思索の旅 第1号
東京国立博物館の庭園

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<目 次>
感じたこと、思ったこと、考えたことを文章化する
「3つ星法」により重要なポイントをえらびだす
「あらぶる父」として地球をとらえなおす
「外からの目」だけでなく「内からの目」でもみる
心の情報処理により光の世界がつくりだされる
瞬間の光を永遠のものにする
種子曼陀羅は、図形に文字をうめこんでいる
両界曼陀羅図から時間と空間を感じとる
大陸移動説に価値をみいだす
消去法で仮説をしぼりこむ
視覚情報処理の能力を開発する

感じたこと、思ったこと、考えたことを文章化する

 何かをみてその記録(メモ)をとるとき、実際にみたことだけでなく、自分が(1)感じたこと、(2)思ったこと、(3)考えたことを記録することも非常に大切である。つまり、みたことをふまえて、「感じる」「おもう」「考察」という三段階の思考のふかまりを意識してしながら記録をとっていく。これが「観察」ということである。
 記録は、メモ(単語)のままだと時間がたつにつれてどこかへいってしまう。言葉には元来「拡散原理」がある。メモのままにしておかず、なるべく時間がたたないうちに文章化しておくべきである。文章化とは、文法という法則にしたがって言葉を統合していく作業である。文章化には「統合原理」がはたらく。
 「入力→処理→出力」という情報処理という観点からいっても文章化は重要である。ここでいう情報処理とは人間が心の中でおこなう情報処理のことであり、文章化とは「出力」(アウトプット)のことである。このような統合的な言語出力までおこなって情報処理は完結する。
 みじかくてもよいから、文章化までかならずおこなっておいた方がよい。(040418)

「3つ星法」により重要なポイントをえらびだす

 書物や資料をよんで、その中から重要なポイントをえらびだすにはどうすればよいか? ここでは「3つ星法」を紹介する。その具体的なすすめかたはつぎの通りである。

  1. 書物をすべて一気によみ、重要な部分にアンダーラインあるいはサイドラインをすこし多めに記入する。
  2. アンダーラインあるいはサイドラインを記入したところだけをみて、その中でさらに重要だと感じた部分に星印を1個つける。
  3. 星印をつけた部分だけをみて、さらに重要だと感じた部分に星印を1個つけくわえる。
  4. 星印2個の部分だけをみて、さらに重要だと感じた部分に星印を1個つけくわえる。この3つ星の部分がもっとも重要なポイントとなる。
  5. そして、その重要なポイントを圧縮・要約して文章化しておく。

 ただし、あまり大部でない書物や資料の場合は星印1個までおこなえば用がたりる。一方、非常に大部な書物の場合は「4つ星」「5つ星」までおこなうこともありえる。
 この方法は、文化人類学者の川喜田二郎氏が開発した「多段ピックアップ」という方法を応用したものである。これは一種の価値判断、評価の方法であり、ポイントを無理なく自然に抽出するための方法として有用である。
 えられたポイントを文章化してパソコンに保存しておけば、おりにふれてそれをみることにより「3つ星法」の「作業体験」を想起することができる。不確かな点があれば書物なり資料もう一度をみなおす。つまり、ポイントは情報検索の用をなす。(040418)

「あらぶる父」として地球をとらえなおす

 地球に巨大隕石が衝突する。かつてないあざやかなCGであり迫力がある。2004年4月、NHKスペシャル「地球大進化 -生命の星 衝突からの出発-」が放送される。
 この番組は、生命をうみだすあたたかい存在としての「母なる地球」とは正反対に、生命に試練をあたえるきびしい存在として地球をとらえている。「あらぶる父」地球である。
 生命は、地球からきびしい試練をあたえられても、さまざまな戦略を駆使して、未知の領域を開拓し、生きのびていく。この「試練」は「環境」といいかえてもよいだろう。生命は、きびしい環境に適応していきていかなければならない。ここに、生命と環境とのダイナミクスが存在するのであり、「生命=環境系」という視点が生じる。
 現代の地球環境問題もこのような視点からとらえなおす必要がある。(040419)

