭り、(2)幻の王家の谷へ」NHKソフトウェア発行、ポニーキャニオン発売。 |
> ブータン王国の位置 |
> ブータン全図 |
第1部 大乗仏教の国(ア)国境の町 プンツォリン1982年9月、はじめて撮影をゆるされたNHK取材班がブータン国境へとむかっていく。お寺の山門のような大きな門がみえてくる。ここがインドとブータンの国境である。門をくぐるとプンツォリン、ブータンに入国できる唯一の町である。 門には大きな竜がえがかれている。ブータンの正式な国名はドゥルックユル(竜の国)である。 プンツォリンは北緯27度、沖縄とほぼおなじ緯度に位置する。海抜は約200メートル、気温は30℃をこえ、亜熱帯に属する。バナナがたわわにみのっている。シジミタテハチョウがとんでいる。ブータンの人びとの顔つきは日本人によく似ている。 北側には、ヒマラヤ山脈の山並みがひろがっている。 プンツォリンをあとにして、国道1号線をジープでのぼっていく。国道はきれいに舗装されている。カシやシイノキがしげっており、日本の山岳地帯とよくにた光景がみえてくる。 ヒマラヤの頂上たる山並みはジャングルでおおわれている。ブータンの面積は九州とほぼおなじであり、その国土の約70%はジャングルである。 大きな滝がみえる。「トクトッカの滝」である。落差は100mはある。冬も間近いこの時期、ヒマラヤ桜がさいている。八重桜である。 (イ)首都 ティンプープンツォリンをたってから約7時間、大きな盆地の中に首都ティンプーの町並みがみえてくる。ゆくて正面には白色の仏塔がみえる。ティンプーは海抜約2400m、人口はおよそ2万人、1955年に首都がここにうつされた。 町中に入っていくと、マーケットがある、映画館がある。NHK取材班のジープ以外には自動車はほとんど走っていない。土曜日の午後、目抜き通りには人々があつまってきている。ブータンの人口は100万人あまりであり、そのほとんどが9世紀以後移住してきたチベット人の子孫である。 さきほどみた白い仏塔「メモリアル・チョルテン」へいくと、僧侶による読経の声がひびいている。塔の中に入ってみると、色鮮やかな原色でえがかれた仏たちがおどっている。ほとんどは「歓喜仏」である。ここにはチベット仏教の世界がひろがっている。この仏塔は、先代国王の遺徳をたたえてつくられた。先代国王は、国会開設・奴隷解放・国連加盟・5ヶ年計画の開始と、短期間に矢継ぎ早に近代化をすすめた。 (ウ)タクツァン僧院国道をそれて、けわしい山道を馬と徒歩で2時間あまり、きりたった900mの断崖の中腹には「タクツァン僧院」がみえる。崖にへばりつくようなお寺である。 タクツァンとは虎の巣という意味で、8世紀後半ここに仏教をつたえたインドの高層パドマサンババがまつられている。パドマサンババは、虎にまたがって天空から山の頂にまいおりたとされている。 石段をのぼっていくと寺院がある。白色の壁に朱色の装飾がほどこされている。扉をあけると怒りの表情の仏像が安置されている。パドマサンババのすがただという。 十数人のわかいお坊さんが修行をしている。ダルシン(お経をかいた旗)がはためいている。 (エ)ブータンの中枢 ダシチョ・ゾン首都・ティンプーの盆地の中心には、「ダシチョ・ゾン」がある。ダシチョ・ゾンとは「栄光ある宗教の城(砦)」という意味である。白壁に朱色の屋根がのっており、下から最上部まで6層ぐらいあるようだ。 ブータン王国旗がはためく。対角線を堺にして黄色と朱色にそめられており、宗教と政治の調和をあらわす。対角線上にはブータンのシンボルの竜がえがかれている。 ダシチョ・ゾンの中には、国会議事堂、国王や大臣の執務室、僧院がたちならぶ。その入り口には四天王がえがかれており、四天王の中心には、国王がこの国の最高権威であることをあらわす国章がある。 