真 実 と 空 想 -映画「永遠のマリア=カラス」-
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みゆき座
(東京・有楽町)

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真実と空想から物語がうまれる

本質をみる

 


2003年11月17日 発行

 

 真実と空想から物語がうまれる

 2003年8月、東京・有楽町のみゆき座で、映画「永遠のマリア=カラス」(注1)をみる。

 20世紀最大のオペラ歌手であるマリア=カラスと親しかったディレクターが、彼女の思い出に自分の空想をくわえてつくった物語とのことである。

 マリア=カラスはすでに50歳なかばになり、往年のかがやく「声」はすでになくなって、なやみくるしむ日々をすごしている。それをみかねた音楽プロデューサーが、彼女がわかかったころのオペラの録音をつかい、それに彼女の「演技」をあらたにつけくわえ、最新技術をつかって録音と録画とを合成して、オペラ「カルメン」(ビゼー作曲)の「ビデオ」を制作する。演技は「今」のものであるが「声」は全盛期のものをつかうという、トリック的な要素をふくむビデオである。

 「声」と「演技」とはみごとに調和しビデオの制作は成功するのだが、結局、マリアはその販売を拒否してしまう。自分のオペラとはおもえなくなったからである。

 この映画「永遠のマリア=カラス」には、「真実」と「空想」の両方がふくまれている。

 マリアは50歳をすぎてなやみくるしむ日々をおくっており、それをみかねたプロデューサーが、何とかマリアをすくい復活させたいとおもったのは真実であろう。しかし、合成ビデオを制作したが、結局、その販売をマリアが拒否したという話は空想だろう。つまり、この映画のベースとなる部分は「真実」であるが、それにうわのせしたストーリーは作者の「空想」だと想像される。もし、合成ビデオの制作を企画し、それを実行にうつしたとしたら、きっとこうなったにちがいない、ということだろう。

 このような「空想」という行為はとてもたのしいものであり、また、時として物事の本質を明解におしえてくれる。これは、科学者がおこなう「思考実験」とおなじようなものである。「もし?」と自分になげかけてみて、様々なことを自由に想像してみる。

 

 本質をみる

 この映画「永遠のマリア=カラス」の真実と空想からは何がよみとれるであろうか。

 「声」をうしなってからのふかい悲しみをのりこえて、あたらしい道を何とかして開拓しようとする、彼女とまわりの人々の懸命な心の内が鮮明にうかびあがってくる。しかし、あたらしい別の道は、やはりなかったのだということが、以前にもまして明確になる。そこに、その道一筋の生涯、直列的な一本の道のさけることのできない「おわり」を感じとることができる。

 映画の中で、最後に、マリアはたった一人になってむこう側にあるいていく。このラストシーンはそのことをはっきりと物語っている。ひとつの「命」がもえつきていくのである。

 このような想像にもとづいて、マリア=カラスの実際のバイオグラフィーを検証してみると、マリア=カラスは、1974年、51歳のときの日本公演が最後の公演となり、その3年後に、心臓発作によりパリで54歳の生涯をとじている(注2)

 今わたしは、マリア=カラスのCDをききながらそのうつくしい歌声の背景を想像してみた。マリア=カラスは、そんな物語をまったく感じさせることはなく、朗々とうたいつづけ、そこには音楽だけがうかびあがってくる。そして、マリア=カラスの音楽は、マリア=カラスの物語や生涯をはなれて、わたしたちの心の中に「永遠に」ひびきつづけてゆく。

 

(注1)監督:フランコ=ゼフィレッリ、出演:ファニー=アルダン、ジェレミー=アイアンズ、ジョーン=フローライト、配給:ギャガ=コミュニケーションズ Gシネマグループ。

(注2)「マリア・カラスの芸術/ヴェルディのヒロイン達(第1集)」東芝EMI,1995(CD解説書)。

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