博物館と史跡めぐり
-江戸東京博物館から旧江戸城(皇居東御苑)へ-
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江戸城本丸・松の廊下跡
(皇居東御苑)

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<目次>

江戸城本丸の「松の廊下」をみる

旧江戸城(皇居東御苑)をめぐる

大名の格式

空間歴史学


>>>地 図


2003年12月1日発行

 

 

 江戸城本丸の「松の廊下」をみる

 諸大名が将軍に拝謁(はいえつ)する大広間、そしてそれにつづいて「松の廊下」がみごとに復元されている。1701年(元禄14年)3月14日、播磨・赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)にきりかかる事件はこの廊下でおこった。

 ここは東京・両国にある江戸東京博物館である。この博物館は、うしなわれつつある江戸東京の歴史遺産をまもるとともに、東京の歴史と文化をふりかえることにより、未来の東京をかんがえる博物館として1993年に開館した。展示室には、実物資料や複製資料のほか、綿密な研究をふまえて復元したみごとな大型模型がたくさん展示されており、江戸の歴史を目でたのしみながら まなぶことができる仕組みになっている。

 2003年7月、わたしはこの博物館を見学する。

 「松の廊下」は大広間と白書院とをむすぶL字形の廊下であり、南北約33メートル、東西約21メートルと推定されている。障壁画(しょうへきが)も復元されており、時代劇などでは豪壮な一本松がえがかれていることが多いが、ここにみられるように実際には浜に千鳥が鳴くおだやかな景観だったという。その障壁画の奥には、御三家や前田家・越前松平家など最高の格式を有する大名の詰所がある。

 松の廊下の手前にある「大広間」は、江戸城内でもっとも重要な儀式がとりおこなわれる場所で、一番高いところが将軍が座す上段の間であり、その下に、中・下段の間、二の間、三の間、四の間があり、全体で500畳ほどのひろさがあったという。一方の「白書院」は勅使との対面などにもちいられた。

 

 旧江戸城(皇居東御苑)をめぐる

 その後2003年11月、旧江戸城(皇居東御苑)をみにいく。

 北の入り口である平川門をくぐると二の丸の日本庭園がひろがってくる。江戸時代そのままの日本庭園は今はここにしかのこっていない。

 二の丸をぬけ「汐見坂」にくる。ここは二の丸と本丸とをつなぐ坂道で、その昔、今の新橋から皇居前広場のちかくまで日比谷入江が入りこみ、この坂から海をながめることができたという。

 汐見坂をのぼりきると大きな石垣がみえてくる。天守台である。天守閣は、1957年、明暦の大火で全焼し今はのこっていない。1638年に三代将軍家光が完成した天守閣は、外観五層・内部六階で地上からの高さは58メートルもあり、江戸幕府の権威を象徴するのに十分な大きさがあったという。焼失後は、もはや幕府の権威をしめす必要がなくなったため再建されなかった。わたしは、天守台のうえにたって往時の絢爛豪華な天守閣を想像する。

 それにしても、ここからみる江戸城は実に広大である。本丸と二の丸をあわせて面積は約21万平方メートルもあるそうだ。周囲を堅固な堀で囲まれ一種独特の閉鎖空間をつくりだしている。この地が、江戸時代を通じて日本の政治の中心をなしていたのである。ここにたてば、周囲の庶民の世界とは隔絶していた特別な空間を心の中で味わうことができる。

 天守台をおりて南東にむかってあるいていく。大奥の調度などをおさめた「石室」、防御をかねて石垣の上にもうけた長屋づくりの倉庫である「富士見多聞」(ふじみたもん)、そして「松の廊下跡」である。やはり、松の廊下跡は観光客に一番の人気だ。江戸城内で二番目にながかったというこの大廊下は今は一本の道になっている。

 わたしは博物館でみた模型をおもいだし、それを今たっているこの現実の空間にあてはめて想像をふくらませる。「松の廊下」とその前の「御庭」がみえてくる。その南側には「大広間」が、北側には「白書院」がある。そして、本丸の建物は、「表」から「中奥」、「大奥」まで、この本丸全体にわたってひろがっていく。本丸にはぎっしり建物がつづいており、ここでもまた、当時の江戸城がいかに大きな城であったかを実感することができる。