国王の執務室にいくと、ジクメ=センゲ=ウォンチュック国王(1955年生)が書類に目を通している。木でできたかなり質素な執務室である。インドなどの王宮とはまるでちがう。 現在すすめられている5ヶ年計画では、教育の充実、農業の振興、病院や道路の建設に重点がおかれているという。 現在の王朝は1907年以後のものである。それまでは、17世紀にチベットからおとずれた高僧・シャブドゥン・リンポチェにはじまる王朝が300年間にわたってブータンをおさめていた。 (オ)国技は弓であるブータンの国技は弓である。今日は、政府の高官と通信観光省のお役人の親善試合がおこなわれている。的までは140mもある。矢が的にあたるとおどりがはじまる。 (カ)官庁街と国立図書館官庁街の朝、役所は8時にはじまる。人々がゆったりとあるいていく。役所では約2000人の人々がはらたいている。肩からかけた大きなたすきはこの国の正装「カムニ」であり、平民は白、「ダショー」とよばれる高官は赤とさだめられている。ダショーは英語で言えば「サー」に相当する。役所は午後2時でおわる。 ゾン(城)をみおろす小高い丘の上でお坊さんが松をもやして山の神にいのっている。ブータンには仏教以前の信仰ものこっている。ここは国立図書館の建設現場である。内務大臣のキド=ロンボさんが陣頭指揮をしている。国立図書館をつくって、この国につたわる3万点の密教教典をあつめ、ブータンを密教研究のセンターにするのが悲願だそうだ。 キド=ロンポさんはバター茶をだして歓迎してくれる。これは紅茶をにたててバターをいれたもので、ブータン伝統の漆塗りの茶碗でのむ。 (キ)仏教専門学校シンバルの単調なリズムのあわせて制服をきた子供たちが かろやかにおどっている。ここはゾン(城)の中にもうけられた仏教専門学校である。おどりの訓練も授業の一部である。 教室に入っていくと国語の授業がおこなわれている。お坊さんが国語の先生であり、テキストはお経、文字はチベット文字である。日本の寺子屋のようだ。 ブータンでは普通教育がはじまってから20年が経過、10年制を基本とし、高等学校レベルまでが185校あり、教育にかかる費用は政府がすべて負担している。学生数は全国で4万人あまり、就学率は低いといわざるをえない。交通の便がわるいためほとんどの生徒が寄宿舎生活をしている。大学はまだなく、高等教育にはインドをはじめ国外留学が必要である。そのため英語の勉強も欠かせない。 (ク)パロ盆地の西岡農場赤黒い田と黄金の田がおりなすうつくしいモザイク模様がみえてくる。ティンプーの近郊のパロ盆地につく。赤黒い稲はこの国の主食「赤米」である。 ここには1人の日本人がいる。外国人としてただ一人ダショーの称号をもつ西岡京治(にしおかけいじ)さん(49歳)である。コロンボプランの専門家として入国以来、実に18年間にわたって農業改良のために はたらいている。 西岡さんはかたる。 「作物をうって現金収入をえる魅力をおしえることから わたしの活動がはじまりました。」 「ジャガイモにしてもリンゴにしても質のいいものは市場にだせるんですが、格外品の小型になったり、形がわるかったり、虫がくったり、そういった市場に直接だせない品物を加工することにより、最低価格を保証する。そのために食品加工の工場を一つつくりました。だんだん仕事が拡大してきまして、工場的要素が今ではちょっとつよくなってきています。」 「また、このパロ県では人手が特にたりないので、小型の農業機械などを日本から入れたり、インドで買って入れたりしています。そういう農業機械を修理したり維持管理します。また、買うことができない簡単な農機具はつくります。そのための大きな工場もあります。」 