思索の旅 第20号
マチャプチャレ山
> マチャプチャレ山
(ネパール・ポカラ郊外)

20-01 アクションリサーチにより民族の個性がわかる

 国際協力の現場でアクションリサーチをおこなっていると、それぞれの民族に、それぞれ固有の性格があることがわかってくる。それぞれの民族に、民族総体としての個性が存在する。あるいは、表面的にはわからないが、それぞれの民族間に、対立が潜在していることがわかってくることもある。一方で、日本人にも、民族としての性格・個性があることがわかってくる。日本人はとても勤勉で几帳面であり、こまかいことが得意である。
 アクションリサーチをおこなっていると、民族の内部にくいこむことができ、あたらしい発見をすることが非常に多い。

20-02 現地住民がもっている情報を処理する

 現地住民の心の中には、社会から自然環境にいたるまでの膨大な情報が入力され蓄積されている。それは記憶という形で、住民たちの心の中に保存されている。記憶された情報は普段は出てこないが、何らかのきっかけによって外部に出てくる。
 フィールドワークでは、住民がすでにもっているこの情報を効率的にひきだし、その情報を迅速に処理することが重要である。

20-03 こちら側の姿勢がよいとよい情報循環が生まれる

「逸品館の、『良いものだけを推薦する』という姿勢が、『音のよい製品は逸品館なら売ってくれる』という嬉しい評価につながって、私が探さなくても、誰彼となく『よい製品の情報』が自然に届くようになってきています。よい循環だと感謝し、より『よい製品を奨めてゆく』という責任を大切にしたいと感じています」(「逸品館」のウェブサイト)。
 オーディオ・ホームシアターの専門店である逸品館は、「よいものだけを推薦する」という姿勢をつらぬいているという。そのために、すぐれた製品をもれおとさないように、日々、情報収集に大きな努力をはらっているようである。
 しかし一方で、「よい情報が自然に届くようになってきている」とのことである。ここに、こちら側の姿勢がよいと、周囲はそれに反応し、情報のよい循環が生じる好例をみることができる。情報循環とはこのようにして生じるのであろう。
 よい情報をえるためには、まず、みずからの姿勢をよくすることからはじめなければならない。

20-04 外国語のトレーニングを情報処理の一環としておこなう

 外国語(現地語)を、情報処理の観点からとらえなおすと、聞くことと読むことは「入力」であり、話すことと書くことは「出力」である。これらの間において情報の「処理」がなされ、ここで、相手や民族に関する理解や価値判断がすすむ。
 ここに、外国語のトレーニングの効率をあげるヒントがある。外国語のトレーニングを情報処理のトレーニングの一環としておこなうのである。情報処理の中で、言語の役割や位置づけを明確にし、関係する外国人や民族に関する認識をふかめていく。そして、その情報処理の結果を自分の言葉で出力する。出力は表現と言いかえてもよい。
 それぞれの民族がつかっている言語は、それぞれの民族の体験やメッセージの要約であり、その体験やメッセージを知るための窓として機能している。言語とは、言語になる以前のメッセージを言語にしたものであるから、相手のメッセージをつかむことことが重要である。
 言語は、コミュニケーションの手段だとおもわれているが、もっと根本的には、情報処理の手段・道具である。その観点にたてば、入力されるのは言語だけではない。言語の周辺や奥にあるもろもろの情報も同時に心の中に入力するようにすれば、言語能力とともに情報処理の能力は格段にあがる。

20-05 人間は、高度な情報処理をおこなっている

 NHK教育テレビに高校講座「情報A」という番組がある。この番組では、デジタル技術の基本をとてもわかりやすく、実演をまじえながら解説している。たのしみながら情報技術の仕組みをまなぶことができる。
 しかし、もっとも基本的な解説が欠けている。それは情報処理の基本的な仕組みである。情報処理の仕組みとは「入力→処理→出力」である。このことをたえずとらえなおしていかなければ、いくら電子技術をまなんでも意味がない。逆に、情報処理の仕組みをふまえて電子技術を身につければ、幅広い応用ができるようになる。
 また、情報処理をおこなうのはコンピュータだとおもっている人がいるが、実は、人間こそが情報処理をする存在なのである。人間は、視覚・聴覚などのさまざまな感覚器官から情報を心の中に「入力」し、心の中で入ってきた情報を「処理」し、声や手・体をつかって情報を「出力」している。この人間がおこなう情報処理の多くは無意識におこなわれている。コンピュータよりも人間のほうがはるかに高度な情報処理を日々刻々とおこなっており、コンピュータは、人間の情報処理を手助けする道具として存在している。