 その後、将軍が両国の花火や品川の海をながめたといわれる「富士見櫓」(やぐら)をへて展望台にくる。展望台から東方をみると、二の丸のむこう側に高層ビル群がどこまでもつづいている。景観などあったものではない。当時の人々がこの光景をみたらどんなにおどろくだろうか。想像を絶する世界であろう。時代のうつりかわりとはいえ、歴史や伝統を無視した都市づくりはいかがなものか。100年後にはこの景観はすこしは改善されているのだろうか。

 

 大名の格式

 さて、今回の江戸東京博物館と史跡めぐりから何がみえてくるであろうか。そのひとつは大名の「格式」である。

 江戸時代の大名にはさまざまな格式があった。将軍家との関係のふかさによって、「親藩」(しんぱん)、「譜代」(ふだい)、「外様」(とざま)に分類されていたのはよくしられている。ここでおもしろいのは、江戸城登城の際の詰所により、「大廊下詰」(おおろうかつめ)、「溜間詰」(たまりのまつめ)、「大広間詰」(おおひろまつめ)などの格式があったということである。

 「松の廊下」は実際には「大廊下」とよばれ、御三家、御三卿、金沢・前田、鹿児島・島津、越前・松平家など、もっとも高い格式をもつ大名の詰所がそこにはあった。「白書院」の北の方には「溜の間」(たまりのま)があり、会津若松、高松、桑名の各松平家、井伊・酒井などの家門・準家門(御三卿の次に格式が高い)、譜代の名家、老中歴任者の詰所があった。さらに、「大広間」には、溜の間詰以外の家門・準家門、および10万石以上の外様大名の詰所があった(注)

 このように、建物の中の場所によって格式がきめられていて、本丸の建物のなかに各大名はきれいに配置された。空間の中における大名のしめる位置から格式がみえてきて、同時に、格式により幕府が大名をうまく統制し、政治をとりおこなっていた様子をうかがいしることができる。幕府の制度がそのまま建物の構造に反映され、建物の構造から幕府の枠組みや仕組みを視覚的によみとることができるのである。

 

 空間歴史学

 つまり格式が空間を決め、空間が格式を決める。そして江戸時代の秩序がつくりだされていたのである。

 今回わたしは、江戸東京博物館で「松の廊下」とその周辺の建築物の模型をみて、江戸城や江戸時代の概要をつかんだ。そして旧江戸城をめぐり、現場を実際にみながら想像をふくらませた。この第2段階の「史跡めぐり」はフィールドワークそのものであり、このような行為は「歴史をフィールドワークする」といってもよいだろう。

 この過程で非常に重要な行為は「往時の空間を想像する」という行為であった。わたしは江戸城本丸に実際にたって、江戸城の情景や江戸城内の建物の位置・構造を想像してみた。今はないものを、あるものとして心の中に再現していく。想像するときには、博物館でみた松の廊下の模型を中核にする。想像といっても勝手気ままにするのではなく、博物館の研究成果にもとづいた想像なのである。このようなイマジネーションのために博物館の模型は大変役にたつ。そして、博物館では再現されていなかった部分にまで想像を大きくひろげ、江戸時代をおもいえがいていく。歴史とは想像である(図)。

[図] 模型を中核にして歴史を想像する

 

 このように、フィールドワークをしながら、往時の空間をリアルに想像して歴史をかんがえていく分野は「空間歴史学」といってもよいだろう。歴史というとすぐに年表をおもいうかべ、時間的時系列的なストーリーをおいかけがちだが、このように建築物の位置・構造・ひろがりといった「空間」に着目する方法もありえるのである。そして、心の空間にみずから建設した往時の建物に、知識をどんどんむすびつけながら歴史を理解し記憶していく。これは、短時間でできるとてもたのしい歴史の勉強法である。

 

(注)江戸東京博物館編集「図表で見る江戸・東京の世界」財団法人 東京都歴史文化財団発行、1998年。

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(C) 2003 田野倉達弘