「農業関係の技術援助というのは、ながい目でみて、農民の生活を根底からかえていくようなアプローチがあって、それが成果を生みだすところまでいって、農民の気持ちまでかわるとおもうのです。ですから、農業技術の援助というのは、技術を農民にうつしおえたかが問題ではなくて、農民の気持ちがどこまでかわったか、気持ちをかえるところまでもっていくことが重要です。そのためには、10年15年という期間がかかります。2年3年で農業や畜産の技術援助は大変むずかしいことだとおもいます。」 (ケ)パロの人々とくらし日曜日の朝、しずかな山間の町がもっとも活気づく。農家の人々が収穫をもちよっての市がたつ。パロ日曜市である。天秤でトマトを計量している人がいる。野菜・肉・バター・農具・たばこ・米・果物・魚など何でも売っている。野菜はどれでも1キロ60円、バターや肉は1キロ400円である。以前は物々交換であったが、今ではインドのルピーやブータン貨幣で支払いをする。 農民が稲刈りをしている。9月から10月は収穫の季節である。食料のほとんどは自給自足である。ブータンには、刈った稲をつみあげて数ヶ月庭先においておく風習がある。初穂をすぐに脱穀すると、あの家はこまって新米にまで手をつけたとうわさされてしまうからだ。赤米の稲は日本の稲にくらべて細い。 初穂を油でいためて臼の中にいれ、杵でおしつぶしている。すると押し麦に似た米粒ができる。これは「シップ」とよばれる保存米であり、そのままたべられる。 家々の屋根裏部屋は風通しがよい食料貯蔵庫になっている。野菜やお酒の原料になるヒエを乾燥させて貯蔵している。乾し肉もここでつくる。乾し肉とチーズと唐辛子で煮るのがブータンの代表的な料理である。屋根の上には、赤い唐辛子がびっしりとならべられている。冬支度である。 家はほとんどが2階建てであり、1階は家畜小屋と物置、2階に人がすんでいる。大家族が普通であり、3世代12人家族の家もある。どの家にも仏間があり、生活の中に仏教が自然にとけこんでいる。 (コ)首都の祭り ツェチュ9月26日、年に1度のティンプー「ツェチュ」(首都の祭り)がはじまる。今日は、あの偉大な僧・パドマサンババがブータンにきた日にあたる。 家々では朝早くからお弁当をつくる。9時ごろになると、お城にむかう人々がふえてくる。祭りはこの日から4日間つづく。 ゾンの中にすむ大僧正にお目通りがかなう。大僧正は第63代ジェイ=ケンポさん、宗教界の王様である。現在のブータンは俗世の王権となっているが、17世紀の国家統一以来ながらくつづいた宗教者による国家支配のなごりをここではみることができる。 大僧正の「カムニ」は黄色であり、これは国王と大僧正だけにゆるされている。はじめてあうときは「カタ」とよばれる白いきれを献上する。ジェイ=ケンポさんはおしえてくれる。「カタは心のきよらかなことを相手にしめします。身体を支配しているのは心であり、心を清めることがもっとも大切なことです。」 朝10時、「仮面祭り」の幕開けだ。動物たちが乱舞する。高々と跳躍する「ガルーダ」はインドが生んだ空想の鳥である。城にすむ僧たちが華麗に舞いつづけ、地獄のおそろしさと仏のすくいのすばらしさを人々におしえる。どこか東北の「鹿踊り」に似たリズムが感じられる。仮面祭りには200年の歴史がある。 午後になると、冥土の王様が登場する。死者は、冥土の王様のさばきをうけなければならない。仏は死者のよいおこないをのべるが、冥土の王様のさばきにより、死者は閻魔様とともに地獄にまっさかさまにおちていく。 このような祭りをみていると、仏教を通してブータンと日本文化とのつながりを感じることができる。 第2部 遊牧民の村と王家の谷(サ)立体曼荼羅 タシゴマンさて、NHK取材班の取材はつづく。ティンプーの縁日にいってみる。「タシゴマン」をもって聖(ひじり)たちがあつまっている。たくさんの人々がおまいりにきている。 