20-06 KJ法のステップは情報処理の過程になっている

 川喜田二郎教授が創案した「KJ法」は発想と問題解決の方法としてひろく知られている。この「KJ法」を、現代的な情報処理(入力→処理→出力)という観点からとらえなおすとどのようになるだろうか。
 川喜田教授によるとKJ法は、「ラベルづくり→ラベル拡げ→ラベル集め→表札づくり→図解化→叙述化」というステップから構成されている。
 このなかで「ラベル作り→ラベル拡げ」はラベルに情報を記入して、それらを机上で縦横にならべて読む作業である。この読む作業は、視覚から情報を心の中に「入力」することにほかならない。
 つぎの「ラベル集め」では、ラベル(情報)の類似性に着目して、志(意味)の似たラベルをちかくにあつめる作業である。この似ているかどうかの判断はその人の心の中でおこなわれる。これは情報の「処理」に相当する。
 そして「表札づくり」では、あつまったラベルのすべての意味を統合して、そのエッセンスを要約し、あらたな単文として書く作業であり、あたらしい単文はあたらしいラベルに記入される。これは言語による「出力」である。その後、それらのラベルを模造紙上に配置し、図解化すし、図解にもとづいて文章化あるいは口頭発表をおこなう。この「表札づくり」から「叙述化」の過程は、心のなかから外部へ情報を「出力」することにほかならない。「出力」は表現といいかえてもよい。
 こうしてみてくるとKJ法のステップは情報処理の過程になっていることがわかる。目でみた(入力した)情報を、心のなかで処理し、言語として出力している。
 このステップにおいて、「入力」に相当する「ラベル拡げ」では、論理にとらわれずに、分散的にそれぞれのラベル(情報)をインプットすることが重要である。「処理」に相当する段階では、時系列的なストーリーをうみだすのではなく、情報を並列的空間的にとらえて処理することがもとめられる。「出力」の段階では、今度は、情報を統合して、時系列的なストーリーをつくることが必要である。
 こうして、情報の入力は分散的に、処理は並列的に、出力は統合的におこなうのがよく、同時にこれらの「分散」「並列」「統合」は情報処理の基本原理になっていることがうかがえる。また、効率的なすぐれた情報処理をおこなうコツは、空間をうまく利用することであることがわかる。

20-07 内側からの視点と外側からの視点の両者を生かす

 ネパールで国際協力の仕事をやっていると、現地住民のディスカッションに参加することがしばしばある。このときは、現地の人々や対象の身になり、内側から共感的にものごとをみる視点が大切である。これは、外から対象をとらえるのとはちがい、現地の人々と一体になって仕事をすすめる立場である。
 しかし、現地の人々によるディスカッションだけにたよりきると結論をあやまることがある。ディスカッションはおもに記憶にもとづいておこなわれるので、記憶ちがいもあるだろうし、ひとりよがりな発言もある。そこで、議論された内容が正しいかどうかをテェックするために、フィールドワークが必要になる。この場合のフィールドワークは、外からのつめたい目でおこなうことが重要である。しばしば、専門家の視点や定量的な観測が役立つ。これはいわゆる科学的な立場である。ディスカッションが主観的な立場だとすれば、これは客観的な立場といってもよい。
 このように、ディスカッションによる内側からの視点と、フィールドワークによる外側からの視点の両者がともに重要なのであり、両者を相互に生かすことが、一段とふかい正確な理解に到達するために必要な方法となる。

