思索の旅 第3号
岩手県立大学

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<目 次>
日本語の作文技術
マンダラは、インドで生まれ日本までつたえられた
格付けとは評価である -写真整理ソフトiPhoto-
学者と政治家が協力する -首都大学東京の開学-
ノートパソコンに思いつきを即入力する
情報処理速度のギアチェンジが必要である
抗議も提言も必要である
伝統の中に創造がある -日本のピアノづくり-
困って本当の自分を知る -素心知困-
1つのモデルにとらわれないようにする
子供には最高のものをみせる
スライドショーで旅を再現する
調和の回復と未来創造が人類の課題である
環境問題を自然史からとらえなおす

日本語の作文技術

 みずからの体験を文章化するとき、できるだけわかりやすい文章をかくことが課題になる。そのために役にたつのが本田勝一氏の「日本語の作文技術」(注)である。
 その要旨は次の通りである。

日本語の語順の基本原則

(1)述部(動詞・形容詞・形容動詞)が最後にくる。
(2)形容する詞句が先にくる(修飾辞が被修飾辞の前にくる)。
 単に「わかりやすい」ための語順として
(3)ながい修飾語ほど先に。
(4)句を先に。

テンの二大原則

(1)ながい修飾語が二つ以上あるとき、その境界にテンをうつ。(長い修飾語の原則)
(2)語順が逆順になったときにテンをうつ。(逆順の原則)
(3)思想の最小単位をしめすときにテンをうつ。(思想のテン)

助詞の使い方

(1)係助詞「ハ」は、格助詞ガノニヲを兼務し、文の題目をしめす。
(2)対照(限定)の係助詞「ハ」は、ひとつの文(または句)の中ではなるべく二つまでとする。
(3)「マデ」と「マデニ」の区別をつける。
(4)接続助詞の「ガ」は、逆接以外は最小限の使用におさえる。
(5)並列の助詞「ト」「ヤ」「モ」「カ」「トカ」「ニ」「ダノ」「ヤラ」などは、最初の単語につける。ただし「モ」と「カ」は全体の最後にもつけ、「ト」にもその傾向がある。

 日本語の作文技術は、「入力→処理→出力」という情報処理の観点からは出力(アウトプット)の技術として必要である。
 わたしは、本多勝一氏が提唱した上記の作文技術を「仮説」として採用し、情報処理あるいは問題解決の過程で徹底的につかってみた。その結果、この技術が大変有効であり、実際に役立つことがあきらかになった。科学的ないいかたをすれば、「仮説」にもとづいて「実験」をおこない、そのたしからしさを「検証」(実証)したということになる。日本語の作文技術に興味のある方には本多氏の技術を第一におすすめする。(040504)

(注)
本多勝一著『日本語の作文技術』(朝日文庫)、朝日新聞社1982
本多勝一著『実戦・日本語の作文技術』(朝日文庫)、朝日新聞社1994
本多勝一著『日本語の作文技術』(本多勝一集19)朝日新聞社、1996年

マンダラは、インドで生まれ日本までつたえられた

 2003年、国立民族学博物館で「マンダラ展 - チベット・ネパールの仏たち -」が開催され、同時にその解説書が発行された(注)。
 マンダラは、今から1500年前にインドで生まれ、ネパール・チベット・中国・日本につたえられた。マンダラとは、宇宙の縮図であり、同時に心の縮図である。仏教では、宇宙と心とは元来おなじものであるとかんがえる。そしてマンダラは、宇宙を心の中にとりこむための案内図・見取り図であり、道具である。
 その類型としては、日本で重要な位置をしめる「胎蔵マンダラ」・「金剛界マンダラ」、ネパールにのこる「法界語自在マンダラ」、インド密教の最後をかざる「カーラチャクラ・マンダラ」がある。
 また、ネパールの首都があるカトマンドゥ盆地は、それ自体が「ネパールマンダラ」になっている。(030930)

(注)国立民族学博物館 編集『マンダラ - チベット・ネパールの仏たち -』財団法人千里文化財団、2003年、111ページ。

格付けとは評価である -写真整理ソフトiPhoto-

 アップル社の写真整理ソフトに「iPhoto」というのがある。これには、1〜5つ星をつけて写真を格付けする機能がついている。そしてたとえば、3つ星以上の写真だけを表示・閲覧するというようなことが簡単にできる。
 この「格付け」という作業は「価値判断」をするということであり、何らかの指標あるいは物差しを設定して、その人がすべての写真をランクづけしながら、写真、もっと正確にいえば情報の価値をみいだしていく過程である。その価値判断は指標がことなれば当然ことなってくる。人によってみる目はことなる。
 このような「価値判断」は「評価」といってもよい。けっきょく、1〜5つ星をつける人は目の前にある情報を「評価」しているのである。iPhotoの「1〜5つ星」は評価の道具である。何となく星をつけるのではなく、「評価」の意味を自覚し、「評価」を意識しながらこのような作業をおこなえば、情報処理の質は格段に高くなる。(040423)