「タシゴマン」とはブータン独特の立体曼荼羅である。この中には300にのぼる仏様がおさめられている。17世紀にこの国をはじめておさめた高僧シャブドゥン・リンポチェがつくりだしたこの立体曼荼羅は、今も南方にいきるパドマサンババの宮殿をかたどったものである。聖たちはこの「タシゴマン」をせおって全国を行脚する。 (シ)古都 プナカへ1982年12月、取材班は、ブータンの古都プナカへむけてティンプーを出発する。川沿いの街道を自動車ですすんでいく。所々に小さな仏塔がたっている。かつて氷河がきりひらいたひろびろとした地形がひらけている。 しばらくいくと川岸にプナカ・ゾン(城)がみえてくる。17世紀にシャブドゥン・リンポチェが築城したブータンの仏教の総本山であり、かつてはここに都がおかれていた。 (ス)照葉樹林帯をゆく自動車はここプナカまでである。1トンちかい機材と食料を馬の背へとつみかえる。 プナカから、川沿いにひたすら北をめざす。ふるくからチベットへいく道としてつかわれているが、地図はない。長い雨期のあと、崖崩れがおこって道がきえている。危険な岩場をのりこえていく。 カシやシイノキなど、光沢のある分厚い葉っぱをもった常緑樹林がひろがってくる。「照葉樹林」である。 25年まえ、栽培植物学者・中尾佐助さんは中国国境からこの道をあるき、照葉樹林が、このあたりから日本にまでつらなっていることに着目して、稲作以前の文化はこの照葉樹林の中からうまれたという仮説をだした。いわゆる「照葉樹林文化論」である。これによると、照葉樹林でくらしていた人々は木の実や芋を採取する生活をしていたが、その後、農耕生活へとうつりかわっていったという。 ランの花がさいている。ガイドがワラビをとってくる。サトイモもある。標高は1800メートルもあるが湿気が多く蒸し暑い。 前をあるくポーターの足から血がながれでる。けがをしたのだろうか。いや、ヤマヒルにやられたのだ。ヤマヒルは、尺取り虫のように足をはいあがってくる。大量にいる。 3日目、ようやくヒルの林をぬけ、県庁のガサ・ゾンにさしかかる。17世紀、シャブドゥン・リンポチェは、チベットからここを通り西部へ入ってブータンを統一した。ここには温泉があり、旅のつかれをいやしてくれる。39度C、硫黄泉である。 ガサをでると道は一層けわしくなる。谷底まで700〜800メートルはある。マツなどの針葉樹がしげりはじめる。地バチの大きな巣がある。 高度3800メートルの峠にさしかかると、2つの白いこぶが針葉樹の間からみえてくる。標高約7000メートル、ガンチェンタの雄姿である。 ティンプーをたってから8日目、ブータンを東西に分かつ分水嶺ブラック・マウンテンがみえる。魔の山として人々からもっともおそれられている山である。そのはるかむこうには、神の住む山・ツェンダカンがそびえる。あの山のふもとに、めざすブータン最北の村ヤラがある。 (セ)幻の遊牧民の村 ラヤ石造りの家々、ひろがる麦畑、ようやくラヤへ到着する。ここはブータン最北の村、標高3800メートルの高地である。村人が、ヤクのヨーグルトでもてなしてくれる。「タシデレ(乾杯)!」。ヨーグルトのつぎはツァンパ(麦焦がし)だ。中国との国境にはサチュガンがそびえる。山裾には氷河がひろがっている。 翌朝、ヒマラヤ鳩の群れが大空をながれていく。村では、竹の笠をかぶった少女が水をくみにいく。小さいときから女の子は家事を手伝い、男の子はヤクをおう。 ラヤの人々は、13世紀にチベットから移住してきた。幻の遊牧民といわれ、撮影隊が入ったのはもちろんはじめてである。人口は1500人あまり、ヤクの数はおよそ6000頭、1件あたり30から40頭のヤクをもっている。 ここは森林限界をこえており、高山植物がつめたい風の中でふるえている。まじかに白銀の大ヒマラヤがせまる。 