都市国家の時代から領域国家の時代へかわりました。ローマ帝国が繁栄しました。古代ギリシャ・ローマ文明が基礎となりヨーロッパ文明が発展しました。
特別展「ポンペイ」が東京国立博物館で開催されています(注1)。ナポリ国立考古学博物館(注2)の全面的協力による「ポンペイ展の決定版」です。
ステレオ写真は平行法で立体視ができます。
立体視のやりかたはこちらです。
序章 ヴェスヴィオ火山とポンペイ埋没
第1展示室 ポンペイの街:公共施設と宗教
第2展示室 ポンペイの社会と人びとの活躍
第3展示室 人びとの生活:食と仕事
第4展示室 ポンペイ繁栄の歴史
第5展示室 発掘の今むかし
ポンペイの位置
略史
- 前7世紀末 現在の位置(ポンペイ)に都市が建設される。
- 前6世紀 ギリシャ人とエトルリア人の影響下で、最初の市壁、最初のアポロ神殿、三角広場のドリス式神殿が建設される
- 前5世紀末 サムニウム人に征服される。〈サムニウム時代〉
- 前2世紀 経済的に繁栄。フォルム(公共広場)を大整備、アポロ神殿改築、大劇場などが建設される。
- 前91年 同盟市戦争が勃発する。ポンペイはローマとたたかう。
- 前89年 ローマ軍によって征服される。
- 前80年 ローマの植民市となる。〈ローマ化の時代〉
- 前1世紀 ウェヌス神殿、小劇場、円形闘技場が建設される。ユピテル神殿がローマとおなじ3神を祀るように改築される。
- 前27年 初代皇帝アウグストゥスが統治、ローマ帝政期にはいる。
- 62年 大地震が発生、ポンペイ、おおきな被害をうける。地震後、ローマ皇帝ネロが慰問する。
- 79年 ヴェスヴィオ火山が噴火、ポンペイ、埋没する。
- 117年頃 ローマ帝国の版図が最大になる。
- 313年 ローマ帝国、キリスト教を公認する。
- 395年 ローマ帝国、東西に分裂する。
- 476年 西ローマ帝国、滅亡する。
*
ポンペイは、オスキ語をはなす先住民がもともとくらしていましたが、前8世紀からはギリシャ人が南イタリアに進出し、前7世紀には、カンパニア地方(イタリア南西部)にエトルリア人が勢力を拡大し、都市が形成され、前6世紀には、最初の市壁や神殿が建設されました。
しかし前5世紀後半、カンパニア地方の平坦部へ山岳部から進出したサムニウム人によってポンペイは占領され、前2世紀には、東地中海との交易が活発になり、ヘレニズム文化の影響をうけて市街地が一新されました。
そのご前91年、イタリア半島の同盟市がローマ市民権を要求し、ローマとの間に同盟市戦争が勃発、ポンペイは同盟市側でたたかいましたが、前89年、スッラによって占領されて自治市(ムニキピウム)となり、さらに前80年にはローマの植民市(コロニア)となり、ポンペイの社会や文化はローマ化されます。
そしてローマ人植民者が上位にたつ貧富の差のはげしい格差社会が成立し、上流層の証しは、二人委員(ドゥウムウィリ)や造営官(アエディレス)に選挙に勝って選出され、市参事会(オルド・デクリオヌム)の終身議員になることでした。他方、奴隷は、人口のかなり(一説には4分の1ほど)をしめ、戦争の被征服民や捨て子や奴隷の母からうまれた子供たちであり、農業奴隷は、足枷につながれ過酷な労働をしいられました。街の奴隷は、よみかきのできる者は厚遇され、主人に気にいられれば奴隷から解放されるという希望が労働の原動力でした。
前27年以降のローマ帝政期には街の随所に皇帝の影響がみられるようになり、皇帝からの恩寵をえられるかどうかに地方都市ポンペイの趨勢はかかっていました。次々と建立された神殿や3基の記念門などは皇帝家の人物を称揚するためのものでした。
ポンペイの住人(都市部)は、製造業・建設業・小売・飲食業・サービス業など、さまざまな職業に従事していました。600以上の店や工房が街全体で発掘されており、遺構や遺物から何の店だったか判別できるものもあり、石窯や石臼があるのはパン屋で、石臼だけの製粉所もありました。テイクアウトができる料理屋(テルモポリウム)のカウンターには、料理をいれるための大甕(おおがめ、ドリウム)がうめこまれており、洗濯屋には、大小いくつもの水槽がもうけられていました。家の外壁や屋内にえがかれた絵やモザイクが店の業種をつたえることもあります。
特定の店舗をもたない露店や行商の商売人や肉体労働者もたくさんおり、現場におもむいておこなう仕事もありました。大工や壁画家の道具もみつかっています。また見せ物や選挙などの広告文を外壁にかく筆記者 (スクリプトル)や子供に勉強をおしえる教師もいました。