「外からの目」だけでなく「内からの目」でもみる

 サル学者の宮城教育大学教授・伊沢紘生氏がかたる(「子供をめぐる対話」NHK教育テレビ、2004年4月)。
 「子供たちの中に入るときが唯一サルになれる瞬間です。こうして子供たちの中に入っていると実にたくさんのことを子供たちからおそわります。子供たちは大人とはちがい素直に自然に接し、自然の一員としてつぎつぎにあたらしいことを発見していきます。わたしが20年間も気付かなかったことを指摘することもあります。子供は気がつくんですね。
 わたしはサルの研究をしていますが、サルの群を外からみているだけで、サルの群に入ることはできません。ですから、子供たちの中に入って、自分も子供になって素直に自然に接し、自然の一員としてふるまえる時間はとても貴重です。わたしが唯一サルになれる瞬間です。」フィールドワークの実体験にもとづいた伊沢氏の話は大変奥深い。
 このように自然の中に没入し、自然の中から自然の目でみるという方法は、従来のいわゆる科学的方法とはことなるものである。科学的方法とは客観的方法であり、外からのつめたい目で観察する方法である。しかし、それだけではとらえられない情報は実際にはたくさんある。これからの時代は外からの目だけではなく、自然あるいは現場に没入した、「内からの目」も必要になってくる。あるいは、今まで対象だとおもっていたものに対して、みずからが対象になりきるという姿勢がもとめられる。
 伊沢氏はつづける。「環境教育といってゴミあつめを子供たちにやらせている大人がいますが、そんなことは大人がやるべきです。ゴミがでてきたのは大人の責任ですから、大人が責任をとるべきです。」
 いわゆる環境教育も従来の常識にもとづき「外からの目」でおこなっているようである。しかし、自然対人間という図式で自然を外からみるのではなく、自然の中に入って、人間も自然の一部なのだということを再認識する時代に実は入っているのである。人間も自然の一部だということは子供たちはしっているが、大人たちはわすれている。大人が子供たちにおしえるよりも、まず、大人が子供たちからおそわらなければならない。(040419)

心の情報処理により光の世界がつくりだされる

 川はゆっくりとながれ、水面はキラキラとかがやき、まるでせせらぎの音がきこえてくるようだ。「アルジャントゥイユの鉄橋」は、かなりなれてみると、実にあざやかに立体的かつ躍動的にみえてくる。
 2004年4月、東京・渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで開催された「モネ、ルノワールと印象派展」をみる。
 今回の美術展は、「風景画」と「人物画」という印象派の二つのながれを明確にして、モネとルノワールの名品と、彼らにつらなるシスレー、ピサロ、スーラ、シニャック、ロートレック、ボナール、ヴュイヤールらの名品約80点を紹介するという企画である。
 19世紀のおわりにフランスでうまれた印象派の画家たちは、真実は光の中にこそあるとかんがえ、アトリエの外にでて、みて感じたそのままの自然を表現しようとした。そのために、パレットの上で絵の具をまぜることによって濁りが生じてしまうそれまでの技法はもちいず、画面上に小さな色の点をならべるというあたらしい技法を開発した。会場で作品を順番にみていくと、この技法が発展し点描画になっていく過程をくわしくみることができる。
 自然をえがく場合、画家の目が自然をどうとらえたかが第一に問題になる。「わたしはわたしの 印象をえがいたのだ」とモネは主張したという。つまり、自然をそのまま、現実の色をつかってえがいたというわけではなく、「感じた」自然、画家自身の内なる意識を表現していったのだという。
 現代的ないいかたをすれば、みずからの心の中で「情報処理」をした結果として、画家たちはえがいたのであり、「情報処理」の結果をアウトプット(表現)するための手段としてあたらしい技法を開発したということができる。ここに、光や色彩をとらえる段階、それらを処理する段階、結果をアウトプットする段階という「情報処理」の三段階をみることができる。
 ある程度 はなれて彼らの絵をみてみると、画面上ではほとんどまぜられていない みじかいタッチがみごとにひびきあい、目の中では一つの色彩に感じられるようになる。このような体験は、自分と絵との距離を自由にかえることができる美術館でこそえられるものである。
 画面上の一つ一つの小さな色の点は、わたしたちの目の中では一つの色彩になり、そして心の中では、それらのさまざまな色彩は融合されて一つの「光の世界」となっていく。こうして、自然の光の輝きはわたしたちの心の中に生じてくるのである。けっきょく、わたしたちもただ物理的に絵をみているのではなく、心の中で「情報処理」をおこなっているということになる。
 絵にちかづいたり、はなれたりしながら印象派の絵画をみれば、わたしたちの心のなかでおこっているこの「情報処理」の実態を体験的に知ることができる。(040419)