学者と政治家が協力する -首都大学東京の開学-

 東京テレビで、2005年度に開学する首都大学東京の初代学長に就任する西沢潤一教授(現岩手県立大学学長、元東北大学総長)と東京都知事の石原慎太郎氏とが対談している。首都大学東京は、今までの常識をうちやぶるあたらしいスタイルの大学にするという。
 学者は、政治権力から独立した自由な立場でなければならないという考えがあり、事実、そのようにしている学者は多い。しかし、学者と政治家が理想にむけて協力できたとき、後世にものこるよい仕事ができる場合がある。あたらしい大学をつくるときなどには、このような条件が必要である。学者だけではとてもできない大きな仕事、特に人材養成をともない後世に大きな効果をあたえるような仕事では、学者と政治家とが協力することが必要である。
 それにしても、何事にも動ぜず、日本社会の裏表をみすえて行動していく西沢潤一氏の言葉にはふかみがある。(040424)

ノートパソコンに思いつきを即入力する

 「PCはメモ代わり、思いつきを即入力」と和田秀樹氏はいう(朝日新聞be on Saturday 2004.04.24)。
 和田氏は、週に1冊以上の著書をだすという驚異的な仕事量をこなすために、ソニーのノートパソコン「バイオノートTR」(ディスプレーサイズは10.6インチの小型パソコン)をどこへいくにももちあるいている。パソコンはいつも電源をおとさずサスペンド状態にしておく。つまり、つかわないときはスリープ状態にしておき、何かをおもいついたらすぐにたちあげ「ワード」あるいは「ウィンドウズのメモ帳に入力」する。「わずかな空き時間でも、思いついたことはあまさず書き込んでいくことが大事」だという。パソコンをつかいながらたえずブレーンストーミングをしているので、おどろくべきはやさで本の原稿を仕上げることができる。
 さまざまな情報を効率的に処理していくためには、どういう方法で出力(表現・発表)するかをあらかじめ明確にしておき、それをターゲットにした独自の情報処理のスタイルをつくらなければならない。出力あるいは表現形式としては、写真・絵・音楽・口頭発表・演説などもあるが、文章にする人が圧倒的に多いだろう。したがっていかに効率的に文書化にむすびつけるかが課題になる。そのためには、和田氏のようにいきなり入力するのが一番よい。
 しかし、フィールドワークをおこなう場合は、野外でのあるきながらの観察、現地の人からのききとりなどのときは、その場ではパソコンをつかえない場合がとても多い。とくに海外での調査の場合は電力事情がわるいこともあり、パソコンの環境がととなわないことがよくある。その場合は、その時その場での記録は紙のノート(手帳)にペンでメモをとり、宿にもどってきてからパソコンに入力するという方式をとることになる。
 今後、取材現場に直接もっていける、現在よりも省電力の小型軽量パソコンが開発されれば、あるいは小型軽量の太陽電池などが開発されれば、取材活動のために重宝されることだろう。紙のノートや手帳をまったくつかわなくなるということはないが、ポータブルなノートパソコンが取材スタイルを激変させていくのは必至である。
 紙のノートでは蓄積された情報をつかいきれないが、パソコンにデータベースをつくっておけば検索や閲覧が容易であり、たえず過去の情報をとらえなおすことができる。パソコンの出現によって はじめて「ノートの活用」が本当にできるようになったのである。
 このようにかんがえてくると、たとえば、学生の講義のノートなどもパソコンでとるようにすれば、すぐにデータベースができてしまい、あとでそのデータベースを整理すること自体が理想的な講義の復習になる。わたしの学生時代にはかんがえられなかったことが現実になりつつある。(040424)

情報処理速度のギアチェンジが必要である

 日常的な日々の記録と、特定のテーマをもった現地調査の記録とでは、記録の仕方がちがう。前者では効率性や簡便性を重視するが、後者では記録のための一層の努力と工夫がいる。
 フィールドワークの専門家の著作物に記載されている取材法・記録法は後者のためのものであり、これをそのまま日常的につかおうとすると無理がある。方法が「重すぎる」のである。
 いずれの場合でも、取材や記録は情報処理のためにおこなわれるのであるが、目的に応じて方法をつかいわけなければならず、それぞれの観点から技法を工夫しなければならない。
 具体的には、取材や記録、情報処理の速度を調整する必要がある。日常的な日々の取材・記録は軽く高速でおこない、特別な現地調査では、速度をおとし じっくり とりくまなければならない。
 これは、状況に応じて情報処理の「ギアチェンジ」をおこなうということである。「ギアチェンジ」の技術を身につければ、むだな力をつかわずによりスムーズに情報処理を前進させることができる。(040426)

抗議も提言も必要である

 メーリングリストには時々抗議がよせられることがある。あるメーリングリストで、「抗議よりも提言をのべてほしい」と投稿した人がいた。たしかにその通りであり、建設的な提言が必要だろう。
 しかし実際には、抗議も提言も両方が必要である。抗議は、その状況の「評価」をふまえておこなわれる。したがってただしい評価をふまえた抗議はあってもよいし、そのような評価があってこそあたらしい「構想」がうまれる。
 評価をふまえて構想をねることが重要である。(040426)