遊牧地からつぎつぎにヤクがおりてくる。ヤクは黒い分厚い毛皮でおおわれている大型の牛だ。高山の動物で、海抜3000メートル以下では飼うことができない。ラヤの人々は春から秋にかけては、ヒマラヤ山中5000メートルの山中でヤクとともにくらしてきた。 ヤク毛でつくった黒テントのまえで、ヤクの乳搾りから朝の仕事がはじまる。1日に1頭から桶2杯分の乳がとれる。ヤクに塩をのませている。こうすると、のどがかわいて草をたくさんたべ、乳の出もよくなるという。 テントのなかではバターづくりがはじまる。お嫁さんのチョイキさん。23歳。竹の筒にミルクをいれて棒でかきまぜることおよそ2時間、ミルクからバターが分離してうきあがってくる。それをあつめて水分をしぼるとバターのできあがり。 のこりのミルクを煮立て、酵素をいれると今度はチーズができる。ブータンのチーズは発行していないのが特徴で、脂肪分のすくないあっさりした味である。ヤクの毛でつくった糸をチーズにとおし、チーズをかわかす。ヤクとむすびついたラヤの生活がある。 この土地での主食は大麦である。春、遊牧にでるまえに種をまいておいて、半年後にもどってきて収穫する。 石造りの家の前では、少女が織物をしている。女性は、嫁入り前に母親から織物をならう。野生のカイコからとれた絹、木綿、ヤクの毛から織物をつくる。2ヶ月で1着分の反物ができあがる。少女の帽子の中にはバターが入っている。時折顔にぬると肌のつやがよくなるという。 ラヤの人々は、1年のほとんどをテントの中でくらすが、春と秋の2回だけ石造りの家ですごす。家の中に入るとお米が入った袋や籠がおいてある。1年にヤクを1頭ずつうっては、1年分のお米を仕入れるという。仏壇もある。 ラヤの滞在はわずか2泊、村人はラヤの民謡でわかれをおしんでくれる。民族服に身をつつみ、スプーンやコインで着飾っている。ラヤはまもなく冬、人々はヤクとともにあたたかい南の地へ移動していく。 翌朝、オレンジ色の空のもと、どこまでもつづくヒマラヤの大パノラマが姿をあらわす。大ヒマラヤの東の端、幻のブータンヒマラヤの雄大な朝焼けだ。標高7550メートル、ブータンの霊峰・ガンケルプンツムがかがやいている。 (ソ)王家の谷 ブムタンさて、取材班は一旦プナカへもどり、今度は東へ道をとり、ブムタンへいく。 ブムタンは現在の王家発祥の地、かつてはこの谷でまつりごとをおこなっていたことから、人々はブムタンを「王家の谷」とよぶようになった。 標高は2800メートル。稲作はできずソバを栽培している。しりあいのトラック運転手の家にいってみると、ところてん式の道具からほそいソバがでてくる。そのソバは、ゆであげて水にさらし、ボールにうつす。それに唐辛子をふりかけて、熱い油をそそぎ、手でかき混ぜればできあがり。 ソバガキもある。ソバガキはかためて器の形にする。その中にバターをいれて、塩と唐辛子を入れ、もう一つのの小さくまるめたソバガキでバターをなじませながらたべる。 マツの葉でおおわれた入れ物には、納豆が入っている。この地では、大豆をゆでて、麹をいれて納豆をつくっているのである。1週間ほど発酵させたのち杵でつぶす。竹のまげわっぱに入れて保存する。そのままたべるのではなく材料の味付けにつかう。日本の味噌に似ているようだ。 このような発酵食品は照葉樹林文化の典型的なたべものの一つである。とおく4000キロはなれた日本とブータンとの間に、こんなにもにた食文化があるのにはおどろかされる。 ブムタンには、パドマサンババが8世紀後半に創建したクジェ寺院がある。中のお堂に入ってみると、高さ10メートルあまり、この国でもっとも大きな仏像がある。この仏像をつくった人はやがて、ブータン王国の初代国王となった。 朝6時半、シンバルの音がひびく。タムシン僧院に僧侶たちがあつまってくる。