街はずれや市壁の外では農業や水産業がいとなまれ、産物の加工もさかんで、地元で消費するだけでなく他地域に輸出する加工食品も生産されていました。ヴェスヴィオ火山の周辺地域の火山灰土壌は果物の栽培に適していたのでブドウやオリーブが栽培され、ポンペイのワインは、イタリア半島だけでなくカルタゴ・ガリア地方・イベリア半島にも輸出され、オリーブ油は品質がたかいことで有名でした。またガルム(魚醤)も、ローマをふくめ各地に輸出されました。
ところが79年、ヴェスヴィオ火山が噴火、火口から約10kmはなれたポンペイには、昼すぎから11時間にわたって大量の灰や軽石がふりそそぎ、街から脱出する者もいれば、家のなかににげこむ者もいましたが、しだいに、噴出物のおもみで家々の屋根はおち、のこった者はとじこめられます。そして翌朝、高温の火砕サージと火砕流がポンペイに襲来、すべてが死にたえます。しこみのおわったワインや部屋にだされた暖房器具、毛皮の帽冒子をかぶった遺体などがみつかったことから噴火は晩秋であったとかんがえられ、10月24日噴火説が有力です。
*
こうしてポンペイは、火山噴出物に埋没し、都市のにぎわいをそのままとじこめた「タイムカプセル」になりました。
そしてようやく、16世紀なかばになってその存在が発見され、1748年から発掘がはじまります。現在はおよそ8割が発掘されて巨大な遺跡公園として整備され、当時の街の様子が再現されています。
フォルム(公共広場)をかこむアポロ・ウェヌス・ユピテルの各神殿、三角広場の大小の劇場、1万5000人を収容できる大闘技場、食料雑貨の小売店、酒場、浴場、庶民の家、商人の家、富豪の邸宅、車道と歩道が区別され横断歩道もある街路、柱廊、凱旋門など、古代都市とそこでくらす人々の生活の様子がおどろくほどよくわかります。またアレクサンドロス大王のモザイクなど、おおくの出土品がナポリ国立考古学博物館におさめられています。
ポンペイは、当初は、オスキ語をはなす先住民がくらしていましたが、ヴェスヴィオ火山の山麓に肥沃な土地をもち、ナポリ湾にちかく交通の要衝であったため、前8世紀にギリシャ人が、前7世紀にエトルリア人が進出し、都市国家を形成したとかんがえられます。前5世紀になるとサムニウム人に占領され、市域が拡大し城壁がつくられましたが、それまでの伝統的なギリシャ文化がまもられたことが広場や家屋のモザイクなどにあらわれています。
しかし前91年、同盟市戦争が勃発、前80年、ローマの植民市となり、以後、ローマ化が急速にすすみ、都市参事会制度がととのい、ローマの富裕者が別荘をつくり、芸術家や職人もあつまり、最盛時の人口は1万5000~2万をかぞえ、カンパニア地方でも有数の壮麗な都市となります。ローマ帝政期にはいってからも保養地として繁栄をつづけ、水道や舗装路がさらに整備されます。
このようにポンペイは、古代ギリシャ・ローマ時代の都市と生活をしるための宝庫となっており、ポンペイをとおして、都市国家が戦争をへて、帝国(領域国家)にくみこまれていく歴史をうかがいしることができ、ここに、古代ギリシャ文明から古代ローマ文明への移行、都市文明から「領域文明」への発展をみることができます。
今回の特別展にいけば、古代都市のなかをあるいているような疑似体験ができ、約2000年も前に、わたしたちがおもっていたよりもレベルのたかい文明が存在していたことがよくわかります。そしてこの古代文明が、のちのヨーロッパ文明の形成におおきな役割をはたしていくことになるわけです。
▼ 関連記事
古代ローマ都市にタイムスリップする - 世界遺産・ポンペイの壁画展 –
特別展「古代ギリシャ - 時空を越えた旅 -」(まとめ)
▼ 注1
特別展「ポンペイ」
会場:東京国立博物館・平成館
会期:2022年1月14日~4月3日
※ 写真撮影が許可されています。
特設公式サイト
巡回展(予定)
京都市京セラ美術館:2022年4月21〜7月3日
宮城県美術館:2022年7月16日〜9月25日
九州国立博物館:2022年10月12日〜12月4日
▼ 注2
ナポリ国立考古学博物館
公式サイト
▼ 参考文献・ビデオ
芳賀京子監修、東京国立博物館・朝日新聞社編集『特別展 ポンペイ』(展覧会図録)、朝日新聞社・NHK・NHKプロモーション発行、2022年
弓削達著『地中海世界 ギリシア・ローマの歴史』(講談社学術文庫)、講談社、2020年(原本は1973年)
NHKオンデマンド「よみがえるポンペイ」(Amazon)