20-08 情報の世界にも原理がある

 世界あるいは宇宙には原理がある。自然科学者は原理のことを法則ともいう。たとえば物質には、物理学や化学の法則がつねにはたらいている。
 原理や法則は、実は、情報の世界にもはたらいている。
 情報は、一般には、ほうっておけば拡散するものだとかんがえられている。現代では、情報をコントロールすることはきわめてむずかしくなり、情報は、みずからどんどんひろがっていってしまう。ここに、情報の「拡散原理」ともいうべき原理を感じとることができる。
 しかし一方で、ある条件あるいは環境を設定すれば情報が自然にあつまることもある。
 たとえば、数人でミーティングやチームワークをおこなうとき私がよくもちいる「探検ネット」というやり方がある。そのやり方では、まず机をとりかこむように全員がすわる。つぎに机のうえに模造紙を1枚ひろげる。その模造紙の中心にテーマ(課題)をマジックで記入する。それだけで、関係者の意識はテーマのところに集中してくる。テーマに関する記憶が一気によみがえってくる。「そういえばこんなことがあった!」そして議論をすすめていくと、様々な情報があつまってくるだけでなく、「そういくことなら彼にきいてみよう」「あそこにいけばもっとくわしいデータがえられる」といったことになってくる。こうして、関連する情報がどんどんあつまってくる。あつまった情報はラベルやカードに記載して模造紙上に配置していく。さらに、議論や仕事をすすめながら、ある段階で仮説をたてると、情報がさらに急速にあつまってくる。
 この事例では、情報の「収束原理」がはたらいている。ある環境を設定するだけで、それほど苦労をしなくても情報は自然にあつまる。人間が無理をしなくても情報のほうが自然にあつまってくる。
 このような例をみていると、情報の世界にも原理があるとかんがえたほうがよさそうである。このことがわかってくると、つぎに重要になってくることは、情報の原理をうまく利用することである。技術者が、物理学の原理・法則をうまく利用してさまざま製品を開発するのとおなじように、情報処理の世界でも情報の原理をうまくつかったほうがよい成果がえられる。

20-09 言語は、情報のひとかたまりのラベルである

 上記の「探検ネット」とよばれる方法では、情報を収集し整理するとき、情報を単文に圧縮・要約してラベルに記入する。情報はラベルとして記録・固定される。情報のひとかたまりはラベルになり、ラベルをみると情報のひとかたまりがおもいだせるという仕組みになっている。
 情報にラベルをつけることによって情報の処理が格段にやりやすくなる。たくさんの情報の一覧もできるようになる。情報はラベルになると「軽くなり」、情報処理が迅速にすすむ。
 ここで重要なことは、ラベルに記入された言語だけが情報なのではないということである。情報はもっと大きなかたまりである。体験によってえられたものすべてが情報である。言語は、情報の大きなかたまりの「ラベル」(はり紙・はり札)にすぎない。
 したがって、「探検ネット」でラベルをつかうということは、ラベルという道具をつかうという作業上の便利さだけでなく、情報処理をすすめるうえでの本質的な重要性をふくんでいるのである。
 たとえば旅行記を書くとしよう。旅行でえた情報は膨大なものである。その膨大な情報のかたまりのすべてを言語化することは不可能であるし、そのようなことをしても意味がない。重要なことをうまく要約してかくのが普通である。
 そのときに、要約をラベルに記入しながら情報を整理すれば、旅行記を迅速にかくことができる。言語に要約すること自体が、情報(体験)のラベルをつくる作業になっており、えられたラベルを整理しつつ、ラベルの背後にあるもっと大きな情報のかたまりを想起しながら文章化をすすめれば、比較的短時間で旅行記が書ける。