参考文献:『モネ、ルノアールと印象派展』日本経済新聞社文化事業部・宮澤政男編集、日本経済新聞社発行、2003年。

瞬間の光を永遠のものにする

 印象派の画家たちは、野外において一瞬の光を画面にとじこめ、瞬間の光を永遠のものにすることができたという。瞬間の中に永遠があり、永遠の中に瞬間がみえる。まさに「永遠の今」ということである。
 「瞬間と永遠」といった一見矛盾対立することが一体になるのは、西田哲学流にいえば「絶対矛盾の自己同一」ということである。
 このほかにも、一日と一生、部分と全体、多と一、個と全、主体と客体、地域と地球、伝統と創造など、AとBとは対立しつつも調和し、全体として一つのシステムをつくりだす例は多数ある。華厳経や曼陀羅(まんだら)の宇宙観にもこのようなことがあらわれているだろう。(040419)

種子曼陀羅は、図形に文字をうめこんでいる

 曼陀羅図(まんだらず)の中に文字がうめこまれている。この文字はインドの文字「梵字」(ぼんじ、サンスクリット)であり、仏尊を象徴する梵字は「種子」(しゅじ)とよばれ、種子であらわされた曼陀羅は「種子曼陀羅」とよばれる。2004年4月、東京国立博物館で開催された「弘法大師入唐1200年記念 空海と高野山展」をみる。
 「種子曼陀羅図」のそれぞれの種子は蓮台上の月輪(がちりん)(白い円)の中に墨であらわされている。通常の曼陀羅は絵(イメージ)で表現されているので、図形に文字がうめこまれたこのような曼陀羅はとても新鮮に感じられる。図形に文字をうめこむ手法は現代においては文化人類学者・川喜田二郎氏が創始した「KJ法」にみられる。
 図形は全体像を直観的につかむことを可能にし、文字は個々の意味をふかくおしえてくれる。図形と文字を統合する技法は高度な技法であり容易には実践できないが、創造の過程ではきわめて重要な役割をはたす。
 今回展示された「種子曼陀羅図」は、ひとつは平安時代(11世紀)のものであり、もうひとつは鎌倉時代(13世紀)のものであるが、おそらく、「種子曼陀羅図」の発明はそれよりもかなり前になされたのであろう。東洋には、図形と文字とを統合した世界をつくりだした人々がふるくからいたのである。 (040421)

両界曼陀羅図から時間と空間を感じとる

 第2展示室に入ると、壮大な曼陀羅がこちらにせまってくる。
 胎蔵界曼陀羅は一瞬のうちに全体像をみることができる。一方、金剛界曼陀羅はそれぞれの部分を順番にみていきたくなる。これらの曼陀羅は平安時代(12世紀)のものであり、平清盛が胎蔵界図の大日宝冠にみずからの頭の血をまぜて色彩したとかたられることから「血曼陀羅」の異名をもつ。
 胎蔵界曼陀羅には大きな中心があり、そこから周辺へひろがっていく構造をもっている。そのため「瞬間」的に全体像をとらえることができるのだろう。一方の金剛界曼陀羅は、九つのそれぞれの部分を「順序」よくみていきたくなる仕組みになっている。
 「瞬間」と「順序」、これらはいったい何を意味するのだろうか? わたしには、「空間」と「時間」が感じられてくる。それぞれの曼陀羅は「空間的世界」と「時間的世界」をあらわす。あるいは、世界の「空間的側面」と「時間的側面」をあらわす。そして両者がセットになってひとつの宇宙をあらわす。
 また、前者にはすべてをつらぬく性質があり、後者にはひとつひとつをたどっていく道筋がみえる。けっきょく、前者には「法則」が、後者には「意味」が感じられてくる。
 解説書によると、胎蔵界曼陀羅は『大日経』にもとづき、金剛界曼陀羅は『金剛頂経』にもつづき、それぞれ「理」と「智」をあらわすという。(040421)