15世紀、ペマリンパがこのお寺をたてた。ペマリンパは王家の先祖である。ホルンとラッパ・太鼓・金の音がなりひびくなか、本堂でおつとめがはじまる。400年たった今でもペマリンパは生きている。チベット仏教では、高僧は生まれ変わり転生をかさねて生きつづけると信じられている。 正面にはパドマサンババの像が安置されている。周囲の壁は色鮮やかな壁画でうめつくされている。そのなかにはチベット仏教独特の「歓喜仏」もある。男の仏は方便を、その妃は智慧をあらわす。男女の仏が合体することで方便と智慧とが合体する。 寺の外へでてみると、農作業をしながら、わかい男女が歌のかけあいをしている。日本にもかつてはこのような素朴でのどかな光景があったのだろうか。 自然環境・伝統と近代化との調和をはかるチベット仏教を国の根本にしているさて以上みてきたように、ブータンは、8世紀後半にパドマサンババがつたえた「チベット仏教(大乗仏教)」を国の根本にしており、一方で、国土のかなりの部分が照葉樹林帯に属すため「照葉樹林文化」を基盤としてもっている。 8世紀後半に仏教がつたえられたときから、チベット人のブータンへの移住もはじまった。ブータンの民族にはシャーチョップ族とガロップ族がおり、シャーチョップ族はヒマラヤ原住民であるが、ガロップ族は、チベットからこの地にうつりすんだチベット人の子孫である。 現在、首都と各県におかれているゾンは、17世紀にチベットからきてブータンを統一した、チベット仏教ドゥック派のンガワン=ナムゲルがつくったものであり、これは寺院と政庁をかねた建物で、このゾンを中心とする行政組織は現在のブータンにもそのままうけつがれている。またツェチュ祭を筆頭に、国の祝祭日も仏教関係のものが断然多いという。 このように仏教は、政治・経済・社会の中心に位置し、民衆の日常生活の隅々にまでふかく浸透し、ブータン人の世界観・価値観を形成している。この点は、おなじヒマラヤの王国であっても、多民族・多宗教国家であるネパールとは大変ことなる。 照葉樹林文化が基盤である照葉樹林帯は映像では、プナカからラヤへいく途中で紹介されていた。 ブータンをふくむヒマラヤ山腹から、中国雲南、そして日本へとつづく広大な地域には、カシ・サカキ・ツバキ・シイ・クスノキ・ハンノキなどの表面がテラテラと光る硬い葉をもつ常緑闊葉樹の林がひろがっており、中尾佐助氏はこれを「照葉樹林」とよんだ。 中尾氏は「果てしなく続く照葉樹林の中を進みながら、心の中では数千年前の日本の光景を追っていた」といい、最初の狩猟採集文化はこの地帯にうまれ、イモ類を栽培する栽培農耕文化から、さらに、元来は自生していた稲を人の手で栽培する稲作文化までの発展が、この照葉樹林帯でおこったという「照葉樹林文化論」をとなえた。 ブータンと日本との間には、納豆・ソバ・茶・酒(麹をつかった雑穀酒)・絹織物・漆器・竹細工・和紙など、実に多くの共通文化をみることができる。日本文化のルーツをさぐるうえでブータンは大いに参考になる。 近代化がすすめられるこのようなブータンでも農業の近代化がすすめられている。 映像の中にでてきた西岡京治氏は、元々は、大阪府立大学農学部教授・中尾佐助氏の学生であった。日本からの専門家派遣は本来2年間であるが、撮影当時ですでに18年が経過しており、異例の長期延長をつづけていたことになる。 1984年になると、派遣元である国際協力事業団は西岡氏の派遣をうちきるむね通知した。しかし、ブータン国王は「ダショー・ニシオカにかわる専門家の派遣をわれわれは必要としない」とし、任期の延長をもとめた。その翌年日本からやってきた調査団も「地方の実験農場にすぎなかったところが、いまは国家レベルの農業開発政策をたてて、それを実施する一大総合農場となり、専門家(西岡氏)も、国王および国民各層から絶大な信頼をえている」と報告した。 