20-10 本来ある自然な世界の中にこそ本当の可能性がある -『千と千尋の神隠し』-

 宮崎駿監督「千と千尋の神隠し」が放映された(日本テレビ)。

 長いトンネルをくぐり、倒産したテーマパークの中へ入ってみると、欲望と贅沢にみちあふれた「すばらしい世界」がひろがっている。そこはお化けたちがくらす世界であり、彼らは、人間がのこしたすばらしい遺産をそのまま生かして快楽にふけっている。
 その世界のボスは、姉とあらそってみごとに勝利した、双子の姉妹の妹である。妹の力強い発展はとどまることをしらない。一方の姉は、とおくの沼のほとりで素朴ながら心豊かな生活をおくっている。
 ある日、欲望と贅沢の世界にあこがれて、かしこそうな生き物がやってきた。その生き物は、欲望を実現し贅沢を享受してどんどんふとっていくが、個性や主体性はまったくもちあわせていない。しかししばらくして、沼のほとりにある双子の姉の家を、子供と一緒におとずれてから、「心の世界」をとりもどす。
 子供は、テーマパークに入って家畜になってしまった両親をすくいだし、本来の世界へ一緒にかえろうと必死になる。そこに、自然の化身がすくいの手をさしのべる。自然も、欲望のボスである双子の妹に打ちひしがれ苦しんでいる。そして今度は、子供が自然をすくう。
 こうして、子供と自然はおたがいに手をつないで本来の姿をとりもどす。そして、子供は以前よりもたくましくなり、もとの世界へとかえっていく。
 しかし、親たちは何も気がつかないで、今でもうぬぼれている。

 この映画は現代文明を痛烈に批判している。子供向けの映画をよそおってはいるが、内容は実に高度であり、解釈がむずかしい。そのむずかしさは時代を先取りしているところにある。人類や地球の本当の可能性は、実は、本来ある自然な世界の中にこそ存在するのである。

20-11 情報処理能力が高まるとモノに執着しなくなる

 読書は、情報処理の行為である。本を読むとことは「入力」することであり、えられた情報を整理・編集・評価するなどの行為は情報を「処理」することであり、要点や感想・コメントなどを書きだすことは情報を「出力」することである。
 情報処理の観点にたてば、情報は、モノとしてではなく、言語に圧縮して保存しておいた方がよい。しっかりとした情報処理ができてしまうと、かならずしも蔵書をかかえておく必要がなくなる。情報処理が充実してくると、本を持っていようという気持ちがそもそもなくなってくる。重要なのは、本をもっているかどうかではなく、情報処理ができたかどうかである。本は情報の媒体にすぎない。そこで、専門書などの特に重要な本をのぞき、多くの単行本は古本屋に出してしまうということになる。あるいは、そもそも本は買わずに、図書館からかりたり、書店で立ちよみをすればよいということになってくる。
 この情報処理の原理にたって生活しながら自分の環境を整備していると、本にかぎらず、あらゆるモノに対して情報処理をおこない、その結果を言語に圧縮して保存(記録)しておいた方がよいことがわかってくる。あらゆるモノについて、見たり聞いたり触ったりしたら、心の中で情報処理をし、その結果を言語に圧縮して保存しておく。すると、かならずしもモノを保存しておく必要はなくなってくる。情報処理能力があがってくるとモノに執着しなくてすむようになる。原理はモノではなく、情報の側にある。モノは、情報の媒体である。
 なお、モノの外形などが特に重要な情報を提供している場合は、言語化のついでに、デジタルカメラで写真をとっておけばよい。

20-12 日本の近代化の歴史の中でも情報処理がおこなわれてきた

 地球物理学者・赤祖父俊一教授(アラスカ大学国際北極圏研究センター)は、「東京大学は西欧の学問を普及する大学、京都大学は探検大学、東北大学は発見・発明の大学である」とのべている(「研究創造と反骨精神」東北大学創立100周年記念事業ニュースvol.3)。
 これは、それぞれの大学の学風のちがいを言っているのであろうが、それはともかく、情報処理の観点にたつと、「西欧の学問を普及する」とは、日本に、西欧の情報をインプットすることであり、「発明」とは、あたらしいアウトプットを社会に出していくことである。時間的歴史的に言えば、インプットが先にアウトプットが後にきて、インプットがあるからアウトプットが生じるのであり、ひとつの社会にとってはインプット・アウトプットの両者が必要である。
 そうかんがえると、上記のことは、それぞれの大学が、日本の近代化の歴史の中で、情報処理の役割分担をし、日本全体としては大きな情報処理を実現してきた結果であると とらえなおすこともできる。すると、中間にある「探検」とは、情報を処理する段階ということになるのだろうか。