参考文献:『空海と高野山』京都国立博物館・愛知県美術館・東京国立博物館・和歌山県立博物館編集、NHK大阪放送局・NHKきんきメディアプラン発行、2003年。

大陸移動説に価値をみいだす

 地球物理学者で科学雑誌ニュートン編集長、東京大学名誉教授の竹内均氏が2004年4月20日死去した。83歳だった。
 竹内氏は、アルフレッド=ウェゲナーが提唱した「大陸移動説」に接してから「仮説法」という科学の方法の重要性に気がつき、「大陸移動説」と「仮説法」を社会にひろく普及した。それと同時に、「仮説法」を技法化した「KJ法」を非常にたかく評価していた。「KJ法」創始者の川喜田二郎氏は第1回KJ法学会に竹内氏をまねいた。
 東京大学退官後は、グラフィック・サイエンスマガジンというあたらしい領域をきりひらき、サイエンスのビジュアルな情報伝達、視覚的な情報処理の実践をみごとにおこなった。
 あるとき、東京大学の学生たちが竹内氏を評してこうのべたという。「大陸が 動くと言って メシがくえ」。
 大陸が動くか動かないかは、実社会であくせく働く人々にとってはどうでもよいことである。しかし、一見どうでもよいこのようなことに本当の価値をみいだし、そのことに一生をかけ、しかもメシがくえる。
 竹内氏はのべておられた。「腹一杯サイエンスにとりくみました」。(040421)

消去法で仮説をしぼりこむ

 「信長暗殺を命じた男 -新説・本能寺の変 浮上した黒幕-」(NHK「その時歴史がうごいた、2004年4月21日)をみる。明智光秀に織田信長暗殺を命じた黒幕は誰か? 朝廷、一向宗、足利義昭。この三者のうちのいずれかであるという仮説がたつ。
 番組では、それぞれの人物について消去法で検証していく。実行を否定する証拠が次第にでてくる。まず一向宗がきえる。つぎに朝廷がきえる。であるならば足利義昭である。大胆な推理。これは推理小説の方法と同じである。
 その人物が犯人ではないことをしめす証拠が一つでもでてくると、その人物は犯人ではなくなる。このような推理法では、それがまちがっていることをしめす例を1つ、つまり「反例」をしめせばよい。
 信長は、日本の旧勢力と全面的に対決し、日本の伝統を否定しようとした。しかしその野望は旧勢力によってはばまれ果たせなかった。
 信長の後継者たちは、やはり、それまでの日本の歴史と伝統にしたがい、天皇制をまもり、それを利用する道をえらんだ。信長の挫折と家康の成功をみるとき、日本の歴史における「必然の糸」を感じとることもできる。(040421)

視覚情報処理の能力を開発する

 アップル社のパソコン、マッキントッシュ・パワーブックG4(PowerBook G4)は、それ以前のG3にくらべて段違いに処理速度が速い。
 デジタルカメラで撮影した写真をパソコンで画像処理する場合、ふるいパソコンでは処理速度のおそさを痛感させられる。
 これからは、言語的な情報処理よりも画像の情報処理が十分にできるかどうかがパソコン選択の際の基準になる。画像処理には大きなメモリと高性能なプロセッサがいる。言語や数字にくらべて、画像では一度にとりあつかう情報量は圧倒的に多い。一枚の写真にどれだけ多くの情報がつめこまれていることか。
 人間自身が心の中でおこなう情報処理についても同様なことがいえる。
 目から入ってくる画像情報(視覚情報)の量はほかの感覚器官から入ってくる情報にくらべて圧倒的に多い。したがって、視覚情報を心の中で迅速に処理する能力を開発していくことがもとめられる。人間もみずからの「心の容量」を大きくし、情報処理速度を速くしていくことが必要である。パソコンによる情報処理の進歩と人間の情報処理の進歩との間にはアナロジー(類似性)をみることができる。(040421)

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2004年8月25日発行
(C) 2004 田野倉達弘