伝統の中に創造がある -日本のピアノづくり-

 「世界の音をめざせ」(NHKプロジェクトX)で日本のピアノづくりが紹介された。
 日本のピアノづくりは、輸入品をそっくりまねるところからはじまる。しかし、どうしてもうまくいかないところがある。そこで、日本の家具づくりの技(わざ)である「蟻組み」(ありぐみ)をもちいる。そして日本のピアノは天才リヒテルにみとめられるまでになる。
 日本の技術が西洋の単なるモノマネではないということが、この「蟻組み」をつかったところにあらわれている。ここに、日本の伝統に西洋の技術をくわえることにより新製品が生まれる様子、日本の技術に西洋の技術を融合させる「東西融合」の現実をみることができる。日本の伝統は、新製品開発の中で脈々と生きているのである。
 モノマネや勤勉さだけで日本のような技術立国が生じるのではなく、そこには歴史とその必然があるのだということをピアノづくりからもよみとることができる。(040428)

困って本当の自分を知る -素心知困-

 岩手県立大学学長の西沢潤一氏は「素心知困」の碑を同大学にたてた。
 「素心知困とは、自分自身を知って、本当にしたいことが何なのかをかんがえ、世の中の役にたちたいと思ったとき、そのための技術が自分にはないことに気がつき、困る、そしてさらなる勉強をはじめるといった意味である」(東京テレビ)。
 とことん自分を問いつめて、実践に移行してみると、本当の自分を知ることができる。
 国際協力の現場に行った人々がよく体験することである。国際協力の現場から かえってきてから本当の勉強をはじめる人は多数いる。
 また西沢氏は、「今の学者はこまっている人々に協力をせず、世の中から はなれたところにいる人が多いが、本来、こまっている人々に協力するために学問はある。また、その協力のなかからあたらしい学問がうまれてくる」とものべている。(040502)

1つのモデルにとらわれないようにする

 仕事とは「判断→執行」であるというかんがえ方がある。これは仕事の1つのモデルである。一方で仕事を「情報処理」ととらえるモデルもある。また仕事を問題解決としてとらえるモデルもあるし、仕事をサイクルとしてとらえるモデルもある。
 仕事は一つのモデルだけであらわしきれず いくつかのモデルがありえる。仕事にかぎらず何事も、たった1つのモデルだけにとらわれないことが大切である。(040505)

子供には最高のものをみせる

 「絶対の心でおかきくださいまし」(「子供の心に歌を」NHKその時歴史が動いた)。子供には最高のものをみせる。子供だからといって手抜きをしない。最高の情報はそのまま子供の心の深層に蓄積される。(040505)

スライドショーで旅を再現する

 植物学者の中尾佐助氏は、フィールドワークからかえってきたら、(フィルムカメラで)撮影した写真のすべてをスライド映写機をつかい時間軸にそってみなおし、旅を再現していたという。こうすると、その日一日のできごとがびっくりするほど鮮明に、連想もくわわって画面以上におもいだせたということである(中尾佐助著『分類の発想 -思考のルールをさぐる-』朝日選書、1990年)。
 このような方法による「旅の再現」は、むかしは一部の人にしかできなかったが、今では、デジタルカメラとパソコンのスライドショーで誰でも簡単にできるようになった。画像ソフトにはサムネイル表示の機能もあるので、撮影した全写真を一覧して代表的な写真をピックアップすることも簡単である。
 情報機器発達の恩恵を享受し、おりにふれて「旅を再現」し、心をゆたかにしていくことが大切である。(040505)

調和の回復と未来創造が人類の課題である

 地球環境問題の本質には、人類(人間社会)と地球環境の不調和と、悲観的未来予測の2つの側面がある。不調和と未来不安は共鳴して問題を大きくしている。これらを裏返せば、調和の回復と明るい未来創造が人類の根本的な課題ということになる。前者は空間的地理的な側面であり、後者は時間的歴史的な側面である。
 このような2つの側面にそってさまざまな情報を整理してみと、地球環境問題についてとらえやすくなる。(040506)

環境問題を自然史からとらえなおす

 「15万年前は、地球は温暖で海進がすすんだ。2万年前は寒冷で海退がすすんだ。6千年前は海進がすすんだ。2千年前には現在のすがたになった。多摩川にはアユがいたが、高度経済成長にともなう環境汚染によりアユはいなくなった。しかし最近、100万匹のアユがもどってきた」(「多摩川のアユ復活」NHK地球ふしぎ大自然)。
 この番組では、環境問題を自然史の観点からとらえている。自然の過去・現在・未来をとらえるのが自然史である。
 通常 環境問題は、人間社会と自然環境との相互作用、両者の不調和としてとらえられる。これは、環境問題の空間的地理的なとらえかたである。
 しかし他方で、この番組のように自然史の観点から歴史的にとらえることも可能である。
 空間的地理的な観点は環境問題の横軸であり、自然史の観点は縦軸である。両者をくみあわせることで理解が急速にすすむ。(040506)

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2004年9月28日発行
(C) 2004 田野倉達弘