20-13 人間がそこにすみはじめたとき主体=環境系が発生する

 ネパール西部には、マガール族という山岳民族がくらしている。彼らの村は、中心に集落があり、その周囲を自然環境がとりまいている。ひとつの村は、主体となる集落と、その環境である自然から構成されている。
 哲学者・西田幾多郎によると、人間がそこにすみはじめたとき「主体=環境系」が発生するという。
 マガール族の人々がこの地に移住してくる前は、生の自然が存在するだけだった。しかし、彼らが移住してきて、集落と自然環境とからなる「主体=環境系」が発生した。人々は、自然環境を利用しながら生活をいとなみ、自然環境は人々に恩恵をあたえた。その結果、自然は元の自然ではなくなり、改変される環境となった。人々は、環境を改変しながら生活し、一方でその環境から影響をうけることになった。ここに、人間と自然環境との相互作用が確立し、その結果、この地域独自の文化が創出されていった。ここでいう文化とは、主体と環境との間にあって両者を媒介する生活様式である。
 このような「主体=環境系」に、地域発展の原形を見ることができる。

20-14 NGOの活動現場は全人教育の場である

 比較的小規模な国際協力NGOの現地活動は、少人数のチームをくんで作業をすすめることが多い。そこでは、人数が少ないため、1人で様々なことをやらなくてはならない。自分の専門分野だけをやっていればよいというものではない。これは、高度に分業がすすんでいる日本社会の中にいるときとは根本的に条件がことなる。
 しかしこれが、ひとりの人間に全人的に行動せざるをえない状況を生みだす。そこは、全人をそだてる全人教育の格好の現場になっている。国際協力NGOの現場は、日本人がわすれてしまった全人力をきたえなおす絶好の場になっている。

20-15 聞き取り調査と野外観察をくみあわせて情報処理の効果をあげる

 ネパールで、NGO活動をおこなうとき、各村に行ったら、住民集会・聞き取り調査・野外観察をかならずくりかえす。住民集会と聞き取り調査では、住民がすでにもっている情報をいかすようにする。住民は記憶という形で膨大な情報をすでにもっている。これにより、多様な情報を幅広く迅速に収集することができる。野外観察では、専門家や外部者の目を重視する。これにより、ふかみのある情報が収集できる。
 住民集会と聞き取りでえられる情報は主観的なものが多いが、野外観察でえられる情報は客観的なものが多い。これら二つの方法をくみあわせたとき、情報処理の質は非常に高くなる。

20-16 時間をおいて、同一場所から写真を撮影して変化を見る

 ネパール山岳地帯の森林の再生状況をみるために、約30年前に撮影された写真を日本からもっていった。私たちは、その写真が撮影された場所を発見し、全くおなじ場所の写真を撮影した(写真)。
 フィールドワークでは、様々な地域を調査して、それらを比較することはよくおこなわれるが、この例のように、同一地域の歴史的変化をとらえることも重要である。このとき、写真がきわめて大きな威力を発揮する。

20-17 全体を見て、部分に入る -山岳地域のフィールドワーク-

 2004年12月、私たちは、ネパールの西部ミャグディ郡パウダル村から、ナルチャン村へむかってあるいていた。あるいていくとナルチャン村付近の全体が前方下に見えてくる。道をあるきながら、しだいに高度をさげていく。そして、集落の中へ入っていく。これは、全体をみて、部分に入るという行動であり、高度差が非常に大きいヒマラヤでこそできる体験である。
 まず全体を見て、次に部分に入るという方法は、フィールドワークにおけるもっとも基本的な方法である。ヒマラヤでなくとも山岳地帯へいってこのような実体験をしておくと、「全体→部分」という方法をほかの場面でも応用できるようになる。

(2004年12月)
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2005年6月30日発行
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