西岡氏の派遣延長はみとめられ、その後も農場は発展をつづけて、全国の農業改善の拠点として機能するとともに、多数の人材もそだてあげた。 しかし、1992年3月、西岡氏は急病によりブータンで亡くなる。ブータンに赴任して28年がすぎていた。生前の偉業がたたえられ国葬がとりおこなわれた。ブータン各地から5000人もの人たちが弔問におとずれたという。 農業以外の分野でも近代化はすすめられている。青年海外協力隊も派遣されている。 1992-93年度の国家歳入をみると、総額33億8400万ヌルタムで、その内訳は、自国収入が16億5300ヌルタム、国際開発援助が15億9200ヌルタム、借り入れが1億3900ヌルタムである。自国収入と国際援助がほぼ同額であり、国際開発援助がいかに重要な比率を占めているかがわかる。 あくまでも自然と伝統をまもる多くの発展途上国では急激な近代化のために、首都や大都市の商業資本のみが発展し、それにあわせて人口が都市へ集中、地方は何もできずに、都市への人口流入はますますすすみ、貧富の差も拡大し、悪循環がつづき、環境も荒廃するといったことがおこっている。たとえば、おなじヒマラヤの王国ネパールでは、急激な近代化、外国人の大量流入などにより、環境や伝統は破壊され、政治も不安定になり、大規模な武力闘争も発生、現在、危機的状況におちいっている。 しかしブータンでは、国の伝統や環境を保全することを第一に尊重しながら、ゆっくりとしたペースで近代化をすすめているという。西岡京治氏も、ブータンの農民の立場にたって、ブータンの人たちの身の丈にあった技術協力をおこない、農家が自立し、永続する道をきりひらいた。西岡氏の協力活動は、日本の国際技術協力の中でもっとも成功した例だといわれている。 ブータンの森林保全政策も、地球環境問題の視点から近年注目をあつめている。資源衛星ランドサットからみるとブータンだけがすっぽりと森林におおわれていることがわかるほどだという。 外国からの観光客に対しても、自由な観光を制限し、観光公害を最小限にくいとめている。 また、今世紀はじめごろから南ブータンに移住してきたネパール系の人々が、1980年代末には、人口(60万人)の25パーセントをしめるにいたったが、ブータン政府はブータンの伝統をまもる政策を強化した。 このようにブータンは、あくまでも自然と伝統をまもりながら近代化をすすめようとしている。 ブータンは現在、大乗仏教を国教として独立をたもっている唯一の国である。そこは、インドとも中国ともちがうチベット文明圏の一部である。国土は小さいが、強力なアイデンティティをもっており、チベット仏教の生活様式、あるいはその世界観や価値観にもとづいてブータン人は生きている。 独自かつ強固な世界観や価値観の伝統を元々もっていたという点においては、中国文明・インド文明(ヒンドゥー文明)・イスラム文明などの国々と似ており、無条件で西欧近代文明を輸入するということはそもそもありえないのである。この点、西欧近代化を国是としてきた日本とは根本的にことなり、西欧近代文明の価値基準だけで世の中を判断しないように注意しなければならない。 急激に近代化をすすめようとする世界各地の発展途上国の中にあって、このようなブータンのあり方は例外的であるが、環境・文化・伝統を維持しながら発展するよくできたモデルとなる可能性がある。 ブータン国王は、「我が国は、GNP(国民総生産)ではなく、GNH(グロス・ナショナル・ハッピネス)=国民総幸福量では、どこの国にもまけません」と発言されたという。 参考文献石田孝夫著『ブータンに図書館をつくる』明石書店、1993年。 |
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